"Piping
Times"《1981年》
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何故か、前年9月に催されたはずの P20 The Northern Meeting のレポートがこ
の号に掲載されています。 それによると、歴史あるこのコンペティションの 1980年の結果は次のとおり。 Gold Medal コンペは 1st Tom Speirs“The Battle of Bealach nam Brog”、2nd Robert Barnes“Lament for the Departure of King James”、3rd Malcolm MacRae“Beloved Scotland”、4th Jackez Pincet“Ishbel MacKay”でした Clasp は、1st Iain
Morrison“The Lament for the Dead”、2nd Donald MacPherson も同じ曲、3rd Hugh MacCallum“Hindro
Hindro”、4th William Livingstone も
1st & 2nd と同様の“Lament for the Dead”だったとのこと。 今回はその他にはこれといってめぼしい記事が無いので、P5のニュー・リリースに関する広告ページを紹介します。 BBC 録音による LPレコードの宣伝ですね。 |
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P12
London Contest は 前年11月1日に開催された The Scotish
Piping Society of London による“The 41th Annual
Competition”のレポート。
最も権威ある賞である“The Bratach Gorm(the blue banner)”を獲得したのは Andrew Wright で 1974年以来2度目の受賞。曲目は“Lament for Donald Duaghal MacKay”。昨年の覇者、Malcolm MacRae と同じ曲ですね。 2位以下は、2nd:Murray Henderson “Beloved Scotland”、3rd:Iain MacFadyen“Old Men of the Shells”、4th:Malcolm MacRae“The Earl of Seaforth's Salute”でした。 8人のコンペティターが6曲づつ申告した課題曲は全部で41曲。内訳は、一番人気が6人が申告した“Beloved Scotland”で、続いて3人が申告した“Children”“Donald Duaghal MacKay”“MacSwan of Roaig”、2人が申告した、“Seaforth's Salute”“Park Piobaireachd No.2”“Old Men of the Shells”“Battle of Auldean”“Pass of Crieff”“MacLeod of Raasay's Salute”“Black Donald March”“Mary MacLeod”といった具合でした。 |
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表紙写真に我が懐かしの Angus J. MacLellan さ
んが登場。
説明によると、Angus J. がチェアマンを務 めている Scotich Pipers Association の会合でのスナップのようです。 写真の右手、Angus J. の右隣は Iain Morrison とのこと。 1979年の 1月に亡くなった John MacFadyen については、1979年2月号で大々的 に追悼されていましたが、その後、ジョンの偉業を偲びその意思を次世代に引き継いでいくために、John MacFadyen Memorial Trust が設立されたことは 1980年2月号で報告されたとお り。そして、レクチャー&リサイタルが定期的に開催されるようになりました。 P35 Report of John MacFadyen Memorial Trust は トラストのチェアマンたる Alasdair D. G. Milne による募金状況及び活動状況の報告、そして、募金者のリストが掲載されています。 第1回レクチャー&リサイタルは1980年3月7日に Stirling Castle の Chapel
Royal で開催され、その時のレクチャーは Seumas
MacNeill、演奏は John
の2人の弟である Iain と Duncan MacFadyen
が行いました。この催しについては既に 1980
年5月号でその概要が報告されています。 P13 John MacFadyen Memmorial Lecture は1980年5月号で概要が報告された第1回レクチャー&リサイタルに於ける、John の無二の朋友たる Seumas MacNeill による講演の詳細なレポート。 13ページにも渡る長文です。 講演といっても、とりたてて堅苦しい学術的な内容という訳ではなく、至って平易な言葉で、John MacFadyen の ハイランド・パイプ界に於ける華々しい活躍ぶりと様々な尽力とその成果について語られています。それらの多くは 1979年3月号の追悼文と重複しているので、あえて紹介は避けますが、John と最も近しい間柄であったシェーマスでな らではの、生前のジョンの人柄を偲 ばせるごくごくプライベートなエピソードは大変に興味深いものです。 例えば、当時のパイパーたちに付けられたニックネームが幾つか披露されています。"Bones" はちょっと前に活躍したジャッジとして有名なあ る人物とのこと。Seumas が「この会場に来てい る」という "The Wee Man" というのは言 わずもがなの Donald MacLeod のこと でしょう。"Mac the Knife" と呼ばれる のは誰? そして、"Thin Man" はシェーマス 自身のこと。そして、John MacFadyen は シンプルに "The Big Fellow" と呼ばれていたそうな。どちらかというと肉体的なことよりも、あらゆる面で偉大だったからそう呼ばれていたのです。 John MacFadyen
は正にその活躍の絶頂期にコンペティション・フィールドからきっぱりと身を引き、精神的なプレッシャーの下で演奏しなく
てはならないコンペティションより
も、真に音楽を楽しむことができるリサイタルこそ本来あるべき姿だと主張し、実際にそのようなリサイタルを国の内外で展
開したことは、Seumas の追悼文
にも詳しく書かれています。そして、なによりもまず、John
MacFadyen は「ハイランド・パイプを 愛しているからこの楽器を演奏する(he
played the bagpipe because he loved it)」という姿勢が貫かれ
ていて、それ故、ありとあらゆる理想的なシチュエーションを捉えてはハイランド・パイプを演奏したということです。 Seumas が実際にそのような状況を共有した経 験を伝えるこんなエピソードが紹介されています。 「あ る年の夏の夕、Oban(Argyllshier
Gathering)からの帰路、 Dalmally と Tyndrum の間のある場所に差し掛かった時、
ジョンは『我々はここらで小休止して一曲演奏すべきだ』と主張しました。我々はロードサイドに車を止め、私は道路左
側にジョンは道路右側に向かいました。 Tyndrum
からほど近いその場所は小さな湖(loch)が見える場所でした。私は程なく蚊の殺人的な攻撃に耐え切れず演奏を止
めて車に戻り、ジョンが“Catherine's Lament”を演奏するのを聴き惚れていまし
た。夕日が西から低く射す込む夕暮れのその景観は無類の美しさでした。 このエピソードを読んで、何故か私はデジャブにも似た思いを抱きました。というのも、このストーリーを読んだのがまるで つい先日の事のような気がしたので す。毎月こうして 30年前の "Piping Times" を読み返していると、どの記事についても「確かに大層昔に読んだけど殆ど忘れている」か「その当時は全く読 まなかった」というのが大方の印象 なのですが、そのような中で、このストーリーだけは読んだ時の事、そして「夕日指すハイランドの類い稀な美しい景色の中 でピーブロックを演奏するというの はさぞかし気分良いだろうな〜? 自分もそんなところに身を置いてみたいなもんだ。」と夢想に耽ったことをやけに鮮明に 覚えているのです。 さて、当時と現代とで根本的に状況が違うのは、今では単に想像するだけでなく、Googl Earth でその場を疑似体験出来るということです。例によって、この夕べに John と Seumas がパイ プを演奏した場所を推し量ってみました。 ↑ このエピソードで描かれている情報から推測して、その場所は A85号線の Tyndrum からほど近い場所にある小さな湖を眺める位置で、路肩に轍の後ある退避パースペースが確認できる正にこの辺りだと思われ ます。確かに、夏の夕日が指してい るような状況でこの場所に差し掛かったら、私も間違いなく同じことをするだろうと思います。 ←はこのレポートに挿入されていた最後の写真ですが、キャプションを読んでいただけれ ば分かるように、スコットランド、アイルランド、ノーサンバランド、それぞれのバグパイプ界を代表する巨人3人と Seumas 。 最後にもう一つのエピソードを紹介します。 究極の鎮魂演奏ですね〜。 |
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P14
Piobaireachd Society Conference は
3月14(土)〜15日(日)に開催された1981年のカンファレンスの概要レポート。 その当時の(…というか、現在もですが)カンファレンスの規模についてどのようなものか? 興味があるところですが、このレポートによると出席者はおよそ 50人とのこと。このレポートの最後にはなんとご丁寧にも参加者全員の名前が記されていたので、試しに一人ひとり数えてみた ところ、何組かの夫婦参加を含 めて総勢 56人でした。その内、私が名前を知っているような要人が10数人。 さて、肝心のレクチャーはどのようなテーマだったのでしょうか。 ところで、ご存知のようにピーブロック・ソサエティーのサイト(のメンバーズ・セクション)には毎年の講演録 (Proceedings)の PDFファイルが公開されていますが、何故かこの 1981年(と 1979年)の講演録は抜けています。以前にも書いたように、私は既に全ての講演録を紙ベースで入手済みなのですが、そ の中にもこの2年の講演録は有りま せん。何らかの理由で記録が無くなったのか、そもそも記録する機会を逸したのでしょうか? さて、カンファレンスではイブに当たる金曜夜と初日土曜の夜にケイリー(Ceilidh)が開催されるようですが、
このレポートではこのケイリーの中で演奏された曲が克明に記されています。 P18 John MacFadyen Remenbered は3月6日に開催された第2回の John MacFadyen Memorial Lecture/Recital の速報。 催しのオープニングとして、John MacFadyne
が Clasp で最初に優勝した際に演奏した曲“Beloved Scotland”が Hugh MacCallum によって演奏されました。 P24 "War or Peace" は久しぶりに曲の紹介です。紹介者はお馴染みの Roderick Cannon。以下、前半部分について大幅に省略した抄訳を…。
「この曲は、ピーブロックの中でもその名を最も良く知られている曲の一つである。しかし、(最近では)演奏されることは
至って少ない。一方で、18世紀後
半以降ピーブロックが初めて収集され楽譜に書き下ろされるようになった当時は、この曲は大変にポピュラーであったと思わ
れる。何故なら、この曲は "Patrick MacDonald's
A Collection of Highland Vocal Airs, 1784"
に始まり "MacLeod of Gesto's
Canntaireachd collection, 1828"、"Angus MacKay's Collection
of Ancient Piobaireachd, 1838"、Donald MacDonald MS、Peter Reid MS
と言った、当時出版された少なくとも5つの楽譜集に収められているからである。 "War or peace, it's all the same to me. さて、キャノンは 1978年4月号 で“Cha Till Mi Tuilleh”を紹介した時と同様に Patrick MacDonald のA Collection of Highland Vocal Airs に収められている楽譜を引用して解説(解析?)します。そこでも書いたとおり、この楽譜集の編集者たる Patrick MacDonald はパイパーではなかったた め、この楽譜にも装飾音は一切記載されていませんが、至って細かいことにこだわる性格の Patrick MacDonald が書き下ろしたこの楽 譜の精度はかなり高いものである、 というのが Cannon の 見解です。 例によって Cannon は、Patrick の採譜したこのスコアについて事細かに解析した 後、P26〜27の見開きを使って、 バグパイプ・アレンジメントを加えたスコアを書き起こしています。(クリックで拡大) 今回の記事ではありませんが、Alex Haddow も、例の "The History and Structure of Ceol Mor" の中でこの曲について、"This is the battle piobaireachd par excellence and probably has so for hundreds of years."(斜体強調文字も原文どおり)と書いているように、この曲、 実際にパイプでの演奏を聴いてみると大変素晴らしい曲です。どうして、最近は演奏されることが少ないのでしょう? さて、ついでに、Haddow の本から一つの興味深いエピソードを紹介しておきましょう。 「1813年の Battle of St. Pierre の際、クラン Gordon のパイパーがこの曲を演奏していた。ところが、そのパイパーが殺されてしまったので、すかさず2人目のパイパーが演奏を 引き継いだ。だが、程なくそのパイ パーも殺されてしまったので、とうとう3人目のパイパーが演奏を引き継いでやっと演奏し終わったと伝えられている。」 う〜ん、なんともやはり壮絶な時代だったのですね〜。 |
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P13
Second John MacFadyen Memorial Lecture は
1981年3月6日に開催された第2回記念講演の記録。 今回も
11ページに渡ります。(ただし、その内2ページは全面写真。)
講演者の Major-General Frank Richardson によって、主に今世紀前半に活躍した様々なマエストロ・パイパーたちと John MacFadyen との様々なエピソードが語られます。 Frank Richardson は Sumas MacNeill と共に“PIOBAIREACHD and its Interpretaion” (1987)を著した人ですが、パイプのかおり第 23話でも書いたようにこの人の文章はシェーマスのそれに比べると段違いに読み辛い。そして、それはどうや ら文章だけでなく講演にも共通するようで、今回のレポートは4月号で紹介した昨年のシェーマスの講演録に比べると翻訳し て紹介しにくい。 … ので、今回はレポートの中に何枚か挿入されているマエストロ・パイパーたちのスナップショットを転載することでお茶を濁 します。著作権は切れていると思わ れますので、誌面に掲載されていたとおりのオリジナルサイズです。どれをとっても中々味わい深い良い写真ばかりですね。 P24 The Scottish Pipers Association はサブタイトル を Spring Newsletter として、SPA のチェアマンたる Angus J. MacLellan による会の 4半期の活動報告。 4月11日に開催された Professional Competition の結果は、
1st P/M Angus MacDonald“MacDougall's
Gathering”、2nd Angus J.
MacLellan“Lament for Capt. MacDougall”、3rd P/M Iain Morrison“Too Long in
This Condition”、4th Tom Spires“Clan
Campbell's Gathering”だった由。 P32 Bicentenary Contest は、ページ下 1/3
程のアナウンスメント。 P33 Calum Piobaire's
Origins は、現代の多くのパイパーたちが継承する MacPherson Style
の一族の中でも最も有名な Calum Piobaire
こと Malcolm MacPherson(1833〜1898)
に関する記事。 MacPherson 一族のこ
とについては、パイプのかおり第23話の
冒頭で1984年の Piobaireachd Society Conference に於いて Seumas MacNeilll
が行ったレクチャーの報告のさわりを紹介していますが、今回の記事はそれとは別の側面にスポットを当てた記事。⇒パイプのかおり
第34話も関連記事 もう一つは、これとは対称的に最新の衛星画像。 P38 The Customers Always Write に興味深い投書が…。 |
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P9
Editorial で、シェーマスはこの10年間(つまり
1970年代のこと)の、ヨーロッパ各地に於ける様々なバグパイプのリバイバルの様子は、驚くべき状況である、と書いています。
そして、この年の 11月9日〜13日に、World Bagpipe Cnvention
という催しがベルギーで開催されることになったというが報告されています。 P11 A Visit to Australia は、1980年4月号で紹介した記事と同じタ イトルですが、今年(1981年)は、Murray & Patricia Henderson に代わって、Jimmy McIntosh が同様の招待を受けて、のべ5週間のオーストラリア&ニュージーランドに於けるレクチャー&チュートリアル・ツアーを敢 行したというレポート。2月のうす ら寒いスコットランドを抜けだして、陽光あふれる南半球で歓待されるのは、誰にとっても歓迎すべき申し出と言えるので しょう。 P28 The Principles of Air Maintenance and Air Exchanges in the Highland Bagpipe と いう長〜いタイトルの記事は、内容も濃くてのべ 12ページに及ぶ力の入った論文です。といっても、その半分は以下のような図で、その間に理系に強くない人には到底理解 不能な数式がズラズラ並んでいると いう記事です。内容が理解できないのですから、紹介しようがありませんので、幾つかの図を転載してお茶を濁します。 では…、 この辺りは、まだまだ直感的に理解可能な範囲。 でも、いよいよ次のような部分に差し掛かると、もう完璧にお手上げです。 ハイランド・パイプ愛好家には、我が山根先生の例にも明らかなように、理系の学者さんも多いのようで、 “Piping Times”の誌面には時たまこのような至って科学的な解析による論文が掲載されるのは、これまでも幾つか紹介してきたところです。 |
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P26
"Lament for Donald of Laggan" は4月号に続いて Roderick Cannon による曲の紹介。このところ立て続
けで、この年は実り多い年ですね。
さて、極めてポピュラーなこの曲ですが、日頃我々が聴いているバージョンは、Piobaireach Society Book(Vol.8/P219) や Kilberry Book に載っているセッ ティングで、元々は Angus MacKay の楽 譜集に収められていたものです。 しかし、実際にはこの他にも2つの別バージョンがあり、その内一つは John MacKay MS、もう一つはお馴染み Campbell Canntaireachd MS に収められているものとのことで、 Cannon に よって後者のカンタラックから初めて五線譜に書き下ろされたのが、↓の楽譜です。 Barnaby Brown は 1999年に Campbell Canntaireachd から書き起こした様々な曲の演奏を収めたアルバムをプライベートに作成しましたが、その "Classical Gaelic Piping of the 17th & 18th Centuries" というCD の中で、極めて珍しいこのバージョンの演奏音源を聴くことができます。 P27 Piping This Century は Angus J. MacLellan による、20世紀のパイ ピング・ワールドを手みじかに概観したシリーズもの。今回は2つの世界大戦に挟まれた激動の1920〜1939年の様 子。その内の一部を紹介しましょう。 1923年のトピックは P/M Willie Ross によって史上初めてハイランド・パイプの演奏がラジオ放送されたこと。 1926年には、John MacDonald が Oban(Argyllshire Gathering)の Gold Medal と Open Piobaireachd の両方に優勝したことが特筆されるとのこと。 1929年のパイピング界は当代随一のマスターパイパーたる G. S. MacLennan をその技量とキャリアの絶頂期に失ったという悲しい年。一方で明るい話題としては、Robert Reid、Malcolm MacPherson、Robert U. Brown、Robert B. Nicol といった若手パイパーたちがいくつかのメ ジャーな賞を獲得し始めた年でもあった。 1936年は Donald MacLeod という若い(1917年生/19才)有能なパイパーの名が世に出てきた年でした。 |
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目次にはありませんが、P14
の一面に掲載されている写真です。 P29 The Principles of Air Maintenance and Air Exchanges in the Highland Bagpipe は6月号の記事に続く Part 2。 今回もまた、なにやら難解な記事なのですが、挿入されている図が中々興味深げなので、またまたの究極の手抜き技で、 それらを掲載してオシマイにします。 |
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欠番のまま、どうしても入手できていません。 |
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P10 The Northern Meeting のレポートは
例 年のとおりにこの号冒頭に掲載。シェーマス・マクニールによって詳細にレポートされています。 "The County Hotel has gone, 〜 the Eden Court Theatre a new home 〜" という記述があるところを見ると、どうやら、この年から現在の会場に変更になったようですね。 Gold Medal コンペは 1st Jack
Lee“Black Donald's March”、2nd Iain Hines“The Finger Lock”、3rd Robert Barnes“The End of the
Great Bridge”、4th Colin Drummond“Squinting
Patric's Flame of Wrath”でした。 Clasp は、1st William
Livingstone“The Laird of Annapool's Lament”、2nd
Iain MacFadyen “The Rout
of the Lowland Captain”、3rd Donald
MacPherson“The Daughter's Lament”、4th Murray Henderson “Donald
Gruamach's March”という結果。 さてこの他のピーブロック部門として、Silver Medal コンペの結果は 1st Amy Globe (Ontario)、2nd Roderick MacLeod、3rd Leslie Watson、4th Peter Kent (North Carolina) ということでした。 ここでちょっと注意深くこれらの結果をチェックし直してみて下さい。お気づきになられたと思いますが、この年の The
Northern Meeting では、シェーマスが“First prize went to
young Jack Lee from
British Columbia ”と書いている Gold Medal
を筆頭に、全てのピーブロック部門の優勝者がカナダ人で占められたことです。これはこの由緒ある The
Northern Meeting の歴史の中でも初めての事。 そんな中、こんな写真が掲載されていたので、紹介します。 |
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1981年というのは、Canntaireachd No.17 のここで紹介した 1781年の 記念すべき Falkirk Tryst Contest から200周年に当たる年でした。P12 Falkirk Tryst Contest はこのイベントの 200周年を記念してこの年、The Highland Society of London によって主催されたコンペティションのレポート。 記録によると、1781年のコンペティションに於いてピーブロックの技を競ったのは
13人のパイパーであったということで、200年後のこのコンペティションでも、それにちなんで
13人の参加者が揃えられました。 13人の顔ぶれと曲目は次のとおり。 John MacDougall "Beloved Scotland"、Iain Morrison "Lord Lovat's Lament"、Donald MacPherson "Lament for the Children"、Murray Hendreson "The Daughter's Lament"、Iain MacFadyen "The Rout of the Lowland Captain"、Tom Speirs "The Lament for MacSwan of Roaig"、P/M Angus MacDonald "The Earl of Seaforths Salute"、Malcolm MacRae "MacLeod of Colbeck's Salute"、Angus MacLellan "Mary's Prise"、Bill Livingstone "Rory MacLeod's Lament"、Hugh MaCallum"Lament for the Earl of Antrim"、John Wilson "Lachlan MacNeil Campbell of Kintarbert's Fancy"、Andrew Wright "Lament for Colin Roy MacKenzie"、 そして、順位は、1st P/M Angus MacDonald、2nd John Wilson、3rd Iain MacFadyen、4th Iain Morrison、5th Hugh MaCallumという結果だったということです。 そしてもう一つ。この時期お決まりのコンペティション・レポートは、P28 The Argylshire Gathering 。 The Senior Piobaireachd の結果は次のとおり。 1st John MacDougall“The
Lament for the Laird of Anapool” The Gold Medal Piobaireachd の結果は次のとおり。 1st Gavin Stoddart“The
Prince's Salute”、 |
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恒例によって12月号には P11 Grant's
Championship のレポートが掲載。 さて、1981年のオーバーオール・チャンピオンに輝いたのは
Iain MacFadyen。そして、2nd Gavin
Stoddart、3rd Hugh
MacCallum の順でした。 ちなみに、ピーブロック部門の 1st も Iain MacFadyen“The Old Men of the Shells”でした。 その他のコンペティターとそれぞれの曲目は次のとおり。 2nd ★★★ Murray Henderson(1979
年の覇者)“The Lament for the Earl of Antrim” (冒頭の印は過去3カ年の連続出場状況/★は出場 /☆は初出場/_は参加実績無し/順位はピーブロック部門) 10人のコンペティターたちによる記念撮影。一番左の Jack Lee がいやはや何とも若い! いつものとおり、レポートで書かれている各コンペティターのそれぞれの演奏について事細かな解説は端折りますが、 Gavin Stoddart による“Lament for Ronald MacDonald of Morar”の演奏に関する記述の中に興味深い一文がありました。 曰く、「この曲に関して人々は直ぐに、数年前 John Burgess によって演奏された2つのとてつもなく素晴らしいパフォーマンスを思い起こさない訳にはいかない。一つはここ Blair Castle での演奏、もう一つは Clasp(The Northern Meeting)での演奏である。」 パイプのか
おり第22話で書いたとおり、私が最も好むこの曲の究極のパフォーマンスは John Burgess
によるものなのですが、やはり同様の思いを懐く人が多く居るということなのですね。 毎年のコンペティション・シーズンの最後を飾り、その年の主要なコンペでの上位入賞者のみが招待されるこのコンペティ ションが、実質的にその年の The Best of the Best のパイパーを選出する競技会、いうなれば世界一のコンペティションであることは、第8回目を迎えた 1981年の時点で既に衆目一致するところとなっていたようです。 そして、世界一のコンペティションということは、招待されるパイパーたちの演奏レベルの高さだけでなく、イベント全 体と通じたホスピタリティーについても言える、ということがレポーター(この記事には記名が無いので、多分シェーマス自 身)によって強調されています。Wm Grant and Sons Ltd が全面的に支援するこのイベントの待遇は具体的には次のような手厚いものだということです。 ・招待される全てのパイパーと全てのジャッジ(Ceol Mor &
Ceol Beag
部門)及びその奥様達について、名誉ゲストとしてホテル宿泊及び前夜祭&メイン・セレモニー&後夜祭へのご招待。 う〜ん、確かに厚遇ですね。名実ともに世界一な訳だ…。 P26
The David Fraser - Lord Lovat Indenture は久方ぶりのピーブ
ロックネタ。 1745年の Jacobite Rebellion
以降、没収された土地を管轄するエジンバラの登記官の下で保管されていたその文書が初めて公表されたのは
1909年のこと。その後、1933年に出版された“MacCrimmon of Skye”と
いう本や、“Piping Times”Vol.21/No.3(1968年)
誌上、そして、Francis Collinson の“The Bagpipe”(1975
年)などの中で取り上げられてきたということです。 "At Beaufort the Nynth day of March One thousand seven hundred and forty three years, It is Contracted and Agreed upon betwixt the Right Honourable Simon Lord Fraser of Lovat. One the one part And David Fraser his Lo(rdshi)ps servant Brother german to William Fraser Tracksman in Bewly his Lo(rdshi)ps Musician, And the said William Fraser as Cautioner and surety for his said Brother on the other part, In manner following That is to say, Whereas the said Simon Lord Fraser of Lovat has out of his own Generosity Cloathd and mantaind the said David Fraser for these severall years past, And has also bestowed upon him during that time for his Education as a Pyper with the now deceast. 〜" こんな具合の古い言い回しの契約文書と悪戦苦闘しながらも、どうにかこうにか大づかみに理解したところでは、どうや ら次のようなことが書かれているようです。 ・Simon Fraser は David Fraser
が一人前のハイランド・パイパー(Highland pyper)と成るべく、スカイ島の高名なパイパーである
Malcolm Mcgrimon の下へ7年間の修行を行うために派遣する。 ちなみに、1715年頃に生まれ、1811年に 96才で死去したと推定されている David Fraser はこの契約の当時はおよそ28才だったことになります。 それにしても、さすがに何事も契約で成り立つ西欧社会。クランの主従の間でも当時からこのようなドライで実務的な契
約書が交わされていたのには感心します。 |
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