ハイランド・パイプに関するお話「パイプのかおり」

第34話(2014/2)

Robert Reid & Malcolm Ross MacPherson

 パイプのかおり第14話の冒頭で、The MacCrimmons(マクリモン一族)が創造したピーブロックの伝統は、2つの系統を経て現代に伝承されていることに触れました。 The Cameron Line The MacPherson Line です。今回は それぞれの系統を代表して 20世紀前半に活躍した2人の偉大なパイパー The Cameron Line Robert Reid The MacPherson Line Malcolm Ross MacPherson について紹介します。
 参考文献は以下の本と資料です。"Masters of Piping" by Seumas MacNeill(A College of Piping Publication/2008)、"Piping Tradition of The North of Scotland" by Bridget MacKenzie(John Donald Publishiers Ltd/1998)、Proceeding of the Piobaireachd Society Coference 1984(ちょっと気が引けますが写真類もこれらから拝借しています。新しい名前が出てきた時や相関関係が混乱した際には、挿入してある Decent of Piping のツリー図を参照して下さい。)

■ Robert Reid(1895〜1965)■

 Robert Reid は1895年3月16日に Stirlingshire の Slamannan (Google earth で確認するとエジンバラとグラスゴーの丁度中間辺りでした)で炭坑夫の息子として生まれました。彼は "the first masater piper who was neither a Highlander nor a Gaelic speaker" という位置づけのパイパー。つまり、祖先を数代遡ってもハイランダーの血もゲール語を話す家系との縁が無いにも係らずマスター・パイパーとなった最初の存在です。
 そうは言っても、父親はハイランド・パイプの大変な愛好者であったため、Robert は息子が誕生する時も演奏中だったという父親のパイプの音色の中に生まれ落ち、誕生から一時間もしない内に手にチャンターを握らせられていました。正に血よりも濃いパイプまみれの DNA が遺伝したのでしょう。
 Robert は他の4人の息子とともに父親からパイプの手ほどきを受けますが、父親は5人の中で最も見込みのありそうだった Robert を12才の時(1907年)にグラスゴーの John MacDougall Gillies(1854〜1925)に弟子入りさせ本物のパイパーに育て上げることにします。

RR その後の彼の華々しい活躍の端緒になったこの出会いは2年後の1909年に一旦中断。その訳は、Robert Reid が ハイランド・バレー・カンパニーという団体の少年ダンサーの職を得て、ヨーロッパ各地に於ける2年間の公演旅行に参加することになったからでした。この2 年間は炭坑の町育ちの若者にとっては変化と刺激に満ち溢れた一時でしたが、公演旅行が終わってしまった後は、生活の糧を得る為に父親と同じ様に炭坑夫とし て働くという、地味な生活に戻ざるを得ませんでした。

 とは言っても、スコットランドに戻るということは、John MacDougall Gillies の下に通いパイプの腕を磨く日々が再開されるということも意味していました。彼はその年の夏には初めて Argyllshire Gathering に出掛けて、当時の一流パイパー達の演奏に触れたただけでなく、彼自身も(何らかの)ピーブロック・コンペティションに参加して3位に入ったということ。早々に才能の片鱗を見せ始めていた訳です。

 しかし、広い世界に向けて一度開かれた若者の目は閉じたままにしていられる訳がありません。一年を経ずして Reid はカナダに渡り現地の炭坑で働くようになります。
 ところが、折しも第一次世界大戦が勃発したため再びスコットランドに戻らざるを得なくなります。仕方なく今度は John MacDougall Gillies の下で国防義勇軍の軍楽隊に少年パイパーとして参加します。大戦中はエジプト、パレスチナ、フランスなど各地を転戦。地中海で魚雷の攻撃を受けるなど、波乱に富んだ体験をしました。

 終戦を迎えて24才になった Reid はいよいよ世界一のパイパーへの道を歩み始めます。ピーブロックの研鑽のために John MacDougall Gillies だけでなく Alexander Cameron(1848〜1923)の所にも通う様になるのですが、その Sandy Cameron との最初の出会いの場面について Reid 自身が次の様に語っています。

 戦後直ぐのインバネスでの The Northern Meeting の会場でのこと。会場の片隅で Reid が チューニングをしていると、ステッキにすがった一人の老人が近寄ってきて立ち止まり、彼の演奏にじっと耳を傾けます。彼はこの老人がおそらく自分に話しか けてきたいのだろうと気付きますが、心の中で「どうせロクな話しじゃなくてコンペでの演奏の邪魔になるだけなんだから、このまま立ち去って欲しいな〜。」 と念じながら演奏を続けました。しかし、とうとう Reid が演奏を止めると、思っていた通りにこの老人が近寄ってきて次の様に言いました。「君は "The Earl of Seaforth's Salute" の第2小節目を間違って演奏している。」 Reid は「え、そうですか?」と。老人が続けて「ところで、君は誰に教わっているんだね?」と問うので、Reid が「John MacDougall Gillies に教わっています。」と答えたところ、老人は「そうか、ではグラスゴーに戻ったら彼に『お前は間違って演奏している』と伝えなさい。」と言いました。Reid が「 Gillies の演奏について注文を付けようとする貴方は一体誰なんですか?」と尋ねると「私は Sandy Cameron だ。私が彼を教えた。」
 それ以降、Reid はインバネスに出向く度に「師匠の師匠」である Alexander Cameron を訪ねては、ピーブロックに関してさらに多くの事を学ぶ機会を重ねました。

 大戦後、Reid は生活の糧を得る為の炭坑夫としての仕事を1926年まで続けながら John MacDougall Gillies の下に通います。 Gillies は1925年12月に亡くなりますが、Reid はその時までには The Cameron Style pioibaireachd playing を完璧に引き継ぎ終えてこのスクールの最高の名手としての地位を確立していました。
 メジャーなピーブロック・イベントを全て制覇した彼は、多くのパイパーから広く尊敬の念を集めました。それは、例え演奏スタイルの系統が異なっていたとしても変わりありませんでした。1920年代、30年代、40年代のパイピング界に於いて、Robert Reid "the scintillating brilliance of his performance" は光り輝いていました。

tree2 コンペティションの戦歴を並べ立てるのは決して本意ではありませんが、Reid がどのように他を圧倒して優れていたかを推察する助けにはなると思うので以下に引用します。
 Argyllshire Gathering Open piobaireachd 部門を6度制覇 (1923、1930、1932、1933、1936、1947年)、Nothern Meeting Gold Medal 部門を6度制覇(1922、1925、1926、1931、1935、1946年)。さらに Cowel Gathering の成果は畏敬すべきもので、なんと 1925年から1938年までの14年間、1927年に John MacDonald, Inveress、翌1928年に William Ross に譲った以外、最終的に主催者から競技への参加を辞めるように要請されるまでほぼ毎年一位を独占し続けたのです。さらに改めて引用はしませんが、ピーブロックのみならずライトミュージックでの戦歴も同様に絢爛豪華なものです。

 でも、やはりいくら戦歴を並び立てても、Robert Reid の演奏イメージが湧いて来る訳ではありません。それよりも、彼の当時の演奏に関する印象を綴った象徴的な言葉を引用しましょう。それは、エジンバラのあるコンペティションの聴衆の一人として彼の "In Praise of Morag" の演奏を聴いた John Wilson(先代ですね)の次のような言葉です。
  "The beauty of the melody combined with his wonderful time, expression and excution left a lasting impression on my mind. In quiet moments his clean hard fingering still comes ringing back".

 もう一つは Robert Reid 自身の自らの演奏に対する絶対的な自負を示す逸話。
 ある年の The Northern Meeting の Gold Medle イベントに於いて、ジャッジが Reid に示した課題曲が "MacLeod of Raasay's Salute" だったことがありました。Reid は後日この時の出来事について次のように語りました。
 「これはこのコンペティションを全くつまらないものにしてしまうことになる大きなミスだった。何故ならその時の私は "MacLeod of Raasay's Salute" を演奏すれば必ず勝利する確信があり、その他の参加者たちは2番目を目指した戦いにならざるを得ないからだ。」と。そして、当然ながら結果はその通りでした。

 時代は戻りますが、1925年に師匠を失った失意の中、Reid は1926年についに炭坑を出ることにします。彼はまず初めに R. G. Lawrie の工房でバグパイプ・メイキングを学び始めます。その後、1932年にはグラスゴーの George Street に自らの工房を開設しました。その後、楽譜集の出版にも手を出し、1933年には "The Piper's Delight" という楽譜集を出版しています。

 Robert Reid は教育者としても多くのチャンピオンパイパーを育てて大きな功績を残しました。
 John MacDougall Gillies を引き継ぎ1926年から1963年まで Glasgow Highland Club のクラブパイパーとしての役目を務める他、1944年に設立された College of Piping の黎明期にはリサイタルや訪問演奏などを通じて多くの尽力を果たしました。また、Scotish Pipers' Association(SPA) の創立メンバーでもあり、19339〜48年と1954〜56年には代表を務めました。
著名な弟子には、William Barrie、R. G. Hardie、William Connell、Robert Wallace (CoP の現代表とは別人?)など蒼々たるパイパーが名を連ねています。後日、1970年代にはパイプメイーカーとして一時代を築くことになる R. G. Hardie Reid の工房に従事する中でパイプメイキングの技術も受け継いだ一人です。
 彼らは師匠の印象を色々と伝えていますが、その内一つを引用します。Robert Wallace の言葉です。 Glasgow Highland Club のディナーでの演奏について語った言葉だと思われます。
 "He could cast a spell over non-player as well. His playing silenced the most inveterate talker. As only the great musicians can, he got through to the non-player".

 1953年(58才)に Robert Reid は最初の心臓発作に見舞われます。
 医者は「長い期間ベッドで静養する必要がある。」と伝えましたが、 Reid は 「それは無理だ。2週間後にインバネスの大事なイベントで演奏しなくてはならない。」と答えます。医者はこのような人間に対しては優しく諭した方が効くと 考えて「私はあなたが2週間後にピーブロックを演奏することが可能だということはこれっぽちも疑っていません。しかし、その演奏が終わった途端に貴方は死 んでしまうでしょう。」と言いました。それを受けて日頃から「《パイピング》は治療する術を誰一人見付けられない病気である - a deseas for which nobody has found a cure -」(正に、言い得て妙ですね〜)と言って憚らなかった Reid は「もし良い演奏が出来たのであれば、最後に死んでしまってもちっともかまわない。」と答えたそうです。
 実際にはこの時にインバネスでの演奏はしなかったということですが、とりあえずその時の発作から無事に回復した Reid はその後も何回かの心臓発作と回復を繰り返しながら、1957年にビジネスからはリタイヤ。コンペティションのジャッジやパイピング組織での公務に専念していました。

 1965年夏、The Cowel Gathering に於けるジャッジの役目を目前に控えて、最後のそして致命的な心臓発作が彼を襲います。1965年8月31日に Robert Reid は亡くなりました。享年70才というのは長寿の多い名パイパー達の中では決して長生きしたとは言えません。


RobertReid Robert Reid の演奏音源については、20世紀半ば以降の技術革新のお陰で現役中の演奏が録音されていました。その貴重な録音テープが遺族から寄贈されたことを受け、2004年に College of Piping から "Classics from the College" と銘打った CDシリーズ してリリースされました。アルバムタイトルに Volume1 と銘打ってあるとおり、その後も継続してリリースされる予定でした。ところが、それから10年間音沙汰無し。「あの話は一体どうなっちゃったんだろう?」と思っていました。

 そんな折の先日、いつもの様にボブさんのピーブロック・フォーラムをチェックしていたら(最近は新たなトピが立つのはごく稀なので、ほぼ毎日変化の無い事をチェックする感じですが…。)常連の Ron Teague さんがこんなトピ "Noodeling around the Piobaireachd Society web site" を立てていました。

 「う〜ん、いつもチェックしているライブラリーの中に Robert Reid "Desperate Battle of the Birds" を演奏している音源なんてあったかな〜?」とピピッと来ました。

 早速、サウンド・ライブラリーのインデックスの "Desperate Battle of the Birds" の項に目をやると Artist の名前が Andrew Wright Robert Reid と連名になっています。そして、右端の音源のあるページへのリンクを示すスピーカーのアイコンをクリックすると、まずは Andrew Wright の音源を再生するプレイヤーが現れます。この音源は先日チェック済み。はてさて、改めて右側のインフォメイションの記述を読み進めると、Here it is, from the Robert Reid Archive. という一文があり、Here の部分がリンクが張られています。クリックすると別ウィンドウに新たなプレイヤーが起きて Andrew Wright のものとは明らかに異なった演奏音源が流れます。Robert Reid の演奏音源です。さて、この演奏音源の出所を探ってみると、Reference Library の中に Robert Reid Archive というページがありました。う〜ん、これはなんとも貴重なページを見落としていました。

 どうやら Robert Reid の演奏音源についての継続的な CD シリーズ化は止めて、College of Piping と表裏一体の関係にある Piobaireachd Society のサイトの中に Robert Reid Archive という専用のページを作ってそこに音源をアップロードすることにしたようです。 IT 技術の進歩が当初の計画を追い抜いてしまったのですね。そういえばいつかどこかでそんなアナウンスを読んだような気がしますが、その時は意味が良く分かっ ていませんでした。とにかく、この方針転換のお陰でその他のサウンド・ライブラリーの音源と同じくソサエティーの会員であればエクストラコスト無しでこれ らの貴重な音源を聴き放題ということ。ピーブロック愛好家にとってこのアーカイブは大変に有り難い限り。

Robert Reid Archive の現時点での曲目リストは次の通り。

Battle of the Pass of Crieff
・Bells of Perth
- on Pipes Short break in ground Explanation before Taorluath.
Big Spree
・Corrienessan's Salute
・Desperate Battle(of the Birds)
・End of the Great Bridge
・Glengarry's March
・Grain in Hides Corn in Sacks
・In Praise of Morag
・Lament for the Earl of Antrim
・MacGregor's Salute
MacCrimmon's Sweetheart - Chanter Lesson
MacIntosh's Lament
・MacLeod of Raasay's Salute

※Malcolm MacPherson - BBC Chanter Programme introduced by Seumus MacNeill
My King has landed in Moidart
King's Taxes - Chanter Lesson
King's Taxes
・Princes Salute
- to end of V1
Too Long in this Condition
・Unjust Incarceration
・Vaunting

  "Classics from the College" Vol.1 でパイプ演奏として聴く事ができたピーブロックは、

I Got A Kiss of The King's Hand
・Lament for Donald of Laggan
- Urlar and Taorluath singling

 の2曲だけ(その他は、チャンター・レッスンと語り、ライトミュージック)なので、パイプ演奏の音源が一挙に19曲もアップされたのは大ボーナス。Piobaireachd Society 会員の方は要チェック必至です。

■ Malcolm Ross MacPherson(1907〜1966)■

 一方、このリストの中で中段下にある ※Malcolm MacPherson - BBC Chanter Programme introduced by Seumus MacNeill という音源だけが Robert Reid の音源ではなさそうで異質です。タイトルからすると、 Robert Reid と同時代の Malcolm Ross MacPherson の音源でしょうか? タイトルに貼られたリンク先の新たなページに次のようなインフォメーションが書いてあり、右上に配置された《Listn to Track》のアイコンをクリックすると、30分の音源を再生するプレイヤーが起動します。

  Includes a brief biography of Malcolm MacPherson and examples of his style of playing Glengarry's March, Lament for MacLeod of Colbeck, Earl of Seaforth's Salute, MacGregor's Salute, Black Donald's March, I got a Kiss of the King's Hand, Lament for the Departure of King James. Examples are played by Seamus MacNeill who talked about the MacPhersons and making this broadcast at the Piobaireachd Society Conference in 1984

 そこで、パイプのかおり第23話の冒頭で紹介した1984年の Piobaireachd Society Conference 報告書を引っ張り出してきました。歴代の The MacPherson パイパーについて詳細に紹介をしている Seumas MacNeill によるこの時の講演内容は、数多の Piobaireachd Society カンファレンスの講演の中でも確実に5指に入る興味深いもの。この説明から推察すると、これはこの時の講演に基づいて BBC Radio Scotland の30分番組用に作成された音源のようです。講演の後の質疑応答の中で Seumas が説明しているのですが、この番組の中で流される(当日の講演の中でも一部使われた)Malcolm MacPherson の演奏スタイルの例(examples of his style of playing)の音源は、Seumas MacNeill 自身が Malcolm の録音音源をイヤフォンで聴きながら自らのパイプで忠実に再現した演奏だということ。

BB Malcolm Ross MacPherson についてはパイプのかおり第14話 "BINNEAS IS BORERAIG" という特異な楽譜集に記録された演奏を行ったパイパーとして簡単に紹介していますが、今回は彼の素顔について詳しく紹介します。
 本来は Calum "Piobaire" を始めとする The MacPherson Piping School の歴代のパイパーを順次紹介しつつ、最後のマクファーソン・パイパーたる Malcolm Ross MacPherson に至るのが筋ですが、そこまで踏み込んでいたらかなり膨大なものになってしまいますのでそれはまた別の機会に譲って、今回は Robert Reid と同時代を生きたもう一人の偉大なパイパーとしての Malcolm Ross MacPherson に的を絞って紹介します。
 とはいいつつ、そのためにはまずは息子よりも長生きした父親の Angus MacPherson(1877〜1976)の代から紐解かなくてはなりません。パイプのかおり第23話で紹介した「自身の98才の誕生日のイブに“MacLeod of Rasssy's Salute”を最初から最後まで演奏しきった。」あの Angus MacPherson です。


CP  Angus Calum "Piobaire" MacPherson (1833〜1898)の8人の子供の内の5人の男子の末っ子として1877年6月2日、Robert Reid と同様に父親の演奏するパイプの音色の中に生まれ落ちました。5人の男子は一人を除いて全員が一流のパイパーとして活躍しましたが、中でも最も優れたパイパーとしてマクファーソン・パイパーのメインストリームを繋いだのは1863年生まれの長兄 John (愛称: Jockan) MacPherson でした。Jockan は父親の Calum "Piobaire" を継いで Clan MacPherson の居城である Cluny Castle(at Laggan near Newtonmore /※1)のお抱えパイパーに就任します。
※1"Cluny Castle" だけでネット検索すると Aberdeenshire の Clan Gordon の居城がヒットしますがそれは別の城です。
※2 Calum "Piobaire" に関するちょっとマニアックな話題については "Piping Times" 1981年5月号 Calum "Piobaire" のモニュメントは "Piping Times" 1984年1月号表紙

 さて、ここでスコットランド出身で世界的に名を馳せた1人の名士が登場します。13才の時に両親とともにアメリカに移住してその後「鉄鋼王」として成功を収め、当時としては世界一の金持ちと言われた Andrew Carnegie(1835〜1919)です。
 Carnegie は1881年に慈善事業家としてスコットランドに凱旋して各地で大歓迎を受けます。1888年には母国での活動拠点を探すとともにお抱えパイパーが募集され、数多くの応募者の中から選ばれたのが Jockan MacPherson でした。彼は翌1889年に Argyllshire Gathering の Gold Medal を獲得、Carnegie の目に狂いが無かったことを証明します。
 Carnegie
が当初確保した屋敷はちょっと手狭だったので、彼は Jockan の勧めで1889年から10年間 Cluny Castle を借りることにします。(つまり、自分が元々お抱えパイパーとして務めていた城に、自分の新たな主人を迎え入れるようにした訳ですが、Jockan が元々仕えていたクラン・マクファーソンはどうしたのでしょう?)

JM Calum "Piobaire" が死去した1898年、Carnegie がスコットランドに於ける永続的な拠点として Dornoch 近郊 の Skibo Castle を購入してそちらに移ることになったことを機会に、Jockan は自身の宮仕え先を Drummond Castle の Lord Willoughby に鞍替えするとともに、Carnegie のお抱えパイパーとしての役目を14才年下の末弟 Angus MacPherson に譲ります。
 Jockan
がこの役目を弟に譲ったのにはちょっと面白い理由があります。Carnegie はスコットランドに於ける拠点を確保したことを機会に、お抱えパイパーには大西洋の両側で演奏することを求める様になったのですが、Jockan は大西洋を船で往復することを怖がったのです。⇒ Jockan に関する関連記事
 大西洋航海を恐れなかった Angus はそれからの7年間を Carnegie 一家と過ごし、冬期はニューヨーク滞在に同行して様々な人々のもてなしの場で活躍しました。
 1903年に国王エドワード2世が Skibo Castle に滞在した時は、他のパイパーの伴奏でハイランド・ダンスを披露したということです。Angus はパイパーとしては父親の Calum "Piobaire" のみならず息子の Malcolm R. よりも決して優れていた訳ではなかったのですが、ダンサーとしては常に一目置かれる存在でした。
 Andrew CarnegieSkibo Castle 滞在中は、伝統的な領主が好んだ様にベッドルーム窓下のテラスで毎朝、時には夕べにもパイプを演奏することを求められたということです。

 ちなみに、Skibo Castle は1982年まで Carnegie 家が所有していましたが、その後は所有権が他の資産家ものになりながらも、現在は世界で僅か400人の会員しか居ないセレブな The Carnegie Club 専用のリゾートホテルして運営されています。マドンナのような超有名人の結婚式場としても人気のようです。(リンク先、ぜひご覧あれ。セレブリティな憩いの場を覗き見ることができます。一度でいいからあんなフィットネス・プールでゆったり泳いでみたい…。)

 1906年、Angus Alice Ross と結婚し Newtonmore に居を構え不動産業を営み始めます。業務の合間には Cluny Castle のパートタイマー・パイパーとして務めを果たす事もありました。また、ダンスの才能に秀でていた Angus はロンドンで3シーズンに渡って社交界の女性達を対象にダンス教師を勤めました。Alice Ross とはその頃に知り合ったと思われます。Alice は以前 MacPherson 一族が Skye 島に居を構えていた時に隣同士だった Ross 一族の子孫であり、John Ban MacKenzie の遠縁でした。つまり、優れたパイパーとしての DNA はかなり濃厚な者同士ということになります。

WRGSJM 1914年、Angus Andrew Carnegie から Skibo Castle の北 10数キロの Shin 川のほとりに位置する(おそらく Carnegie が投資物件の一つとして入手した)Inveran Hotel の経営を勧められます。そして、その後1949年にこのホテルが大火事で焼け落ちるまでの35年間、この小さなフィッシング・ホテルの経営に当たりました。
 なんといっても経営者が一流のパイパーであることと、絶好のロケーションから Fishing と Piping の両方を存分に堪能できるこのホテルは、経営者たる Angus 自身も含めて当時のパイパー達には大層好まれて、John MacDonald, Inverness、Willie Ross、G. S. MacLellan といった蒼々たる当時のトップパイパーたちが入れ替わり立ち代わり滞在しました。
  ちなみに、John MacDonald, Inverness が滞在する時は、Angus も釣竿とパイプをもって一緒に川に出向き、2人で交互に釣りと演奏を繰り返したそうです。彼らのセオリーは「魚は音楽(ピーブロック)に引き寄せられるのだ。ただし、その音楽は上手く演奏されたものに限る。」というものでした。

AMRR Angus のホテル経営時代は彼のパイピングキャリアとしての最盛期と重なります。
 1923年には、Nothren Meeting の Gold Medal を獲得。1933年の MacCrimmon Cain 除幕式に際しては、 "Salute to the Carin of Boreraig" というピーブロックを作曲し、この曲はその後の1965年、BBC が催した Competition for composers of pipe music のピーブロック部門で66曲のエントリーの中から見事に栄冠を勝ち取りました。

 時は少しばかり遡って、まだホテル経営に入る前の結婚翌年の 1907年、パイパーとしての DNA が濃厚な2人の間に1人息子の Malcolm Ross が生まれます。一家が Inveran Hotel に引越した時に彼はまだ7才の多感な年頃。その後の彼はホテル(経営者の家族)という特殊な世界の中で、優れた血統のパイピングファミリーの一員として飛び抜けたパイパーになるべく、少々いびつな形で育てられていくことになります。
 一人息子として母親からは過剰に大切にされ、指の怪我を懸念して農作業などに従事することも制限される一方、宿泊客の前では常にいい子であることが求められ、感情を抑えて居なくてはなりませんでした。
 ホテルの中には同世代の友達が居る訳もなく、 Malcolm R. の交遊関係は大人に限られるようになります。そのような大人と一緒に過ごせば自然と飲酒が習慣となります。彼は毎日8km離れた Laige という町の学校に自転車で通っていたのですが、母親は道中に身体を温める為に毎朝小さなボトル入れたブランディーを持たせました。ところが、彼が学校に着く頃には既にボトルは空になっていたのです。

 しかし、さすがは血筋、パイパーとしての才能は幼少の頃から顕著でした。父親がカンタラックを歌うまでは寝付かないという赤ん坊だった Malcolm R. は7才でパイプを練習し始めました。そして、なんと僅か10才の時には早々と Invergordon Highland Gathering に於いて "Masacre of Glencoe" のエキシビション演奏を行い、時の Clan MacIntosh のチーフテンから記念のスポランとダークを授けられたということです。まるで、モーツァルトの子供時代と似たような話ですね。
 当初は父親の Angus からパイプを習っていた Malcolm R. ですが、父親は程なくして教えることが無くなってしまったのでしょう、Malcolm R. は次のステップとしてより優れたパイパーである叔父の Jockan の下に通いマクファーソン・パイパーの伝統を徹底的に吸収します。

 1923年16才になった Malcolm R.Northern Meeting Gold Medal イベントに初めて参加します。当時46才の父親 Angus が初優勝したこのイベントで、彼はいきなり4位に入賞。翌1924年も再び4位、1925年に3位。そして、1927年には弱冠20才にして栄冠を獲得。その生い立ちと恵まれた環境から Malcolm Ross MacPherson がいずれは優れたパイパーになるであろうことはだ誰もが予想していた事でしたが、これほどまでに早々と真の天才ぶりを見せつけられることは想像を超えていたので、この時の衝撃は甚大なものでした。

 実は、Northern Meeting を制する前年の1926年の Kyleakin Game に於けるコンペティションでは、19才の Malcolm R. は当時60才で正に円熟の極みにあり、しかもその当時は彼の師匠でもあった John MacDonald, Inverness と競って、両者とも完璧な演奏で1位を分け合いました。しかし、この時の状況を想像して Seumas MacNeill は「演奏内容だけを比較すれば Malcolm R. MacPherson の方が優れていたことは疑う余地が無い。」と断定します。「何故ならば同位とされた John MacDonald, Inverness の評価の中には、年長者であることとその絶大な名声が加味されているはずだから。」と。

 その証拠に、ある年の Invergordon Game に於けるコンペティションでは、1st が Malcolm Ross MacPherson 、2nd が Malcolm R. の44才年長の叔父 Jockan MacPherson、3rd が John MacDonald, Inverness だったということです。

 Malcolm R. と同様に Jockan MacPherson の弟子であった Dr. Roderick Ross によると、その当時 Jockan「Malcolm は驚くべきパイパーだ。既に私のみならず彼の祖父の Callum "Piobaire" をすら上回っている。」と語っていたということです。

 その後、Malcolm R. は全てのメジャータイトルを獲得しました。Northern Meeting の Clasp 部門では、1928年から 1946年までの間に、1930年と1937年に1位。2位が4回、3位1回、4位2回。Argyllshire Gathering では1933年に Gold Medal を獲得しています。Strathpeffer のピーブロック部門に於いては 14年間に 11回優勝しましたが、この時の競争相手には John MacDonald, Inverness、Willie Ross、Robert Reid などが含まれていました。Braemar では余りにも優勝し続けるので、優勝トロフィーはずっと彼の手元に置かれていたということ。もちろん、Robert Reid と同じくピーブロックのみならずライトミュージックでの戦歴も同様に華々しいものです。

AM&MM 「20世紀で最も偉大なパイパー」(よくある "one of the greatests" ではなくて、純粋に "the greatest")と言われる事もある Malcolm Ross MacPherson ですが、彼の暗黒面がその類い稀な才能に陰を落とします。
 前述したような環境で育ったことにより Malcolm R. は 当然のようにアルコール中毒、さらには薬物依存になっていったのです。また、(写真のとおり)男前だったこともあり、女性関係も派手で安定した人間関係を 上手に構築する術に欠けていました。結婚して一男一女にも恵まれますがその結婚生活は長続きせず、挙げ句の果てには妻と両親と大喧嘩をして一人で Inveran Hotel を飛び出てしまいました。

 ちなみに、温厚な性格でインテリジェンス溢れる真の紳士として広く知られる Angus とその妻 Alice、そして義理の娘に当たる Malcolm R. の離婚した妻 Joey とその2人の子供達は、 Malcolm R. が出ていった後も終生仲良く一緒に暮らしました。
 1949年、Angus が72才の時に Inveran Hotel が消失した後は、Shin 川沿いの数マイル上流にある Achany House という大きな屋敷(Google Eath で Achany 検索して、貼付けられた Panoramio の写真をご覧あれ。)の1階で暮らします。その後、孫達も独立し、1964年に Alice が亡くなった後は、Angus Joey は屋敷の裏にある小さなコテッジに引っ越し、1976年に Angus が99才の誕生日直前に亡くなるまで、義理の関係にある父娘で仲良く安らかな晩年を送りました。

 一方、 Inveran Hotel を出た後の Malcolm R. は、2人の女性との非婚と短い結婚によってそれぞれ息子を1人づつ設けたりしながら、あちこちの土地管理人を務めた後、エジンバラに居を定めます。
 そしてその地で、友人の Dr. Roderick Ross の尽力により、 Malcolm R. の演奏がテープに録音されて採譜され、そして、あの独特な楽譜に書き下ろされて "BINNEAS IS BORERAIG" として結実、1959〜1967年に掛けて全6巻が出版されたのです。
 しかし、最後の巻の出版を見届ける直前の1966年、Malcolm Ross MacPherson はエジンバラの自宅アパートで自ら命を絶ちます。享年59才。類い稀な天才の余りにも早すぎる死でした。

 Malcolm Ross の亡がらは Laggan にある祖父 Calum "Piobaire" と同じ墓地に埋葬されました。19世紀と20世紀のそれぞれを代表するパイパー2人が並んで永遠の眠りについたのです。
 盛大に執り行われた葬式では父親の Angus と息子の George が喪主となり(娘の Diana は交通事故で既に死去 )Captain John MacLellan によって、"Lament for Patrick Og MacCrimmon"(式典時)と "Lament for Only Son" (埋葬時)が演奏されました。さらに、長年 The MacPherson Piping School が運営されてきた Catlodge の丘からは Dr. Roderick Ross により悪霊を祓うために大砲が発射されたということです(…と伝えられていますが、その真相は実はこうだったとのこと)。


CDvol1 Dr. Roderick Ross の録音した Malcolm R. の演奏音源(つまり、最新でも1960年代初頭の録音)をデジタル・リマスターして CD 化する取り組みが2009年にスタートしました。この "BINNEAS IS BORERAIG - Piobaireachd by Malcolm Ross MacPherson" シリーズは最終的には全6巻で完結する予定。ほぼ一年に一巻のインターバルで現時点では 2013年3月の Vol.4 までリリースされています。
 収録されている音源は各曲とも概ね2〜3分、長いものでも数分程度ということから想像されるとおりどれも一曲を通してという訳ではありません。ですが、 そのため一巻当たりの収録曲数は20曲前後となり、これまでの4巻には既にのべ77曲が収録されています。最終的には楽譜集に収められている112曲全て の音源が網羅されるようです。

 この録音作業に立ち会ったことがある Gavin Stoddart によると「当時の Malcolm R. は アルコール中毒と薬物依存の影響が明らかだった。」ということです。確かにデジタル・リマスターでも隠しようのないチャンターやドローンの音色が安定しな いなど、正直言って聴き苦しい演奏もあるのは事実。彼の絶頂期の演奏とは大分掛け離れたものなのは明らかです。しかし、 The MacPherson Style の正統たるそれぞれの曲の表現の細かなニュアンスについては、僅かの揺らぎもなく存分に感じ取ることができることは間違いありません。

  Seumas MacNeill はある年のカルフォルニア・サマースクールの場で生徒達に Malcolm R. の録音を聴かせる機会を持ちました。その際、インストラクターの Iain MacFadyenJohn Burgess が一緒に聴いていたのですが、録音を聴き終わった時、Iain MacFadyen "We don't know how to play pibaireachd" と言ったということ。そして、 Iain はその時に聴いた "Lament for MacLeod of Colbeck" を手本にして後日 Grant's(Glenfiddich)Championship で2度の優勝を果たしたのです。

 いずれにせよ楽譜を読む訳ではない私のような者にとっては、Dr. Roderick Ross が伝えようとした The MacPherson Style の演奏表現を直接理解するために Malcolm R. の生演奏を聴く事ができるこの CDシリーズは何よりも有意義な資料です。
 さらに、現代の IT 技術の恩恵で、この CD シリーズとは別にデジタル版 "BINNEAS IS BORERAIG" の中では、何曲かの楽譜のページにはプレイヤー・ボタンが配置され、Malcolm R. MacPherson 自身によるその曲のカンタラック・シンギングを聴く事ができるようになっています。

 1917年生まれの Seumas MacNeill Malcolm R. の10才年下に当たりますが、ある時期 Malcolm R. からかなり濃密に手ほどきを受けたことがあります。そんなある日、Seumas "King's Taxes" The MacPherson Style での表現について問い掛けました。Malcolm R. は「親父(Angus)はこう演奏した。」「でも、叔父(Jockan)はこう表現する。」「また、John MacDonald はこうだった。」「そして、私はこのように演奏する。」と言って、4通りの異なった表現でカンタラックを歌ったということです。4人とも The MacPherson Style のパイパーではあっても各人の表現はそれぞれ。Malcolm R. は「ある曲を表現するのに唯一つの表現方法しか無い。」という考え方を笑い飛ばして、"Music was for individual interpretation." と言い切ったということです。 

 Malcolm R. の最盛期を知っている Seumas にしてみれば、1984年の Piobaireachd Society カンファレンスに際して Malcolm R. の演奏スタイルの例(examples of his style of playing)を具体的に伝えようとした時、絶頂期とは比べるべくもない晩年に録音された Malcolm R. 自身の音源を使うのではなくて、自分自身で完全コピー演奏をすることによって往年の Malcolm R. の演奏を彷彿とさせるような音源を作成したかったのではないでしょうか。

 そんな意味からも "BINNEAS IS BORERAIG" の CD シリーズで聴ける Malcolm R. 自身の演奏音源とともに、"Malcolm MacPherson - BBC Chanter Programme" Seumas MacNeill によるトリビュート演奏音源もまた、ピーブロック愛好家は心して耳を傾けるべき音源だと思います。

 中でも一つの大きな聴きどころは、Dr. Roderick Ross をして Malcolm R. のこの曲の演奏を初めて聴いた時に「この演奏を聴くまで、私はバグパイプという楽器がかくなる心地良い旋律と感情表現をすることが可能だということ理解していなかった。」と言わしめている "Earl of Seaforth's Salute"(7:00〜10:05)。 (この曲についての関連記事⇒

 また、"MacGregor's Salute"(10:55〜13:00)に於いては、近年のパイパーが当たり前の様に行う birl でなくて little finger echo beats で丁寧に表現する様子が聴きものです。パイプのかおり第26話で紹介した Andrew Douglas の演奏はこの Malcolm R. の表現を拠り所にしたものだったということが解明できました。もしかしたら、 Andrew Douglas は この当時のラジオ番組を聴いたのか、あるいは CoP のサマースクールで Seumas MacNeill にこの音源を聴かされたのではないでしょうか。

 そしてSeumas Malcolm R. によるこの演奏は「私にとってパイピングの新たな次元を切り開いた。」と表現している "Lament for the Departure of King James" (21:00〜25:15)はこの音源の中で最大の掘り出し物。
 というのも、この曲に至っては Malcolm R. の表現はこれまで聴いたことのある3人のパイパー(Andrew Wrigh、John MacDoughall、Roderick J. MacLeod)の演奏とは全く異なって聴こえ、極端に言うと「全くの別モノ、初めて聴く曲」のような印象を受けるのです。聴き比べれば確かに同じ曲なのですが、言うなれば "Ronald MacDonald of Morar's Lament" に於ける John Burgess による他者とは一線を画した崇高な表現と共通して、丁寧に丁寧にゆっくりゆっくりと演奏される Urlar の一音一音に魂が宿っているような感じがします。正直言ってこの演奏を聴いてしまうと、他のパイパーの演奏音源は二度と聴く気になれなくなります。
 そして、感動する演奏に出会った時のいつもの例で、これまでイマイチ興味が湧かなかったこの曲が突然素晴らしい曲と思えるようになり、俄然自分でも演奏してみたくなりました。Seumas の言葉を借りれば「私のとってこの曲の新たな次元を切り開かれた。」といったところでしょうか。

 あ〜、これだからピーブロックはやめられません。

■ スタイルを超越した2人の偉大なパイパー ■

 以上、紹介してきたように Robert Reid Malcolm Ross MacPherson という2人のパイパーはある意味では好対照な存在です。「ハイランダーでもガーリック・スピーカーでも無いという生い立ち」vs「伝統あるパイピング・ファミリーの血統」。そして、"The Cameron Line" vs "The MacPherson Line" という対照。

 しかし、あの John Burgess は次の様に明言します。

 「私がこれまで聴いた中でベスト・ピーブロック・プレイヤーは Malcolm Ross MacPherson と Robert Reid の2人である。たとえ、彼らが別々のパイピングスクールの流れを汲んでいたとしても…。」と。

 生い立ちや演奏スタイルを超越して共に歴史にその名を残したこの2人の偉大なパイパーの演奏をじっくりと味わってみては如何でしょう。現在と違ってピッチの低いチャンターの心地良さもまた格別です。

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