ハ イランド・パイプに関するお話「パイプのかおり」 | |
第34話(2014/2) Robert Reid & Malcolm Ross MacPherson パ
イプのかおり第14話の冒頭で、The
MacCrimmons(マクリモン一族)が創造したピーブロックの伝統は、2つの系統を経て現代に
伝承されていることに触れました。 The Cameron Line
と The MacPherson Line です。今回は それぞれの系統を代表して
20世紀前半に活躍した2人の偉大なパイパー The Cameron
Line の Robert Reid と
The MacPherson Line の Malcolm Ross MacPherson
について紹介します。 ■ Robert Reid(1895〜1965)■ Robert Reid は
1895年3月16日に Stirlingshire の Slamannan
(Google earth
で確認するとエジンバラとグラスゴーの丁度中間辺りでした)で炭坑夫の息子として生まれました。彼は "the first masater piper who was
neither a Highlander nor a Gaelic speaker"
という位置づけのパイパー。つまり、祖先を数代遡ってもハイランダーの血もゲール語を話す家系との縁が無いにも係らずマスター・パイパーとなった最初の存
在です。 その後の彼の華々しい活躍の端 緒になったこの出会いは2年後の1909年に一旦中断。その訳は、Robert Reid が ハイランド・バレー・カンパニーという団体の少年ダンサーの職を得て、ヨーロッパ各地に於ける2年間の公演旅行に参加す ることになったからでした。この2 年間は炭坑の町育ちの若者にとっては変化と刺激に満ち溢れた一時でしたが、公演旅行が終わってしまった後は、生活の糧を 得る為に父親と同じ様に炭坑夫とし て働くという、地味な生活に戻ざるを得ませんでした。 とは言っても、スコットランドに戻るということは、John MacDougall Gillies の下に通いパイプの腕を磨く日々が再開されるということも意味していました。彼はその年の夏には初めて Argyllshire Gathering に出掛けて、当時の一流パイパー達の演奏に触れたただけでなく、彼自身も(何らかの)ピーブロック・コンペティションに参加して3位に入ったということ。 早々に才能の片鱗を見せ始めていた訳です。 しかし、広い世界に向けて一度開かれた若者の目は閉じたままにしていられる訳がありませ
ん。一年を経ずして Reid はカナダに渡り現地の炭
坑で働くようになります。 終戦を迎えて24才になった Reid はいよいよ世界一のパイパーへの道を歩み始めます。ピーブロックの研鑽のために John MacDougall Gillies だけでなく Alexander Cameron(1848〜1923)の所にも通う様になるのですが、その Sandy Cameron との最初の出会いの場面について Reid 自身が次の様に語っています。 戦後直ぐのインバネスでの The Northern
Meeting の会場でのこと。会場の片隅で Reid が
チューニングをしていると、ステッキにすがった一人の老人が近寄ってきて立ち止まり、彼の演奏にじっと耳を傾けます。彼
はこの老人がおそらく自分に話しか
けてきたいのだろうと気付きますが、心の中で「どうせロクな話しじゃなくてコンペでの演奏の邪魔になるだけなんだから、
このまま立ち去って欲しいな〜。」 と念じながら演奏を続けました。しかし、とうとう Reid が
演奏を止めると、思っていた通りにこの老人が近寄ってきて次の様に言いました。「君は "The Earl of Seaforth's
Salute" の第2小節目を間違って演奏している。」 Reid は「え、そうですか?」と。老人が続けて「ところで、
君は誰に教わっているんだね?」と問うので、Reid が
「John MacDougall Gillies に
教わっています。」と答えたところ、老人は「そうか、ではグラスゴーに戻ったら彼に『お前は間違って演奏している』と伝
えなさい。」と言いました。Reid が「 Gillies
の演奏について注文を付けようとする貴方は一体誰なんですか?」と尋ねると「私は Sandy Cameron だ。私が彼を教えた。」 大戦後、Reid は
生活の糧を得る為の炭坑夫としての仕事を1926年まで続けながら John
MacDougall Gillies の下に通います。 Gillies は1925年12月に亡くなりますが、Reid はその時までには The
Cameron Style pioibaireachd playing を完璧に引き継ぎ終えてこのスクールの最高の名手としての地位
を確立していました。 コン
ペティションの戦歴を並べ立てるのは決して本意ではありませんが、Reid
がどのように他を圧倒して優れていたかを推察する助けにはなると思うので以下に引用します。 でも、やはりいくら戦歴を並び立てても、Robert
Reid の演奏イメージが湧いて来る訳ではありません。それよりも、彼の当時の演奏に関する印象
を綴った象徴的な言葉を引用しましょう。それは、エジンバラのあるコンペティションの聴衆の一人として彼の "In Praise of Morag"
の演奏を聴いた John Wilson(先
代ですね)の次のような言葉です。 もう一つは Robert Reid 自
身の自らの演奏に対する絶対的な自負を示す逸話。 時代は戻りますが、1925年に師匠を失った失意の中、Reid は1926年についに炭坑を出ることにします。彼はま ず初めに R. G. Lawrie の工房でバグパイプ・メイキングを学び始めます。その後、1932年にはグラスゴーの George Street に自らの工房を開設しました。その後、楽譜集の出版にも手を出し、1933年には "The Piper's Delight" という楽譜集を出版しています。 Robert Reid は
教育者としても多くのチャンピオンパイパーを育てて大きな功績を残しました。 1953年(58才)に Robert
Reid は最初の心臓発作に見舞われます。 1965年夏、The Cowel Gathering に 於けるジャッジの役目を目前に控えて、最後のそして致命的な心臓発作が彼を襲います。1965年8月31日に Robert Reid は亡くなりました。享年70才というの は長寿の多い名パイパー達の中では決して長生きしたとは言えません。 Robert Reid の演奏音源については、20世紀半ば以降の技術革新のお陰で現役中の演奏が録音されてい ました。その貴重な録音テープが遺族から寄贈されたことを受け、2004年に College of Piping から "Classics from the College" と銘打った CDシリーズ してリリースされました。アルバムタイトルに Volume1 と銘打ってあるとおり、その後も継続してリリースされる予定でした。ところが、それから10年間音沙汰無し。「あの話は一体どうなっちゃったんだろう?」 と思っていました。 そんな折の先日、いつもの様にボブさんのピーブロック・フォーラムをチェックしていたら (最近は新たなトピが立つのはごく稀なので、ほぼ毎日変化の無い事をチェックする感じですが…。)常連の Ron Teague さんがこんなトピ "Noodeling around the Piobaireachd Society web site" を立てていました。 「う〜ん、いつもチェックしているライブラリーの中に Robert Reid が "Desperate Battle of the Birds" を演奏している音源なんてあったかな〜?」とピピッと来まし た。 早速、サウンド・ライブラリーのインデックスの "Desperate Battle of the Birds" の項に目をやると Artist の名前が Andrew Wright Robert Reid と連名になっています。そして、右端の音源のあるページへのリンクを示すスピーカーのアイコンをクリックすると、まずは Andrew Wright の音源を再生するプレイヤーが現れます。この音源は先日チェック済み。はてさて、改 めて右側のインフォメイションの記述を読み進めると、Here it is, from the Robert Reid Archive. という一文があり、Here の部分がリンクが張られています。クリックすると別ウィンドウに新たなプレイヤーが起きて Andrew Wright のものとは明らかに異なった演奏音源が流れます。Robert Reid の演奏音源です。さて、この演奏音源の 出所を探ってみると、Reference Library の中に Robert Reid Archive というページがありました。う〜ん、これはなんとも貴重なページを見落としていました。 どうやら Robert Reid の 演奏音源についての継続的な CD シリーズ化は止めて、College of Piping と表裏一体の関係にある Piobaireachd Society のサイトの中に Robert Reid Archive という専用のページを作ってそこに音源をアップロードすることにしたようです。 IT 技術の進歩が当初の計画を追い抜いてしまったのですね。そういえばいつかどこかでそんなアナウンスを読んだような気がし ますが、その時は意味が良く分かっ ていませんでした。とにかく、この方針転換のお陰でその他のサウンド・ライブラリーの音源と同じくソサエティーの会員で あればエクストラコスト無しでこれ らの貴重な音源を聴き放題ということ。ピーブロック愛好家にとってこのアーカイブは大変に有り難い限り。 Robert Reid Archive の現時点での曲目リストは次の通り。 ・Battle of
the Pass of Crieff "Classics from the College" Vol.1 でパイプ演奏として聴く事ができたピーブロックは、 ・I Got A
Kiss of The King's Hand の2曲だけ(その他は、チャンター・レッスンと語り、ライトミュージック)なので、パイ プ演奏の音源が一挙に19曲もアップされたのは大ボーナス。Piobaireachd Society 会員の方は要チェック必至です。 ■ Malcolm Ross MacPherson(1907〜1966)■一方、このリストの中で中段下にある ※Malcolm MacPherson - BBC Chanter Programme introduced by Seumus MacNeill という音源だけが Robert Reid の音源ではなさそうで異質です。タイトルからすると、 Robert Reid と同時代の Malcolm Ross MacPherson の音源でしょうか? タイトルに貼られたリンク先の新たなページに次のようなインフォメーションが書いてあり、右上に配置された《Listn to Track》のアイコンをクリックすると、30分の音源を再生するプレイヤーが起動しま す。 Includes a brief biography of Malcolm MacPherson and examples of his style of playing Glengarry's March, Lament for MacLeod of Colbeck, Earl of Seaforth's Salute, MacGregor's Salute, Black Donald's March, I got a Kiss of the King's Hand, Lament for the Departure of King James. Examples are played by Seamus MacNeill who talked about the MacPhersons and making this broadcast at the Piobaireachd Society Conference in 1984 そこで、パイプのかおり第23話の冒頭で紹介した1984年の Piobaireachd Society Conference 報告書を引っ張り出してきました。歴代の The MacPherson パイパーについて詳細に紹介をしている Seumas MacNeill によるこの時の講演内容は、数多の Piobaireachd Society カンファレンスの講演の中でも確実に5指に入る興味深いもの。この説明から推察すると、これはこの時の講演に基づいて BBC Radio Scotland の30分番組用に作成された音源のようです。講演の後の質疑応答の中で Seumas が説明しているのですが、この番組の中で流される(当日の講演の中でも一部使われた)Malcolm MacPherson の演奏スタイルの例(examples of his style of playing)の音源は、Seumas MacNeill 自身が Malcolm の録音音源をイヤフォンで聴きながら自らのパ イプで忠実に再現した演奏だということ。 Malcolm Ross MacPherson についてはパイプのかおり第14話で "BINNEAS IS BORERAIG" と
いう特異な楽譜集に記録された演奏を行ったパイパーとして簡単に紹介していますが、今回は彼の素顔について詳しく紹介し
ます。 Angus は Calum
"Piobaire" MacPherson (1833〜1898)の8人の子供の内の5人の男
子の末っ子として1877年6月2日、Robert Reid と
同様に父親の演奏するパイプの音色の中に生まれ落ちました。5人の男子は一人を除いて全員が一流のパイパーとして活躍し
ましたが、中でも最も優れたパイパーとしてマクファーソン・パイパーのメインストリームを繋いだのは1863年生まれの
長兄 John (愛称: Jockan) MacPherson でした。Jockan は父親の Calum "Piobaire" を継いで Clan MacPherson の居城である Cluny Castle(at
Laggan near Newtonmore /※1)のお抱えパイパーに就任します。 さて、ここでスコットランド出身で世界的に名を馳せた1人の名士が登場します。13才の
時に両親とともにアメリカに移住してその後「鉄鋼王」として成功を収め、当時としては世界一の金持ちと言われた Andrew Carnegie(1835〜1919)
です。 Calum "Piobaire" が死去した1898年、Carnegie がスコットランドに於ける永続的な拠点として
Dornoch 近郊 の Skibo Castle
を購入してそちらに移ることになったことを機会に、Jockan
は自身の宮仕え先を Drummond Castle の
Lord Willoughby に鞍替えするとともに、Carnegie
のお抱えパイパーとしての役目を14才年下の末弟 Angus
MacPherson に譲ります。 ちなみに、Skibo Castle は 1982年まで Carnegie 家が所有していましたが、その後は所有権が他の資産家ものになりながらも、現在は世界で僅か400人の会員しか居ないセレブな The Carnegie Club 専用のリゾートホテルして運営されています。マドンナのような超有名人の結婚式場としても人気のようです。(リンク先、ぜひご覧あれ。セレブリティな憩い の場を覗き見ることができます。一度でいいからあんなフィットネス・プールでゆったり泳いでみたい…。) 1906年、Angus は Alice Ross と結婚し Newtonmore に居を構え不動産業を営み始めます。業務の合間には Cluny Castle のパートタイマー・パイパーとして務めを果たす事もありました。また、ダンスの才能に秀でていた Angus はロンドンで3シーズンに渡って社交界の女性達を対 象にダンス教師を勤めました。Alice Ross と はその頃に知り合ったと思われます。Alice は以前 MacPherson 一族が Skye 島に居を構えていた時に隣同士だった Ross 一 族の子孫であり、John Ban MacKenzie の遠縁でし た。つまり、優れたパイパーとしての DNA はかなり濃厚な者同士ということになります。 1914年、Angus は
Andrew Carnegie から Skibo
Castle の北 10数キロの Shin 川のほとりに位置する(おそらく Carnegie が投資物件の一つとして入手した)Inveran
Hotel
の経営を勧められます。そして、その後1949年にこのホテルが大火事で焼け落ちるまでの35年間、この小さなフィッシング・ホテルの経営に当たりまし
た。 Angus のホテル経
営時代は彼のパイピングキャリアとしての最盛期と重なります。 【2021/1追記】 時は少しばかり遡って、まだホテル経営に入る前の結婚翌年の
1907年、パイパーとしての DNA が濃厚な2人の間に1人息子の Malcolm
Ross が生まれます。一家が Inveran Hotel に
引越した時に彼はまだ7才の多感な年頃。その後の彼はホテル(経営者の家族)という特殊な世界の中で、優れた血統のパイ
ピングファミリーの一員として飛び抜けたパイパーになるべく、少々いびつな形で育てられていくことになります。
しかし、さすがは血筋、パイパーとしての才能は幼少の頃から顕著でした。父親がカンタラックを歌うまでは寝付かないという赤ん坊だった
Malcolm R. は7才でパイプを練習し始めまし
た。そして、なんと僅か10才の時には早々と Invergordon Highland
Gathering に於いて "Masacre
of Glencoe" のエキシビション演奏を行い、時の Clan
MacIntosh
のチーフテンから記念のスポランとダークを授けられたということです。まるで、モーツァルトの子供時代と似たような話ですね。 1923年16才になった Malcolm R. は Northern Meeting Gold Medal イベントに初めて参加します。当時46才の父親 Angus が初優勝したこのイベントで、彼はいきなり4位に入賞。翌1924年も再び4位、1925年に3位。そし て、1927年には弱冠20才にして栄冠を獲得。その生い立ちと恵まれた環境から Malcolm Ross MacPherson がいずれは優れたパイパーになるであろうことはだ誰もが予想していた事でしたが、これほどまでに早々と真の天才ぶりを見せつけられることは想像を超えてい たので、この時の衝撃は甚大なものでした。 実は、Northern Meeting を制する前年の1926年の Kyleakin Game に於けるコンペティションでは、19才の Malcolm R. は 当時60才で正に円熟の極みにあり、しかもその当時は彼の師匠でもあった John MacDonald, Inverness と競って、両者とも完璧な演奏で1位を分け 合いました。しかし、この時の状況を想像して Seumas MacNeill は「演奏内容だけを比較すれば Malcolm R. MacPherson の方が優れていたことは疑う余地が無い。」と断定します。「何故ならば同位とされた John MacDonald, Inverness の評価 の中には、年長者であることとその絶大な名声が加味されているはずだから。」と。 その証拠に、ある年の Invergordon Game に於けるコンペティションでは、1st が Malcolm Ross MacPherson 、2nd が Malcolm R. の44才年長の叔父 Jockan MacPherson、3rd が John MacDonald, Inverness だっ たということです。 Malcolm R. と 同様に Jockan MacPherson の弟子であった Dr. Roderick Ross によると、その当時 Jockan は「Malcolm は驚くべきパイパーだ。既に私のみならず彼の祖父の Callum "Piobaire" をすら上回っている。」と語っていたということです。 その後、Malcolm R. は 全てのメジャータイトルを獲得しました。Northern Meeting の Clasp 部門では、1928年から 1946年までの間に、1930年と1937年に1位。2位が4回、3位1回、4位2回。Argyllshire Gathering では1933年に Gold Medal を獲得しています。Strathpeffer のピーブロック部門に於いては 14年間に 11回優勝しましたが、この時の競争相手には John MacDonald, Inverness、Willie Ross、Robert Reid などが含まれていました。Braemar では余りにも優勝し続けるので、優勝トロフィーはずっと彼の手元に置かれていたということ。もちろん、Robert Reid と同じくピーブロックのみならずライト ミュージックでの戦歴も同様に華々しいものです。
「20世紀で最も偉大なパイパー」(よくある "one of the greatests" ではなくて、純粋に "the
greatest")と言われる事もある Malcolm
Ross MacPherson ですが、彼の暗黒面がその類い稀な才能に陰を落とします。 ちなみに、温厚な性格でインテリジェンス溢れる真の紳士として広く知られる Angus とその妻 Alice、そして義理の娘に当たる Malcolm R. の離婚した妻 Joey とその2人の子供達は、 Malcolm R. が出ていった後も終生仲良く一緒に暮らし
ました。 一方、 Inveran Hotel を出た後
の Malcolm R. は、2人の女性との非婚と
短い結婚によってそれぞれ息子を1人づつ設けたりしながら、あちこちの土地管理人を務めた後、エジンバラに居を定めま
す。 Malcolm Ross の
亡がらは Laggan にある祖父 Calum "Piobaire"
と同じ墓地に埋葬されました。19世紀と20世紀のそれぞれを代表するパイパー2人が並んで永遠の眠りについたのです。 Dr.
Roderick Ross の録音した Malcolm
R. の演奏音源(つまり、最新でも1960年代初頭の録音)をデジタル・リマスターして CD
化する取り組みが2009年にスタートしました。この
"BINNEAS IS BORERAIG - Piobaireachd by Malcolm Ross
MacPherson" シリーズは最終的には全6巻で完結する予定。ほぼ
一年に一巻のインターバルで現時点では 2013年3月の Vol.4 までリリースされています。
この録音作業に立ち会ったことがある Gavin Stoddart によると「当時の Malcolm R. は アルコール中毒と薬物依存の影響が明らかだった。」ということです。確かにデジタル・リマスターでも隠しようのないチャ ンターやドローンの音色が安定しな いなど、正直言って聴き苦しい演奏もあるのは事実。彼の絶頂期の演奏とは大分掛け離れたものなのは明らかです。しかし、 The MacPherson Style の正統たる それぞれの曲の表現の細かなニュアンスについては、僅かの揺らぎもなく存分に感じ取ることができることは間違いありませ ん。 Seumas MacNeill はある年のカルフォルニア・サマースクールの場で生徒達に Malcolm R. の録音を聴かせる機会を持ちました。その際、インストラクターの Iain MacFadyen と John Burgess が一緒に聴いていたのですが、録音を 聴き終わった時、Iain MacFadyen は "We don't know how to play pibaireachd" と言ったということ。 そして、 Iain はその時に聴いた "Lament for MacLeod of Colbeck" を 手本にして後日 Grant's(Glenfiddich)Championship で 2度の優勝を果たしたのです。 いずれにせよ楽譜を読む訳ではない私のような者にとっては、Dr. Roderick Ross が伝えようとした The
MacPherson Style の演奏表現を直接理解するために Malcolm R. の生演奏を聴く事ができるこの
CDシリーズは何よりも有意義な資料です。 1917年生まれの Seumas MacNeill は Malcolm R. の 10才年下に当たりますが、ある時期 Malcolm R. か らかなり濃密に手ほどきを受けたことがあります。そんなある日、Seumas は "King's Taxes" の The MacPherson Style での表現について問い掛けました。Malcolm R. は「親父(Angus)はこう演奏した。」「でも、叔父(Jockan)はこう表現する。」「また、John MacDonald はこうだった。」「そして、私は このように演奏する。」と言って、4通りの異なった表現でカンタラックを歌ったということです。4人とも The MacPherson Style のパイパーではあっ ても各人の表現はそれぞれ。Malcolm R. は 「ある曲を表現するのに唯一つの表現方法しか無い。」という考え方を笑い飛ばして、"Music was for individual interpretation." と言い切ったということです。 Malcolm R. の 最盛期を知っている Seumas にしてみれば、 1984年の Piobaireachd Society カンファレンスに際して Malcolm R. の演奏スタイルの例(examples of his style of playing)を具体的に伝えようとした時、絶頂期とは比べるべくもない晩年に録音された Malcolm R. 自身の音源を使うので はなくて、自分自身で完全コピー演奏をすることによって往年の Malcolm R. の演奏を彷彿とさせるような音源を作成したかったのではないでしょうか。 そんな意味からも "BINNEAS IS BORERAIG" の CD シリーズで聴ける Malcolm R. 自身の演奏音源とともに、"Malcolm MacPherson - BBC Chanter Programme" の Seumas MacNeill によるトリビュート演奏音源もまた、ピーブロック愛好家は心して耳を傾けるべき音源だと思います。 中でも一つの大きな聴きどころは、Dr. Roderick Ross をして Malcolm R. のこの曲の演奏を初めて聴いた時に「この演奏を聴くまで、私はバグパイプという楽器がかくなる心地 良い旋律と感情表現をすることが可能だということ理解していなかった。」と言 わしめている "Earl of Seaforth's Salute"(7:00〜10:05)。 (この曲についての関 連記事⇒) また、"MacGregor's Salute"(10:55〜13:00)に於いては、近年のパイパーが当た り前の様に行う birl でなくて little finger の echo beats で丁寧に表現 する様子が聴きものです。パイプのか おり第26話で紹介した Andrew Douglas の演奏はこの Malcolm R. の 表現を拠り所にしたものだったということが解明できました。もしかしたら、 Andrew Douglas は この当時のラジオ番組を聴いたのか、あるいは CoP のサマースクールで Seumas MacNeill にこの音源を聴かされたのではないでしょうか。 そして、Seumas が
Malcolm R. によるこの演奏は「私
にとってパイピングの新たな次元を切り開いた。」と表現している "Lament for the Departure of
King James" (21:00〜25:15)はこの音源の中で最大
の掘り出し物。 あ〜、これだからピーブロックはやめられません。 ■ スタイルを超越 した2人の偉大なパイパー ■ 以上、紹介してきたように Robert Reid と Malcolm Ross MacPherson という2人のパイパーはある意味では好対照な存在です。「ハ イランダーでもガーリック・スピーカーでも無いという生い立ち」vs「伝統ある パイピング・ファミリーの血統」。そして、"The Cameron Line" vs "The MacPherson Line" という対照。 しかし、あの John Burgess は次の様に明言します。 「私 がこれまで聴いた中でベスト・ピーブロック・プレイヤーは Malcolm Ross MacPherson と Robert Reid の2人である。たとえ、彼らが別々のパイピングスクールの流れを汲んでいたとしても…。」と。 生い立ちや演奏スタイルを超越して共に歴史にその名を残したこの2人の偉大なパイパーの
演奏をじっくりと味わってみては如何でしょう。現在と違ってピッチの低いチャンターの心地良さもまた格別です。 |
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