CANNTAIREACHD - MacCrimmori's Letter - No.16

“The Blind Piper”Iain Dall MacKay について

15th November 1997

 回の通信のソースは“Proceedings of The Piobaireachd Society Conference”から。これはピーブロック・ソサエティーの年次総会で報告される数件のレクチャーの内容をそっくり収めた講演録で、ピーブロックに興味のある人間にとっては非常に価値のある資料です。
 現在入手できる講演録は1973年〜95年の中で数年分を除いた18冊(※)。今回はその中の94年版に収められている“Iain Dall MacKay, The Blind Piper of Gairloch”というタイトルの講演録を参考に、ピーブロック史上で非常に重要な位置を占めているこの偉大な人物、あの不朽の名作 “Lament for Patrick Og MacCrimmon” の作者アイン・ダル・マッカイ ( Iain Dall MacKay of Gairloch について書いてみたいと思います。(※欠落していた号もその後再発行されたので、2009年現在では全ての号が入手可能です)


 アイン・ダル・マッカイは血のつながりという意味ではマクリモン(MacCrimmon)の家系の人物ではありません。しかし、「ピーブロックという音楽形式を完成させた正統の流れ」という意味から、いわゆる《MacCrimmon》という場合は、まちがいなくその概念の中に位置づけられる人物です。彼の作曲したいくつものピーブロックはそれほどに《MacCrimmon》の正統を継いでいるものなのです。
 いや、ある意味では、作曲家としてはそれほど多くの作品を残さなかった彼の師匠であるパトリック・オグ・マクリモン ( Patrick Og MacCrimmon ) よりも、《MacCrimmon》の正統な《作曲》の流れ自体は イアイン・ダルこそが受け継いだといっても過言ではないと思います。(下の Descent of Piping の系図を参照)

 しかし、だからと言って、その類まれな演奏技術とパイプティーチャーとしての功績からパトリック・オグの評価が揺るぎないものであることには変わりありません。ちなみに、この94年の大会では、シェーマス・マックニールがもう一つのレクチャーをしていますが、その中でシェーマスは パトリック・オグのことを《God》と表現しています。(言ってみればエリック・クラプトンをギターの《神様》というようなノリですよね。)  


 アイン・ダルは1656年にスコットランド北部 Gairloch 地方の Talladale という所で、あるチーフの世襲パイパーの家に生まれました。7才の時に天然痘にかかり視力を失いましたが、成人するとバグパイプの修行のためにスカイ島ダンベイガン (Dunvegan) 城パトリック・オグの下に送られます。
 この時の Dunvegan のチーフ Breac MacLeod は芸術に造詣が深く、パイパー、ハーパー、フィドラー、ストーリーテラー、シンガー、バルド(bard/吟遊詩人)、道化といった全ての領域に渡る芸術家を抱えていたという事で、そのことがイアイン・ダルの芸術家としての資質に大きな影響を与えたということです。
 パトリック・オグにあの名曲“ Lament for Mary MacLeod” を捧げられた女流バルド、Mary MacLeod, Contullich を始めとする多くのバルドたちと一緒に暮らすなかで、彼の吟遊詩人としての才能も自然に磨かれていったのです。


 た、この時期、彼にもう一つの大きな影響を与えたのが、同じスカイ島のタリスカー(Talisker) の MacLeod の下に集っていた芸術家たちのサークルです。この中にイアイン・ダルと同じ年齢で、同じように子供時代の病気が原因で盲目になりながら詩人、シンガー、ハーパー、作曲家としての非常に高い才能と技術の持ち主として大きな名声を得ていた Ruairidh Morrison という人物がいました。この2人はお互いの曲や詩の一節を引用し合うといった形で、良い意味でのライバルとして、影響を与え合ったということです。このような様々な交流の中で刺激を受け、 彼は一流のパイパーであり同時にバルドでもあるという当時としても極めて希な存在になっていった訳です。

 トリック・オグの下で7年間のバグパイプの修行を終えたイアイン・ダルは Gairloch に戻り、Alexander MacKenzie というチーフの下で piper&bard として仕えます。しかし、1794年にこのチーフが死ぬと、後を継いだチーフは“不在チーフ”であったため、 イアイン・ダルの piper&bard としての役割は終えてしまいます。盲目であるために他の仕事が出来る訳はなく、しかたなくイアイン・ダルは自分を piper&bard として雇ってくれるパトロンを探して各地を点々としなくてはならなくなります。
 そのようにして、あるパトロンに仕え、そして彼が死ぬと他のパトロンを探し、といった具合に不安定な身分の中で、その時々のパトロンのためにいくつもの素晴らしいピーブロックを作曲し、詩を作ります。


 のレクチャーでは、イアイン・ダルの作とされている6編の詩について、その詩が詠まれた年代や来歴、背景などについて細かく解説されています。興味深いのはカンタラックで口承されてきたピーブロックと同様に、これらの詩も全て口承されてきたものなので、一部が失われてしまっていたり、いくつかの異なったバージョンが伝えられているものもあるということです。
 一方、イアイン・ダルが作曲したピーブロックは24曲だと言われています。このレクチャーではその中で今日まで伝えられているその内の約半数の曲について細かく解説が行われていますが、中でも注目すべきは、名曲“Lament for Donald Duaghal MacKay”の由来に関する解釈です。

 イピング・タイムスに載っている各地のコンペティションの入賞曲の中に、あの“ Lament for the Children”と並んで最も多く顔をだしてるのがこの曲だと思います。
 そう、確かにこの曲の素晴らしさは衆目一致するところでしょう。特に私はこの曲のウルラール(urlar)のメロディは“ Children”“ Patrick Og ”のそれと並んでこれまで聴いてきたピーブロックの中で最高のものの一つだと思います。あるいは、ピーブロックを初めて聴くような人にとっての馴染み易さという点ではこちらの方が上かもしれません。
 1993年にアンガス・J・マクレランさんが2度目にわが家を訪れた時、私はこの曲をカンタラックで唄ってもらいました。それは、もう例えようもなく美しい調べで、手でゆるやかにテンポを取りながら、気持ちよさそうにカンタラックを唄う彼の姿が今でも私の脳裏にくっきりと焼き付いています。

 は、この傑作はつい最近まで、その完成度の高さから(多分、思い入れも込めて)当然、MacCrimmon の作であると考えられていました。具体的にはドナルド・モア(Donald Mor) の作とされて、1948年に出版された例のレッドブック The Kilberry Book of Ceol Mor でも作曲者として Donald Mor MacCrimmon の名前が記されています。

 これには全く根拠が無いわけではなく、ドナルド・モアは確かに Donald Duaghal の父にパイパーとして仕えていたことは確認されています。
 ところが、実際にはドナルド・モアは Dona
ld Duaghal の死の10年前に死んでいるということから、従来考えられていたこの説には無理があるのではないか、とうことになります。

 こで、では真の作者は Donald Mor の息子であり、“Lament for the Children”を始めとする、幾多の名曲を作曲した MacCrimmon 歴代最高のピーブロック・コンポーザーであるパトリック・モア(Patrick Mor)ではないか、という説が浮かび上がります。
 ところが、この説もパトリック・モアが生涯の内に Donald Duaghal に会ったという形跡が全く無いということから、否定されてしまいます。
 この後、報告者の話は当時の各クランの政治状況に触れた細かな話になるのでとても全ては紹介しきれませんが、とにかくなにやかやで「この曲の真の作者は Donald Duaghal の孫にあたるイアイン・ダルであり、曲の名の由来はイアイン・ダルが Donald Duaghal の実際の死 (1649年) からおよそ50年近く経った頃に作曲したラメントに自分の祖父の名を冠したものである。」というのが真相だというのです。

 の真相を知って、私は「そうか、やはりそうだったか」と思いました。 “Patrick Og 〜”“ Donald Duaghal 〜”、この比類なく美しい旋律を持つ2つのラメント、実は同じ作者の手になるものだったということは、私にとってはごく自然に納得できることでした。そして、多分このレクチャーを聴いた多くのピーブロック愛好家も同じ思いを抱いたのではないではないかと思われます。

 この他に、このレポートで解説されている曲の中で私が知っているピーブロックとしては、“Unjust Incarceration” と、“Lament for the Laird of Anapool”がありました。
 これまでこれらの曲がイアイン・ダルの作だということはあまり意識して聴いてこなかったのですが、一旦そのことに気が付かされてからこれらの曲を聴いてみると、「う〜ん、これはやはりイアイン・ダルだな〜」と思せるような共通した何かを感じずにはいられません。

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 ナダに現存しているイアイン・ダルが使っていた伝えられるチャンター(の指穴のすり減り方)から判断して、彼はパトリック・オグと同じ左利きだったということです。

 しかし、共通しているのはそこまでで、伝統ある Boreraig の College of Piping の頂点を極め、スコットランド中から多くのパイパーがピーブロックを習いにその下に集まって来たパトリック・オグと異なり、パイプティーチャーとしてのイアイン・ダルの評価は高くありません。
 確かに息子のアンガス(Angus MacKay of Gairloch) に対してはしっかりとピーブロックの伝統を伝えたことは、その Angus があの“The Desperat Battle of the Birds”を作曲したことから証明されますが、それ以外の人間に対しては目立った功績が伝えられてないのです。

 盲目という身体的ハンディキャップも原因の一つであると考えられますが、実は彼は躁と欝の状態がはっきりしていた気分屋で、どちらかというとティーチャーというよりよりも、典型的な芸術家タイプだったようです。
 そして、そのことは彼の作った詩やピーブロックにも反映されていると言われ、自分の「盲目」である身の上をテーマにして作曲したといわれている“Unjust Incarceration”(不公平な幽閉)を覆うなんともいえない暗さは、そのような彼の癒しがたい暗い面を示しているように思えます。


 て、このレポートの報告者であるブリジット・マッケンジー( Bridget MacKenzie ) は最後にイアイン・ダルの最高傑作である、いわずもがなの “Lament for Patrick Og MacCrimmon”に言及します。でも、ピーブロック・ソサエティーに集っているような人にとっては例の逸話は余りにも当然のことなので、ここで彼女が提起するのは「果たしてこの《逸話》が真実であったのかどうか?」ということです。

 通常、ラメントにおいては、最後のバリエイションはクルンルアー ( Crunluath )で終わるのが常であって、 クルンルアー・ア・マッハ ( Crunluath a-mach ) のバリエイションは演奏されません。ところが、Patrick Og 〜 はラメントの中ではア・マッハまで演奏される非常に希な例なのです。
 報告者はこのことから、「イアイン・ダルがこの曲を作曲したのは、言い伝えにあるように、パトリック・オグが死亡したという間違ったニュースを信じたからではなく、実は彼が生きていることを知っていたからこそ、ア・マッハ・バリエイションを演奏したのではないか?」という疑問を投げかけています。
 でも、この仮説はどうも彼女自身も確信があって言っているのではないようで、「実際のパトリック・オグの葬式に際して イアイン・ダルがこの曲をア・マッハ・バリエイションまで演奏したかどうかが判れば非常に興味深いのだが…。」と、結んでいます。
 250年前の出来事をまるで昨日のことのように想像し真面目に論じているこの様子には、まるでシャーロキアンの集まりと同じような大人の《おたく》の世界だな〜と、妙に感心させられてしまいます。


 アイン・ダル私生活から当時の興味深い風習が見えてきました。
 彼が結婚したのは60才台も半ばでになってからで、長男のアンガス生まれたのは67才の時です。このような晩婚は主に経済的な事情によるところが大きいといわれていますが、実はその当時の Gairloch 地方においては、男性の晩婚がごく伝統的な習わしであったということなのです。
 信じられない気もしますが、なんと「男性が《母親》が生きている内に結婚することは《軽はずみで無益なこと》であると考えられていた。」というのです。(究極のマザコン世界!)
 ですから、当時の男性が40才台、50才台、60才台、あげくの果てには70才台で初めて結婚することはごく当たり前のことでなんら不思議ではなかったそうです。(当然ですが、この場合、子供を生める年齢である相手の女性とは大きく年が離れていたわけです。)  

 アンガスの他に2人の子供を残したイアイン・ダルは1754年、98才の長寿を全うして亡くなりました。ここで気がついたのですが、Canntaireachd No.15 で紹介した103才まで生きたという Iseabal Mhor の例や、102才まで生きたというその父親の例もあるように、どうもこの時代のハイランドの人たちは現代の水準からいっても長寿であった人が多かったようです。当然、若くして死んだ人もそれ以上に多くいたと思われますから、平均寿命は短かかったでしょうが、決して食糧に恵まれていたと思えない当時のハイランド地方の食生活は、案外、長寿に適したものであったのかもしれません。  

 ころで、イアイン・ダルの亡くなったこの1754年という年は、実は私の生まれた年のちょうど200年前に当たるわけでして、私としては妙な因縁を感じてしまうのです。まあ、単なる偶然なのですが、ミーハーの気持ちとはそんなものですよね。
 そういえば昨年1996年はあの屈辱の Culloden の戦い(1746年)から250年目の年でしたよね。私は一年間、折りにふれこの戦いのことを思い出しては悔し涙を流していました。(そんなバカな…)


 回紹介したのは実はこのレポートのほんのさわりの部分です。イアイン・ダルを心から信奉している報告者のブリジット・マッケンジー は、彼の波乱に満ちたその一生と多くの傑作が生まれた背景を丹念に研究し、それはもう実にこと細かに報告しています。
 そして、彼女はこのレクチャーの最後を次のように締めくくっています。
 「私は彼の人物と作品に最大限の敬意を払っています。彼は《音楽》《詩》の両面においてスコットランド文化の最高の頂点に到達しました。一体彼の他に誰がこのようなことを成し遂げたでしょうか。“Corrinessan's Lament”(彼の詩作の代表作)だけでも、あるいは“Lament for Patrick Og MacCrimmon” 一曲だけでも、彼はスコットランドの偉大な人物の中に位置づけられ価値がありますが、実際には彼はそれ以上の多くのものを我々に残してくれたのです。
 私は信念を持って断言したいと思います。彼は正真証明の
《天才》です。そして、彼の偉大な業績は高く評価されるべきです。」

 ルト音楽を愛好している人なら知らない人はいないであろうアイルランドの盲目のハーパー、ターロック・オ・キャロラン(1670〜1738)。キャロランより14年早く生まれ16年長生きしたイアイン・ダル・マッカイ(1656〜1754)。隣り合った2つのケルトの国で、2人の盲目の芸術家が同じ時代に同じようにチーフのお抱え楽師として活躍し、それぞれの伝統文化に大きな遺産を残したのは、単なる偶然とは言えないような気がします。


 後に私自身の最近のエピソードを一つ。
 マレイ・ヘンダーソン(Murray Henderson) は私の最も好きなパイパーの一人です。会ったことがあるわけではないのですが、いくつかの録音で聴く彼の演奏は、どれをとっても私にとってかけがえのないものです。
 シェーマス・マックニールがプロデュースしたBBCのTV番組で、彼がマクリモンの記念碑の脇で“Lament for Patrick Og MacCrimmon”を演奏しているシーンがあります。私はその風景がなによりも好きでいつの日にかこのシチュエーションに我が身を置くことを夢みています。

 実はこの Murray Henderson がリードメーカーとして以前からパイピング・タイムスに広告を出しているのは気がついていました。そこで先日、私は自分がそのような夢を持っているという旨を書き添えて、チャンターリードを注文しました。
 かなり時間が経ってもうあきらめかけた頃、彼から「バカンスシーズンが終わるのを待たせたことを詫びる」言葉とともに10本のリードが届きました。
 Henderson というスタンプが押された真新しいそのリードは、超一流のパイパーが自分のために作るリードだけあって、堅くて吹きこなすのには少々苦労します。
 でも「もし、堅すぎる場合はリードの真ん中を押しつぶして自分に合った堅さにしてください」という親切なサジェスチョンに従い、1本のリードを何とか吹きこなせるようにして、“Lament for Patrick Og MacCrimmon”のさわりの部分を演奏してみました。

 といことでもありませんが、私にとってはこれでまた一歩、ささやか夢に近づけたような気がしました。

Yoshifumick Og MacCrimmori

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