CANNTAIREACHD - MacCrimmori's Letter - No.17

ピーブロックの家元、MacCrimmon 一族

1st March 1998

 の ところの2回の通信で、まじめにピーブロック史上の人物を取り上げてきましたので、いよいよ今回はMacCrimmon(マクリモン)一族の歴史について 書いてみます。といってもピーブロックとマクリモンとは同義語のようなものですから、限られた通信の中でこの偉大な家系の全体像を書くことは少々無謀で す。そこで、今回はこの通信14年通算17号の歴史上初の4ページ特別エディションでお届します。(注:紙版の Canntaireachd は通常A4一枚表裏でした。)
 主なテキストは“PIOBAIREACH”by Seumas MacNeilll (BBC Pub./1968)、“PIOBAIREACHD and its Interpretaion”by Seumas MacNeilll and Frank Richardson (John Donald Pub./1987)、“The Art of PIOBAIREACH”by Ian L MaKay (Comunn na Piobaireachd (NZ) inc/1966/revised 1996) です。


 ーブロック史上における“the MacCrimmon era(マクリモンの時代)”とは Donald Mor MacCrimmon の誕生した1570年から、4代後の Donald Ruadh が死亡した1825年までのことを言います。
 しかし、この一族の名が言い伝えの中に現れるのは16世紀初頭、Donald Mor の祖父(であったと思われる)Finlay の時代です。
 実はマクリモンという名称はマクドナルドやマクロードといった一般的な Mac〜 という家系とは違って、それより以前に遡ることができないことから、この一族の元々の名前はマクリモンではないと考えられています。つまり、一族はある時 点でスカイ島に移住してきてから“MacCrimmon”を名乗り始めたというのです。では、そのような彼らは一体どこから渡ってきたのか? これには諸説があり、まるで邪馬台国論争と同様に様々な推測がされています。


 ず第1の説はドルイド説。つまり彼らはドルイド、あるいはドルイドの子孫であったとするもの。
 この説の根拠は、彼らの好みの色が(ドルイドの象徴であった?)ブルーであったということ。
 もう一つは,彼らが傑作を生みだすために「食事と睡眠を極端に切り詰めて,自らを殆ど錯乱状態に近いほどの異常な精神高揚状態にして作曲に臨んだ。」と言い伝えられていることです。でも,まゆつば物のこの説についてはシェーマス・マックニールも「無視していいのではないか」と書いています。

 2の説はアイルランドから渡来したという説
 スコットランド人のルーツはアルスターから移住してスコット人ですし、多くのケルティックアートはアイルランドが起源です。また、船でわずか12マイル しか離れていない地理的な位置関係と当時の社会状況からみて、アイルランドとの文化的、社会的つながりは非常に強かったはずですから、これはごく自然な仮 説です。
 ただ、この説の最大の疑問点は「アイルランド音楽の中に、過去も現在もピーブロックと似通った音楽形式の痕跡が全く見あたらない。」ということです。しかし、このことに関しても次のような仮説が立てられなくはないのです。
 それは、その昔アイルランドにも実はピーブロックのような音楽形式があったのだが、1367年のキルケニー法(アイルランドの歴史に疎い私はこの法の具 体的内容は知りませんが…。※)によって当時のアイリッシュ・バグパイプが非合法化されたことに伴い、その音楽形式は全く廃れてしまった。一方、アイルラ ンドから移住したマクリモンの祖先によってそのような音楽形式がスコットランドにもたらされさらに発展したという考え方です。
(※2009年追記:現在ではインターネットで検索すれば例えばこんなサイトで簡単に歴史が学べます。)

 3の説はスカンジナビア出身説。
 しかし、実はこれは第2説以上にあいまいな説です。というのも、ハイランド西方諸島に住むクランは殆ど全てがアイルランドかスカンジナビア出身で、クラ ン・マクロード自体がスカンジナビア出身だといわれます。ですから、この説は当たらずとも遠からずといったところで、特に強い根拠はないようです。

 4の説はハリス諸島から移って来たという説。
 クラン・マクロードはスカイ島の大部分とともにハリス諸島などを領地としていたこと、Patrick Og の2番目の妻はハリス諸島の出身であるということなどを根拠としています。
 しかし、この説の場合「同じマクロードの領地内を移動しただけなのに、何故名前を変える必要があったのか?」という疑問が残ります。

 後の説は、ちょっと大胆です。それは、なんとマクリモン一族はイタリアのクレモナ(Cremona)からやって来た、そして、マクリモン(MacCrimmon)という名前はこの都市の名前に由来するというクレモナ出身説です。
 具体的には、マクロードのチーフが16世紀始めにグランドツアー(中世に貴族階級の子弟が見聞を広げるために行った欧州見聞旅行)に出かけた際に、ある イタリア人パイパーの評判を聞き、そのパイパーをスカイ島に連れて帰った、というのがこの仮説の内容です。
 若きマクロードがグランドツアーに出かけたは可能性はありますし、当時のイタリアには多くのパイパーがいたことも事実。そして、クレモナはオペラの発祥の地であるように当時の音楽の中心地であったことなど、この説と符号する点は多くあります。

 た、なによりもこの説が支持される点は、後世のマクリモン一族自身がこの説を信じていたようだということです。つまり、最後のマクリモンの一人である Iain Dubh がある人物に「自分たちの祖先は1510年にクレモナを離れた Pietro Bruno という人物である。」と 語ったということがある記録に残っているのです。その記録によると Pietro Bruno は15世紀後半の聖職者の息子で、一家はプロテスタントとして宗教的迫害を受けイタリアからアイルランドに渡り、その後、マクロードのチーフに請われてス カイ島に来たということです。
 Bruno というのはファーストネームとしてはごくありふれたものですが、姓としては非常に珍しいということで、 シェーマス・マックニールの朋友であるトマス・ピアストンは1953年にイタリアを訪ねこの件について調査を行いました。
 そして、1515年のクレモナには Bruno 家が一戸存在したが、1585年には一戸もいなかった、ということを確認したそうです。ケルト原理主義者たちにはすんなりと受け入れられそうにないこの説ですが、冷静な学者であるシェーマスたちは、どうもこの説を最も正解に近いものと考えているようです。
 しかし、私にはこの説に反論する立場の「ピーブロックの音楽構造と他のケルティック・アートとの強い関連性(Letter No.11参照)から考えて、ピーブロックは紛れもなくケルティック・オリジンの芸術である。」という主張にも強い説得力があるように思えます。


 あ、こういう論争の常に違わずそれぞれの説には強硬な支持者や反対論者が居るのは当然です。ですから、シェーマスも単なる「マクリモン起源論争」に無駄なエネルギーが費やされることは避けようとしているのか、「マクリモンがどこから来たのかということは大きな問題ではない。それよりも、この一族がヘブリディーズ諸島というヨーロッパの辺境の地に於いて、ピアノが発明される100年以上も前に、そして、バッハが近代的な管弦楽を確立する150年前に、一体どのようにしてバグパイプの音楽をかくも高度な芸術として完成させたのか? このことの説明を明らかにすることの方が興味深いことである」と強調しています。

 にもかくにも、16世紀初頭か遅くとも半ばにはマクリモン一族はどこからかスカイ島に移り、ダンベイガン湾のほとり、マクロードの居城であるダンベイガン城から4マイル程の地、Galtrigall に住みついたということは確かなようです。
 当時のマクリモンの人物としては、 Finlay、Iain Odhar、Padruig Donn といった名前が伝えられていますが、実はそれぞれの正確な関係は定かでないということです。ただ、最初にマクロードの世襲パイパーとなった人物は、Donald Mor の父親とされる Iain Odhar だということはほぼ間違いないようです。


 て、その頃のバグパイプ音楽は一体どのようなものだったのでしょうか? 
 それは現代に伝わるピーブロックほどには込み入ったものではなく、スローエアーに簡単なバリエイションが加わったもの、よくて未完成ピーブロックといったところだったと推測されています。
 代表的な例として“Dancan Macrae of Kintail's Lament”“Park Piobaireachd No.1”などがあげられます。また、1526年のある殺人事件に由来する“MacIntosh's Lament”や、1562年の Rory Mor MacLeod の誕生に際して作曲されたと伝えられる“Salute on the birth of Rory Mor MacLeod”もそのようなシンプルなピーブロックの例です。

 ころが、そのような単純な構造のピーブロックが、早くも16世紀末には複雑な構造をもった音楽形式として完全に確立されます。シェーマス・マックニールは「高度に込み入った構造を持ったピーブロックの音楽形式が一世代や二世代の間に完成されるとは考えにくく、そこに至るまでには長い間のトライアル&エラーの作業があったはずだ。」と推測します。そして、短期間にピーブロックの形式が確立されたことから考えて「マクリモン一族がスカイ島に来た時には彼らはすでにそのような高度な音楽形式を知っていて、その形式を持ち込んだ考えるのが妥当である。」としています。シェーマスはここでも暗に「マクリモン−クレモナ由来説」の信憑性を示唆しようとしているように思えます。


 れまでの時代に比べると、Donald Mor 以降の様子はよりはっきりしています。Donald Mor は1570年に生まれ、1595年に結婚し(ハイランドの伝統にそぐわない早婚なのは、同年に Patrick Mor が生まれているところから考えていわゆる「できちゃった結婚」か?)、1620年に Iain Odhar から世襲パイパーの地位を引き継ぎます。
 彼の“big, rough, and aggressive”な風貌と、荒々しくも冒険に満ちたその一生は数多く言い伝えられています。そしてまた、彼の作ったピーブロックにはそのような彼の性格がよく映し出されているということです。

 “A Flame of Wrath for Patrick Caogach”(Patrick Caogach に捧げる激怒の炎)という恐ろしい題名のピーブロックはそんな彼の行動をよく表したものです。
 そのストーリーとは、兄弟の Patrick Caogach が暗殺されたことに怒った Donald Mor が、犯人を隠れ場所からいぶり出し報復すため、ある村の家屋を18軒も焼き払ってしまったというものです。(うーん、やはりこの行動はイタリア仕込みのラ テン系の明るさというよりは、好戦的で、気が短く、喧嘩っ早いといわれるケルト人ならではのものだよな〜。)

 の他の彼の作品としては、1603年にそれまで永年続いてきたクラン・マクロードとクラン・マクラドナルドとの紛争に終止符が打たれたことを記念して作曲されたという“MacDonald's Salute”“MacLeod Controversy”“MacLeod's Salute”(Letter No.12 参照)の3部作が有名ですが、その他に“Lament for the Earl of Antrim”“The Earl of Ross's March”など多くの作品が伝えられています。
 Donald Mor の このような功績により17世紀初めにはすでにマクリモンの名声はハイランド中に響きわたります。優れたパイパーを抱える事が大きなステータスであった当時 のクランチーフたちは、自らのクランの選り抜きのパイパーを競ってマクリモンの下に送り込み、その技を修得させようとします。そこで Donald Mor は居住地であった Galtrigall に於いて、パイプスクール“College of Piping”の運営を始めることになります。


 1640年、Donald Mor が70才で死ぬと、マクロードの世襲パイパーの地位と College of Piping のディレクターとしての役割は息子の Patrick Mor に引き継がれます。
 Patrick Mor は父親の荒々しい性格とは正反対の内省的な性格であったと言われています。特に、彼の人生観に大きな影響を与えたのは、“MacCrimmon of tragic legend”としてあまりにも有名な「わずか一年の間に8人の息子の内の7人までを次々と病気(天然痘)で亡くす。」という痛ましい悲劇に見舞われたことです。やはり、当時のハイランドは長寿と短命が隣り合わせの厳しい暮らしだったのですね。
 しかし、この悲しみの中からピーブロックの最高傑作と誰もが疑わない名曲“Lament for the Children”(c1650)が生まれました。Children という複数形の意味するこの曲が生まれた背景となった何とも悲しいストーリーを知れば、聴くもの誰もがこの美しい旋律に込められた Patrick Mor の心情に心を動かせられずにはいられないでしょう。

 方、彼は人間としての情熱には忠実な人物で、特に女流バルド、Mairi Nighean Alasdair Ruadh - Mary MacLeod - との恋愛関係は有名な伝説になっています。実はこの関係は2人の個人的な利益だっただけでなく、お互いの芸術面に大きく影響を与え合い、バルドとパイパー双方の文化にとって後々、非常に有益な結果を残すことになりました。
 つまり、Mairi Patrick Mor のピーブロックに影響を受け、それまでのバルドの詩作における保守的な慣習を取り払い、現代に続く自由で流れるような詩作の形式を作り上げるという大きな功績を残したと言われます。
 そしてもう一方の Patrick Mor は父親の作品の特徴である短く繰り返しの続くメロディーラインとは対象的な、自由で流れるようなメロディーラインを確立したのです。
 そのようにして確立された彼の作品の特徴は「メロディーラインの長さと、左手の音(高い音)が多用されること、そしてキーノートとしてはDとAを好む」ということですが、これらは全て Donald Mor の作品と正反対の特徴だということです。さらに最も対照的なことは、Donald Mor は殆ど Lament を作曲しなかったと伝えられているのに対してPatrick Mor は1曲の例外を除いて Lament しか作曲しなかったということです

 クリモンの歴史上、作曲面ではまぎれもなく一つの頂点であった Patrick Mor の作品についてシェーマス・マックニールは次のように書いています。
 「彼の後にも多くの偉大なマクリモン・チューンが作曲されたが、彼の曲ほど息を飲む程の美しさを持った曲は無い。作曲面で彼の最大のライバルである Donald Mor の作品が荒々しく、躍動的なものであるのに対して、Patrick Mor の作品は優しく軽く、まるで頭上高く山の頂からおおきなワシがゆっくりと舞い降りてくるかのような雰囲気を感じさせる。」

 の他、私たちがよく知っている彼の曲としては“I Got a Kiss of the King's Hand”“Lament for MacSwan of Roaig”(c1651)、長いものが多い彼の曲の中では珍しく「短くも美しい」“Lament for Donald of Laggan”(c1635/Letter No.15 参照)、そして、“The Groat”“Lament for the Only Son”(この場合の“son”は自分の子供のことではないそうです)などがあります。

 17世紀はまさに様々なゲーリック・カルチャーの黄金時代であり、パイピングにおいても満開の花が咲いた状況でした。ハイランド各地にもいくつかのパイプスクールが出来、多くのクラン・パイパーが育ってくるようになりました。
 しかし、そのような中においても、Patrick Mor の活躍とともにマクリモン・カレッジの名声はさらに高まり、「マクリモンの下で学ばない限り一人前のパイパーとして認められない。」と言われるまでになっていました。


 1670年に Patrick Mor が75才で死去した後は、8人の息子の唯一の生き残りである Patrick Og がその地位を引き継ぎます。1645年生まれで当時25才の Patrick Og はそれまでのだれよりも若くしてマクリモンの世襲パイパーに就任することになりました。そして、これはマクリモンの時代の中で最も充実した時代の始まりでした。

 くのパイパーの言い伝えの中で、Patrick Og “the greatest of the MacCrimmons”といわれています。先代の2人に比べて作曲面に於いては確かにそれ程多くの傑作を残しませんでしたが、なにより際だっていたのは“the best actual player of the instrument”と言われるその卓越した演奏技量、そして、“a master teacher”と言われるように、血族以外にも後世にも名を残すような有能なパイパーを数多く育てたバグパイプ指導者としての功績です。

 高の弟子であり、Patrick Mor と並んでマクリモン 時代における作曲面でのもう一つの頂点を築いた Iain Dall MacKay(“Lament for Donald Doughal MacKay”の由来が判明した現在、彼の評価はさらに高まったと言えるでしょう/Letter No.16 参照)、後にマクリモンに並ぶパイプスクールを運営することになる Charles MacArthur(Letter No.11 参照)、そして、“Prince's Salute”や“My King has Landed in Moidart”(c1745)などの作者 John MacIntyre などなど。これらのパイパーたちは Patrick Og の下で通常で7年間(MacArthur はなんと11年間も過ごしたということ)の研修を終えた後、それぞれ自分の仕えるクランに戻り、子孫や弟子たちにしっかりとピーブロックの伝統を伝えました。
  つまり、 Patrick Og の卓越した演奏技術とマクリモンの膨大なピーブロックの財産をしっかりと引き継いだ弟子たちは、それまではマクリモン一族だけのものであったピーブロック という芸術を、複数の系統で後生に伝えるという重要な役割を果たしたのです。言い替えれば、現代に伝わるピーブロックという音楽は全てこの Patirck Og の演奏をルーツとするといえるのです。


 Patrick Og は確かに先代に比べると《壮大な》といえるような曲は残していませんが、Lament for Mary MacLeod“Too Long in this Condition”といったどちらかというと親しみやすい曲を残しています。
 私は Patrick Og の功績はこれらの作品とともに、多くの弟子たちを育てたこととだけでも十分ではないかと思うのですが、実は Patrick Og がピーブロックの音楽形式に残した功績としては、もう一つ大変重要なことがあります。それは、「過剰な装飾の簡素化」です。
 Letter No.15 で紹介したように、当時のピーブロックのバリエイションは異常なほど複雑な装飾音で飾られていましたが、Patrick Og はそれらの過剰な装飾音を大幅に整理し、全体としてバランスのとれたより洗練された音楽形式として完成させたの です。卓越した演奏技量を持ちながら、いや、だからこそいたずらに技巧に走るのではなく、曲の持つ美しさをより一層際だたせるアレンジャーとしての「技」 を持った優れた音楽家だったのです。(うーん、やっぱり《神様》、なにやらエリック・クラプトンと共通するところがあるな〜。これからは、Patrick - Slow hands - Og MacCrimmon と呼ぼう。)

 Patrick Og の就任によりますます生徒が増加したマクリモン・カレッジは宿泊施設の増加の必要もあり、この時期に当初の場所 Galtrigall から、1マイルほど離れた Boreraig に移動します。そして、この Boreraig こそ、その後全てのパイパーにとっての《聖地》となるのです。


 1730年、Patrick Og が85才で亡くなると、かれの地位は1690年生まれの長男 Malcolm に引き継がれます。しかし、お気付きのとおり、Malcolm の時代は1745年のジャコバイト・ライジング(Jacobite Rising/シェーマス・マックニールは Rebellion という表現はしません)の激動、そして、Culloden の戦い以降のハイランド文化の暗黒時代のまっただ中になるわけで、悲しいかなそのような中で彼が果たした役割はどちらかと陰が薄くなりがちです。

 こで、意外に思われるであろう事実とそれにまつわる興味深いエピソードを一つ。
 実は、マクリモンが仕えていたスカイ島のクラン・マクロードは Jacobite Rising に際してはなんとイングランド側に付いたのです。
 そして、パイパーとして従軍した Malcolm は、1745年12月23日の Inverurie の戦いで敵(ジャコバイト側)に捕われます。しかし、ここでマクリモンという名前がもたらしたマジックが起こりました。翌朝、本来ならバグパイプの音色が 響きわたるはずのジャコバイトのキャンプが何故か静まり返っていました。司令官の問いかけにパイパーたちは「マクリモンが捕虜として捕らえられている限 り、私たちはバグパイプの演奏を拒否する。」と答えたというのです。そして、その結果、Malcolm は無事釈放され、自分の軍に戻ったということです。

 う一つ、多くのトラッドファンを深淵なるスコティシュトラッドの世界に引きずり込んだ Dick Gauhgan の名唱で有名な“MacCrimmon's Lament”について…。
 この類い稀な哀愁に満ちたラメントは、Malcolm の弟である Donald Ban がジャコバイトとの戦いに出かける際に、自らの死を予感して作曲したと言われています。そして、実際に彼は1746年2月16日の the Rout of Moy の戦いに於いて36才の短い一生を終えてしまうのです。そして、Dunvegan に残された彼の恋人が、Donald Ban が生前に作曲したメロディーに載せて、彼を失った悲しみを込めた詩を歌ったのが“Cha till MacCruimen(MacCrimmon will never return)”(別名“MacCrimmon's Lament”というラメントであり、同名のピーブロックとして連綿と奏でつづけられているのです。
 あまりにもドラマチックすぎるこのエピソードが真実であるかどうかはどうであれ、あの曲の悲しみに満ちたメロディーには、このようなエピソードがまさにぴったりくると言えるのではないでしょうか。⇒関連記事
 Donald Ban は、マクリモンパイパーの中では最も短命であった薄幸の人ですが、その死の悲しみの中から兄の Malcolm によって、“the last great MacCrimmon composition”と言われる演奏時間20分を超す大作“The Lament for Donald Ban MacCrimmon”が作曲され、その名は末永くスコットランドの人たちの心に刻み込まれ続けることになるのです。


 Culloden の戦いの後、あの“Act of Proscription”によってキルトやタータンの着用、そして、ハイランド・パイプも含めて全ての武器を持つ事を禁じられたハイランドの様子は、まさに「火の消えたような」という表現がそのまま当てはまる状況だったのではないかと想像されます。
 ハイランドの様々な伝統的な生活様式が完全に否定される中、バグパイプを取り巻く状況としても、多くのパイプスクールは閉鎖され、パイパーの数も徐々に減っていきました。
 しかし、完全に禁止されたタータンやキルトの着用などと違って、バグパイプについては全く演奏が出来なくなったというわけでもないようです。というのも、いくら法律の内容が厳格でも、ハイランドの谷間やアウター・ヘブリディーズの島々といった地理的に隔絶された辺境の地において、バグパイプの演奏を全面的に取り締まるということは、実はそれほど簡単な事ではなかったのです。
 また、当初非常にシビアに適用されたこの法律も、時を経る従い、ことバグパイプに関しては意図的にこのような曖昧な適用をしていたとも考えられます。ですから、これらの地においては案外自由にバグパイプが演奏がされていたというのが真相らしいのです。

 のような証拠として興味深い事実があります。
 Culloden 以降の文化的暗黒時代を経てマクリモンの影響力が急速に求心力を失う中、ピーブロックとその演奏技術を伝承し続けた Patrick Og の末裔たちにとって大きな求心力として働いたのがハイランド・ソサエティーが主催するパイピング(=ピーブロック)コンペティションでした。
 ところが、不思議なことにこのコンペティションが最初に開催されたのは、Act of Proscription が解除される1782年に先立つ一年前の1781年のことなのです。何故、Act of Proscription が解除される前にバグパイプのコンペティションが開く事ができたのでしょうか。実はそれには巧みな言い訳がありました。

 のコンペティションが開催された場所は Edinburgh の西にある Falkirk でしたが、ここでは毎年10月に定期市が開催されていて、コンペティションもこの定期市に併せて開催されました。実は Act of Proscription の下でも、家 畜(牛)商人たちについては、牛強盗から身を守るために武器を持つことが許されていたのです。つまり、彼らはバグパイプについても堂々と携帯し演奏するこ とができたのです。ですから(事実はどうであれ)パイパーたちはあくまでも家畜商人という立場でコンペティションに参加すれば法律違反にはならなかったの です。言い替えれば、この法律もこの頃にはそのような言い訳が通用するほどに形骸化していた訳です。そして、1782年にこの法律が解除されると翌年からコンペティションの会場は堂々と Edinburgh に移され、以後毎年開催されるようになります。


 て、バグパイプが現実的にはそれほど厳しくは取り締まられないという状況の中で、マクリモンにとってさらに好都合だったのは、Jacobite Rising に際して彼らがイングランド側について戦ったということでした。
 Act of Proscription はハイランダーのアイデンティティーの喪失を目的としたものですから、どちらの側についていたかということは関係なく、全てのクランに適用されました。で すから当然、彼らの仕えていたクラン・マクロードにおいてもタータンやキルトの着用、武器の所持は禁止されたのですが、Boreraig におけるマクリモン・カレッジの運営については例外的に認められていたのです。

 は言っても実際にはパイパーの数が激減する中で、各地のクランから沢山のパイパーが馳せ参じたような往時の華やかさがあるはずがありません。ですから Malcolm がマクリモンの伝統を教える対象とした弟子というのは、つまりは Iain Dubh (1731年生)と Donald Ruadh (1743年生)という自分自身の2人の息子たちでした。ハイランド社会が崩壊してしまった中でも、マクリモン一族が拠り所とすることができるのは、唯一、先祖から連綿と引き継いできた伝統ある世襲パイパーとしての地位だけだったのです。
 マクリモンの膨大なピーブロックの財産を引き継ぐことが運命づけられた2人には、生徒の数が少ないことのメリットとして、以前にもまして密度の濃い教育が授けられたのでした。後年、Iain Dubh“The Glen is Mine”を、そして、Donald Ruadh はあの名曲“MacCrimmon's Sweetheart”を(一説では Malcolm の作とも言われる)作曲したと伝えられています。

 こ ろで、ここでちょっと思い起こしておいて欲しいのは、当時のパイパーたちは先人たちが作曲したピーブロックを全てカンタラックで伝授され、そして、その全 てを頭の中に記憶していたという事です。それも、マクリモンの時代もかなり下ったこの時代になると、それまでに作曲されたピーブロックの数も半端な数では ありません。ちなみに、マクリモンのパイパーたちを始めとして当時の一流パイパーは一曲10〜15分程度のピーブロックを200曲以上も記憶していたと言 われています。世界中どこでも同じでしょうけど、伝統芸能を伝える人たちってのはスゴイですよね。


 Malcolm は1769年に死去しました。名声の絶頂期にあったマクリモン・カレッジを引き継ぎながら、他のハイランド文化とともにそれが崩壊していく過程を見つめて いなければならなかった彼の一生は失意の連続だったでしょう。しかし、そのような状況にも関わらず、ピーブロックを次代に引き継ぐ上で、彼が果たした役割 は非常に価値のあることだったのです。

 Malcolm の晩年、カレッジの運営をまかされていたのは、より優れたパイパーであったと言い伝えられる若い方の息子の Donald Ruadh でした。
 しかし、Malcolm の 死を受けて、マクロードのチーフはより現実的な対応を示してきました。つまり、世襲パイパーであるため住居とカレッジのあった Boreraig の土地の使用料は無料として手厚く扱われていたマクリモン一族に対して、Boreraig の土地の半分については使用料を払うように通告してきたのです。
 Donald Ruadh は憤慨してマクロードのこの通告を拒否し、いさぎよくカレッジに幕を引くとアメリカに渡ります。アメリカではノースカロライナの軍隊に将校として迎えられ、1775〜83年のアメリカ独立戦争を戦ったということなのです。
 彼は結局20年余りをアメリカで過ごしますが、1792年には再びスカイ島に戻り、ダンベイガン湾を挟んで Boreraig の対岸に位置する Waternish に小作地を得て暮らし始めます。

 Iain Dubh も一度はアメリカへの移住を考えたのですが、結局それもあきらめ、Donald Ruadh がアメリカに渡った後も、年£8のサラリーをもらいながら世襲パイパーとしてマクロードに仕えていました。しかし、そんな彼も1796年、マクロードのチーフと喧嘩分かれをし Boreraig を離れます。
 それを受けて、マクロード・チーフは Waternish に住む Donald Ruadh に世襲パイパーに復帰することを申し入れます。Donald Ruadh も今回は Boreraig の土地使用料を支払うという条件をしぶしぶ受け入れ、再びマクロードの世襲パイパーの地位に戻りました。

 1808年、Highland Society of Scotland は、Donald Ruadh を教授として迎えて、Academy of Piping という組織の設立を計画しますが、結局、このプロジェクトは日の目を見る事なく立ち消えになってしまいます。当時65才で(マクリモンパイパーの平均からいえば)まだまだ若く精力的で活動的だった Donald Ruadh はこのことに非常に落胆したと伝えられています。そして、その Donald Ruadh も1811年、マクロードとの借地契約が切れるとともに Boreraig を去りました。

 人のこれらの振る舞いは、消えかけようとするマクリモンの威光の下で、その呪縛からのがれようと苦闘しながらも、結局それから離れたところでは生きていくことができない最後のマクリモン・パイパーたちの悲しくも同情をさそう姿と言えるのではないでしょうか。


 1822年、Iain Dubh は91才でこの世を去りました。それから、わずか3年後の1825年、Donald Ruadh も82才でその後を追いました。2人に子孫がいなかった訳ではありませんが、もうすでに子孫たちが世襲パイパーの地位を継ぐという時代ではなかったのは言うまでもありません。栄光あるマクリモンパイパーの歴史に完全に終止符が打たれたのでした。

Yoshifumick Og MacCrimmori

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