私が松平さんと最初に出会ったのは、いうまでもなく
あのブラック・ホークに初めて足を踏み入れた時のことである。
世田谷のはずれの自宅から東横線に乗り、渋谷を経由して新宿の高校に通っていた私は、高校2年に
なった頃、友人から「渋谷に渋い音楽を聴かせるロック喫茶がある。」と聞き,早速行ってみた。「で
も、ちょっと独特な感じだよ…。」という友人の含みのある言葉どおり、その店の雰囲気は何とも異様
だった。
ドアを開けて一歩足を踏み入れると、「音楽に集中し
ているので他人には無関心だ…」という風情を装いながら、その実、誰が入ってきたかということには
非常に敏感な常連客たちの無言の視線が突き刺ささる。特に、その客が《新人》であった場合に示され
る、まるで「その人物がこの店の客として値するのか?」と値踏みするかのような無言の威圧感。多分、ブ
ラック・ホークに足を踏み入れただれもが最初に感じたであろうあの一種異様な雰囲気である。
なるべく目立たないような場所を選んで、片肘に小さなテーブルのついたパイプ椅子に腰を下ろす。
あちこちが欠けたホーロー製のカップに入ったコーヒーをすすりながら、なんとか周りにとけ込もうと
しても、値踏みされているという感じはぬぐいきれず、なんとも居心地が悪い。
レコードブースの主はレコードがぎっしりとつまった
棚からなんらかの法則に基づいた順序で選んだレコードを次々とターンテーブルに乗せる。そして、そ
の視線はまるで自分が選んだ音楽に対する客たちの反応を決して見逃さない、といった風に常に店の中
を漂っている。
流れているのは確かに渋い音楽だが、ペンタングルを経てトラッドに浸るようになっていた自分に
とっては、特に心を動かされるものではない。「もう,いい加減に席を立とうか。」と何度も思った
が、そうすればきっと「ふん、なんだたったの1時間も居ないのかい? どだい、この店はお前のよう
なやつがくる店じゃないんだよ。とっととうせろ!」という冷たい視線を浴びることは目に見えてい
る。そうしたら、多分二度とこの店に来ることは出来なくなりそうであり、私はそのことに対する恐怖
心からいつまでも席を立てなかった。
時計の針が二回ほど回転し、様々な音楽を聴きながら
辛い思いで座り続けていたところにやっとなじみのアルバムがかかった。フェアポート・コンベンショ
ンの「エンジェル・ディライト」だった。
ごく一般的なロック・フリークだった私は、ある時,ラジオから流れてきたジャッキー・マクシーの
無伴奏の歌に衝撃を受け、ペンタングルやバート・ヤンシュたちのアルバムを買い集めては聴きあさる
ようになっていた。そして,ブラック・ホークに足を運ぶようになる直前に、初めて購入したペンタン
グル関連以外のトラッドアルバムがフェアポート・コンベンションの「エンジェル・ディライト」だっ
たのである。
たったこれだけのことでそれまでの居心地の悪さは
すっと消え失せ「う〜ん,この店はいい店だな〜。」と思ってしまった私は、フェアポートが終わって
しばらくして席を立ち、レコードブースの主にコーヒー代を支払って店を出た。客の顔をちらりと見な
がら無言でお金を受け取り、伝票に赤鉛筆で無造作に代金を書きこみ伝票綴じに突き刺す。相変わらず
無愛想だけど、先ほどまでやけに威圧感を感じていたそのレコードブースの主に、フェアポートを介し
た一種の連帯感を感じながら店を後にした。
30年近く前のある日、私とブラック・ホークのレ
コードブースの主、松平維秋さんとのつきあいはこのようにして始まった。そして,それは同時にそれ
からの数年間、週に3度は繰り返されることになる習慣の始まりだった。
週に3度も通うようになったといっても、私が松平さんと親しく話しが出来るようになったわけでは
ないのは言うまでもない。なんせ,あちらはネクタイもきちっと決めて、店を出るときはノーフォーク
ジャケットにツウィードの帽子という出で立ちで,まさに成熟した大人の趣味人の風格が漂う。一方,
こちらは単なるロック少年に毛の生えた程度の小僧である。
第一、お客同士でさえ言葉を交わすことがはばかられ
る中、レコードブースの中の松平さんと言葉を交わすことなんてまるで考えられなかった。ブラック・
ホークにおいては、流される音楽に対してどのような反応をするか、ということだけが、唯一、松平さ
んと客とのコミュニケーションの手段だった。
好みではないジャンルの音楽がかっている間は本に目を落としてじっと我慢していながら、好みの音
楽が流れたとたんに本を置き、真剣に聴き入る態度をあからさまに示す。あるいはなるべく周りに迷惑
をかけないように気遣いながらリズムを取る。そして最大の意志表示は自分の席を立って、レコード
ブースのガラスに立てかけられるアルバムジャケットを手に取りに行き、松平さんの視線を強く意識し
ながらライナーノートの行間を読みに行くことだった。その場合でも,客と松平さんとが声を交わすこ
とはないのだが、客としては「私はこの音楽が好きですよ。」ということの最大の意志表示であること
に変わりはない。私も松平さんが選んだ目新しいトラッドが流されるたびに幾度となくこの行為を行
い,無言の意志表示を繰り返した。
一方、レコードブースの中の松平さんは、特にお気に入りの曲を掛けるときは手に持ったボールーペ
ンでターンテーブルの台をトントンと叩いてリズムを取るので、すぐにそれと解った。(客があんな風
にボールペンで音を出しながらリズムをとったら、即刻「お静かに!」の札が突きつけられるのに、と
思ったものだが…。)
そのようにしてガラス越しの連帯感を感じつつ過ごす
こと数年、私が実際にアフター・ブラック・ホークで松平さんと親しく話しが出来るようになったのは
1974年も押し詰まった頃、Tさんのバラッド集の制作を手伝い始めたときからである。彼女は当
時、客が高じてブラック・ホークのウエイトレスのバイトをやっていて、(あの店の従業員は多分みな
そのような人ばかりだったと思う。)バイトの時間が引けると、下北沢のグッディーズというこれまた
違った意味で一風変わった喫茶店で過ごすことが多かった。この店も元々は松平さんの行き着けの店で、T
さんも松平さんに連れて行かれて居着いてしまったという感じだった。
だから、この時期には店が引けた松平さんと私たちはこの店でよく一緒の時を過ごした。客がほとん
ど来ないこの店は、常連客とオーナー夫婦とがまるで家族のような関係で、私たちもお気に入りのレ
コードを店に置いておいて、店に行くといつも好きな音楽を聴いていた。
当時、松平さんと私たちは、彼が日本版のライナー
ノートを書いたマーティン・カーシーとデイブ・スウォブリックの
"Selections"、ディック・ゴーハンの "No More
Forever"、アーティー・フィッシャー他による "The Fate o'Charlie"、ニッ
ク・ジョーンズの1stなどがお気に入りでよく聴いた。
また、松平さんは、デイブ&トニー・アーサーの "Hearken to the Wiches
Rune" の中に収められていた「妖精たちの話」の中に出てくる "The fairy
jig, The fairy reel"、そして "King of the fairies"
というフィドルの曲が大層好きで(後日気がついたのだが、このフィドラーはケビン・バークだっ
た。)、当時我々の間で唯一のフィドル引きだったTさんを捕まえては「ねー、ねー、Tさ
ん、"King of the fairies" を奏ってよ!」と言って彼女に演奏させては、う
れしそうに聴き入っていた。
ジンを生で飲みながら、上機嫌でTさんのフィドルに聴き入っている時の松平さんは、ブラック・
ホークのレコードブースで挑戦的な視線を客席に投げかけている強面の仕事人ではなく、好きなトラッ
ドを素直に心から楽しんでいる一人の音楽好きとして、とても優しくていい顔をしていた。
幸いなことに、亡くなる直前に私は松平さんをホスピスに見舞うことができた。
彼はすでに意識がもうろうとしていて、私が来たこと対して目で反応することはできなかった。しか
し,私は聴覚を通じた意識はまだはっきりしているのではないかと考え、彼がいつもボールペンでリズ
ムを取っていたお気に入りの曲、アルビオン・カントリー・バンドの "Battle of the
Somme"
をハイランド・パイプのプラクティス・チャンターで演奏した。思ったとおり、それまではぐずるようにしか体を動かさなかった松平さんが、この曲を聴いたと
たん、まるで体全体でリズムを取るかのように曲に合わせて体を波打たせ始めた。まるで,ブラック・
ホークのレコードブースの中でボールペンでリズムを取っていたときのように…。
ホスピスの部屋を出るとき、私は松平さんに「また、会
おうね!」と声をかけた。反応があるとは期待していなかったのだけれど、驚いたことに、彼は確かに
顎を「こくん」とさせて頷いた。
さようなら、松平さん。でも、また会おうね。