CANNTAIREACHD - MacCrimmori's Letter - 番外編(2001)
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トマス・ビュウィック 私がトマス・ビュウィックの版画に魅せられたそもそものきっかけというのは、イオナ&ピーター・オーピー夫妻の "The Oxford Nursery Rhyme Book" を購入したことにあります。夫妻は“Morris On”に出て来る、“An Old Woman tossed up in a blanket”のような、イギリス人ならだれでも知っているマザーグースなどの Nursery Rhyme 研究の第一人者。 ビュウィックがその技術を確立する以前は、イギリスでも木版画といえばやはり板目に彫るタイプのものが主流だったわけですが、繊細な描写には向かないそういった従来の木版画は徐々に衰退し、18世紀になると印刷業者たちはその当時のネオクラシカルな雰囲気をかもし出す銅版画(copper engraving)を好むようになっていました。 そのようなところにビュウィックは木材の木口に版画を彫る手法によって、驚く程細かな描写が可能なだけでなく、数十万回の印刷に耐えうる丈夫さをもった wood-engraving (木口木版画)の技術を確立したわけです。 トマス・ビュウィックは1753年に ノーサンバランドで8人兄弟の長男として生まれました。父は農場と小さな炭坑を持ってたこともあり、農場とタイン川といったノーサンバランドの自然の中が 彼の遊び場でした。幼少のころから芸術の才能が目立っていたトマスは14歳になると、ニューカッスルのエングレイバーの下で見習い工として働き始めます。 見習いを終えたビュウィックは仕事を探すためにロンドンに出ますが、都会の喧騒に馴染めなくて愛すべきノーサンバランドにもどり、弟のジョンとともに工房 を開きます。そして、それから50年間に多くの弟子たちとともに幾多の素晴しい作品を作り出したのでした。 特に写真やスケッチよりも本物をより正確に伝えていると言われる動物や鳥類図鑑の挿し絵でトマス・ビュウィックの評価は非常に高く、いうなれば wood-engraving をイングランドにおける真の芸術のレベルにまで高めた立て役者なのです。 さて、そのようなトマス・ビュウィックの作品をじっくりと味わうために私がゲットしたのは“1800woodcuts by Thomas Bewick and His School ”(1962 / Dover Publications)という本。 内容は、彼のプロフィールを簡単に紹介した前文の後におよそ240ページに渡ってタイトルどおり1800の版画(なぜかこの本のタイトルではwoodcuts になっていますが)が満載されています。 内訳は動物(318画)、鳥(371画)、田園風景、昆虫、植物、フィッシングやハンティングなどの遊びを描いた画(188画)、学校風景(73画)、家庭の風景(65画)、求愛や人の死など社会情景を描いた画、さまざまな商売や産業に携わる人々を描いた画、などなど盛り沢山。眺めているだけで、様々な動植物の有り様やビクトリア時代の北部イングランドの田園生活と街の暮らしがそのまま伝わってきます。 ちなみに、私が購入したのは1975年ですが、初版から40年以上経過した2000年代になってもドーバーのホームページには全く同じ本が出ていまし た。残念ながらつい最近になってとうとう廃版になったようです。その代わりに CD-ROM 付きの本のシリーズの中に動物をテーマにした作品だけを抜き出したものがリリースされているようです。 この本で wood-engraving の魅力にすっかり魅せられてしまった私は、根が器用なものなので自分でもこの木口版画をやってみようと思い立ちました。 まず木口の版木を用意するため、厚さ2cm程の桜の枝の輪切りの片面をただひたすら紙やすりの上で根気良く削ります。徐々に細かい目の紙やすりに替えていき、最後にはつるつるになるまで研摩して仕上げます。 版木ができたところで、例のドーバーの本の中から、あんまり細かい線が描かれていない「農夫が麦を刈り取っている画」を選んで、普通の彫刻刀とNTカッターの折刃式の彫刻刀を駆使してコピーしてみました。 それなりには出来たのですが、やはりちょっと雰囲気が違います。それに、この方法ではそれ以上微細な線が描かれているものは再現不可能だということを実感しました。 では、一体どのような彫刻刀を使ってそのような繊細な線を表現したのでしょう? しかし、例のドーバーの本にも「ビュウィックがどのような彫刻刀を使ったか?」というようなことまでは書かれていなかったのでした。 当時私は“No Roses”のジャケットの裏にで〜んとでかく載っているセシル・シャープの撮影による農夫の写真や、スティーライ・スパンの3枚目“Ten Man Mop〜”のジャケットを飾っていたやはりビクトリア時代の人物(放浪者?)写真などに触発されて、ブリティッシュ・カウンシルの図書館からビクトリア時代の写真集を借り出しては、古きよきイングランドの風物に想いを馳せていました。 そんなある日、新宿紀伊国屋の洋書売り場でとてもよさそうな写真集を見つけたので思いきって購入しました。タイトルは“Victorian Candid Camera”(ビクトリア時代・スナップ写真集)といい、実用写真機の黎明期に活躍したポール・マーチン(1864〜1944)という写真家の伝記と作品を収めた本で、前半1/3位が彼の生涯と当時の写真機などについての記事、後半2/3程に彼の撮影した100葉程の写真が掲載されています。 収められている写真は項目のタイトルがそれぞれ、 London Life and Work、London Life and Leisure、London at Night and in Winter、In the Country、At the Seaside、とされているとおり、ビクトリア時代のロンドンや田園や海辺における庶民の生活やレジャーの様子が克明に描き出されていて、トラディショナル・ミュージックで喚起された古き良き英国への私の憧れをいたく刺激したものです。 実は このポール・マーチンという人は最初から写真家を志していたわけではなく、16才(1880年)になるとまず木口木版画のエングレイバーとして働き始めま す。ちょうどそれから百年程前にトマス・ビュウィックが確立した印刷物の挿し絵を製作する工房です。エングレイバーとしての才能に非常に長けていた彼はす ぐに一流のエングレイバーとして活躍するようになりますが、その一方で当時実用化され始めていた写真機のネガを使った印刷技術がいずれは木版画にとって代 わるであろうことを敏感に感じ取った彼は、ある時点で写真家に転向することを選択するのです。 ビク トリア時代のさまざまな風物を写し出した素晴しい写真が沢山掲載されているこの本ですが、実はその中で私の目が釘付けになったの一枚の写真がありました。 それは、16才のポール・マーチンがエングレイバーとして第1歩を踏み出した時に、先輩エングレイバーとともに作業している時の写真です。 そこには、スイスの時計職人が使うような机の上に置く高さ15cmの上面が手前に傾斜した作業台の上に、皮製と思しき直径10cm程の枕をクッションに して版木を乗せ、目の先10cm程に版木を持って来て集中して彫刻刀で作業をしている3人のエングレイバーの姿があります。手許には私が一番知りたかった 彫刻刀がずらりと並んでいるし、その彫刻刀をどのようにして使っているかということも一目で分るのです。 私がビュウィックの確立した木口木版がどのようにして彫られていたかということを理解することができたのは、後にも先にもこの1枚の写真からだけです。 当時、 写真機というものは対象物の姿を一枚の印画紙に記録するだけの能力しかなかった訳で、ネガを銅版にエッチング加工して版下とする技術が確立するまでの間 は、撮影された写真を印刷物にするためには、それらをエングレイバーの手によって克明に木口木版に写し取って版下としていたわけです。 木口ですから、一枚の版木はそれ程大きなものは取れませんので、大きな写真を印刷したいときは別々に彫った版木をいくつもボルトで繋いで印刷機にかけま した。ポール・マーチンが1890年11月29日号のイラストレイテッド・ロンドン・ニュースの為に作ったおよそ60cm×80cmのものなどはなんと 30のブロックを繋ぎ合わせたものだということです。 この本でもう一つ私の目を釘付けにしたのはそのような実例として、ポール・マーチンが自ら撮影した写真とそれを木版画にしたものとが並べられて掲載されている箇所でした。→ それは子供達が小川で遊んでいる写真ですが、確かに当時の写真の不鮮明な画像よりも、それを木版画に仕立てたものの方が段違いに鮮明で印刷物に耐えうる 画像なのです。その時点では版下作成技術うんぬんの前に写真機の解像度自体がまだまだその程度だったのですね。 ですから、ビクトリア時代の各種のカタログなどがみんな木版画だったのはある意味では必然だった訳です。 さて、私はポール・マーチンがエングレイバーとして作業している写真に写っていた彫刻刀、つまりはビュウィックが wood-engraving に用いた彫刻刀を求めて神田の有名な画材屋「世界堂」行きました。そして、確かにそれと同じものを見つけました。それは銅版画に用いられるビュランという彫刻刀だったのです。 ただしお値段は1本6000円以上。LPレコードが2000円、レッド・ツェッペリンの海賊版が7000円の時代ですが、どちらにしてもとても手が出る 訳がありません。それに、最低限必要となる彫刻刀は、極細の線を描く刀、大小の丸刀、大小の平刀、そして、特徴的なのが細い平行線を描き出すための先が数本の山谷になった刀、というわけですから、それだけで一財産になってしまいます。 でも、それで諦めるような私じゃありません。 なんと私はそれらの彫刻刀を全て手作りすることにしたのです。材料は金属用のやすりです。これなら東急ハンズで1本100円位で手に入ります。金属用の やすりといっても使うのはやすりの部分ではなくて、手元の方。そちらは焼き入れがしていないので、まずはそれこそやすりで大まかな形に成形してから焼き入 れをしてから砥石で研ぎ上げ彫刻刀にするのです。 そんなふうにして手に入れた自作の wood-engraving 用の彫刻刀を手にして、さて、今度は版木の入手です。当然ですが木口木版画をする人がいないのですから、こればかりは、さすがの世界堂にも売っていません。 仕方なく今回も、庭に生えていた桜の木を丸太切りして以前にやった方法と同じやり方でつるつるの版木を作りました。 練習のため、私が最初に作ったのは、ネコ好きのパートナーのために例のオーピーさんの本の表紙にあった「ネコがドアノブに手を掛けている」版画のコピー。そして、次には自分の署名用スタンプとして「ネコがバグパイプを演奏している」版画(!)のコピーでした。 やはり、それなりの彫刻刀を使うとオリジナルと同じような微細な表現が可能になり、かなり満足できる程度にまで到達することができました。 さて、版画をそのままコピーすることは一応できるようになったので、いよいよビクトリア時代にごく当たり前にやられていたように写真から版画を起こすということにトライすることにしました。 そこで、題材として私が選んだのがアルビオン・カントリーバンドの“The Battle of th Field”の裏ジャケットに掲載されていたアシュレイ・ハッチングスが畑で土を耕している写真です。 さて、肝心の写真は縦6cmあります。ということは少なくとも6cmの直径の桜の木の木口をすりすりして版木を作る必要があるということ。まあ、これが一大事でしたが、なんとかやり遂げました。 それから、写真をトレースしてそれを反転して版木にのり付けして、彫るというのは普通の版画と同じです。今だったら、トレースしたものを如何様にも拡大 縮小してトレーシングペーパーにコピーするのも簡単でしょうが、当時はそんな器用なことができなかったので、写真が6cmならそのとおりトレースして彫る しかなかったのです。 出来上がった版画はトマス・ビュウィックの版画とは比べ物にならない位稚拙なものではありますが、一枚の写真から掘り起した初めての木版画ですから、自分としてはまあまあ満足のいく出来ではないかと思っています。 あ る芸術を極めるのが目的だったらさらに精進するところですが、私の場合、アシュレイの写真をビュウィック風版画に仕上げたものを持ってイギリスに行き、何 とかして「アシュレイに会った時の受けを狙う」という不純な目的が達成されてしまったこと(1977年2月に実現)によって、この木口木版画への取り組み は一応の終息を迎えたという訳です。 版木と自作の彫刻刀
【思い出】(1977年) ところが、ロスさんに尋ねてもそのようなものは聞いたことがないということ。でも、もしかしたらと美術館などを一緒に訪ねてくれたんですが、そこにもやは り特にビュウィックの版画の展覧はしていないとのことでした。大きな思い込みとは裏腹に、ニューカッスルにおいてはビュウィックに関する収穫は皆無だった のです。 結局、その時の英国旅行中に収穫し たビュウィック・グッズは、ロンドンのポートベローのある店で見つけたビュウィックの版画入りの「エプロン」と「鍋掴み」(右の写真)だけだったのです。 エプロンの方は結構使い込んでヨレヨレになってしまいまいしたが、「鍋掴み」の方は殆ど使う事も無く、それ以来20数年間、我が家のお宝としてキッチンの 壁に飾ってあります。 【後日談】(2011年) そんな中、どうやら 20世紀末を迎える頃になって彼の地でもビュウィックに対する再評価の動きが顕著になったようで、10年程前には愛好家にとっては極めつけの "THE BEWICK SOCIETY" という組織が設立されていたようです。興味の有る方は何を置いてもまずはこの組織のサイトをご覧あれ…。 |
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