第6話(2002/8)
ピーブロックをカンタラックで味わう
パイプのかおり第1話で書いたとおり、私が1975年にプラクティス・チャンターと一緒に入手した教則レコード付きバグパイプ教則本は、ドナルド・マクロード(Donald MacLeod) という20世紀後半を代表するパイパーが、プラクティクチャンターでの演奏方法を、音声と実際のチャンタープレイで初歩の初歩から教えてくれるものでした。
全くの独学でパイプを学び始め、身近に手本とするパイパーが居なかった私にとって、このような音声資料を伴った教則素材は欠かすことが出来ないものでした。
その後、1年ほどして山根さんとの出会いがあり、東京パイピング・ソサエティーのメンバーとして練習をするようになった後は、本場のパイパーから直接指導
してもらえるようになったのでその問題は解決しましたが、さらに時が経過して私がピーブロックに専念するようになってからは、またまた独学の道に舞い戻ら
ざるを得なくなりました。というのも、日本にはピーブロックを演奏しようとするパイパーが殆ど居ないからです。
そ
こで、普段、私がお気に入りのピーブロックを練習する方法は、その曲の楽譜を前に置き、片方の耳で本物のパイパーの演奏音源(複数の音源がある場合は一番
気に入ったもの)を聴きながら、反対の耳にエレクトロニック・チャンターのイヤーフォンを突っ込み、ユニゾンで演奏して脳みその中で一流のパイパーの演奏
と一体化しつつ、その曲のニュアンスまで一緒に会得する、というやり方です。
しかし、本来ピーブロックは「師匠と弟子が対面しながら、まずはカンタラックでその曲のニュアンスを伝え、そして、次にプラクティス・チャンターで演奏する」というのが正しい伝承方法です。
私も、以前アンガス・マクレランさんが来日したときには、そのようにしてピーブロックを教わった経験があります。でも、恒常的にそんなことをしてもらうというのは、現地に住んでいて有名なパイパーからパーソナルレッスンを受けられるような状況にでもなければ到底無理な話です。 ところが、最近、著名なパイパーのカンタラックによるピーブロック教則シリーズが相次いでリリースされ始めました。今回はそのことについて…。
■ "Masters of Piobaireachd" シリーズ■
そのようなカンタラックによるピーブロックの講習風景を伝える資料としてはグリーントラックス(Greentrax)・レーベルからリリースされている、ロバート・ブラウン( Robert U Brown )とロバート・ニコル(Robert Nicol )による“ Masters of Piobaireachd”シリーズが、なんといっても最も注目されます。
 これまでに Vol.4 までリリースされているこのシリーズは、マクリモンの正統の流れを汲む20世紀初頭の名パイパー 、 ジョン・マクドナルド(John MacDonald of Inverness) ( ツリー図参照)の直弟子であり、その後、共に王室パイパーとして一時代を築いて“Bobs of Balmoral”と称された2人のロバートにより、主に1960年代に録音された教則録音を現カレッジ・オブ・パイピングのチェアマンである ロバート・ウォーレス(Robert Wallace) などが中心となってデジタル・マスタリングを施してCD化してシリーズでリリースされているものです。
1970年代にエジンバラ大学の“School of Scottish Studies”が Tangent レーベルを通じて“Scottish Tradition Cassette Series”という名の下にバラッドやガーリック・シンギングを初めとしてスコティッシュ伝統音楽の音源がいくつもリリースしたことがあります。その中にはピーブロックのシリーズとしてこの2人のものが2巻と、ウィリアム・マクリーン(William MacLean)のものが1巻リリースされています。正確に聴き比べた訳ではありませんが、そのカセット2巻に納められているものと同じ曲も多く、多分、音源的には同じものを使っていると思われます。
カセット・シリーズのものは、テープのヒスノイズもあり、正直言って少々聴きづらいという面もいなめませんでしたが、今回のCDシリーズにおいては、現
代のテクノロジーを使ってノイズ等を巧妙に除去したようで、雑音も最少限に押さえられていて非常に聴きやすくなっているのが印象的です。今から40年近く
前の録音をこのようなクリアーな形で聴けるのは本当に有り難いことです。
各々の巻とも数曲のピーブロックについて、インタビュー形式による口頭でのインストラクション(時にはプラクティス・チャンターによる模範演奏も交えなが
ら)、カンタラック、そしてパイプによる演奏が収められています。時にはユニゾンで歌ったりすることもあるそれぞれのロバートによるいぶし銀のようなカン
タラック・シンギングは実に聴き応えがあるばかりでなく、まさにマクリモン直系のピーブロックを習得するためのかけがえの無い音声資料と言えます。
当時、教則用に録音されたというこの音源ですが、現在となっては単なるチューターとして以上に、口承によるマクリモンの正統を伝える貴重な資料であるとともに、ハイランド・スコットランドの文化遺産とも言える価値ある音源です。
■ "The Classic Collection of Piobaireachd Tutorials" ■
さらに、最近になって多くのピーブロックの音源を出しているスコットランドで最もディープなレコード会社リスモア(Lismor)から、もう一つの素晴らしいピーブロック教則シリーズがリリースされ始めました。それが、ドナルド・マクロードによる“The Classic Collection of Piobaireachd Tutorials”というシリーズで、マクロードが生前(彼は10年程前に亡くなっています)に残した膨大な量のピーブロック教則音源をそのままCD化してリリースしたものです。
現在までにリリースされたのはこちらもシリーズのVol.4までですが、なんとそれら全てがCD2枚組!なのです。それも、各CDとも概ね6曲づつ、コンパクトディスクの録音限度である75分まで目一杯きっちりと録音されているので、4巻(CD8枚)全部を合わせた収録曲数と収録時間は、な、なんと!《47曲、9時間53分24秒》という膨大なもの。ワオ〜ッ!まずは、その量に圧倒されてしまいそうですね。
さて、CDの中身はというと、まさにピーブロック講習の王道のとおり(曲によって進め方に多少の違いはありますが)、まずはカンタラックで曲のニュアンスを伝えた後に、プラクティスチャンターでその曲を演奏。途中、要所要所で表現する上での細かなポイントについてアドバイスが入ります。
生徒にとって何と言っても有り難いのは、その教え方(正確には収録の仕方)がとても丁寧なことです。つまり、普通なら「以下、同様…」としてしまいそう
なバリエイションの繰り返し部分についても、ドナルド・マクロードは端折ることなく延々とカンタラックを歌ったり、チャンタープレイを続けてくれるので
す。
47曲でおよそ10時間つまり600分ですから、1曲の講習時間は平均12分程の計算にになりますが実際は5分程度のものから、長いものは20分を超す“MacKintosh's Lament” や、やはり19分余りの“The Lament for Donald Ban MacCrimmon” などもあります。
Donald
Ban〜は通して演奏するだけで19分を超す大曲ですからそれだけ時間がかかるのも理解できますが、概ね13分程度の演奏時間である
“MacKintosh's Lament
”についても20分以上時間をかけて教えてくれるのですから、その丁寧な講習の様子が想像つくと思います。1対1の個人教授をそのまま収録したといっても
過言ではないでしょう。
このCDシリーズはまさに素晴らしいピーブロック教則シリーズだということがお解りいただけたと思いますが、では、このCDは、パイパーがピーブロックの練習をする時以外、あるいはパイパー以外の人には、全く意味の無いものなのでしょうか?
音声での簡単なレクチャーとカンタラック、そしてプラクティス・チャンターの演奏だけで、実際のパイプの演奏は一切収録されていないのですから、そう考えても当たり前ですよね。ところが、実際にはそうとも言い切れないのです。というのは、ドナルド・マクロードのカンタラック・シンギングはそれ自体が実に味わい深いガーリック・シンギングなので、それだけでも十ニ分に鑑賞に値するからです。
■ "Canntaireachd and Piobaireachd" ■
実は、このシリーズと相前後して、もう一つ、ピーブロック・ソサエティーの現チェアマンであるアンドリュー・ライト(Andrew Wright)による “Canntaireachd and Piobaireachd ”というCDがリリースされました。
このCDはタイトルどおりカンタラックとパイプの演奏によるピーブロックが7曲納められているのですが、正直言って私はアンドリュー・ライトのカンタラッ
ク・シンギングにはどうも馴染めません。この人の場合、なんていうか歌声が妙にかすれているので、曲のニュアンスがとても掴みにくいのです。
“The Old Woman's Lullaby” や“Salute on the Birth of Rory Mor MacLeod”といったごくごくお馴染みのピーブロックも歌っているのですが、どうしてもいつものあの曲とは思えないんですね、この人のカンタラックだと…。
■ドナルド・マクロードのカンタラックとチャンター・プレイイングの妙■
アンドリュー・ライトのものに比べて、ドナルド・マクロードのカンタラックは本当に心地よく歌声に酔いしれることができます。私にとっては27年ぶりに聴
く恩師の声でもあるので、懐かしい気持ちが大きいのは確かですが、それを差し引いてもこの人の歌声は素晴らしいと思います。アーティ・フィッシャーやディック・ゴーハンといった私の大好きなスコティッシュ・シンガーのシンギングを聴くのと同じような感動を覚えることができるのです。
以
前、私に同様の方法でピーブロックを手ほどきしてくれたアンガス・マクレランさんはこのドナルド・マクロードの直弟子だということは以前にも書きました
が、今回、アンドリュー・ライトのカンタラックと比較して聴いてみてよく分かったのは、あの時、次から次へと歌ってくれたカンタラック・シンギングは、そ
ういえばこのドナルド・マクロードのシンギング・スタイルそのものだったということです。カンタラック・シンギングも歌い手によって、あるいは伝承のされ方によってかなり大きな違いがあるのだといういことを実感しました。
ドナルド・マクロードのこの歌声を聴いていたら、アンガスのことが無性に懐かしくなってしまいました。
さらに、このシリーズがピーブロック愛好家の鑑賞に堪えるに足る要素がもう一つあります。
それは、ドナルド・マクロードはプラクティス・チャンターを(あのトマス・ピアストンと同じように)《循環呼吸法》を使って演奏するので、どんな長い曲でも曲の雰囲気を損なうような息継ぎが入らないのです。ですから、その演奏は単なるプラクティスのためだけの演奏ということを超えて(たとえ、ドローン・ノートが伴ってなくても)一つの立派な《楽器》の演奏と言えるような完成度の高いものとなっているのです。
先にも書いたように、どの曲の講習も非常に丁寧で、プラクティス・チャンター・プレイイングも可能な限り全ての旋律を延々と演奏してくれるので、その曲
自体を十分に鑑賞することができ、欲求不満になることがないということも、このシリーズの丁寧な作りのなせる業でしょう。
さて、このシリーズの素晴らしさがお解りいただけたでしょうか?
でも、実はこのシリーズの全容はこれだけじゃないのです。
な、なんと、このシリーズは今後5年間の内に最終的にはVol.20(CD40枚!)までリリースされるというのです。そして、収録されるピーブロックの数は実に240曲!になる予定ということ…。
ドヒャ〜! ドナルド・マクロードは、自分自身でもピーブロックを作曲する人で、これまでの4巻にも自作のピーブロックが数曲入っていますが、ピーブロック・ソサエティー・ブック全15巻に収められているのが全部で242曲ですから、自作のピーブロックを含めても現在確認されているピーブロックの殆ど全てを網羅してしまうことになりそうです。
まさに、ドナルド・マクロードのピーブロックに関するライフワークを全て披露してくれる、という感じですね。しかし、一体、この人はこれだけの膨大なチュートリアルをどのようにして、そして、いつの間に録音していたのでしょうか?
ピーブロックという音楽は、5線譜に書かれた記号だけでは本当のところどのように演奏するのかは全く伝わらないものだけに、これまで、楽譜はあっても実際
にどんな風に演奏するのかなんとなくイメージが湧かない曲が沢山ありましたが、それらが全て明かされるのかと思うと、本当にワクワクしてしまいます。
そんな曲の一つとして、シリーズのVol.3には“ The Piper's Warnig to His Master”という、非常に有名なのに何故かこれまで音源が無かった曲が入っていたので、まるで素敵なプレゼントをもらったような気分になりました。
20世紀のピーブロックのかけがえのない遺産とも言うべきこの膨大なシリーズが完結するまで、パイパー森のピーブロック探索もまだまだ終わりそうもありません。
【追記】
2008年までの数年間かけて、“Masters of Piobaireachd”シリーズは Vol.10まで、そして“The Classic Collection of Piobaireachd Tutorials”は予定の Vol.20を超えてついに Vol.21までリリースされて両シリーズとも完結しました。後者の最終的な収録曲数は 238曲でした。
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