"Piping
Times"《1984年》
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表紙写真に注目。ハイランド中部、スペイ川沿いの村 Laggan
に建立されているという、Calum Piobaire(Malcolm
MacPherson/1833〜1898)のモニュメント(Carin)です。 P13 London Contest は、ハロウィーンも過ぎて、いよい
よケルト的には新年に入った最初のイベント、The Scottish Piping Society
of London コンペティションのレポート。 ちなみに、故 John MacFadyen が、1966年から1970年にかけての連続した5年間続けてこの The Bratach Gorm に輝いたのが空前絶後の記録として残っています。 さて、1983年の The Bratach Gorm に輝いたのはかの Murray Henderson。曲は "Unjust
Incarceration" でした。2nd 以下の結果と演奏曲は次のとおり。 P22 A Letter from Boreraig は Dunvegan 城に保管されている Clan MacLeod にまつわる様々な文書の中に保管されていた 1711年(or12年?)の手紙。その内容は「バグパイプの売却に関する歴史上最も古い記録」ということです。以下はオリジナルとそれを活字化したも の。 レポートでは、文中の Ronald とは誰か?ということを推察しています。手紙の相手としては、おそらく、MacCrimmon 一族のだれかの可能性が高いと思われますが、一方で Ronald という名は MacCrimmon 一族の中で知られていないそうで、どうやら謎は解けていないようです。 興味深かっ たのは、ハイランド・パイプは1セットのバグパイプについては "a
bagpipe" と単数扱いになるので、ここで "both the pipes"
と複数形になっているということは、売却されたバグパイプは2セットである事を示しているという推測です。 |
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P11 The Echoing Beat on C は タイトルだけだと分かりにくいですが、実は Roderick Cannon によるピーブロックネタ。A lost gracenote と いうサブタイトルが付けられています。 その内容は、1760年に刊行された "The Compleat Theory of Scots Highland Bagpipe" の中で筆者の Joseph MacDonald によって "shakes" と表記さ れ、現代では "echoing beat" とか "double echoes" と呼ばれる装飾音について、その表記と表現の変化について紹介しつつ、特に現在では使われなくなったC音に於ける shake(double echo on C)に関して綴られたレポートです。 shake(echoing beat)の表記と表現の変化の例として、Lament for Donald of Laggan の楽譜が挙げられています。下の2列の楽譜で示した内、上段が Joseph MacDonald 時代の表記、下段が現代のピーブロック・ソサエティー・ブックの表記です。 後半の3小節については、大きな違いは見られませんが、最初の小節の表記とそれに伴う演奏は大きく異なっています。 そして、Cannon は
続いて shake on B(double echo on B)を例にとって
(右図)ピーブロックが楽譜に表記されるようになった聡明期の頃の様々な楽譜集での表記法と具体的な表現の仕方の変遷に
ついて比較しています。 そして、最後に現代のピーブロック演奏に於いては、Joseph MacDonald 時代の shake
on C(double echo on C)(右図)については grip
に取って代わられて現在では一切使われなくなった経緯が綴られます。 Cannon は「口承 伝承される芸術については、とかくその内容が時間とともに徐々に変化することは避けられず、ピーブロックもその例外たり 得ない。ピーブロックが楽譜に書き下ろされるようになった1820年代以降から現代までの間についても幾多の変化があっ た。この shake on C(double echo on C)に関しては 1760年時点ではまだ使われていたようだが、様々な楽譜集が書き下ろし出版されるようになる 1800年以降の時点ではもう既に使われていなかったと推察される。」とこのレポートを締めくくります。正にサブタイトルの通り。 確かに、 "The Compleat Theory of Scots Highland Bagpipe" では、18個の音を挿入するといった様な超絶装飾音が解説されていますが、これらもまたその後の19世紀の楽譜集には一切出てきません。 Joseph MacDonald の時代から、19世 紀に掛けてはピーブロックの装飾音について大きな変遷があった時期だったようです。 |
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P13 Some mistakes in Angus MacKay's settings and where they came from. は タイトルからして明らかにピーブロックネタです。しかし、中身的には A. G. Kenneth による1ページ半程の軽い記事。 Angus MacKay
の楽譜集は基本的には父親の John MacKay を
始めとするファミリーの誰かの手になる曲と、MacKay 家
に伝承されてきた曲を収集したものです。しかし、中には Peter
Reid や Donald
MacDonaldy の楽譜集から参照してきたものもあり、それらについてはあちこちに間違いが
見受けられるとのこと。 興味深い記述として John MacKay の
作になる "Melbank's Salute" についての次のような下りがあります。 つまりは、A. G. Kenneth はこの短いレポートの結論部分に書いた「ピーブロック楽譜集の中で最も権威ある存在である Angus MacKay の楽譜集については、実はこのような間違いが多々あることを認識して、丁寧に修正されていくべきである。」ということを強く訴えたかったようです。 P28 The Nature of the Sound
Field Surrounding the Piper in Open Air は、1979年8月
号と9月号とに連載された The Acoustical
Enviroment of the Highland Bagpipe out of doors
Part 1&Part2 の著者、Alex R.
Carruthers による「野外に於けるハイランド・パイプ演奏時の音の伝わり方に関するレ
ポート」第3弾。 前回のレポートでは、主に空気や風、地面の状況や構造物といった外的要因がの音の伝わり方に与える影響についての解
析でしたが、今回は主にパイパー自身の身体(肉体)が及ぼす影響についての解析です。 一つだけ、はっきりと書かれていることで印象的(意外?)だったのは、ハイランド・パイプから発せられた音が伝わる 距離は、単純計算によると前方に 65.5km、後方に16.4km ということ。…???という感じもしない訳ではないですが、日頃 Google Earth で旅しているハイランドの風景の中であれば、さもありなんなのかな?というところ。 |
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P16 The Brother's Lament (Campbell Canntaireachd)and the Lament for Donald Duaghal MacKay (長いタイトルなので目次では省略されています)は、前号に続いて A. G. Kenneth による軽いピーブロックネタ。今回は1ページと5行。共に Piobaireachd Society Book 13 に収録されているこの2曲についての考察です。 Piobaireachd Society Book 13 のエディトリアル・ノートには、この2曲の Taorluath バリエイションの4行目がそっくりであることが書かれていますが、完全にそのままという訳ではなく、いくつか注目すべき点があるということ。 ちなみに、Piobaireachd Society Book 13 の "Lament for Donald Duaghal MacKay” の項には Simon Fraser、 Angus MacKay、Donald MacDonald、Agnus MacArther の4通り のセッティングが7ページにも渡って紹介されています。 今回のレポートで A. G. Kenneth が指摘するポイントの一つは、パイプのかおり第33話のテーマ "Park Piobaireachd No.2" に出て来る "Grip beat" に ついて。 「Taorluath
バリエイションの何行目と何行目のどの部分は酷似しているが、その一方で、○○○のセッティングでは "Grip beat" が
書いてあるが、こちらには書いてない。でも、○○○のセッティングのこの部分には…、」という様な感じであ〜たら、こ〜
たら解析が続きます。パイパー森的
にはそれなりに興味深い内容でしたが、多分他の方には余りにも専門的すぎるので、あえてこれ以上詳しくは紹介しません。
ご興味が湧かれた方は↓オリジナル記事を参照下さい。 オリジナル記事 ⇒ Bagpipe News(on October 1,
2020)の後半 ピーブロック愛 好家にとってはそれよりも P35 Boreraig の方がちょっと気になるタイトルだと思います。1982年10月号以来の Thomas Pearston によるフィールド(?)レ ポートです。 当時の Clan MacLeod チーフ Norman MacLeod of MacLeod の求めに応じて1810年に Dunvegan岬周辺の地図が作成されました。Dunvegan城 にあるオリジナルの複製として作成されたものが、現在 "The Scothish Record Office" に保管されているということ。この周辺の地図としては最古のものとされるこの地図には、Dunvegan城 の8マイル北に位置する Boreraig も含まれており、当時の様子が伺い知れるというレポート。 地図作成を依頼された測量技師の F. A. Chapman という人は Gael 語がしゃべれる人ではなかったので、"Boreraig" は "Burreridge" と、"Galtrigall" は "Galttiele" と誤表記されているとのこと。 Angus MacKay Book(1838年)の "Acoount of the Hereditary Pipers" の ページには当時の MacCrimmon College の建物に関して次のような記述があります。(これらのページは Piobaireachd Society の会員でなくてもアクセスできるので、それぞれリンクを張っておきます。) "The house occupied by the MacCrummens still remains, displaying thick walls, massy cabers or rafters, and other characteristics of old Highland habitations. It was divided into two parts built at right angles – one forming the class-room, and the other the sleeping apartments; and MacDonald, the present tenant, points out to strangers the localities of many transactions handed down in oral tradition. " 大きく拡大した地図からは、この記述のとおりの建物の配置が確かに見て取れるのがなんとも興味深いところです。レ ポートによると 1984年現在は現地にはこれらの建物の痕跡は全く無く、多くの石積みが残るのみということです。 今月号には P47 にもう一つ古い印刷物が載っています。ジャコバイトの戦いが潰えた1746年の出版物。タイトルは "The Compleat Tutor for the Pastoral or New Bagpipe" と 読めるような…。特に関連記事は見当たらないので、単にこの表紙だけの紹介のようです。 |
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サマー・シーズンに入ると野外イベントたるハイランド・ゲームでのコンペティション が 目 白押しとなりますが、この時期はまだその前。この号には各地のインドア・コンペティションの報告が並びます。 タイトルから想像すると、現地しかも野外でのコンペティションかと思わせる P12 Uist and Barra Contest は実は、Uist and Barra Association がグラスゴーに於いて開催するコンペティションです。歴史を重ねて今 ではインドア・コンペティションの中では、最も由緒あるコンペティションの一つと位置づけらているとのこと。 Bridget MacKenzie 女史の "Piping Tradition 〜シリーズ" の5冊目にして最終版である "Piping Tradition of the Outer Isles" (2013) によると、アウター・ヘブリディーズの Uist 島と Barra 島という場所は、このエリア独特の固有な演奏スタイルが伝承されていて、また、過去に数多くの傑出したパイパーを輩出し ていることが分かります。ハイラン ド・パイプの伝統に於いて大変重要な場所だと言えるのです。 3月10日にグラスゴー郊外のある小学校(の講堂?)で開催されたこの年のコンペティション結果レポートの中である
興味深い記述に気付きました。 P20 Famous Pipers はいかにもシリーズ物というタイトルですが、紹介している1977年10月以降の号には初登場です。著しくインターバルの長いシリーズなのでしょうか? それはともかく、この号で取り上げられているのは、1983年の The Grant's Championship で Piobaireachd & MSR の両部門を制覇してオーバーオール・チャンピオンとなった Gavin Stoddart (この号の表紙)です。1983年12月号のレポートには Piobaireachd 部門以外の結果については記載されていなかったのですが、つまりはこの年の Grant's は Gavin Stoddart のよる文句無しの 完全制覇だったということなのですね。 1948年生まれの Gavin Stoddart は 12才の時から、Captain John A. MacLellan に師事してパイプの練習を始めました。1、2年の内にピーブロックの手ほどきを受けるようになり、最初に習った曲は "Clan Campbell's Gathering" "MacCrimmon's Sweetheart" "Hector's MacLearn's Warning" などでした。 19才になった頃にはコンペティション成人部門に参加するようになり、いくつかのコンペティションに於いてそれなり の 成果を上げる様になりますが、程なくしてコンペティションへの参加は出来なくなります。1966年に Scots Guards に入り軍人としての活動に専念するようになったからでした。1970年代末にはパイプメジャーとして活躍。1983年に は20年近くに及ぶパイプバンド活 動に関する貢献に対して B.E.M.(大英帝国勲功章)を授与されました。 パイプメジャーの重責から開放された1980年から、 Gavin
Stoddart は各地の著名なコンペティションに再び参加するようになり、直ぐに華々しい成果
を挙げるようになります。 Gavin Stoddart のその当時使ってい たパイプは、彼と同様に Scots Guards のパイプメジャーとしての貢献に対して 1955年に B.E.M. を授与されたという似たような経歴を持つ、父親の George Stoddart から譲られた 1930年代の Sinclair 製だということです。 Gavin Stoddart は 世界各地の、どちらかというとハイランド・パイプ文化の発展途上国に幅広くコネクションを持って居ると書かれているので すが、その例として挙げられている 国、U.S.A、U.S.S.R、Egypt、Israel、Corsica、East Germany、と並んで何故か Japan という名前が出ていました。私が1975年に東京パイピング・ソサエティーに参加してハイランド・パイプを始めて以降、George Stoddart が来日したという記憶はありま せん。もしかしたらそれは、彼が Scots Guards 在籍時代の 1970年代前半のことなのかもしれませんが、真相は定かではありません。それにしても上の記事の Alan MacDonald といい、結構有名なパイパーが日 本を訪れた形跡があるのですね。 この紹介文の最後の締めくくりの一文に、彼のお気に入りの曲として "Ronald MacDonald of Morar's Lament" と "Lament for the Only Son" の曲名が挙げられていました。やはり、そうなんですね。納得。
P41 The Treatment of the Tritone In Piobaireachd はピーブロックネタである以前に楽理ネタであるので、楽理には疎い私の理解を完全に超えています。 冒頭の書き出しに次の通りあります。 「トライトーン」というのが「全3音」という日本語の楽理用語に対応していること、伝統的にあまり好まれてきた響き
で はなく「音楽の悪魔(the devil in
music)」と称されていることなどは、ウィキペディアなどを参照しつつ何となく理解できました。でも、それが意味す
るところはまるでチンプンカンプ ン…。 ピーブロックにもこのトライトーンが登場していることが、ミクソリディアン・モードとメジャー・モードといった音階
の 違いと絡めつつ、いくつかの事例を 紹介しながら解説されていますが、正直に言って私は全然ついて行けません。 |
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表紙の写真は、Calum Piobaire の長男にして、パ イプのかおり第34話で紹介した Malcolm Ross MacPherson の一番上の叔父にあたる(大西洋航海を怖がって、カーネギー家のお抱えパイパーの座を Malcolm に譲った、あの)Jockan MacPhersonです。 2008年に John Ban MacKenzie について書いたパイプのかおり第30話の中で、Manuscripts(写本)のフリー・ダウンロード・サイトについて 触れた箇所があります。そこで書いたように、これらの楽譜写本が所蔵されているのはエディンバラのスコットランド国立図書館 The National Library of Scotland(NLS)です。 当然ですが、そもそもそれらが世に出た当初からこの図書館に有った訳はなく、ある時点で個人のコレクションが寄贈さ
れるなどの経緯を経て所蔵物となる、というのがよくある話。 Archibald Campbell of Kilberry と Colonel J P Grant of Rochiemurchus の風貌⇒ 1984年3月 11日に NLS で催された記念式典に於いてこれらの貴重な楽譜写本はそれら全てを引き継いだ Archibald の息子である James Campbell から NSL に寄贈されました。式典では、The Royal Scottish Pipers Society の名誉パイプメジャーである Sir James Morrison-Low に手渡され、NLS 側を代表して Professor Denis Roberts から謝辞が述べられました。2ページ半のレポートの内2ページが James Campbell による当日の贈呈の言葉(講演)に充てられているので、その要約を箇条書きで紹介します。 但し、これらはあくまでも貴族階級の人々による上から目線の歴史解釈であり、全てがピーブロック文化伝承の真の姿を
言い得ているという訳ではありません。念のため。
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キャプションに King and Piper - the
Duke of Windsor
とある通り、表紙写真は後の英国王「エドワード8世」(退位後の称号が Duke of
Windsor)の若かりし頃、皇太子 Prince of Wales 時代の写真です。 実は、この号の中に表紙写真についての説明や関連記事は有りません。ですから、当時の私がこの写真を見た時には 「ふ〜ん、皇太子自身がパイプを吹くんだ…。」程度のリアクションしかできなかったのではないかと思います。 しかし、10数年経って Jeannie Campbell の "Highland Bagpipe Makers"(2001年)を読ん でいたところ、MacDougall のページにこの写真が掲載されている事とともに「MacDougall Pipe とその当時の英王室との関係」が説明されている記載に目が止まりました。 2001 年にリリースされたこの本の 1st Edition では、およそ 100のパイプメイカーが紹介されていて、小さな文字でびっしり書かれたそのページは全部で 180ページで した。それから10年後の2011 年に大幅加筆されてリリースされた 2nd Edition では、さらにその間にリサーチされた 30近いパイプメイカーの紹介が加えられ、総ページ数は 268ページにも膨れあがっています。 この Duke of Windsor のパイプについても、今回の表紙写真の他に5枚の写真が追加され、説明文も大幅に加筆されていました。せっかくの機会ですから、 Jeannie Campbell さんのこの本からそのページの写真の縮小版とともに、関連する内容を簡単に紹介します。 1890年代当時の MacDougall Pipe
の評判は絶大で、常に注文が生産量を上回っていたとこのこと。1892/9/24付けの新聞 "Scotsman"
には次のようなレポートが掲載されています。 そして、ビクトリア女王の命により、後の Duke of Windsor 当時は皇太子 Prince of
Wales
に対して献上したのが写真のパイプ。5枚の写真の内3枚のパイプの写真とパイプケースの写真は「ニッケル&アイボリー」
のパイプとそのケース。右下の写真
は「フルシルバー」のパイプということで、実用と見栄え用とで複数献上されたようですね。 "Highland Bagpipe Makers"(2nd Edition)by Jeannie Campbell 関連サイト P15 John MacFadyen Memorial Lecture/Recital
の講演は "A Future of Piobaireachd"
というタイトルで、新作ピーブロックの意義と位置づけがテーマです。詳細な内容は省きますが、これまでに新作ピーブロッ
クのコンペティションは、この当時 を遡ること20年前と15年前に開催されたということ。 関連する記事として、P37 Ceol Mor Composing Contest
は、John MacFadyen Trast の主催により、この年久しぶりに
開催された新作ピーブロックのコンペティションの結果報告。 ちなみに、1973年1月16日のNHKのラジオ番組で19才の私が生まれて初めて
耳にして、その後の私の人生を決定づけたピーブロック "The
MacGregor's Salute" の演奏者はこの John MacLellan でした。 |
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P13 Boreraig Day の由来と内容については 1983年9月 号をご参照下さい。 今年奉納されたピーブロックは Seumas MacNeill に よる "Glen is Mine" と Iain MacFadyen による "Lament for the Children"、さらには初めて聞く名前ですが、Cameron MacFadyen という人によって "Lament for the Earl of Antrim" も演奏されたとのこと。 現地での奉納演奏の後は、定例の若手対象のコンペティションが最寄りの室内会場で開催され、丁寧なレポートが載って います。 P16 The Bruce Enigma は "The
MacCRIMMON PIPERS OF SKYE" (Duntroon Publishing)の著者である、Bruce Campbell による3ページの軽い記事。 今回の記事、タイトルと著者の名前とが一致していますがそれはあくまでも偶然。タイトルの Bruce
はスカイ島出身で Donald Ruadh MacCrimmon
に直接教えを受け、後にオーストラリアに移住した Peter
Bruce に代表される Bruce 一族のこと。 P20〜24 Pipers' Pride Tension-X Bridles は 途中の P22に↓この全面広告ページを挟んで、この製品の製作者である Northwest Highland Supply Ltd. の Cameron J. Wylie という人が書いている、いわば宣伝とのタイアップ記事。 Andrew Lenz's Bagpipe Journey の Identifying Drone Reeds のページでその歴史を振り返ってもらえれば分かるように、今ではごく一般的になっているシンセティックなドローン・リー ドが世に出回るようになったのは 1980年代もごく後半のこと。大げさに言えば、これによってバグパイプ創成期から延々と続いていたドローンリード調整 に係る泥沼の闘いにほぼ終止符が打 たれた訳ですが、この↑製品はそんな安直な時代の到来を目前に控えた「ケーン・ドローンリード時代最後のあだ花」と言っ たらちょっと失礼でしょうか…。 タイアップ記事とは言っても、この記事には "The Drone Reed Story"
というサブタイトルが付けられていて、ただただこの製品について推しまくるのでは無く、どちらかというとごく一般論とし
てドローン・リードの振る舞いとそれに対する対処法が丁寧に解説されています。 そして、この当時の "Piping Times" 誌上によく掲載されていたチャンター・キャップの宣伝をよく見てみたら、なんとこれも同じメイカーの製品。 Cameron J. Wylie さんが自らの名を冠していました。さて、こうなるとこのメイカー Northwest Highland Supply Ltd. は現在どうなっているのかな?と気になります。 そこで、まず会社名でネット検索してみましたがヒットしません。まあ 30年も経過しているので当然かな?…と。ところが念のため Cameron J. Wylie の名前で検索してみると、Cameron J. Wylie Bagpipe Clinic というサイトがヒット。どうやら会社の体裁はともかくも、ご当人は現在でもアクティブに活動中のご様子。 サイトの About us のプロフィール紹介によると、プロフェッショナル・パイパーとして50年のキャリアがあるというこの方、そもそもはス コットランド出身。ロンドンで工作機 械の修行を積んだ後、航空工作機械デザイナーとしてキャリアを積んだとのこと。ある時点でカナダのトロントに渡ったよう で、そこでは John Wilson の教えを受けたりいくつかのパイプバンドで活動したとのこと。その後、改めて米国に移住したのでしょう、30年前から現在まで米国ワシントン州 Lynnwood を拠点としています。 その巧みな工作機械の技術を活かして、現在はオリジナルのブローパイプやバグパイプの制作もされているようです。そ の中でも、必ずしも高レベルに 加工されている訳ではないという一般的なドローンパイプのボアを、ライフルのそれと同様にスムースかつストレイトにリペ アすることを謳っている "The Wylie Superfinish Process(TM)" と称しているサービスは、ちょっと他では聞いたことが無く興味深く思えました。 そのキャリアからして御歳70才はとっくに超えていると想像されるのですが、ハイランド・パイプに対する深い愛に裏 打ちされた創意工夫の熱意は少 しも衰えていないようにお見受けします。見ず知らずの方ですが、そもそもの記事の書き様も含めて現在もお達者な事が分 かって何故かほのぼのとして良い気分 になりました。 |
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P20 Record Review は Lismor レーベルからリリースされた 1983年の The Grant's Piping Campionship のライブ音源について。Ceol Mor と Ceol Geag は別盤で Ceol Mor 盤には上位4人の演奏がフルに収められています。演奏内容については既にレビュー済みなのでこの記事はレビューというよりリリースのご案内といった内容。
この記事を読んだからかどうかは忘れましたが、私はこの音源をカセットで購入しました。記事によるとレコードもカセットも値段は
£4.99 で同じですが、送料がレコードは
90pに対して、カセットは25pだったようです。もちろん英国内の価格です。
パイパー森は1970年代半ばに、当時の日本では入手が困難だと思われブリティッシュ・トラッドの中でもちょっとレア
なアルバム(当然、LPレコード)
20枚を選りすぐって個人輸入した経験があります。LPレコード20枚といえば結構な重量になります。当時はまだ航空便
は大変にコストが高い時代だったの で、当然ながら輸送手段は by sea
つまり船便です。遠くイギリスから喜望峰を回って日本に到着するのには確か 2〜3ヶ月掛掛かりました。 録音メディアの進化の歴史を紐解けば、CDが商業ベースとして世に出回り始めたのは 1982年の事なので、30年前のこの時点では世の中は既に CD時代に突入していました。しかし、ハイランド・パイプのようなマイナーな音楽が、CDで何不自由なく聴くことが出来 るようになるのはまだまだず〜っと 先の話。ですから10年の時を経て少しはリーズナブルになった航空便を使うにしても、1980年代半ばの時点ではこのよ うな音源を入手する上ではカセット が最も現実的な選択肢。日本ではカセット・アルバムというのは余り馴染みがありませんでしたが、当時のイギリスではレ コード盤と並行してカセットでのリ リースがごく当たり前だったのが幸いでした。 その後、マイナーな音楽の世界でも遅ればせながらも CD全盛期が訪れますが、実はそんな時代はほんのひと時。あっという間に、どんなにマイナーな音楽でも別け隔てなくワン クリックでマイ・パソコンにデータ が転送されるような時代が到来しました。この 30年のテクノロジーの進化の凄まじさを痛感するとともに、文化面での民主化が飛躍的に進んだものだと感心することしき りです。 P21 The Silver Chanter コンペティションの生い立ちと趣旨については、1978年9月 号と1979年10月号で紹介しました。ここ何年かはたまたまその号の他の記 事との関係もあってレポートは載せていませんが、当然ながらコンペティション自体は毎年開催されています。 今回のレポートで、Seumas MacNeill は18回目を迎えたこのイベントを "now become probably the most prestigious piping competition in the world" と書いています。想像するに、"prestigious" という言葉に Grant's Campionship の持つ「権威」とはちょっと違った意味合いを込めているのではないかと思われます。 このコンペティションの参加者の資格は様々な理由で、今年から主催者側が一方的に招待するパイパーに限る "invitaion only" のシステムに変更されたとの事。しかしそれ故、例え招待されても様々な都合で参加できないパイパーが出ることは避けられ ず、結局この年は10人の招待者に 対して参加予定が7人だった由。さらに、その内の Angus MacDonald に ついてはコンペの数日前に鎖骨を折るトラブルに見舞われ、結局この年の参加者は僅か6人。「昼食を挟んで午前・午後各3 人づつのパフォーマンスという、ハ イランド・パイプの熱烈な愛好家にとってはいささか短すぎるイベントになった。しかし、もしも演奏されるのがハイラン ド・パイプ以外の楽器であったとすれ ば十分に満足すべき長さの演奏会だろう。」と記されています。 この年の結果は次のとおり 1st Jack Taylor "Lament
for MacSwan of Roaig" 以下順不同で ジャッジは John D. Burgess、Seumas MacNeill、Alasdair D.G.Milne という面々。 1984年7月号の表紙写真は元英国王エドワード8世が若
かりし皇太子 Prince of Wales 時代にハイランド・パイプを演奏しているショットでした。 7月号の記事の最後を「フルシルバー」のパイプは今何処に…? と締めくくりましが、その答えは今回の記事の冒頭に 書いてありました。 A bagpipe formerly belonging to the Duke of Windor was recently sold at Sothebys and is now owened by Eddie McLaughlin. つい最近(もちろん30年前の)サザビーズのオークションで競り落とされたとのこと。この Eddie McLaughlin という人がどこの誰なのかどこの国の在住者かといった詳細は書いてありません。当時としては有名な人だったのでしょうか? もっとも、それから30年経過 しているので、その後またオークションに出されて既に今では所有者が代わっているかもしれません。 続いて、このシルバーパイプについて大きな写真と共に詳しい説明が記されていました。 ここで記事は、1980年9月号(Vol.32/No.12)の The Art and History of the MacDougalls of Aberfeldy(続編)を参照 しつつ、このパイプが皇太子時代のエドワード8世のパイプとして献上されてことを改めて説明しています。
このシルバーパイプに関する解説は以上ですが、続いてエドワード8世とハイランド・パイプにまつわる話が紹介されています。 自叙伝 "A King's Story" の記述によると、この方は王室メンバーの中でハイランド・パイプを演奏した最初の存在だということ。ある時の Balmoral 城での晩餐会に際しては食後のコーヒーの前に、王様をバンドメンバーに迎えた the Balmoral Pipe Band がディナー・テーブルの周りを行進したそうです。 The Royal Scottish Pipers Society の記録によると、1935年にはそれまでの100年間で初めて Prince of Wales が練習に参加。プリンスは "Green Hills of Tyrol" "Nut Brown Maiden" "Skye Boat Song" をチャンタープラクティスした後、それらの曲のバンド演奏に参加。最後にプリンスがソロでスローマーチを一曲、Euan Macdairmid という人がプリンス作の "Mallorca" というスローマーチを演奏。この曲は The Queen’s Own Highlanders Collection に収録されているとのことです。 P34 Piobaireachd leaflet は、
ピーブロック・ソサエティーによって、ピーブロックについて余り馴染みの無い人がコンペティションやリサイタルでピーブ
ロックを聴く際の一助となるべく、ピーブロックの概要について解説したリーフレットが作成された、という半ページの短い
お知らせ。 |
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P24 Joseph MacDonald
は、あの "The Complete Theory of Scots Highland
Bagpipe" の著者に関する記事。 P27 The Black Chanter of Clan Chattan についてはオリジナル記事 ⇒ Bagpipe News(on September 23, 2019)を ご参照下さい。 |
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この年は早々にこの号で P16 Grant's Championship がレポートされています。このイベントもこの年で11回目です。 例によってそれぞれの演奏について詳細な解説がされていますが、まあ、それはさておき、結果は次の通り。 1st ★★★ Iain MacFadyen
"The Old Men of the Shells"(1977年と1981年の覇者) ★★★ Gavin Stoddart
"Ronald MacDonald of Morar's Lament"(1983年の覇者) (冒頭の印は過去3カ年の連続出場状況/★は出場 /☆は初出場/_は参加実績無し/順位はピーブロック部門) オーバーオールウィナーも Iain MacFadyen でした。 前年は初登場はゼロでしたが、この年は3人。現ピーブロック・ソサエティー会長である Jack Taylor がこの年デビューなんですね。Brian Donaldson はこのシーズンは大活躍だったとのことで、初登場5位入賞と健闘しています。 Gavin Stoddart の "Ronald MacDonald of Morar's Lament" の解説の中で、ジャッジも勤めた Sumas MacNeill は改めて「この曲については "John Burgess's incredibly beautiful playing" を聴いてしまった人はだれもがその他の演奏に満足できなくなってしまうことだろう。」と書いています。(関連記事→) P28 Tune of the Month は、7月号で紹介した Ceol Mor Composing Contest の優勝曲、John MacLellan による "Salute to the Great Pipe" の楽譜が掲載されています。 最後にちょっと珍しいページとして、目次のインデックスには出てこないある全面広告をご 紹介。 由緒あるコテッジが売りに出されているのですね。£20,000ということは、数年ぶり の円安になって£が180円を超している現在でも360万円余り。数年前の£が120円の時だったら240万円ですね。 でも、修理して住むとなると…。 |
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"I am proud to play a Pipe" というピーブロックのタイトルに掛けたと思われる P30 I too, am proud to be a piper は E. B. Sumerville という御歳84才(つまりジャスト1900年生まれということですね)の女性パイパーが自らのパイパー人生を振り返ったエッセイ。 7才からパイプを始めたというこのおばあちゃん、年齢以上に小柄だったため用意されていた MacDougall
のチャンターでは大きすぎたので、Glen の店で Ebony製の "baby Chanter"
を入手して最初のレッスンが始まったとのこと。 ある時、彼女は生まれて初めてピーブロックを耳にします。最初は「長くて退屈」と感じたそうですが、バンドメンバー
の会話の中から、それが非常に重要な楽曲で「ピーブロックを演奏できない人は自らを『パイパー』と名乗
る事は出来ない。"no one could really call himself a piper if
he could not play pibrochs"」と
いう言い方を知ってからはより注意深く聴くようにしたとのこと。 演奏の後、聴衆の中から一人の年老いた人物が声を掛けてきて彼女に次のように言いました。「私は君の演奏が大そう気
に入った。君にその気があるのなら、私は純粋に教える喜びから君にピーブロックを手ほどきしてあげよう。」その老人はな
んとあの G.S.MacLennan の父親 Captain Ian MacLennan でした。 彼女はその思いを受け止め、フランスやドイツのクラッシック音楽家の前で何度かピーブロックを演奏する機会を持ち、 その度に大きな驚きと深い興味を持って迎えられました。 1936年のこと(つまり、彼女が36才の時)、自らはバイオリンのパートで参加したオーケストラの夏合宿に於いて、 ピーブロックを演奏する機会を得ま した。その中にはチェロやフレンチホルンの世界的奏者が含まれていました(何人かの私の知らない名前が書かれていま す)。殆どの人にとってピーブロックを 聴くのは全く初めての機会だったにも関わらず、彼らはその演奏に大いに感じ入り深い関心を示しました。演奏の後にはパイ プの周りに人だかりができ、矢継ぎ 早の質問攻めになったとのこと。その合宿の最後の集合写真では彼女が前列中央で(バイオリンではなくて)パイプを抱えて 映っている姿を見て、師匠はきっと 誇らしいと思ってくれると確信したそうです。 さらに30年後のある時、ハンガリーの有名なバイオリニスト(また知らない名前が書かれています)が主催する夏合宿
で、そのバイオリニストと民俗 音楽について意見交換を行った際、彼女はプラクティス・チャンターで "Lament
for the Children"
を聴かせました。バイオリニストは大変に感動し、後日、自が出版した本を贈呈してくれる際、扉ページのサインに「バグパ
イプの演奏で私に新鮮な思い出を 作ってくれたあなたへ…」と書いてくれたそうです。
民俗楽器としてのハイランド・パイプの最大の不幸は、パイプバンドの音楽が世界中の人々に余りにも知られ過ぎていると
いう事。そのため、クラッシックな
どの音楽家たちは《ハイランド・パイプの音楽というのは所詮あのような単に騒々しいだけのもの》と思い込んでいるきらい
があります。ハイランド・パイプが
元来はソロ楽器であることすら知らない。ましてやピーブロックの存在なんて言わずもがな。いつの時代もピーブロックは遍
く知られる事のない「隠れた崇高な 芸術」であり続けてきました。 オリジナル記事 ⇒ Bagpipe News(on
February 27, 2019) P35 Sidelights on the Kilberry Book はこの年にリリースされた右の表紙の本の紹介。 Archibald Campbell of Kilberry に よって1948年にリリースされたハードカバーの立派な楽譜本 "The Kilberry Book of Ceol Mor" は 117曲のピーブロックの楽譜を収めていて、コンペティションに参加するパイパーには長年に渡って必携の楽譜集として位置付けられていました。その表紙の 色から俗に "The Red Book" とも呼ばれています。 この "Side Lights 〜 " は Archibald の子息である James Campbell of Kilberry が父親 が1916年頃に記した手書きのメモと楽譜を編纂し出版したもの。メモの部分は活字になっていますが、楽譜は手書きのも のがそのまま収録されています。 Archibald Campbell of Kilberry と
いう人はその風貌を見れば分かるとおり、いわゆる貴族階級に属する人物です。 そして、当 時のトップパイパーたちをアーガイルシャーの自らの屋敷に長期滞在させて直接の手ほどきを受けました。貴族たちが客人を鷹揚に屋敷に招き滞在させる様は、 正に同時代を描いているイギリスの大人気連続テレビドラマシリーズ 「ダウントン・アビー」に描かれているような状況だったのでしょう。なんせ彼ら貴族たちにはお金だけじゃなくて時間も有 り余っていたのですから…。 1898年と1899年には John MacColl が、
1990年には John MacDougall Gillies
が滞在。Gillies の家にはそれ以後 Kilberry の方からも折に触れ教えを請いに訪ねまし
た。1905年には John MacDonald が、
1911年には Alexander Cameron がそれぞれ3週間滞在し毎日数時間の指導を受けました。 "Side Lights 〜 " として編纂されメモと楽譜は、Archibald Campbell of Kilberry が
この3人のマスターパイパーたちから伝授された表現上の要点に関する詳細な記録です。Archibald は「誰が正しく、誰が正しくない」という視
点を持たずに3人の微妙な表現のニュアンスの違いをそれぞれ漏らさず記しています。この本に収録されているのは20曲ですが、2年後の1985年にリリースされた続編 "Further
Side Lights 〜 " にさらに30曲が収録されていて、併せて50曲のメモが本になっています。 Archibald がこのメモを書き残した 1916年前後というのは第一次世界 大戦の真っ只中。そもそもこのメモは公にすることを目的としたものではなく、自分の3人の息子たちが成長していつかピー ブロックを演奏するようになった時 のため、そして、当時頻繁にインドと本国との間を行き来していた自分の身に万が一の事があった場合に備えて書き記したも のだということ。あくまでも Kilberry 家の中で伝えることを意図したプライべートなメモでした。 実際には、Archibald は1960年代まで 長生きしたので、3人のマスターパイパーから教わった要点を息子達に直接伝える時間は十分に有りました。ですから、その 時点でこのメモの役割は果たされた事になります。それにも関わらず、子息の一人である James Campbell of Kilberry が「こ のメモはピーブロックを愛する人々に遍く共有化すべきだ。」と考えリリースした次第。 ⇒ Side Lights and Further Side Lights
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