ハ イランド・パイプに関するお話「パイプのかおり」 |
第30話(2008/7) John Ban MacKenzie(1796〜1864) パ
イ プのかおり第9話で紹介した "Lament for
Alan, My Son" と並んで「タイトルで泣かせるピーブロック」の双璧である "His Father's Lament for
Donald MacKenzie" という曲があります。 参考とした資料は次の本です。"Masters of Piping" by Seumas MacNeill(A College of Piping Publication/2008)、"Piping Tradition of The North of Scotland" by Bridget MacKenzie(John Donald Publishers Ltd/1998⇒) ■ 新時代のハイランド社会にて… ■ 18世紀後半のハイランドでは 1746年の Culloden
の戦い以降、伝統的なクラン・システムが崩壊の一途を辿っていました。 しかし、そのような古き良きクラン・システムが崩壊し、クラン・チーフが単なる地主(Laird)として振舞うような時 代を迎えると、パイパーがそれなり に高い身分で丁重に扱われるというような関係性は失われて行きます。地主はあくまでも支配層。パイパーはコックや庭師な どと同様に単なる雇われ人として位 置づけら、時には解雇されることもあります。そういった場合には単なる失業パイパーとして新たな雇用主を求めて彷徨わな くてはならないような時代が来たの です。19世紀は伝統的なパイパーにとっては正に受難の時代の始まりだったと言えましょう。 さらに、時代の変化とともに必 ずしも全ての地主層がパイパーを抱えるということは当たり前ではなくなってきました。しかし、一方で以前と同様にパイ パーを抱えようとする地主層も居まし たし、そのような地主層の中でも、優れた技量のパイパーを抱えることによって、それ相当の威厳を保とうと意図する地主た ちは、自分たちのお抱えパイパーた ちをお互いに競わせることによって、高い技量を持たせること対しても積極的でした。 皮肉なことにそのような有り様は、新た
にスコットランドの土地を取得したイングランド人の地主たちが「スコットランドの地主層はこうあるべきだ。」と考える理
想像と一致していたので、そのよう な新地主層の中にも競うようにして優れたパイパーを抱えようとした人達も居ました。 そのような状況下にあった19世紀初頭のスコットランドに於いて、若者がフルタイムのパイパーとして生計を立てて行こう と考えた時、選択肢は二つしか有り ませんでした。一つは軍隊(軍楽隊)に入ること。そして、もう一つはパイパーを雇ってくれるどこかの地主のお抱えパイ パーになることです。
前者を選択した場合、彼は他のパイパーとの接触の機会は確保されますが、軍隊としての様々な義務に忙殺されてパイピング
を追求するための十分な時間の確保
はできません。一方、後者を選んだ場合は、パイパーとしてパイピングを追求するだけの十分な時間を確保することは保証さ
れますが、他のパイパーとの接触は 限られて、パイパーとして少々孤立した立場に陥ります。 ■ 世紀のハンサム・パイパー、John Ban MacKenzie ■ その ような新世代のパイパーの最初の一人が、当時のスコットランド中で最も優秀かつハンサムなパイパーとして名を馳せた John Ban MacKenzie でした。同時に彼は「マクリモン一族の直接の指導を受けていない最初の偉大なパイパー」と いう非常にユニークな位置付けをされています。 John Ban(fair John)は18世紀も
押し詰まった 1796年に Ross-shire の Atilty という場所で生まれました。 彼の John MacKay の下での修行は 1812年から1819年の間であったことは確かですが、トータルで何年間であったかは定かではありません。しかし、その修行から戻った John Ban MacKenzie がマスター・ピ ブロック・プレイヤーになっていたこと、そして、John MacKay の死後、彼がスコットランド国内で最も尊敬すべきピーブロック・プレイヤーとして認められていたことから して、それが十分な時間であったことは疑うまでもありません。 1819年、23才になった彼はいよいよパイパーとして自立する道を歩み始めます。まず手始めに MacKenzie of Allangrange という地主 に2年間仕えた後、1821年からは Davidson of Tulloch という人の下に移ります。そして、その同じ年にエディンバラのコンペティションに参加して3位に入賞。次の年には2位。そして、3度目のチャレンジとなっ た 1823年にいよいよ優勝し、The Prize Pipe を 獲得しました。 当時、この他にコンペティションは無く、また、一旦頂点を極めてしまったパイパーとして、このコンペティションには 再度出場することが出来なかったため、彼は Davidson の 下で、主人の求めに応じて演奏するだけの快適な勤めを果たしつつ、彼自身のために思う存分パイピングに没頭するだけの時 間を過ごすことができました。Davidson に仕えたこの時期は、John Ban にとって、演奏 技量を円熟させ彼独自の演奏スタイルを確立するための貴重な期間となったのです。 1832年、状況は一変します。 …で、なんと二人は本当にそのまま駆け落ちしてしまった、というのです。 Davidson of Tulloch の下から
駆け落ちするということは、つまりは勤め先を失ってしまうということを意味する訳ですから、 John Ban
は新たな奉公先を見つけなければなりません。幸い、Prize
Piper として経歴が幸いしてほ
どなく新たに Taymouth Castle の Earl of Ormelie(1834年に先代の死去に伴い
Marquis of Breadalbane
となる)への奉公が決まります。 John Ban の結婚は秘密にされていたので、Taymouth Castle に仕えた当初、彼は未婚者を
装っていました。Maria は村に住み、John Ban は出来る限りの時間を作って Maria の元に通っていました。 Marquis of Breadalbane は真の意味でのハイランド・パイプ・ミュージックの理解者であり熱烈な愛好家でした。ですから、John Ban の周りには多くの優れたパイパーが集められ、 一時は彼の城にはなんと12人ものパイパーが住んで居たと言われています。John Ban は首席パイパーとして、パイピング以外の仕事は一切担当することなく、思う存分パイピングに専念することができました。そんな訳で、19世紀中のかなりの 間、Taymouth Castle は事実上 "The Center of the Piping World" と しての役割を担っていました。 インバネスで Northern Meeting のコンペティションが始まった際、John Ban も参加して 1849年に優勝して The Prize Pipe を獲得、
1852年には過去のウィナーたちによるコンペティションでしてゴールドメダルを獲得しました。 Taymouth Castle は非常にエレガントな城で、各地からの貴族の訪問が絶えませんでした。そして、1842年には時のビクトリア女王が滞 在。この時の印象が彼女をして「イギリス王室としてもハイランドに自らの 居城が必要である。」と決断させ、あの Balmoral Castle を取得するに至ったということです。 滞在中、女王は選りすぐりのパイパー&ダンサーたちによる、パイピングやダンシングでのもてなしを受けました。ダン サーの一人として、10才になって既に立派なパイパーになっていた John Ban の長男、Donald の 姿もありました。 ある日、 女王は船首に John Ban を侍 らせその演奏を聴きながら Tay川の船旅を楽しむとい う、格別のもてなしを受けました。ロマンチックな風景と心地よい音楽が若い女王を完全に魅了しました。彼女は城に戻る と、Marquis of Breadalbane に対して「John Ban のように優れた演奏が出来、そして、彼のようにハンサムなパイパーを私のために見つけて欲しい。」と 言いました。これは、事実上「John Ban を王室専属のパイパーに召し抱える」という意味の勅令(Royal Command)に等しいものでした。 しかし、女王のこの意向が John Ban に
伝えられると、なんとJohn Ban は恐れ多くもこ
の申し出(命令?)に対して「女王の二つのご希望はどちらも叶わないこと
でしょう。」とやんわりと断ったのです。これにより、彼は "The Man Who Said No To The Queen"
と 呼ばれるようになったということです。 もしかしたら縛り首か?というような、極めて失礼な振る舞いをされたにも関わらず、ビクトリア女王はハンサムな John Ban の事を決して忘れることが出来ず、なんと 12年後になってその時の出会いを記念したブローチをプレゼントしたということです。ハイランド史上最もハンサムなパイ パーのなによりの証ですね。 1861年、65才になった John Ban は Taymouth Castle での勤めから退き、 Munlochy という所に居を構え、バグパイプ・メイキングとリード・メイキングに専念し始めます。そのようなことから彼は "the last of the old school, the complete piper, he could kill the sheep, make the bag, turn the pipes, cut the reeds, compose the tune and play it" と称されています。 しかし、彼はそのような余生をそう長くは楽しむことは出来ませんでした。 彼の墓石には最愛の妻 Maria による次の様な言葉が刻まれています。 ■“His Father's Lament for Donald MacKenzie”■ "Lament for Patrick Og MacCrimmon" や "Lament for Alan, My Son”" な ど、パイパー森はタイトルを眺めた瞬間から、実際にその曲を聴かずとも妙に強く惹かれてしまう曲があります。この曲もそ うした曲の一つで、パイピング・タ イムスのコンペティション・レポートなどでこの曲のタイトルを目にする度に、「う〜ん、どんな曲なんだろう? 聴いてみ たいな〜」と思っていました。しか し、手元にピーブロックの沢山の音源が集まってきても、この曲の音源にはなかなか出会うことが有りませんでした。 21世紀になってから、1994年の Dr. Dan Reid Memorial Recital のカセット・テープを手に入れてやっとこの曲の音源に出会った 顛末は、音のある暮らし2004年5月に書いた通り。たまたま同じ2004年、そ れからしばらくしてリリースされた Donald MacLeod のチュートリアル・シリーズ Vol.12 にもこの曲が収録されていましたが、パイプでの音源としては Jack Lee の演奏によ るこの音源が初めてでした。 さて、しかし、"Patrick Og" や "Alan, My Son" と違って意外だったのは、想像し てい た様な悲痛な叫びが伝わってくるというようなラメントラメントした曲ではなかったこと。どちらかというと Salute とも言えなくも無いような溌剌とした曲だった、ということです。 ウルラールのメロディーはシンプルで単純なのですが、バリエイションによって緩急が交互に繰り返されるので、それな りに長い曲(Jack Lee の演奏は 17:19)にも関わらず途中でダレて来ることもなく、最後まで飽きがこない、ちょっと独特の雰囲気のある味わい深い曲です。 楽譜は、ピーブロック・ソサエティー・ブック Vol.9/P273 にあり、次のとおりです。(版権に考慮してこの大きさまで…)
しかし、この楽譜、Var.2 の特徴的な装飾音の表現がイマイチなのが不満でした。演奏と照らし合わせなが聴いてみると、F装飾音の頭に×印が付けて あるところは、単なるF装飾音とは違った風に演奏しているのですが、この表記では、とてもそのように演奏しようがありま せん。一応、耳で聴いたとおりに演奏してみるですが、楽譜と 掛け離れているのでこれで良いのか自信が持てませんでした。 Ceol Sean の古い楽譜をあちこちめくってみても、どこにもこの曲の楽譜は出てこないようだったので、この間ずっと悩ましい思いを抱き続けていました。 Joseph MacDonald や Angus MacKay などの先人たちによって、18世紀後半以降、ピーブロックの楽譜が紙媒体に記録されるようになってから久しい訳ですが、その紙媒体の記録には大きく2種類 あります。一つは、印刷物として出版されたもの。そして、もう一つがいわゆる Manuscript(手書き写本/MSと表記)です。 印刷物として出版された古い楽譜集については、主にピーブロック・ソサエティーなどが解説付きで立派な本の体裁で再
リリースするものと、CEOL
SEAN によりオリジナルそのままのフォトコピーに索引を付けたものを
CDフォーマットとしてリリースされるものがあり、どちらもピーブロック・マニアにとっては大変重宝しています。 ところが、2008年初頭、ボブさんのディスカッション・フォーラムのアナウンスメントのコーナーに、管理者の一人 である Jim McGillivray が衝撃的なニュースを告知してくれました。 な〜んと、これまで出版されていなかったとんでもなく貴重ないくつかの Manuscript が Dr. William Donaldson の尽力によって、あの CEOL SEAN と、Jim McGillivray がマネージメントする pipetunes.ca のサイトを通じて「誰でも、いつでも、(しかも)フリーで」ダ ウンロードできるシステムが整ったというのです。もちろん、これらはきちんと The National Library of Scotland の 許可を得ているとのこと。 ● Piobaireachd Manuscripts Welcome Page 《公開されている Manuscripts》
●そして、このページの下の方に書いてあるのでお気付きのとおり、実は、現在ではこれとは別にピーブロック界の総本山 たる ピーブロック・ソサエティーのサイトでもこれらの Manuscript を始めとして次の15冊の Manuscript や Book の全てのページが PDF ファイルにて一般公開されているのです。それらにアクセスするためには、 Piobaireachd Collections のページ に行き、それぞれの楽譜インデックスからお望みの楽譜にアクセスするだけです。
さて、こんな便利な世の中になった幸せを噛み締めつつ、Dr. William Donaldson に よる Index of Piobaireachd Manuscripts をニヤニヤ眺めていたところ、David Glen's MS の 中に、遂に "His Father's Lament for Donal MacKenzie" の楽譜を見つけました。当然、即刻ダウンロード (右の画像からもリンク)。これこそ実際の演奏に忠実な楽譜で、ごくすんなりと納得できるものでした。(Var.2を参照) さて、その後、この楽譜をじっくり眺めていてなんとなく感じたのは「やたらに長い」こと。昔の楽譜の定石で、繰り返
し部分も全て丁寧に書き下ろしているということもありますが、それにしても長い。 前にも書いたように、当時は Crunluath バ リエイションの前で一 旦ウルラールに戻るのが定石だったように、その頃のピーブロックの演奏はとにかく現在よりもずっと長いのが 当たり前だったようです。いや〜良い時代でしたね。 ところで、このあとで気が付いたのですが、MS も含めた "His
Father's Lament for Donald MacKenzie" の楽譜、実は pipes | drums のサイトにある、Dr. William
Donaldson さんのセット・チューンの解説ページ(PDF)の中で、2003年のセット
チューンとして、詳細な解説付きで全て紹介されていました。 まあ、それはさておき、今回の極めて貴重な Manuscripts の「誰でも、いつでも、フリー」ダウンロー
ド・サービスの開始は、世界中(特に辺境に住んでいる)のピーブロック・ファンにとってはとてつも無く大きなプレゼント
です。興味のある方はぜひお楽しみ下さい。The Nether
Lorn MS ではあの Campbell
Canntaireachd を自宅に居ながらにしてマイパソコンの画面で閲覧できるんですか
ら…。 ⇒ 関連記事 "Rare Picture of John Ban MacKenzie" (Piping Press 2022/10/5) |
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