ハ イランド・パイプに関するお話「パイプのかおり」 |
第32話(2009/5) The Origin of the MacCrimmons パイプのかおり第31話で紹介した "The Piper's Warning to His Master" についての新説 を掲載していた "Piping Times" 2009年 2月号に は、実はもう一つ大変興味深い記事が載っていました。ただし、正確に言うとそれは《記事》ではなくて《読者投稿 / Letters》。投稿者は Fife 在住の Eric McKimmon という人で、タイトルは… "McCremon in Ireland" その内容は、Canntaireachd No.17 で紹介したシェーマスによる MacCrimmon 一族の由来に関する5つの説 ー(1)ドルイド説(2)アイルランド説(3)スカンジナビア説(4)ハリス島説 (5)クレモナ説 ー について、この人なりに最近じっくりと考えを巡らしてみたそうな。そして、特に地理的にごく近いアイルランド説につ いて考察してみた結果、ある考え方に達したという報告といったところ。 今を感じさせるのはその解析方法。なんと、インターネット上の先祖& 家系検索サイトを使って考察しているんです。 この検索サイトで "Ireland" & "Crimmin" で検索すると 171件がヒットする(実際に私も検索してみたら確
かに 171件ヒットしました)。
そして、18世紀まで遡るそれらの人々の誕生、死亡、結婚などのデータを読み解いてみるとその大部分の居住地は
Cork 州 と Kerry 州 である。 アイルランドの家系の専門家 Edward MacLysaght によると、Crimmin やその派生の綴りは、「曲がった」を意味する 'crom' に由来していて、アイリッシュ名では O'Cruimin となる。 記録に残っている名前でもう一つ興味を惹く MeCremon と
いう名前がある。 その証書の写本の中には、McCrumon、McRemon、McRedmond といった名前が繰り返し出て来ている。そして、こられは皆、McRedmond(ア イリッシュ綴りでは MacReamoinn となる)のバリエイションになる。 また、Galway 州の Clare の Barlny という場所の土地の譲渡証書にも McCremon と MacRemon という名前が出て来くる。 投稿者は、これらの証拠が直ちにスカイ島の MacCrimmon 一族との関連性を証
明するものではないとしても、少なくとも McCremon
や Crimmin と
いう名前がかなり早い時期からアイルランドで存在していたことは明白なこと。シェーマスが書いているように、MacCrimmon 一族は Donald
Mor MacCrimmon の誕生したとされる
1570年以前にスカイ島に移住してきた際に名前を変えたとされているので、元の名前が Crimmon か
あるいは McCremon であったという可能性は高いのではないか? さ〜て、この投稿があった僅か3ヶ月後の "Piping Times" 2009年5月号に、かの Bridget MacKenzie 女史が Analysis のコーナーでこの投稿に呼応して次のような分析レポートを発表しました。タイトルは… "The MacCrimmon and Their Unproven Links With Ireland" MacKenzie 女史、Eric McKimmon 氏の投稿を読んで次の2つの明らかな史実が頭に浮かんだそうな。 一つ目は、スコットランドに於ける MacCrimmon
という表記について。 二つ目は、13世紀中には、アイルランドからスコットランド西方諸島 に才能と学識に溢れた多くの氏族が移住したということが証明されていること。そして、それらの中には、詩人、音楽 家、学者、ストーリーテラー、医者などといった才能の民が多く含まれていたのである。 それらの移住は主に政治的な動機によるものであった。 歴史を 振り返るとその時期までの長い間、それらの音楽家、吟遊詩人、芸人、医者などはアイルランドとスコットランド西方諸 島の間を自由に行き来して各地の領主たちの屋敷を渡り歩き、その当時大いにもてはやされたそれらの芸術や才能を披露 しては、自分たちの生活の糧にしていたのである。アイリッシュとスコティッシュのゲール文化圏は同じ言語を話し、社 会体制も同様であった。言うなれば彼らは一対の半々と言ってもいいような状態だった。 しかし、12世紀末から13世紀始めにかけて、イングランドから多く のアングロ・ノルマン領主たちが侵入。多くの領地を征服し、要塞や都市を築いて強固な支配体制を構築して行った。当 初、継続的に抵抗する姿勢を示したアイルランドの領主層たちはほどなく表立った抵抗は諦め、その代わりに詩作や音楽 といった伝統的なアイリッシュ文化の伝承&育成システムを構築し始めた。アングロ・ノルマンの征服者たちは、このよ うな動きをアイリッシュ・アイデンティティーのバックボーンの強化に繋がるもの(実際に正にそのような意図であっ た)と見なして、そのような教育システムを強く弾圧し始めたのである。 アイルランドの領主たちは、新しい征服者たちの規律に従順に従うか、 あるいは、全ての権力を放棄してアイルランドを去るかの厳しい選択を迫られた。それはそれらの領主の家族や家臣た ち、そして、お抱えの音楽家や詩人たちも同様で、彼ら自身もアングロ・ノルマン支配体制に組み入れられた領主に従う か、国外への逃亡を図るかの選択を迫られたのである。 その結果、多くの者は後者を選択した。 詩歌、歴史、家系の研究などといった文化は書物に残されているものが ありその経緯が明らかであるのに対して、音楽は主に口承であるため、僅かな文芸作品にほんの僅かな証拠が残るのみで あるが、詩人たちととも多くの音楽家たちがこれらスコットランド西方の島々に移住してきたことは殆ど疑う余地がな い。 当時の音楽は主にハープで演奏されたものであり、しばしば詩人が詩歌 を謳う際の伴奏として奏でられていた。そして、そのような詩歌の韻律とリズムはピーブロックのフレイズ・パターンと 非常に似通ったものである。 Cork の近くの West Munster の領主 MacCarty は、
アングロ・ノルマン領主の侵入に抵抗も空しく、徐々に領地を失いアイルランドから姿を消そうとしていた。彼らの家来
たちの一つが O'Cruimin(O' は "grandson”を意味する)と呼ばれた氏族であり、それらは先の McKimmon 氏
の投稿にあった Cremon、Cremeen、O
Cremin と言う名に繋がっている。 最初の MacCrimmon たちが一体誰であったかに関わらず、彼らがもしアイリッシュであったとすれば、彼 らのハープ・ミュージックは、そのパターンをアイリッシュ詩歌から抜き出したものであり、そのパターンがその後パイ プ・ミュージックに転用され、今に伝わるピーブロックの中にその要素を見いだすことができるのである。 16世紀後半にイタリアからもたらされ た と考えられる「テーマ&バリエイション」という構成と、このハープ・ミュージックから転用されたパターンとが重ね合 わさりブレンドされて、初期のピーブロックの音楽形式が形作られて行ったということは至って妥当な考え方であろう。 つまり、明らかな証拠があるという訳ではないが(far from proven)、ピーブロックのルーツはアイルランドにあると考えることができそうである。 女史のレポートが掲載されたこの号の
News 欄トップページでは、右 ⇒ のように Respected Piping Scholar たる
Bridget MacKenzie 女史が、このような見解を発表した事自体を大きなニュースとして取り扱っています。 どうやら、MacCrimmon 一族の、そして、ピーブロックのルーツはアイルランドにあるという説の信憑性がかなり高くなってきたようですね。MacKenzie 女史もこの方面に関しての各側面からのさらなる検証作業を呼びかけていますので、このアイルラン ド説に対する今後の研究の推移が楽しみです。 |
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