30年前の“Piping Times”《1979年》

1979年1月号

January/1979

Vol. 31/No.4

 冒頭 P11の Have a Happy New Year は、パイピング・タイムスの常連執筆者たちの簡単なプロフィールを紹介して「パイピング・タイムスは今年もこの豪華な執筆陣により皆さんに素晴らしい記事をお送りします。請うご期待!」というような内容の記事です。

 具体的な名前が登場している10人の筆頭は言わずと知れたピーブロックに関するオーソリティー Professor Alex Haddow。近々、ピーブロックに関する記事が始まるそうな。
 3番目に登場しているのが我らが Bridget MacKenzie 女史です。彼女のプロフィールに注目。実は彼女の生業としての肩書きは Norse and Icelandic scholar だそうです。道理であのような精緻な探求ができる訳ですね。
 5番目には前年のピーブロック・ソサエティー・カンファレンスで“Comparsion of Bagpipes by Harmonic Measurement”の報告を行って評価の高い(1978年5月号で紹介)Bridget の夫君である Dr. Alex C. MacKenzie も登場しています。
 その他には、John Willson、Dr. Roderick Cannon、David Murray などなど、知られた名前が並びます。


 続いて P12 は、1979年コンペティション・シーズンの幕開けとして1978年11月4日に開催された London Contest(正式名称は 39th annual competition of the Scottish Society of London)のリポート。

 1st Murray Henderson“Lament for the Children”、Andrew Wright“Lament for the Deperture of King James”、Iain MacFadyen“Blind Piper's Obstinacy”、James MacIntosh“Old Men of the Shells”という結果だったそうです。


 P20 の Checking the Tunes のコーナーは、シェーマスによるピーブロック解説の新シリーズ。
 その年のセット・チューンについて、その曲の歴史的背景に始まり、演奏する際にコンペティターたちがミスを犯しがちな箇所についてまで、事細かに解説します。

 シェーマス曰く、コンペティターたちが犯しがちなミスの多くは「楽譜の読み間違い」、…と言うより、正確には表記が間違っている楽譜を「文字通り」に演奏してしまうミスとのこと。自分自身が過去に犯したミスも含めて、いくつかの実例を挙げています。

 シェーマスは次のように強調します。
 たとえゴールドメダルを争うような優れたパイパーといえども、楽譜の正しい読み方(間違った箇所を正しく読み解く?)についてはそれなりの助言を必要と する。(多くのミスがあり得る?)印刷された楽譜の落とし穴に落ちないように大きな注意を払う必要である、と…。

 しかし、それって演奏者の問題というよりも楽譜自体を修正すれば済むことだと思うんですが…。でも、ソサエティー・ブックやキルベリー・ブックのように権威ある楽譜になると、早々簡単には修正して再版するって訳にはいかないのでしょうね。

  そもそも、シェーマスがこのようなことを指摘しなければならないというのは、20世紀になって、師匠から弟子へ音楽を口承で伝えるという伝統的かつ正統的 なピーブロック文化が徐々に薄れ、少なからず数のパイパーたちがピブロッック・ソサエティー・ブックなどの「五線譜に記された楽譜」を頼るようになったか らなのでしょう。口承文化が健在であれば、楽譜の些細な間違いなんか問題にならないことでしょう。

 私のように、元々楽譜が 読めない輩は、自分の好みのパイパーの演奏音源を聴いて耳で覚えたメロディーを再現するための補助的な目的でだけ楽譜に頼るので、些細な音符の表記の間違 いなどに左右されることがありません。…というか、そんなところまではとても読み取れないので、それぞれの曲の微妙なニュアンスも印刷された楽譜のいかん に関わらず聴いたままにコピーします。…ので、シェーマスが気に掛けているような心配には及びません。

 言うならば「師匠の歌うカンタラック」と「録音されたパイプ演奏」という違いがあるにしても、私がやっていることは「耳で聴いた表現を再現する」という意味では、伝統的な口承の手段となんら変わらないと思うのです。
 演奏の録音&再生が意のままになるようになった現代は、ある意味、伝統的な口承文化が形を変えた上で実質的に復活し得る時代ではないか?と、私は日頃から思っています。


 さて、そんなイントロに続いて、初回のこの号で取り上げられているのは“The Battle of Waternish”
 スカイ島の Waternish という地で実際にあった争いに際してマクリモンの誰かが作曲した、と言い伝えられているそうです。
 争い自体は例によって Clan MacDonald と Clan MacLeod の間で行われ、この時は MacLeod が勝利したとここと。この曲は Lament ではなくて、明らかに勝利を祝った曲なので、作曲したのは MacLeod サイドの人間であることは間違いないと推測されますが、マクリモンの誰かか?ということに関してはイマイチ疑問が残るそうです。(曲調から推測するんで しょうかね?)
 この曲の楽譜は Angus MacKay、John MacKay、Peter Reid のマニュスクリプトに登場しているとのことですが、ここでは、現在では主流の MacPherson Style によるソサエティー・ブック、キルベリー・ブックと、Cameron Style による Binneas is Boreraig の違いを比較しながら、かなり詳細な解説がされています。

  解説は主に演奏スタイルに関することなので、こと細かに紹介しても余り意味が無いと思いますので詳細は省略します。実際、私自身にとってもこのような解説 は 30年前にこの号を手にした時には、到底理解できなかった内容です。その後、ピーブロックについて研鑽を積んだ今となって、改めて読み返すことの意義を痛 感する次第です。


 話は戻って、表紙写真の話題。

 この写真、一見何の変哲も無いどこかのパイプバンドのパイパーの写真のように思えますが、コンテンツ・ページの説明文によると、Mats D. Hermansson というイギリス人らしからぬ名前がちょっと引っかかります。
 see Page 36. とのことなので、そちらを参照。P36 は The Castomers Always Write で、いわゆる読者投稿コーナーです。

 投稿を読んでみて納得。この投稿はノルウェーのオスロからの投稿で、内容はスェーデンの "The Murray Pipes and Drums(of Gothenburg)"というパイプバンドの紹介。出来たら、パイプメジャーであるこの人の写真を表紙に載せて欲しいという趣旨の手紙でした。

 さて、このバンドの名称を読んでピンと来た人は私のサイトを隅々まで丹念に読み込んでいる人でしょう。そうです リンク・ページ で紹介している Canntaireachd Lesson というページがあるのが、このンドのサイトなのです。

 当初はこのページ以外は全てスウェーデン語だったのですが、最近はほぼ全てのページが英語で読めるようになっています。
 バンドのプロフィールを紹介した About the Band のページによると、このバンドが設立されたのは 1976年とのこと。ですから、投稿のあったこの時点では設立からまだ2年ほどで、投稿の本文にあるように3人を除けば 20人ほどのメンバーの殆どが初心者だとのことですから、当時の東京パイピング・ソサエティーと似たり寄ったりの状況だったのようです。

 80 年代半ばにメンバーの多くが家庭の事情や引っ越しなどでバンドの活動を離れると、残された6人のメンバーはそれぞれソロで、スウェーデンのポルカや芸術音 楽やジャズなどの様々なスタイルの演奏活動を展開するようになったということですが、私がその中で興味深いと思ったのは "One of the most hilarious events was the playing of piobaireachd accompanied by an electric guitar." という下り。

 お〜、お〜、イイじゃないですか。シンパシー感じますね。

1979年2月号

February/1979

Vol. 31/No.5

 表紙の写真のリンクが間違っている?
 …のではありません。この白黒の全面写真が正真正銘この1979年2月号の表紙なのです。

 1947年創刊の“Piping Times”の表紙デザインは、私の知っている限り、 このシリーズで毎回紹介しているようなデザインでした。つまり、毎回違ったタータン柄をベースに、トップにタイトル・ロゴ、真ん中に何らかの写真やイラストを配置したデザインです。
 ですから、手元にこの号が届いた時は「一体どうしちゃったんだ?」と思いました。最初に思ったのは単純な製本ミスか?プリントミスか?ってことでしたが、どうやらそういうことでもなさそう…。
 当時は表紙の写真も白黒だったので、言うなればいつもは中央に小さく配置されている写真がこの号に限り全画面表示になっただけとも言えますが、雑誌の命 であるはずのタイトル・ロゴまで含めて一切のカラーを排したその只ならぬ雰囲気は、つまりは《遺影》だ。…ということが徐々に飲み込めてきました。

 通常、コンテンツ・ページのトップはエディトリアルなのですが、今回はそれすらなく、いきなり John MacFadyen の文字が目に飛び込みます。どうやら表紙のパイパーのことらしい。そして、そこから5ページに渡ってこの人物に対するシェーマスの熱い追悼文が綴られているのです。

  不肖というか、まあ、当然ながら当時の私はこの人がどんな重要なパイパーであったかは知る由もありません。しかし、この号が発行される直前の1月21日に 亡くなったばかりのこの人を偲び取り急ぎ書かれたとしては至って中身の濃いこの追悼文を読むだけで、この人を亡くしたことがその当時のハイランド・パイプ の世界にとって(そして、なによりもシェーマス自身にとって)とても大きな衝撃だったことがよく伝わってきます。

 シェーマスがいかにこの人物の喪失を深刻に感じていたかということは、この後自分自身が亡くなる1996年までの間にも、幾人もの著名なパイパー(例えば、Bob Nicol Donald MacLeod な ど)が亡くなっていますが、結局、シェーマスがこのような表紙の扱いをしたのは後にも先にもこの人だけだった、ということからも伺えます。多分、1917 年生まれのシェーマスよりも若干年下だったと思われる無二の僚友を思わぬ若さで(60歳前後?)亡くしてしまったその悲しみは計りかねる程の大きさだった のでしょう。(“Piping Times”が次にこのような表紙の扱いをしたのは、シェーマス自身の死去を追悼した1996年5月号・Vol.48/No.8 です。)

 それではこの John MacFadyen という人がどんなパイパーだったか? ということについて、このシェーマス入魂の追悼文から読み解いてみましょう。


 Mull 島と Tiree 島(Mull 島の西に浮かぶ島)出身の両親の下、グラスゴーで生まれたジョンは(生年については触れられていませんが多分1920年代だと思われます)、幼少の頃から しばしば訪れていた両親の故郷の風土を通じて、スコットランドの伝承文化に対する関心を強めていきました。
 ハイランド・パイプについてはまずは父親から手ほどきを受けた後、グラスゴー在住の名の知れたパイパーたちの指導を受けて腕を磨きます。早々に腕を上げた少年時代にして The Scothish Pipers' Asssociation の主催するあらゆるアマチュア・コンペティションに優勝してしまったということ。さらに特筆すべきは、そんな若年にして既にピーブロックのメロディー・ラインの確かな表現力について、当時の円熟したパイパーたちを驚かせた、そして、大いに喜ばせたということです。

 大学生活を南イングランドで過ごしたジョンは、その時期には主に The London Piping Society と のコンタクトを深めその方面に於ける人脈作りに励んだ後、スコットランドに戻って教職に就きました。その頃に結婚した奥さんがスカイ島の出身だったことに より、ハイランド・パイプに関する歴史的な場所や興味深い人物に溢れたパイピング文化の聖地たるこのスカイ島の文化を心から敬うようになります。

  成人した後も重要なコンペティションに次々と優勝し、優れたコンペティターとしての名声を確立ししたジョンは 1960年の Oban(Argyllshire Gathering) と、1966年の Inverness(Northern Meeting)で優勝し、さらに、Argyllshire Gathering では Clasp と Open Piobaireachd のタイトルも獲得しました。しかし、単にそれらのコンペに優勝したという事実以上に、その時の演奏の素晴らしさは、後世に伝わるほどに印象的なものであっ たということです。

  その他にもジョンは Invergordon、Glenfinnan、Portree などの各地のコンペティションで活躍しましたが、何よりも特筆すべきは、The Scotish Piping Society of Longdon の主催でロンドンで開催されるコンペティションの優勝者に与えられる“The Bratach Gorm”と いう賞を 1966〜1970年の5年間連続して獲得したことだということです。この賞は当時のピーブロックに関する最高に権威ある賞であったということ。1973 年に始まった現在の Glenfiddich チャンピオンシップのような位置づけだったのではないでしょうか?

 しかし、ジョンは単なるトップ・コンペティターに留まりません。パイパーとしてのキャリア形成の重要な時期を The College of Piping の名誉セレタリーとして、CoP のあらゆる活動について深く尽力したのです。特にスカイ島を始めとしたスコットランド各地で開催された サマースクールの運営には夫妻で多大な労力を費やして貢献したということです。

 また、The Art Council の支援を受け、ジョンが10年間に渡ってその運営の大きな責任を担った「2人のパイパーと2人のゲーリック・シンガーがチームを組んで数多くの村々を巡ってコンサートを催す」と いう企画は、当時の多くの人から大変歓迎されました。パイパーとシンガーが相互に刺激し合うそのような試みは、17世紀以来絶えて久しかったということ。 その後、スコットランド各地に於けるパイピングに対する急激な関心の高まりは、ひとえにこれらのコンサートの影響によることだと、シェーマスは分析しま す。

 このようなコンサート活動を通じて、ジョンは次第に「パイピングに於いて、コンペティブな側面はさほど重要なことではない。純粋な音楽リサイタルにこそもっと重点が置かれるべきである。」という考え方を強くするようになります。彼のこのような主張は、この時代の一般的な考え方からはかなり先んじているものでしたが、その後、世間でもリサイタル開催のトレンドが徐々に広がるつれて彼の見識が正しかったことは証明されたのです。

 彼自身がその開催に大きく関わった“The Silver Chanter”コ ンペティションについても、彼は「コンテスト形式ではなくてリサイタル形式であるべき」と強く主張しました。しかし、結局のところ彼の主張は取り入れられ ることなく、却って彼のこのコンペティションに於ける唯一の演奏機会である1969年には当然の如くジョンが優勝しました。実際のところ、この年 (1969年)の彼は参加したほぼ全てのピーブロック・コンペティションで優勝したということです。

 そのような実績からしてジョンが 40代初めの4年間に3度 Clasp チャンピオンになったことも全く当然の成り行きでした。しかし、なんと彼はコンペティターとして最も円熟しきったその時点で、一切のコンペティションからの潔く身を引く決断をしたのです。
 もしも、彼がそのままピーブロックのコンペティションへの参加を続けていたとしたら、以後決して破られることのないような記録を打ち立てたことは疑いなかったであろう、とシェーマスは断定します。

 シェーマスは続けて「ジョンは過去200年間で初めての《単なる先人たちの忠実なるコピーに留まらない》トップ・プレイヤーである。」と書いています。
 これはどういうことかというと、ジョンは権威者たちがこうあるべきだと決めつけたスタイルに囚われることなく、ピーブロックの特定のフレージングの裏打 ちとなっている理論の解明や、様々な異なった表現から不自然でぎこちない部分を取り除くことについて、長年に渡って多大な労力を費やし続けた、ということ なのです。
 その結果、彼のピーブロック演奏は非常にユニークな特質を持つようになり、洞察力のあるパイパーたちからは一目置かれる存在になったのです。

 コンペティション・フィールドからリタイヤした後のジョンは、以前にも増してピーブロックの研究とレパートリーの拡大に時間を費やすようになります。そして、The Piobaireachd Society の名誉セクレタリーに就任し、その年のセットチューンなどを選出する The Music Committee のメンバー中でも発言力ある委員として活躍します。
 また、演奏者としてのジョンが紛れもなく当時の世界一だっただけでなく、ジャッジとしての彼も、どのような演奏についても良い点、悪い点をほんの短い言葉で的確に指摘することにかけての超人的な能力を有していました。 

 The Scottish Pipers' Association の会長として、長年に渡り有名な Glasgow Pipers' club の運営に励みむとともに、いわゆる“Knock-out”形式のコンペティション形式を世に広めました。また、The Piobaireachd Society のメンバーとして、ジョンは「年に一回ある週末にパイパーたちが集まり、パイピングのあらゆる側面について論議する」という企画を長年温めていました。
 そんな彼の考えを具現化したのが 、現在ではソサエティーの最も重要な年中行事となっている Annual Conference です。このカンファレンスの現在の成功は全てに於いてジョンの独創的な考えに因るところだということです。(第一回カンファレンスの開催は1973年)

  彼のパイピングに関する仕事はスコットランドに留まることなく、スウェーデン、ノルウェー、アイルランド、南アフリカ、カナダ東海岸、米国などに及びま す。彼が長年に渡って、ニューヨーク、デラウェア、ノースカロライナ、オンタリオに於けるサマースクールで教えてきた成果が、現在、カナダのソロパイパー たちがスコットランドに於いて見事な活躍を見せるようになった結果に結びついているのです。

  ジョンの卓越し円熟した知識の大きさから考えて、これからの年月の間に我々が受けとることが出来たであろう彼からのアウトプットは全て失われてしまいまし た。ジョンの喪失によってパイピング界が被った大きな後退から、我々は少なくとも 20世紀中は立ち直ることが出来ないであろう。

 …と、シェーマスはこの長い追悼文を締めくくります。


 その後の経過として、いずれこのコーナーで紹介することになると思いますが、ほどなくしてシェーマスたちの呼びかけにより、年に一回、ジョンのことを偲びつつパイピングを巡る様々なテーマについて学び合うことを目的にした“John MacFadyen Memoriarl Lecture”という講演会が定例的に開催されるようになります。言うなればジョンが提唱して始まった The Piobaireachd Society Annual Coference のエクストラ・バージョンってところでしょうか。ソサエティーの講演録は年報としてリリースされますが、John MacFadyen Memorial Lecture の方は、後日“Piping Times”に何度かに分けて掲載されます。

 さあ、シェーマスがこように絶賛する当代随一だった John MacFadyen の演奏はどのようなものだったのでしょう?
 たまたま最新の“Piping Times”2009/1月号に「 CoP の The Museum of Piping Archive に は膨大な量の音源がストックされている」旨の記事が掲載されていました。その内訳はシリンダー・レコード1本、78rpmレコード 65枚、その他のレコード 179枚、リールテープ 210本、カセットテープ 1,016本ということ。そして、現在それらはパイピング奨学金でスコットランドでバグパイプを学んでいる留学生などがボランティアとしてシコシコとコン ピューターへの取り込み作業(デジタル化)を行っているということです。

 これらのリストは、CoP のサイトの Museum / Sound Archive のページで閲覧することが出来ますが、その中の 61ページに及ぶカセットテープのリストに“John MacFadyen” で検索を掛けると、主に1970年代の音源を中心に174件もの膨大な音源がヒットします。

 ところが、これらの膨大な数の音源の内で今現在私が聴く事ができているのは、2007年に Piplene CoP Radio でそれぞれ1回づつオンエアされた時の2曲と、ピーブロック・ソサエティー・サイトの Sound Clips (会員限定)のページに現在までにアップされた5曲、合わせてたったの7曲分だけです。

  でも、それらの7つの音源を聴けば、70年代のピッチの低いチャンターの刺々しさの無い優しい音色とも相まって、全てを超越して無我の境地に達した修行僧 の読経の如く、どこも尖ったところがなく自然と心に染み入ってくる感動的な演奏ばかり。シェーマスを始めとした当時のピーブロック関係者が受けた喪失感の 大きさについて改めて思い至ることができます。

 今後、ピーブロック・ソサエティーの Soun Clips のコーナーにどんどんアップするなり、Masters of Piobaireachd シリーズDonald MacLeod Tutorial シリーズ、あるいは、Robert Reid Vol.1 がリリースされて以来そのままになっている Classics from College シリーズとして(CDアルバムのスタイルで)リリースするなど、この偉大なパイパーが残した貴重な演奏音源を末永く伝えて行くような企画をぜひとも期待したいところです。 


 実は、シェーマスがこの号の表紙を John MacFadyen の白黒ポートレイトで飾った理由としては、単に John MacFadyen 一人の追悼以上の意味が込められていました。
 P36 Professor A. J. Haddow とあるのは、かの "The History and Structure of Ceol Mor" の著者である Alexander John Haddow の追悼ページなのです。
 John MacFadyen に先立つことほぼ1ヶ月、1978年の暮れも押し迫った 12月26日に 20世紀のピーブロック界に不朽の名を刻むもう一人の重鎮が亡くなっていたのです。

 1912年生まれの A. J. Haddow は享年65歳。何故か比較的長寿な人が目立つパイピング関係者としては、John MacFadyen とともに少々早すぎる死去という印象が否めません。関係者にとってはそれだけ喪失感も大きかったことは想像して余りあります。

 …とどのつまり、この号はこの当時のピーブロック関係者を襲った大津波級の喪失感を率直に表明した追悼特集号だった訳。そして、その沈痛な気持ちの表れが空前絶後の遺影型表紙だったのですね。 


 世界中のピーブロック愛好家にとってのピーブロック・バイブルとも言える "The History and Structure of Ceol Mor" を、文字通り座右に置いている私にとって、日々のピーブロック愛好生活に於いてはある意味 John MacFadyen 以上に身近な存在であるである Alex Haddow も、実はこの時点ではジョンと同様に全く名も知らない人物でした。

 それは当然と言えば当然で、実は "The History 〜" が実際に出版されたのは、 Alex Haddow の死去から4年後の1982年のこと。Mrs Haddow の全面的な協力を得ながら、生前、Alex Haddow の協力者としてピーブロックの歴史や背景を探求していた朋友たちが、Haddow が生前にしたためていた膨大な研究成果やエッセイを編纂して出版したのがこの《ピーブロック・バイブル》なのです。

 私が数少ないピーブロック仲間の一人である Oさんから、スコットランドの旅土産としてこの本を頂戴してのはさらにそれから4年経過した1986年のこと。ですから、私が当時この Alex Haddow に関する追悼文を読んでも John MacFadyen の追悼文以上にピンとこなかったというのが正直なところでした。

 "The History 〜" の出版経緯はそんな風なので、実はこの本の序文に書かれている文章は、概ねこの追悼文と重複しています。…が、このバイブルを手元にお持ちでない方の為に、この追悼文から Alex Haddow の人となりを回想してみましょう。

 Alex Haddow の 本業はマラリアや黄熱病の研究を専門とする医学者。第2次世界大戦が勃発する1940年代初頭から23年間をケニアやウガンダで研究生活を続けました。ア フリカでの黄熱病の研究者という意味では、我が野口英世(1876〜1928)さんの流れを汲む医学者という訳です。この長年のアフリカでの研究成果によ りいくつかの学位を取得、また、授勲も受けたとのこと。1953年には the East African Virus Reserch Institute の理事長に就任しました。

 アフリカでの研究生活中も若い頃からの趣味であるパイピングに対する関心は 保ち続けました。その当時のエピソードとして、彼はウガンダでの登山に際してどんな風に“Lament for Patrick Og MacCrimmon”を唄っていたか?ということなどをよく語っていたということです。
 そんな彼が本格的に「ピーブロックの歴史」の研究に取り組むことが出来るようになったのは、やはり 1960年代半ばにスコットランドに戻り母校のグラスゴー大学を拠点とするようになってからのこと。大学の公開講座のテーマとして「ピーブロックの歴史」 を取り上げるように働きかけるとともに、休暇の度に様々なピーブロックのゆかりのある場所を求めて地方を訪ねる旅を繰り返していたということです。

 彼のピーブロックに対する熱い思いを示す一つの逸話があります。
 彼は1973年に科学者が得られる最高の地位である王立協会(The Royal Socity of London for the for Promotion of Natural Knowledge/1660年設立)の会員の称号を授与されましたが、ロンドンで催されたその授与式に出席した足で、翌日のピーブロック・ソサエティーの第1回カンファレンスに間に合うように夜を徹して会場まで駆け付けたとのです。

 … と、直訳すると「飛行機とか夜行特急で行けばなんてことないじゃん?」と、別に特別のことのようには思えませんが、想像するに由緒ある王立協会の授与式っ てのは当然の如く女王臨席の下で開催され、称号自体が女王から直接授与された後に女王を囲んだ晩餐会が催されるのではないでしょうか。そうであれば、まさ か授与された当人がその席を欠席したり中座したりするなんてことは有り得ない状況だったと…。
 ですから、晩餐会終了後に翌日までにスコットランドまでに辿り着くためには、多分、ロンドンからグラスゴーまでの数百キロの道のりを文字通り夜を徹し て、自分自身の自家用車をぶっ飛ばして行ったということなのでしょう(61歳という年齢も考えれば、確かに凄い熱意ですね)。

 そして、翌年(1974年)の第2回カンファレンスに於いて、彼は長年の研究の成果を踏まえて "The MacKay tunes - the story of some Sutherland Piobaireachd" と題した傑出した講演を行ったのです。
 彼はまた、ピーブロックの歴史的バックグラウンドに関する膨大な博識の持ち主として、"The Silver Chanter" コンペティションの運営委員や、1973年に始まった "Grants' Whisky Championship"(現在の Glenfiddich Championship のこと)の初代チェアマンなど各種のピーブロック・イベントに関する要職を務めました。

 「最晩年の Alex Haddow は、John MacFadyen、J. A. MacDonald の協力の下で、"The Importance of Ceol Mor in the Historical Study of Highland History" という論文に取り組んでいたが、とうとう完成することなく死を迎えてしまった。」と、この追悼文は締めくくられます。つまり、この論文こそが "The History and Structure of Ceol Mor" のベースとなったと思われます。

  Alexender John Haddow、素晴らしい遺産をありがとう!

⇒関連記事「自家製デジタル版」の作成


 ページは前後しますが、P23 Jimmy MacIntosh Retires はタイトルどおりの記事。つまり、この当時のトップ・コンペティターの一人であった Jimy MacIntosh がコンペティション・フィールドからの完全引退を決断したというアナウンスです。そして、それに際して、彼自身の言葉を引用して彼の略歴を振り返っていま す。…が、今回は人物紹介が十分に長くなりすぎたのでこの記事の紹介はここまでにしておきます。

1979年3月号

March/1979

Vol. 31/No.6

 P20 John MacFadyen は、先月に掲載できなかった朋友たちからの追悼文3本と、1月24日に催されたジョンの葬儀に関するレポートです。

 最初の追悼文は、David Murray が BBC(テレビ?ラジオ?) に語った言葉。

 " A man among men ; a man of honour, courage, and integrity, wit, wisdom and humor, loyal to his friend and true to himself ; a man who expressed himself and emotions through the medium of our noble instrument. Whome we will remember with the pipes on his shoulder, playing the ancient music of our art which was his great interest and his great love, and to the study of which he had intended to devote his later years. We recall these flowing phrases, the sympathetic and deeply thoughtfull interpretation of lament, gathering, march and battlepiece, the strength and clarity of finger and the clear strong tone. 〜〜"

 …といった感じの非常に抑揚に富んだ、まるで格調の高い詩歌のような追悼文。そのリズミカルな文章を読むだけで John MacFadyen の人と也が目の前に浮かんできます。そして、この人が真に多くの人々に愛された崇高な人物だったということが、ただただ、ひしひしと伝わってくるのです。↓締めのセンテンスも泣かせます。

 "〜〜. So now does John, and if there is a Valhalla for pipers, where the pipes always go, where memory never falters nor fingers fail ; if there is sucha place, then Patrick Og MacCrimmon can look to his laurels, for ther will have arrived John MacFadyen."(太字処理はいずれも引用者)


 3つ目の追悼文は Arichie Kenneth によるもの。こちらも John MacFadyen の人柄を思い浮かばせるものです。

 "The interpreter is gone. He would always seek to better excellence itself, and his breadth of mind illuminated his approach to the music. Unfamilliar settings were welcomed by him, and judged on their merits ; and all his musical thought was based on the highest musical traditions, yet he also delighted in new music. 〜〜"


 John MacFadyen の葬儀には彼の母親も参列していたとこのこと。近親者にとっても、ジョンの早すぎた死がどれ程か悔やまれた事でしょう。


 紹介は前後しますが、この号のメイン記事は P12 Octave Band Measurements on the Chanter Sounds というタイトルのテクニカルなレポート。
 1978年5月号でも紹介した 1978年ピーブロック・ソサエティー・カンファレンスに於ける“Comparsion of Bagpipes by Harmonic Measurement”という講演と共通する内容のレポートです。
 …とは言っても、私はこのような楽器の発生する音波の科学的な分析については、日本語で書かれた論文でさえ着いて行けないような音楽理論音痴なので、英 語の論文だともっとずっと手こずります。どうやら、大変興味深い内容なのでしょうが、ざっと読んだだけでは私には十分に理解しきれない部分大です。専門的 な知識がある方にはお薦めです。


 P27 Fable for Pipers(パイパーのための寓話)が面白い。

 イギリス人ってのはこのような《ことば遊び》のようなことを楽しむ性癖があるようで、パイピング・タイムスにも折にふれこのような小咄が登場します。

 今回の小咄は、BIRL、LOW-G、GRIP、DOUBLING、そして LEUMLUATH といった装飾音名から、HINBARE, HIOBARE といったカンタラックのフレーズ、はたまた、HEMI-DEMI-SEMI-QUAVERS といった音符の表記、さらには、HAGGIS-A-LA-CRUNLUATH といった装飾音名と料理との語呂合わせまで、ハイランド・パイプに関わる様々な単語が短い文章に中にちりばめられています。


 P29 Pipers' Choice1978年9月号で紹介した The Silver Chanter Competition に於ける、パイパーたちのお気に入り曲の傾向を解析したレポート。その号でも紹介したように、このコンペティションは、ピーブロックの中でも特にマクリモンの曲に限ってその技を競うコンペです。
 主催者から提示された 31曲のマクリモン・チューンの中から、参加するパイパーは事前に4曲を選びコンペに備えます。そして、コンペ当日にその中からジャッジによって指定された曲を演奏するという仕組みです。

 今年、パイパーたちが選んだ曲は全部で15曲。その中で最も人気が高かったのは当然の如く“Lament for Mary MacLeod”。出場した10人のパイパーの半分に当たる5人がこの曲をセレクトしたということです。
 次いでポピュラーだったのは“Lament for Donald Duaghal MacKay”“Mrs MacLeod of Talisker's Salute”で、それぞれ4人がセレクト。
 4番人気で3人が選んだのは“Lament for the Children”“MacLeod of MacLeod's Lament”“Lament for the Earl of Antrim”“MacLeod's Salute”“Rory MacLeod's Lament”の5曲。
 そして、2人に選ばれたのは“A Flame of Wrath for Patrick Caogach”“Too Long in This Condition”“Lament for Donald of Laggan”“Lament for Patrick Og MacCrimmon”“I Got a Kiss of The King's Hand”のやはり5曲。
 “The Groat”“Lament for MacSwan of Roaig”については、それぞれ一人づつのセレクトだったそうです。

 念を押すまでもないとは思いますが、この傾向というのは曲そのものに対する愛好度の絶対値というよりは、コンペティションでその演奏技量を競うことを前提としたものですから、つまりはその曲の難易度も大きく影響している訳です。誰でもあの難解な“Patrick Og”をセレクトするのには少々腰が引けるのは仕方ない事でしょう。でも、この曲を素晴らしく演奏できればそれなりの評価が高いのもまた真実。

 別に John MacFadyen が 主張しているからという訳ではなく、元来、私自身はコンペティションという形式にはそれほど興味がないのですが、高度な演奏技量が求められるピーブロック という楽曲様式が、今日に至まで連綿と伝承されてきた要因の一つとして、コンペティションが大きな役割を果たということは紛れも無い事実でありますし、単 なるミーハー的な関心からも、このような傾向を観察し参加者の心情を推し量る事自体は大いに楽しめることです。


 さて、ここで興味深い点にお気づきでしょうか?

 そうです、1979年のこの時点では、かの“Lament for Donald Duaghal MacKay”がまだマクリモン・チューンである扱いになっているのですね。つまりは、Donald Mor の作であると…。

 Canntaireachd No.16 で紹介したとおり、1994年のピーブロック・ソサエティー・カンファレンスに於ける Bridget MacKenzie の講演により、この曲の作者はそれまで通説であった Donald Mor MacCrimmon ではなくて Iain Dall MacKay であろうと推測されることが報告され、それ以来この解釈は衆目の一致するところになっています。

 しかし、そこに到達するまでには、この 1979年の時点からさらに15年の歳月が必要だったということなのです。


 10年前、20年前、30年前のそれぞれのパイピング・タイムス誌面を振り返る P30 From the “Piping Times”のコーナー。今回は、20年前の記事に注目。James E. Scott という人(作家?)の文章の引用らしいです。

 「1653年3月16日のこと、Findlay MacCrimmonMacGregor 一族の集団に虐殺された。彼はその略奪行為によってカントリーサイドを恐怖に陥れていたことで有名な盗賊、Grant of Carron の手下であり、ある時の襲撃の際に MacCrimmonLaird of Grant を虐殺したことがあった。つまり、彼自身も人殺しの一人であったのである。」

 う〜ん、マクリモン一族の中にも色々な人が居たのですね。1653年というと、ちょうどあの温厚なる Patrick Mor の時代なのですが…。→The MacCrimmon 家系図

1979年4月号

April/1979

Vol. 31/No.7

 エディトリアルに続く最初の記事は P13 Uist and Barra Contest のレポート。
 ピーブロック部門の結果は次のとおりだったとのこと。

・1st : Iain Morrison“I Got a Kiss of the Kings Hand”
・2nd : Jack Taylor“The Earl of Seaforth's Salute”
・3rd : Malcom MacRae“MacCrimmon's Sweetheart”
・4th : Angus J. MacLellan“Lament for Donald Duaghal MacKay”
・others : Andrew Wright“MacDougall's Gathering”/ Murray Henderson“My King Has Landed in Moidart” / Duncan MacFadyen“Black Donald's March”/ Kenneth MacDonald“The Old Men of the Shells”

 78年10月号からこのシリーズをスタートさせて以来、コンペのレポートに Angus J. MacLellan さんの名前が登場したのはこれが初めてのような気がします。例によって夫々のコンペティターに演奏についてのシェーマスの細かいコメントには触れませんが、一つだけ、Angus の演奏に関するコメントの中で、彼が今回演奏した“Lament for Donald Duaghal MacKay”について“one of his most favourite tunes”と書いてあることに気が付きました。
 この曲は彼の特別のお気に入りだったのですね。1993年の来日時に私の目の前で彼のこの曲をカンタラックで唄ってくれた時の恍惚とした表情が今でも忘れられません。


 P18 The G.H.B. Compared with other Instruments は、 パイピング・タイムスによくあるハイランド・パイプに関する真面目なテクニカルなレポートを想像させるタイトル。図版などは有りませんが、4ページに渡っ てびっしりと文字が並んでいるその様を一瞥して、読むまでもなく堅い内容だと勝手に想像し少々腰が引けつつ目を通し始めました。
 ところが実際のところ、この記事は「モンティ・パイソン」や「Mr. ビーン」に通じる抱腹絶倒のイギリス風ジョーク物でした。

 執筆者として、by fergus とあるのですが、考えてみればこれがクセ者。多分、fungus:(カビのように)たちまち発生[成長]する(いやな)もの ーに掛けたペンネームだと思うのですが、そういえばこの後のパイピング・タイムスの誌面でも、こういったジョーク物の執筆者としてこのペンネームを度々見かけたような気がします。

 私がこのジョーク記事を真面目なレポートだと錯覚したのもさも有りなんで、その真面目なタイトルに続くリードもふるっているのです。
 曰く「以下は、パイピング・タイムスの発刊30周年を記念して行われたいくつかの記念行事の一つとして、某地方大学(our local University)の音楽学科に於いて私が行った記念講演の要約である。」

 そして、本文についてもいかにも講演録の如く“Ladies and gentlemen, 〜”と始まり「紳士淑女の皆さん、物事を比較するということはひどく不愉快で嫌悪すべきことです。しかし、芸術及び科学の進歩に於いては、それは必要欠くべからざる行為なのです。ウンヌンカンヌン…」と、大上段に振りかざした上で至って真面目にハイランド・パイプと他の楽器との比較考察を論じ始めます。その言い回しも大変に気取ったもので、最初は至ってまともな事を言っているようにも取れるのですが、よく読んでみるととんでもなくアホらしいことを言っているのです。

 曰く「我 々は隣人たちの耳に全く苦痛を与えることのないような音楽を提供することが求められている。人々が喜びを感じ、平穏な気持で郷愁とともに行進したりダンス したくなるような音楽。ある人が英雄的な行為を演じる際にはそれを元気づけ、その人が病んでいた際には慰めるような音楽。上記のような目的を達成すること ができる唯一の楽器、それは『ザ・グレイト・ハイランド・バグパイプ』を於いて他には有り得ません。」
 「
ダブルベースでピーブロックが演奏できると思いますか? ユーフォニアムでジグが演奏できますか? もしも、我々が上記のような感情を全て提供しよう意図した場合、ハイランド・パイプに代わり得るのは交響楽団しかありません。」

 こんな荒唐無稽な主張に続いて、まず最初に比較対象に選んだのが、なんと最も複雑かつ洗練され楽器である「ピアノ」ってところもふるっています。

 バグパイプはチャンターからのメロディーと共にドローンからの途切れる事の無い伴奏音を送り出すことができます。貴方は『あぁ、同じ事はピアノにだって出来るじゃないか。』と言うかもしれない。しかし、そのような言い草は至って思考力の無い人から発せられるものでしかありません。まずは、楽器としての移動の容易性の問題が直ぐさま頭に浮かぶことでしょう。グランド・ピアノと言わず、アップライト・ピアノとて、列車の網棚に載せること(!)の難しさを想像してご覧なさい。
 もちろん、必ずしも楽器の移動性が問われると限りません。でも、私は貴方が「もしも、聴衆が貴方の演奏を聴きに来ることに気が向かない場合には、こちら から出向かなければならない。」ということを理解するだけのインテリジェンスを持っていることを信じています。」

 真面目くさってこういう文章をつらつら書けるってのがスゴイですよね。でも、バカバカしさはまだまだ続きます。

 「ある学生が以前、私に次のような問題を提起しました。曰く『ピアノにはバグパイプが抱えるリードに関する悩みが無い』と…。確かにそれは真実です。しかし、スペアのリード1セットなんてものはたかが上着のポケットに納まるじゃないですか。それに対して、ピアノ用 のスペア・ワイヤー1セットとなると巨大な木箱が必要になります。さらに、貴方がその膨大な量のワイヤーの束の中から Aシャープのワイヤーを探すことがどんなに込み入った作業になると思いますか? そして、やっと探し出したとしたら、今度はスパナを持ってボードの中に潜 り込まなくてはならないのです。その際、万が一スパナを家に忘れてきたとしたら、貴方は聴衆に向かって『どなたか、3-16のスパナ持ってませんかね?』 と至って間の抜けた問い掛けをしなくてはならないんです。以上のこと全部を思い起こしてください。故にピアノハイランド・パイプとは比べるべくもないんです。」

 タイシタモンダゼイ。こんな調子で続けてヤリ玉に上げるのが今度はダブル・ベース

 曰くピアノ程ではないとしても、ダブル・ベースもまた、移動の容易性に関する問題を抱えている。」ウンヌンカンヌン…。余りに下らないので後は省略…。

 そして、さらに続いて、今後はバグパイプと同じ管楽器を比較の対象に…。まずは、スーザフォン。楽器の王様ピアノ、そしてメジャーな弦楽器のダブル・ベースの後が、なんともマイナーなスーザフォンなんですから、とにかくメチャクチャ。でも、fergus はごくごく真面目に論じます。

 バグパイプと同様に、この楽器も肩に載せかけて演奏するものであり、ベル型のパーツが(つまり「楽器の一部が」という意味)頭の上方に突き出た状態になるのも同様である。しかし、その最上部はハイランド・パイプの ベースドローンのトップに比べると遥かに高い場所に位置している。つまり、このことはもし誰かがごく普通の近代的な天井高の低い部屋でこの楽器を練習しよ うとした場合、この楽器がシーリングライトにブチ当たりかねないという問題があることを意味している。そして、ぶっ壊した電気器具からショートした電流が 金属製のこの楽器を伝わって演奏者を感電させかねないという事態が想定される。つまり、室内に於いてこの楽器を練習するということは極めて危険極まりない のである。このこと(感電)によって、演奏者はジグを踊ることになりかねないのであるが、一方で私が既に指摘しているように、スーザフォンで実際にジグを演奏したという話はこれまで全く聞いた事が有りません。」

 こんなことで笑い転げていてはいけません。敵はまだまだしたたかです。

 スーザフォンに関してはもう一つ極めて重大な問題がある。つまり、それはこうだ。スーザフォンは 通常、右肩に載せられる。しかるに、もしも演奏者が左利きであった場合には、左肩に載せ得るものなのか? もしも、そのままの形で楽器を左肩に載せた場 合、楽器の本体は背中側に位置することになり、演奏者がピストンを操作するためには、腕を背中に回さなくてはならなくなる。皆さんがご存知のとおり、バグパイプに於いては、通常ドローンは左肩に載せられているが、もしも、左利きの奏者がドローンを右肩に載せて演奏したければ、いとも簡単なことである。つまり、バッグを表裏返して(そんな訳ないだろう!)全てのパイプを付け直すだけで、左利き奏者用のバグパイプが一丁上がりって訳である。私は、どう考えても世の中の誰かが、スーザフォンを上首尾に表裏返しすることが出来るとは想像できない。」(アホか〜!)

 さて、そして次の標的はトロンボーン

 トロンボーンは、やはりバグパイプと同様に肩に載せかけて演奏する楽器ではあるが、そのスライドを前後にスライドさせる様は、良くてもせいぜい至ってこっけいな仕草でしかないし、悪ければとんでもない災難を引き起こすだけである。私は、あるバンドのトロンボーン奏者が、遥か前方にいる同僚の帽子をぶっ飛ばしたり、スライドを勢い良く戻しすぎて自分の入れ歯を壊した様を思い出す。医学的分析によると、トロンボーン奏者の一方の腕は至って弱々しいままであるにも関わらず、スライド操作する方の二の腕は異様に筋肉が発達するといわれている。(パイパーがバッグを操作する側の僧帽筋はどうなんだ?)
 「
ハイランド・パイプを練習する際にはプラクティス・チャンターというものがあるが、トロンボーンにはそのようなものが無い。だから、家の中で練習しようとした際には、トロンボーンそのものを演奏する羽目になる。私の知り合いは、ガラス窓の前で練習していて、練習に熱中しすぎた余り、最も低音を演奏しようとして窓ガラスを割ってしまった。」

 そして、「その他にも比較すべき楽器は沢山あるが…」といって名を上げているのが、チューバ(またかよ、スーザフォンと同類じゃないか)、木琴(xylophone)、ノコギリ・バイオリン(musical saw)、ってな感じの「真っ向勝負」とはほど遠いどちらかというとレアな楽器ばかり。そのとどめは、口琴(jews harp/原文では何故か "jaws harp" とわざと?スペルミス)。
 そして、口琴について、「確かに、私はこの楽器で、マーチ・ストラスペイ・リールが演奏されるのを聴いた事があるし(デタラメ言うな!)、多くのパイパーが妬ましく思うことであるが、この楽器は birl が演奏できてしまう。(う〜ん、確かに全音が birl だワ)」「しかし、口琴バンドが隊列を組んで通りを行進し、指揮官の号令一下、ビシッと隊列の組み替えを行う様を想像することができない。(いちいち、そんなアホなこと想像するな〜!)」

 Fergus は最後に改めて聴衆に問いかけます。

 "What single instrument, other than the great Highland bagpipe, can instil in men feelings of joy, peace or nostalgia, motivate them to march or dance, inspire deeds of heroism and console the bereaved ?" 


 いや〜、日頃、周囲からの嘲笑と蔑みを一身に受けているハイランド・パイパーの積年の恨みがトコトン込められたジョークでした。


 先月号に続いて今月号でも P33 Pipers' Choice が紹介されています。今月は、The Grant's Whisky Championship(現在の Glenfiddich 〜 のこと)に於けるパイパーたちのお気に入りチューン。
 このコンペティションは、Oban、Inverness、London、Dunvagen Castle といったこの他の主要コンペティションの中でも、出場者がその年に活躍した真のトップパイパーたちに限られるとともに、出場者自身がセレクトした6曲の中から演奏曲が提示される唯一のコンペティションであるとのことです。

 1978 年のコンペで12人のパイパーが選んだのは広範囲に渡っていて全部で 45曲にもなったとのことです。その内、ほぼ半数の 25曲についてはたった1度だけの登場。つまり、それぞれのパイパーが選んだ曲の内の(平均して)2曲は他のパイパーが選んでいない曲だという意味になり ます。14曲は2度登場。5曲が3人に選ばれたとのこと。

 しかし、4人のリストに登場して最も人気が集中した曲は、驚くべきことに“Rory MacLeod's Lament”だったそうです。
 この曲は Joseph MacDonald の本(18世紀)に掲載されていながらも、1966年に Archie Kenneth が ソサエティー・ブック Vol.11 のために Campbell Canntaireachd から楽譜に書き起こすまでは、長い期間に渡って殆ど忘れ去られていたという、まるで「死海文書」(the Dead Sea Scrolls / 旧約聖書の最古の写本を含む古文書;1947年に死海北西部で発見)のような経緯があるとのこと。

 John MacFadyen は この曲でいくつかの賞を獲得した最初のパイパーであり、その中には、ジョンが参加した唯一回の The Silver Chanter コンペティションでの優勝も含まれるそうです。その後、他のコンペティターもこの曲を取り上げる機会が増え、年を追う毎にその人気が高まっている曲だとい うことです。
 そうは言っても、実際は12人の内の僅か4人に取り上げられただけなので、必ずしもスマッシュヒットという訳ではありませんが、10年前には殆ど知られていなかったこの曲が、永遠の人気チューン“Lament for Mary MacLeod”を差し置いてトップになったことは、なによりも驚くべきことだとしています。


 表紙の写真及び P34 Hungarian Dudy は、何故かノルウェーの Terke Richter Anderson という人が製作した、ハンガリーのバグパイプの記事。

 木材はプラム(plum/西洋スモモ)が用いられ、装飾に角と金属をあしらって、製作には2ヶ月かかったとのこと。
 今ではちっとも珍しくもなんともありませんが、この当時はまだまだ、このような一旦廃れてしまったヨーロッパ大陸各地のバグパイプの復元自体が大変に珍しい時代でした。

 一方、現在ではこんなものまで作られています。
 また、ドイツ・バイエルンにはこの手のヨーロッパ各地のパイプの復元・製作をしている日本人バグパイプ職人の方の工房があります。


 P36 John MacFadyen はその後、世界各地から寄せられたジョンへの追悼の言葉。
 冒頭で、ジョンの夫人、Mrs. Sheena MacFadyen から、この間のお見舞いや追悼の言葉に対す
るお礼の言葉が述べられています。

FROM LONDON : ロンドンに於けるジョンの親交の様子が懐かしく振り返られた後、先のシェーマスの追悼文でも触れられていた、"The Royal Scottish Pipers' Socity" が主催する "The Bratach Gorm" というイベントでジョンが打ち立てた不滅の記録について紹介されています。1966〜1970年が例の5年連続優勝だったようです。実質的には5年連続と言わずこの1963〜1970年の間、圧倒的な The Top of the Tops だったのですね。

1963 1st  MacLeod of Raasay's Salute
1964 3rd My King has Landed in Moidart
1965 2nd My King has Landed in Moidart
1966 1st Lament for the Viscout of Dundee
1967 
1st Beloved Scotlan
1968 1st The Red Speckled Bull
1969 1st The Battle of Audearn
1970 1st Lachlan MacNeill Campbell of Kintarvert's Fancy

FROM BRITTANY : "The Breton Solo Pipers' Associaton" のプレジデントたる J. C. Nizan からの追悼文が寄せられています。

From Sue MacIntyre of Skye : "We who know John mourn his passing as hie wa a great among greats in the piping family, and also kept his kindness, humility and compassion for us lesser mortals."

FROM MARYLAND, U.S.A. : CoP の創成期の頃に生徒だったあるパイパーからの追悼文。

1979年5月号

May/1979

Vol. 31/No.8

 P13 S.P.A. Proffessional Contest は、正式タイトル "The 53rd Annual Professional Bagpipe Competition organaised by the Scottish Pipers' Association" の結果報告です。

 ピーブロック部門の結果は次のとおりだったとのこと。

・1st : Murray Henderson“The Park Piobaireachd No.2”
・2nd : Angus J. MacLellan“Lament for Captain MacDougall”
・3rd : Tom Speirs“MacDougalls' Gathering”
・4th : Andrew Wright“MacCrimmon's Sweetheart”


 今月は久しぶりに Roderick Cannon  による P23 Tune of the Month でピーブロックが取り上げられている号なので大いに期待していました。

 取り上げられている曲は“Lament for Colin Roy MacKenzie”。記述は5ページに渡っていますが、残念ながらその文章の中に私が期待するような曲の背景や来歴に触れた目新しい話は有りませんでした。

 じゃ、一体何について5ページにも渡って書いてあるのか? というと、それは主に Neil MacLeod of Gesto のカンタラックに関することです。

 この曲の楽譜は、Angus MacKay のマニュスクリプトと、Angus の兄である John MacKay のマニュスクリプトに掲載されていて、現在、主に演奏されているウルラールは Angus MacKay の楽譜に基づくものだということです。(ちなみに、これらのマニュスクリプトはピーブロック・ソサエティーの Manuscripts / Facsimilesページからそれぞれの PDF ファイルがダウンロードできますので、興味の有る方は閲覧してみて下さい。)
 そして、それらの楽譜の他に Neil MacLeod of Gesto のカンタラック・コレクション(1828年)にもこの曲が収められていてリファレンス元として重要に位置づけされているということなのです。

 最後のマクリモンたる、Iain Dubh MacCrimmon の演奏を直接伝える存在であるにも関わらず、この Gesto カンタラックが、有名な Collin Campbell"Nether Lorn" カンタラックに比べて至って評価が低いとうことですが、それは編者である Gesto 自身がパイパーでは無かったということもあって、些細なミスプリントやエラーが散見されることのみならず、その内容に多くの失望すべき点が見いだされることが一つの理由だそうですが、最も大きな理由としては、カンタラックの表記が Colin Campbell のそれのように純粋に記述用の形式になっていないということだということだそうです。

 P26〜27に当たる今月号のセンター見開きページには、CannonGesto カンタラックから書き起こした楽譜(ウルラール)が左右ページに渡って細長く掲載されていて、それを参照しながらこの2つのカンタラックの表現の違い、そして、Gesto カンタラック・セッティングと Angus MacKay のセッテングとの違いなどについて、例によって事細かに解説しています。いつもの Cannon 先生の仕事なので、当然ながら私ごとき者にはとても着いて行けない深〜い内容ですので、端折って紹介することすらできそうにありません。

 

 最後に、この曲が収められているもう一つの楽譜として、1880 年に J & R Glen によってリプリントされた "A Colletion of Piobaireachd or Pipe Tunes as verbally taught by the MacCrummen pipers ... " という楽譜集のことが紹介されていますが、ちなみにその中ではこの曲は "Lament for King James having left the Crown of Englnand and Scotland and going to France" というごくごく直接的なタイトルの曲として掲載されているとのことです。

1979年6月号

June/1979

Vol. 31/No.9

 P22 R.B.L Contest は The Royal British Legion (Scotland) 19th National Piping Competition というのが正式名称。Angus J. MacLellan さんによるレポートです。

 ピーブロック部門の結果は次のとおりだったとのこと。

・1st : Iain MacFadyen“MacLeod of Colbeck's Lament”
・2nd : Andrew Wright“Lament for Captain MacDougall”
・3rd : John MacDougall“Rory MacLeod's Lament”
・4th : Edward Clark“Glengarry's March”

 その他のコンペティターとして、Gordon Clark、David Donaldson、David Low、といった知らない名前に混じって、John Burgess 御大も参加。“Battle of Bealach Nam Brog”を演奏しています。


 今月号も先月に続いてピーブロックネタがあります。それも Sumas MacNeill による P28 Lament for Mary MacLeod に関する解説記事です。
 とは言っても、その内容の一部、特にこの曲の背景となっているストーリーについては、既に 1992年に書いた Canntaireachd No.9 の中に引用していますし、その後、パイプのかおり第29話の中では、このエバー・ポピュラーな名曲について、さらに詳細なストーリーを紹介しています。ですから、この曲に関して紹介すべき内容など、もう残ってなかろうと思われることでしょう。

  ところがどっこい、いや〜さすがシェーマスによるこのレポート、実に中身が濃いんですよね〜。というよりも、30年前よりは確実に成長した自分自身のピー ブロックに関する理解力、そして、IT革命の恩恵で古い楽譜へのアクセスが可能になった最近の状況下で改めて読み返してみると、今になって初めて理解でき るようになった点が多々あるんです。

 実は Canntaireachd No.9 で紹介したこの曲の主人公たる女流吟遊詩人 Mary MacLeod に関するごく簡単な紹介記事は、4ページに渡るこのレポートのほんの冒頭1ページ余りの内容でしかありません。このレポートの本題としてそれ以降の3ペー ジで展開されているのは、主に2種類伝承されているこの曲の表現の細かな違いなど、楽曲の構成自体についての考察なのです。


 まずは、この曲に関する唯一の根拠となり得る楽譜は Angus MacKay's manuscript に掲載されているものだけ(その他の古い楽譜集には載っていない)ということで、その後は常にこの楽譜を参照しながら解説が進行します。

 30 年前当時というか、実際にはそれ以降もず〜っと長い間ほんのつい一年程前までは、例えこのような記事を読み進めた際、リアリティーを持ってその内容を理解 しようとしても、そんな思いとは裏腹に実際の読解作業はここで止まってしまっていました。何故かというと今から 200年も前の 1800年頃に書かれたそんな古文書(古楽譜)を実際に目にする事など、エジンバラのどこぞの図書館か博物館にでも出向かなければ到底叶わなかったのです から…。

 ところが、パイプのかおり第30話の中でも紹介したとおり、近年(2008年半ば)インターネットを通じて「世界中の何処に居ても・誰でも・無料で・いとも容易に…」それらの 200年前のマニュスクリプト類を閲覧することが可能になったのです。

 そこで、今この文章をお読みになっている方はまずはピーブロック・ソサエティーの Manuscripts / Facsimiles のこのページ から Angus MacKay's manuscript“Lament for Mary MacLeod”の 楽譜(PDFファイル)をダウンロードして開いて下さい。そして、もう一方ではごく一般的なキルバリー・ブック(No.96)なりソサエティー・ブック (Book5/P155)、 あるいは bugpiper さんが書き起こしてくれた楽譜↓を開いて、双方を参照しながら読み進めて下さい。


 さて、先にも書いた通りこの曲の唯一の根拠となっているこの Angus MacKay's MS のバージョンは、その後現在に至るまで主流として演奏され続けているキルバリーやソサエティーのバージョンとはほんのちょっと異なる部分があります。それは、後者では Var.1 Doubling の2列目第1&第3小節、3列目第1小節に出て来る最初の E(都合3つの E )が、オリジナルたる Angus MacKay's MS では全て A であるということです。どうですか? 見比べていただけましたか?

  実は、ソサエティー・ブックをお持ちの方はお分かりでしょうが、ソサエティー・ブックの楽譜と対になっている解説ページでは、こういった異なる伝承バー ジョン毎の相違点について、一つ一つの音符や装飾音毎にそれはもう正に重箱の隅を突くように事細かに説明されています。ちなみに、ここで触れている3つの E というのは、ソサエティー・ブックで説明されている (5) の音のことです。

 オリジナルでは A の音だったこれらの3つの音を E に変えて現在のキルバリーやソサエティー・ブックのバージョンにした張本人は、Alexander Cameronツリー図参照/1848〜1923の Junior の方)だということ。Alexander Cameron"a great emender of tunes" と言われていて、この曲についても 彼自身の音楽的テイストに従ってこのように変えたのだと推測されています。

 シェーマスは「今更、この変更が《正しい》ものなのかどうか? について論議するのは難しいことだ。なにしろ、この100年間以上に渡って非常に多くの優れたパイパーたちがこの(E の)バージョンで演奏してきているのだから…。少なくとも、このバージョンが《受け入れられる》ものであったことは間違いないところである。」としています。

 試しに、ご自身でもこの両方のバージョンを演奏してみて下さい。確かにどちれも全く違和感なく《受け入れられる》ものであることを実感されることだと思います。そして、シェーマス自身も、「この曲を初めてトライする際には、両方とも試してみるべきであろう。そして、自分自身の感性に従ってより良い音楽だと感じる方を選べば良い。」とアドバイスしています。


 この他、この曲にはいくつかの装飾音についての微妙に異なったバージョンがありますが、それらは曲の表現に特別大きな変化を生じるようなものではありません。一方でその他の大きな相違点としては、Taorluath DoublingCrunluath Doubling 2列目最終小節の表現があります。
 やはり、Alexander Cameron によって変更が加えられたキルバリーやソサエティーのバージョンではそれは1列目(繰り返し有り)の最終小節と同じ表現ですが、オリジナルの Angus MacKay's MS バージョンでは、3列目最終小節と同じ表現となっています。ちなみに、John MacDonald of Inverness Angus MacKay のバージョンを好んで演奏したそうです。

 しかし、この点についても、シェーマスは「演奏者は前の例と同様にどちらか好きな方をチョイスすればよい。」としています。そして、「例えソサエティーのバージョンと異なったとしても、優れたジャッジならばどちらでも良しとする見識を持ち合わせているはずである。」と断言します。


 続くシェーマスの解説は Crunluath Singling について。この曲の Crunluath バリエイションは非常にユニークな構造となっているということ。具体的には「通常の Crunluath Breabach LowA-E-BLowA-F-E といった3連譜が挿入される形式」ということになります。そして、シェーマスはこのユニークな装飾音について「通常5ビートとなる Crunluath Breabach のルールが適用されないことになるので、この曲に初めて取り組む者にとっては、タイミングの取り方に少々戸惑うことだろう。」と、ここでの4ビートのタイミングの取り方について具体的にアドバイスしています。


 そして、シェーマスはレポートの最後に、この曲の最も特徴的な一音について解説します。それは言うまでもなく3つの(Var.1、Taorluath、Crunluath) Doubling バリエイションの3列目第3小節最初に突然何の前触れも無く炸裂し、A のペンタトニックの構成をいとも簡単にぶち壊す、あの High G のことです。

 シェーマスは、この曲の妙なるメロディーに夢見心地で聴き入っていた聴衆が、この High G の突然の一撃に椅子の中で思わず居住まいを正す様子を何度も見かけたことがある、と書いています。
 そのように誰もが違和感を憶えるこの High Gについて、シェーマスも「もしかしたオリジナルの Angus MacKay's MS では High A ではないか?」と期待したこともあるそうですが、やはり、どう見ても紛れもなく High G であることを確認せざるを得なかったと書いています。

 では、「何故、 High G なのか?」。
 
「それは、この鎮魂歌の歌い手が発した《心痛の叫び!》(cry of pain)を表現しているからである。」
 というのが、シェーマスの解析です。

 そして、「それ故に、たとえこの High G がキーを壊す音であったとしても、リズムまで壊してしまってはならない。調和を乱すこの High G を疎んで出来るだけ短く演奏しようとする演奏者も居るが、そのようなことはしてはならない。苦悶の叫びを受け入れきちんとした長さを保つべきである(Accept the scream of agony, and give it its full duration.)。」という一文で、このレポートを締めくくります。

 そうです、確かに High G は慟哭の悲鳴を感じさせる音なのです。⇒ 関連記事“Lament for Patrick Og MacCrimmon


 いや〜、実に含蓄のある解説でした。
 最後の下り、たった一音についてこれだけのことを考察し、演奏する際の心得を諭すというところがさすが Sumas MacNeill の凄いところ。ただただ頭を垂れてその講釈を有り難く受け入れ、これからこの曲を演奏する際の心得とするのみです。


 例によって、毎号表紙裏一等地の定位置を占めている Grant's の宣伝ページの紹介。

 

 今回は、写真の下のキャプションに注目。1978 Grant's Piping Championship (現在の Glenfiddich Piping Championship のこと)のレコードがリリースされている旨が告知されています。こうしてみると、この世界最高峰のコンペティションのライブレコーディングが、時を置かず してまめにリリースされていたのですね。当時は全く気がついていませんでした。まあ、気がついたとして、それらを入手しようと思い立ったとしても、それは 容易なことではありませんでしたが…。

 まあ、いずれにせよこのような演奏が録音されレコードになっていたということは有り 難いことです。いつかも書いたように、現在、CoP ではアーカイブのアナログ音源を全てデジタル化する作業を営々と行っているはずですから、いつの日かピーブロック・ソサエティーのサウンド・クリップコー ナーなどで、これらの演奏を聴く事ができるようになることでしょう。あるいは、既にアップされている中にもう入っているかもしれませんね。

1979年7月号

July/1979

Vol. 31/No.10

 ここ何号か盛り沢山だったことの反動か、この号はサマーシーズンのハイランド・ゲーム(コンペティション)の告知がやたらと目立つ程度で、パイパー森的には殆どめぼしい記事がありません。

 唯一興味を引いたのが、P12 Exhibitions というタイトルで、近々催されるハイランド・パイプ関係の展覧会について紹介したニュース記事。

 その一つは、“Strange World out in the Isle” というそそられるタイトルの下、 The National Library of Scotland に収蔵されている貴重な、ピーブロックやカンタラックに関するマニュスクリプトが一般公開される、というもの。

 どのようなマニュスクリプトかというと、The Angus MacArthur's manuscript、Donald MacDonald's manuscript、Angus MacKay の2冊の manuscript、The Nether Lorn or Campbell Canntaireachd、General Thomason's "Ceol Mor"、ってなところ。

 お気づきのとおり、これらは皆、現在ではピー ブロック・ソサエティーのサイトや Ceol Sean の CD book などによってだれでもどこでも閲覧可能なものばかり。わざわざスコットランドにまで出向かなくても、そして、実質的に各人がそれらのコピーを所有できてし まうということの意味するところを改めて考えてみると、ハイテク IT 技術革新の成せる恩恵の大きさを実感するばかりです。

 ところで、この展覧会を企画したのは、この時既に亡くなっている故 John MacFadyen その人だったということ。生涯に渡ってピーブロックをより広く愛好されるよう尽力した故人の想いが偲ばれます。John さん、草葉の陰でさぞかし世界中でピーブロックが愛好されている現在の状況を喜んでいることでしょう。

1979年8月号

August/1979

Vol. 31/No.11

 P13 The Acoustical Enviroment of the Highland Bagpipe out of doors はタイトルどおりのレポートの Part 1。

  冒頭、この論文の執筆者は「天候さえ酷くなければ、ハイランド・パイプを演奏するのに最適なシチュエーションは野外なのは言うまでもないことである。しか し、残念ながら多くのパイパーたちは、練習する際には室内で満足するしかない。室内と野外環境とでは、ハイランド・パイプを演奏する上での音響効果につい て多大な違いがあるので、それらについて、綿密な研究を行うことは、パイピングの愛好家にとっては価値のあることであろう。」と、この研究の趣旨を書き出 します。

 Part 1 の今回は6ページに渡って、下のような図を4枚挿入しながら、“Sound Spreading”“The Ground Surface”“Frequency Selectivity Effects”といった3項目について丁寧に解析しています。

 このような音響科学に弱い私はそもそもその内容を完全に理解できないこともあって、その内容を詳しくお伝えすることは出来かねますが、そんな私にも「ふ〜ん…」と頷くような興味深い箇所が諸処にあることは確かです。
 中でもちょっと意外だったのは、どちらかというと、周波数の高いチャンター音の方が周波数の低いドローン音よりもより地面の影響を受け易い(音が減衰し 易い)ということ。それは、チャンターの方がより地面に近いということも作用しているそうです。まさに「ふ〜ん」というところ。


 P33 1979 Breton Piping School はいよいよ 8年目を迎えたこのスクールのレポート。レポーターは、奥さんの Patricia さんと一緒にこの年のインストラクターを務めた Murray Henderson
 1978年4月号で紹介したとおり、彼は 1977年にもこのスクールの講師を務めています。
 記念写真に写っている参加者の数は年を追う毎に増えているようでが、それでも20人を僅かに超えた程度で、相変わらずこんじまりとして、フレンドリーな雰囲気が伝わります。


 コンテンツ・ページ(P7)の前にあるいくつかの宣伝ページの中に、ある宣伝がが目に留まりました。P5 上半ページに掲載されている“Bagpipe Tuner”の宣伝です。

 ここでは名称がより直接的に理解しやすい“Bagpipe Tuner”という名前で登場していますが、つまりは 1978年1月号 で紹介している山根さんの手になる“Tuning Trainer”のこと。
 宣伝文中から推し量ると、どうやら私が購読を開始する一年以上も前の“Piping Times”Vol.28, January 1976 に、この画期的な製品の紹介記事が掲載されていたようです。

  今となっては、この第一世代のチューナーの現物を見た事の有る人は数少ないことでしょう。この写真だけではどのような大きさか推し量りかねるでしょうが、 幸いなことに仕様欄にスリーサイズ(200mm×105mm×52mm)が書いてありますので、その大きさを想像してみて下さい。小さな弁当箱程度あった 訳です。重さも 680g もありましたし…。

 連絡先も時代を感じさせますよね。当時ビジネスの世界ではごく一般的だった Telex っては、一体いつ頃まで使われていたのでしょうか?

 しかし、逆に言えばそのような一昔前に当時としては画期的なこのようなツールをハイランド・パイプの世に出した山根さんの先進性は飛び抜けていたと言う事を実感します。

1979年9月号

September/1979

Vol. 31/No.12

 P20 Boreraig の記事の書き出しは次のとおり。

“The annual ceremony of paying the feu duty for the site of the MacCrimmon College at Boreraig took palace on Friday, 22nd June.”

 Boreraig の MacCrimmon College の敷地は、(地主である)故 General Martin of Husabost(Boreraig の南2kmに位置する)から、かなり以前に CoP に委ねられることになったそうですが、その際に彼が付けた条件(年間の地代)はいささか奇妙なものであったということ。なんと彼が求めたのは“a penny and a piobaireachd”(1ペニーと1曲のピーブロック)ということだったのです。

 …で、それ以降毎年、現地にて「1ペニーと1曲のピーブロック」を献上するセレモニーが行われるようになったようで、この年は冒頭の日に、CoP の代表たる Sumas MacNeill から真新しい1ペニーコインが現代の地主である Mr. Olaus Martin of Husabost に手渡され、“Lament for Donald of Laggan”を演奏されたとのことです。
 さらに加えて、小高い丘を登ったところにある MacCrimmon Cain に於いては、Iain MacFadyen が“Lament for Mary MacLeod”を演奏したということです。

 当日は、このセレモニーに併せて、若者を対象にしたコンペも行われたようで、記事の中ではその結果も報告されています。


 さて、先月に続いて、P28 The Acoustical Enviroment of the Highland Bagpipe out of doors は Part 2。

 今回は様々な物理的な障害物による音の減衰の有り様についての解説です。
 右図は周波数によって「Sound Shadow/音の陰」がどのように構成されるかの違いを示しています。周波数の低いドローン・ノートは物体の裏側まで回り込み易いので陰が少なく、チャ ンターのように周波数の高い音程、物体によって大きく遮られる、ということが分かり易く図説されています。

 また、障害物となる物体の中には人間の身体も含まれる訳ですが、一人の人間の身体は およそ10dB 以上の音量を吸収するということです。

 その他、空気の状態(湿度や温度)や風の吹いている状況によっても音がどのように影響を受けるかという解説が続きます。
  興味深いな〜と思ったのは、地表の温度が高ければ高い程、それによって発生する上昇気流の影響によって音の伝播の距離が短くなるという解説です。つまり、 逆説的に言えば地表の温度が低くなる夜間の方が、音をスポイルする様々な雑音自体も昼間より少なくなることと相まって、音は遠くまで届くということです。
 確かにさもありなん、という所ですね。でも、それが故に夜間演奏しようという人は居ないでしょうが…。

1979年10月号

October/1979

Vol. 32/No.1

 8月16日に開催された P14 The Silver Chanter コンペティションが今年はこの号(昨年は9月号)でレポートされています。

 冒頭、General Frank Richardson により、このコンペティションの提唱者の一人であった(1月21日に亡くなった) John MacFadyen を偲んで、深い哀悼の言葉が述べられたということです。

 参加者7人の演奏曲は次のとおり。
Ed Neigh “Battle of Waternish”
Iain MacFadyen “Lament for Mary MacLeod”
John D. Burgess “Lament for the Children”
Duncan MacFadyen “Lament for Rory MacLeod”
Murray Henderson “The MacLeod's Salute”on Donald MacDonald Style
Iain Morrison “Lament for the Earl of Antrim”
Malcom MacRae “I Got A Kiss of the King's Hand”

 そして、1979年のシルバー・チャンターは、“Lament for Rory MacLeod”を演奏した Duncan MacFadyen に授与されたということです。


 シェーマスは 1978年10月号の The Argyllshire Gathering のレポートに於いて、コンペティターがやたらとチューニングに時間を掛けることによって、甚だしくマラソン化している最近のコンペティションの在り方に強 く警鐘を鳴らしていますが、ここでもかなり辛口のコメントでレポートを締めくくっています。

 曰く、「演 奏者が僅か7人だったにも関わらず、チューニングの時間は聴衆にとってあきれる程に困惑させられる最も不快な点であった。どのパイパーもチューニングに よってパイプの調子を改善することが出来た訳ではなく、何人かはかえって悪化させていた。(チューニング時間というのは)「パイプ」を演奏できるコンディ ションにするためのものではなく、「パイパー」をそのようなコンディションにするためのものになっている。いつの日にか、ステージに上がって1分以内に演 奏を開始するような、真のプロフェッショナルが登場する事を願うばかりである。」


 引き続いて、毎年10月号定例の P17 The Argylshire Gathering のレポート。まずは、昨年からエントリーの要件が「これまでに Oban か Inverness の Gold Medal コンペティションで優勝した経験のあるパイパー」に限られるようになった The Senior Piobaireachd の結果は次のとおり。エントリーした15人の中で P/M Angus MacDonald だけが不参加だったとのこと。

1st Hugh MacCallum“The Unjust Incarceration”
2nd Iain MacFadyen“I Got A Kiss of the King's Hand”
3rd Iain Morrison“The Old Men of the Shells”

その他のコンペティターと演奏曲
Duncan MacFadyen“My King has Landed in Moidart”
William Livingstone“Scarce of Fishing”
Malcom MacRae“The Unjust Incarceration”
Kenneth MacDonald“The Old Men of the Shells”
William MacDonald (Benbecula)“In Praise of Morag”
Andrew Wright“I Got A Kiss of the King's Hand”
Angus J. MacLellan“Lament for the Children”
John MacDougall“Lament for the Children”
Finlay MacNeill“In Praise of Morag”
Murray Henderson“Scarce of Fishing”


 続いて、エントリー資格が「これまでに Oban と Inverness で入賞(1位以外)した経験のあるパイパー」とされる The Gold Medal コンペティションの結果は次のとおり。といっても、実のところ、これらのエントリー資格の区別ってのが、私には未だによく理解できていません。Bill Livingstone Murray Henderson は両方にエントリーしていますしね…。

1st William Livingstone “Lament for Mary MacLeod”、
2nd John Willson “The Groat”
3rd Murray Henderson “MacLeod of Raasay's Salute”
4th Ed Neigh “The Battle of Waternish”


 そして、The Argylshire Gathering 3つ目のピーブロック・コンペは、若手パイパーの登竜門たる The Silver Medal コンペティション。24人が競ったこの部門の参加者の中には、その後活躍するパイパーの名前がちらほら…。2nd 入賞者には今をときめく William MacCallum が、そして、Robert Wallace の名も見られます。1961年生まれの William MacCallum はこの時18才。でも、決して早熟すぎるという程ではありません。
 ちなみに、この10月号に掲載されているサマーシーズンに各地で開催されたパイピング・コンペティションの結果を一覧で紹介する P24〜34 Round the Games のページをざっと眺めてみると、 William MacCallum 7/17 Inveraray では見事に優勝しています。さらにそのコンペの解説で「険悪な天候がパフォーマンスに大きな影響を及ぼした。中で、参加者の中で一音のミスも犯さなかったのは、William MacCallum 唯一人だけだった。」と記されています。彼の正確無比な演奏は18才にして既に抜きん出ていたようですね。


 このページ、実はエディトリアルに続く P13 の、タイトルにあるとおりつまりはちょっと懐かしい写真の紹介ページ。その当時から数年前(つまりは1970年代初頭?)の Glenfinnan Game に於けるジャッジたちを写した写真だそうな。「この内の2人はこの世に居ない」と書かれているとおり、左から2人目は 1976年に亡くなった Angus MacPherson とのこと。

  この写真を紹介したのには訳があります。それは、この写真が“Piping Times”史上で初めてページ中に掲載されたフルカラー写真だからです。これまで紹介して来た写真が全て白黒だったのはそのような写真をあえて選んだの ではなくて、この号まではページ中の写真は全て白黒だったのです。以降はページ中のカラー写真は徐々に増えていきますが、とにもかくにもこの写真がその端 緒でした。


 P41 Book Reviews は複数形であるとおり、2冊の本がレビューされています。

 一冊は“Bagpipes and Tunings”by Theodor H. Podnos という本。しかし、シェーマスのレビューは辛口で、自身もバグパイプのチューニングに関して専門的知見を有しているマエストロにとっては今一つの内容のようです。


 そして、もう一冊がこのようにこの号に大きく宣伝が掲載されている“A Professional Piper in Peace and War ー The Autobiography and memoiris of Pipe-Megor John Wilson of Edinburgh and Toronto ー”です。

 上の The Argylshire Gathering のレポートに名前が出ている John Wilson の先代の「自伝&想い出話」。30年経った現在でも未だに CoP オンラインカタログにも掲載されている息の長い本(ただ売れないだけ?)ですね。1920年代からコンペティションで活躍していたこの人、つまりは20世 紀前半の複数の重要なパイパーと同世代人だった訳で、それなりに興味深い内容のように見受けられます。シェーマスも4ページに渡って丁寧にレビューしてい ます。ただ、文中に“〜 he is the complete egoist, 〜”なんて表現が出てくるところを読む限り、どうやらこの人かなり独善的で敵も多い人だったようです。

1979年11月号

November/1979

Vol. 32/No.2

 例年ですと、11月号は9月上旬に開催される The Northern Meetingのレポートと相場は決まっていますが、何故かこの年は、シーズンの最後を締めくって10月末に開催された P12 Grant's Championship の結果が先にこの号でレポートされています(The Northern Meeting のレポートは次の12月号に掲載)。

 この年のオーバーオール・チャンピオンは Murray Henderson でした。そして、2nd が Iain Morrison、3rd が昨年のチャンピオン Hugh MacCallum
 チャンピオンになった Murray Henderson は MSR 部門もピーブロック部門も共に 2nd でした。ちなみに、ピーブロック1st は昨年のチャンピオンでその時のピーブロック部門では 2nd だった Hugh MacCallum

 参加12人それぞれの曲目は次のとおり(最初の4人がピーブロック部門の順位)。
★★ Hugh MacCallum“The Unjust Incarceration”
★★ Murray Henderson“Beloved Scotland”
★★ Bill Livingstone“Rory MacLeod's Lament”
Iain Morrison“Scarce of Fishing”
John Willson“The Vaunting”(昨年と同じ曲ですね…)
★★ Iain MacFadyen(1977年の覇者)“I Got a Kiss of the King's Hand”
James Banks“Lament for Captain MacDougall”
Donald Bain“The Blue Ribbon”
Malcolm Macrae“In Praise of Morag”
★★ John MacDougall“The Lament for the Earl of Antrim”
P/M Angus MacDonald“Lament for MacSwan of Roaig”
Duncan MacFadyen“Lady Margaret MacDonald's Salute”
(★と★★は前年およびさらにその前年も登場したパイパー)


 P22 More About Reeds は、ケーン製リード vs プラスティック製リードの記事。…というより、プラスティック製リードの台頭で、ケーン製リードの陰がすっかり薄くなってしまっているという状況に対して強い懸念の念を表した記事です。曰く…、

 全くもって恐ろしい事に、何事もプラスティックに置き換えてしまうようなテクノロジーの進歩により、ナチュラルなケーン製リードは今や殆ど壊滅状態にある。

  プラスティック・リード擁護論者は、「それら(プラスティック)は、ケーン・リードと同様の性能であるし、第一、もっとずっと寿命が長いメリットがあ る。」と主張する。しかし、私が実際に両方を試してみたところでは(僅かな例外を除いて)プラスティック・リードは(1)柔軟性が無い、(2)ピッチが外 れる、(3)吹くのが辛い、(4)音質が悪い、といった特質があることを確認した。

  プラスティック製のリード舌はケーンのものより長持ちするということはおそらく真実であろう。しかし、それらの舌をステイプルに結わいつけているヘンプの 寿命は同様に長持ちする訳ではない。プラスティックはケーンとは違って水分を全く吸収しないため、その分ヘンプがいつも湿った状態になり寿命が短くなるの で、つまりはリード自体の寿命が長いとは必ずしも言い切れないであろう。

 先に書いた「柔軟性の低さ」ということについては次の2つの点が考えられる。
 一つは、ケーンのリードならば容易にできる吹き方によってピッチの正確さを保つことが出来ないということ。もう一つは、ケーン・リードのように必要に応じて自在に手を入れることが出来ないということである。
 後者を具体的に言えば、リードの表面を僅かに削ったり、強く押さえたりしてリードの強さを調整する、必要に応じてリードの端をカットする、リードを湿ら せてピッチを調整する、柔らかくなりすぎたリードのステイプルにマンドリルを差し込んで内側から広げて堅くする、などといった様々な調整作業のことであ る。

 先般の Sumas MacNeill のカルフォルニア・サマー・スクールの最終日、仲間のパイパーの一人が私のリードを見て次のように言った。「君は、そのリードを博物館にでも納めるつもりなのかい?」 
 彼が指摘したリードは、私がこの1年間、長時間に渡って演奏してきたものである。確かに、水分がしみ込んで灰黒色をしたその外見を一見したところでは「一音たりとも出ない!」と思われても仕方のない様相である。

 しかし、決してそんなことは無い!

 そのリードは熟成されたケーン・リードならではの完璧なピッチの素晴らしくメローな音色を発するのである。そして、成熟した年代物の Lawrie のチャンターであれ、Henderson のスペックを模した Wallce のチャンターであれ、ボーア戦争当時の名の知れないチャンターであれ、どのようなチャンターにでも対応して演奏可能な、まさに偉大なるユビキタスなリードであることを強調したい。
 さらに言えば、このリードに対しては、滅多な事では他のリードやパイパーに対して褒め言葉をまき散らすようなことをしない、あの John Burgess ですら、賞賛のコメントを惜しまなかった程なのである。

 …と、ここまで読んで来て「あれっ?」と思われたのではないでしょうか? つまり「へ〜、プラスティック製の(パイプ)チャンター・リードってそんな昔から世に出回っていたのか?」と…。

 いやいや、そんな訳がありません。実は筆者がここで話題にしているのはプラクティス・チャンター・リードのことなのです。


 1975 年に私が初めてプラクティス・チャンター(R.G.Lawrie のウッド)を入手した際、付いていたのは当然のごとくプラスティック製のリードでした。そして、それはパイプ・チャンター・リードど同様にニッケル製のス テイプルにリード舌がヘンプで巻き付けられていたもので、つまりはここで筆者が触れているようなタイプのものです。
 しかし、1976年に東京・パイピング・ソサエティーの練習に顔を出すようになった際、山根さんから勧められた(南イングランドの)ワイト島のメイ カー、George Alexander 製のオール・プラスティック製のプラクティス・チャンターに装着されていたリードは、プラスティックのリード舌をプラスティック製のステイプルに熱収縮性 ビニール・チューブで一体化した、現在ではごく一般的なプラスティック製プラクティス・チャンター・リードの標準的なスタイルにまで進化していました。

  ですから、私がパイプを始めた70年代半ばにして既にケーン・プラクティス・チャンター・リードというものは、正に「博物館モノ」になっていたはずです。 少なくとも、私はその当時もそれ以降も、これまで一度もケーン・プラクティス・チャンター・リードの現物は見た事がありません。
 パイプ・チャンターと違って、少々音色が可笑しかったり、陳腐であったりてもさほど差し支えないプラクティス・チャンターに於いては、プラスティック製 リードの出現によって、一般的なパイパーがその絶対的な寿命の短さや扱いにくさを我慢してまでもケーン製リードにこだわるとは到底有り得ないことで、ケー ン製のリードはあっという間に世の中から駆逐されてしまったことなのでしょう。
 常に息にまみれてたっぷりの水分を含んでいるケーン製のプラクティス・チャンター・リードを扱うなんてことが、どんな苦労を伴ったであろうかということは想像して余り有りますが、出来れば想像したくもありません。

  パイプ・チャンターと違って常に高圧を掛けて振動させ続ける訳では無いプラクティス・チャンターの場合、リードの寿命はとてつもなく長くほぼ半永久的とも いえましょう。現に私は30年以上前に入手した George Alexander 製リードの一つの同じ個体を未だに何の不自由もなく使い続けています。

 つまるところ、音程的にも正確なものが至って容易に 実現でき、吹き込む息の水分によって音程や音質が全く影響を受ける事なく、さらに経年的な変化も目に付くことなく殆ど半永久的な使用に耐え得るプラス ティック製プラクティス・チャンター・リードの登場は、世界中のパイパーにとってプラクティス・チャンターがこの世に誕生して以来、最大の福音であったと 思われます。

 個人的には世の中に安易に追随するという姿勢は決して良しとするものではありませんし、このような民俗楽器で伝統的な楽曲を極めようとしている自分としては、なによりも伝統を大切にする気持ちを強く持っています。
 しかし、その一方で、楽器本来の演奏ではなくて、あくまでも練習のためのツールや手段については、無闇に伝統(古いテクノロジー)に囚われる必要は無い と思っています。ですから、私の練習ツールはプラスティック製のプラクティス・チャンター・リードどころか、今では Technochanter から thechnopipes へと進化していますし、カンタラックの代わりにパソコンや iPod に納められている MP3 音源を頼りにしている訳です。(もちろん、日本に居る限り、どうあがいても本物のカンタラックでピーブロックを教えてもらうことは到底不可能ですが…。)

 …ま、それはとにかく、何事にもこのような頑固なこだわりを持つこと自体には大いに共感します。至って微笑ましい一文でした。


 …と、ちょうどこの記事を書いている時、タイミングよくボブさんの Technique & Instrument フォーラムでヴィンテッジ(ケーン製)・プラクティス・チャンター・リードに関するトピが立ち上がりました。

1979年12月号

December/1979

Vol. 32/No.3

 P13 London Contest は 11月3日に開催された The Scotish Piping Society of London による“The 40th Annual Competition”のレポート。

 最も権威ある賞である“The Bratach Gorm(the blue banner)”を獲得したのは Malcolm MacRae で曲目は“Lament for Donald Duaghal MacKay”でした。

その他のコンペティターと演奏曲
Iain MacFadyen“The Old Men of the Shells”
Andrew Wright“The Earl of Seaforth's Salute”
John Wilson“MacNeil of Barra's March”
Jack Taylor“Lord Lovat's Lament”


 先月書いた通り、例年とは異なり 9月12日に開催された P17 The Northern Meeting のレポートが今月号に載っています。

 このところ増加する一途の出場者の数に悩まされてきた Gold Medal コンペですが、今年は出場者を絞り込んだ結果、例年よりも水準が高くなったということです。
 その結果は 1st Donald Bain “MacCrmmon's Sweetheart”、2nd Tom spiers“Corrienessan's Salute”、3rd P/M Angus MacDonald“Lament for the Only Son”、4th Evan MacRae“The Groat”、5th Patricia Henderson“Glengarry's Lament”ということでした。

 一方、19人のエントリーの内 14人が参加したという The Clasp コンペ結果は、1st Murray Henderson“The Old Men of the Shells”、2nd Hugh MacCallum“My King Has Landede in Moidart”、3rd Malcolm MacRae“I Got a Kiss of the King's Hand”、4th William Livingstone“In Praise of Morage”とのこと。
 そして、Clasp コンペのその他のコンペティターとしては、 Duncan MacFadyen、Iain MacFadyen、Angus J. MacLellan、Iain Morrison、Finlay MacNeill、John D. Burgess、John MacDoughall、Andrew Wright、Willie MacDonald といった名が出ていました。


 P30 John Wilson というタイトルがありますが、これは10月号で「自伝&想い出話」が紹介されていたあの John Wilson に対する追悼ページです。実は先月11月号の P33に John Wilson が 11月6日に亡くなったという死亡記事の速報が載っていました。それによると、彼はかなり長い間病魔と闘っていたということで、決して不慮の死という訳ではなかったようです。

 病魔と闘っていたといってもどうやら寝床に伏して居た訳ではなかったようで、その証拠に 10月号でレポートされている The Argylshire Gathering The Gold Medal コンペティションに名前が出て来るばかりか、上記のとおり今月レポートされている London Contest の結果にもその名が出ています。このコンペティションが開催された 11月3日というのは、つまりは、亡くなる僅か3日前ということになります。

 通常より多めの2ページ半に渡るこの追悼文では、John Wilson の略歴とパイパーとしての輝かしい足跡が紹介されています。

 1906年にエディンバラで生まれたジョンは 16才でプロのコンペティションの世界に足を踏み入れました。そして、18才の時に The Argyilshire Gathering の March 部門で優勝。その翌年(つまり19才の時)には、The Gold Medal Piobaireachd を制覇。1930年代にはトップ・パイパーの一人として数々のコンペで優勝したということです。

 第2次世界大戦時には、Queen's Own Cameron Highlanders の Pipe Mejor の一人として従軍しますが、1940年に侵攻したフランスでドイツ軍に捕まり、その後の5年間をドイツ軍の捕虜として過ごしました。

  戦後、1948年から再びコンペティションに参加しましたが、そこそこの成績だったこともあり、海外への移住を決意。1949年1月にカナダのオンタリオ に移住し、その地で結婚しました。その後は、長年に渡ってオンタリオのパイピングシーンの中心的な存在として活躍したのです。

 そして、John Wilson が オンタリオのパイピング・シーンに果たした役割は、どれほど高く評価しても足りない程大きいものだったとし、彼がどのようにしてスコットランドの本物の音 楽文化を持ち込み、ハイランド・パイパーの育成に尽力したかが詳しく紹介されています。現在はすでにコンペティション・フィールドからは引退しています が、ジャッジやご意見番としてよく登場する John Willson(Jrのみならず、現在、本国スコットランドで活躍する多くのカナダ出身パイパーたちの礎を築いた人物なのですね。

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