"Piping Times"《1991年》
 P16 Seasons Greetings は毎年1月号には必ず挿入されている、クリスマス&新年を迎えるに際してのご挨拶。例年、ほんの3行程度。

 興味深いのはその直下に書かれている P16 Apology です。一体何を謝っているのか?

 どうやら、この号の発行が通常よりもかなり遅延した様です。読者からの問い合わせも多く寄せられたとの事。

 遅延した理由がふるっています。なんとクリスマス・シーズンに於ける郵便物の混雑に巻き込まれて、編集部から印刷所に送っ た大切な原稿の束が行方不明になってしまった由。
 原稿の内のいくつかについては、再度書き下ろしてもらう必要があり、到底こ の号には間に合わず、それらの記事については来月号になってしまう事態だと報告。

 そう言われれば、空いたページを埋めるためだったのでしょう、今回はやたらと読者投稿欄のページ数が多い様に思えます。

 今後2度とこの様な事が無い様に務める旨謝っています。そして、その対策の一つとして、£2,000 の経費を掛けてファックスを導入する事にした由。その経費の足しにするための寄付を募っています。

 最後のオチは、今回のトラブルに乗じてお金をせびっている様で、何となくイマイチ釈然としない謝り方の様な気がしました。

 P17 Robert G. Hardie は追悼記事。あの、R. G. Hardie ブランドのパイプメイカーの創業者 として一時代を築いた名パイパーが、前年の1990年11月1日に、食道がんとの長年の闘病の末に死去したとの事です。



 生年は書かれていませんが、Bob Hardie はグラ スゴーの 数マイル北に位置する Lennoxtown という所で生まれました。若い頃から Robert Reid の指導を受けてパイプの技を磨きます。その後、第2次世界大戦直後にグラスゴーにオープンした Reid の工房でパイプメイキングの技術を習得。主任ウッド・ター ナーを務めます。Reid の工房が閉じられると、Hardie は、後年、R.G.Hardie & Co. として世界中に名を馳せる事になる、自らの工房を立ち上げます。

 11月6日に催された葬式に於いては、弟子の一人であった Robert Wallace が "Lament for the Children" を演奏。パイピング界を代表して Seumas MacNeill が弔辞を述べました。
 この追悼記事では、Seumas のこの弔辞が1ページ余 りに渡ってそのまま紹介されています。その中で触れられている Bob Hardie のソロパイパーとしての実績について幾つかを抜粋して紹介します。

 Seumas は、自分自身や Bob Hardie といった戦後世代のプロフェッショナル・パイパーたちは、戦前から活躍する巨匠たちに対して、自分たちの技量がどの様な程度であるかを試すためにコンペ ティションにチャレンジしていた。そして、時々は成功したと、振り返ります。
 その中で、Bob Hardie は 1947年に Oban(Argyllshire Gathering)の Gold Medal 部門に於いて "Corrienessan's Salute" を演奏して優勝。Seumas は目を閉じると今でもその時の彼の完璧な演奏が聴こえてくる、と思い出深く語ります。

 Bob Hardie はその後は頻繁にコンペティションに参加する事は無く、主にパイプ製作の事業に力を入れる様になりましたが、時折参加しては成功を収めました。1952年 には Oban の Open Piobaireachd 部門で優勝。そして、彼のデザインしたパイプとチャンターは世界中で有名になり、今(この当時)では他のどのメイカーよりも多く出回っています。

 後年の Bob Hardie は有能なパイプ教師として 活躍。北米やカナダで彼が指導したパイパーたちは、その後、多方面で活躍している、と締め括ります。

 式の最後に、Bob Hardie が Oban で優勝した際の演目  "Corrienessan's Salute" が、再び Robert Wallace によって演奏され、皆でしめやかにお別れしたとの事。

 P21 "Paidh Na Bodaich Nail' Ach Ruairidh"Fran Buisman による記事。
 7ページに渡る文中に散見されるカンタラックや楽譜から、この記事がピーブロックネタである事は直ぐに想像付くのですが、 例のよって難解極まる内容。そもそも、ダブルコーテーションで囲まれたタイトルは曲名らしのですが、英語タイトルは何なの か?という事を読み解く事にも難儀しました。
 どうやら、Campbell Canntaireachd MS に収録されているその曲のタイトルは "Will the Old Men Pay(or : Old Men Will Pay, The Old Men Payed)Indeed But Not Rory" と訳されるらしい、という事がようやく判明しました。
 一事が万事そんな程度なので、本格的な内容紹介については、今回も敢なく討ち死です。

 冒頭で紹介した理由 で、この号では読者投稿ページがやたらと多いの ですが、そんな中 P41 Evening Post コーナーに、ある人の3ページにも渡る投稿が載っていました。

 投稿者は、Ruairidh Halford-MacLeod, FSA Scot, FSTS。その特徴的な肩書きは、紛れもなく 1990年2月 号3月号James Logan Part3&Part4の 筆者です。
  各々の投稿には冒頭に投稿者の在住地が記載されるのが常ですが、この人は Shapingsay, Orkney とありました。現代の魔法 Google Map で確認すると、オークニー諸島の本島に隣り合った小さな島の様です。

 さて、肝心の投稿のテーマは、1990年10月号のEditorial で触れられていた、曲の最後や途中で Ground を演奏する(しない)件についてです。
 
 投稿者も、近代のコンペティションに於いて最後に再び Ground 演奏する習わしが、1949年の P/M Robert MacKay の演奏から始まった、という事 については知らなかった由。そして、現代のパイパーたちは概して最後に再び Ground を演奏するにしても、それはせいぜい最初のラインをざっとなぞる程度で、Ground 全部を演奏する例は聴いたことがない、との事(やはり、John Burgess の録音は聴いたことが無いようで…)。

 投稿者は「18世紀初頭のパイパーたちの実際の演奏に関する資料はごく限られているが、MacCrimmon のパイパーたちがどのように演奏していたかについて、振り返ってみる事は価値があるだろう。」と、あるエッセイ文に描かれている逸話を紹介します。

 それは、Highland Society of Scotland からゲール音楽の収集を依頼された Alexander Campbell という人物が 1815年の10月、(パイピング王朝としての)最後のマクリモンの一人 Donald Ruadh MacCrimmon の住まいを訪ねた際の逸話。
 Ronald は近所に住む弟子の Alexander Bruce も呼び寄せて懇談。しばし杯を重ねた後には、師弟のパイピングを堪能します。そして、2人の見事な演奏について、事細かに描写されているのです。(引用さ れた Alexander Campbell によるエッセイ文は実際には1ページほど有ります。)
 
 その中で投稿者が特に注目したのは、Donald Ruadh MacCrimmon の卓越した演奏について描写された次のような一文(の太字部分)。

 "He showed a masterly command of the instrument, and the manner in which he move his fingers seems peculiar to himself; the effects he produced by this means are admirable - there is not one sound lost - not the quickest appoggiatura, how rapid so ever the movement or variation and the regular return to the subject or theme of the piece is in fine contrast with the more intricate passage."

 つまり、Donald Ruadh の演奏に於いては「曲の途中で頻繁にテーマに戻る事で、より込み入った一節 (バリエイション) との素晴らしいコントラスを醸し出している。」と書かれているのです。

 投稿者はこのエッセイ文の紹介に続いて、当時の演奏では曲中で頻繁に Ground に戻っていた事を古い楽譜からも解説。John MacIntyre に よって1715年に作曲され、その当時としては最も人気を博していた "The Prince's Salute" を例に取り上げて、Donald MacDonald Book の楽譜では、Ground を4回演奏する様に書かれている事を紹介しています。

 最後にこの投稿を「この様な手法による演奏を聴く事は大変興味深い事である。」と締め括ります。(僭越ながら、私も大いに 同感です。)



 P15 Editorial の反対ページ、P14にこの全面広告(告知)が掲載 されていました。Book14がリリースされたのが1986年なので足掛け5年振りの リリースになります。

 Book15の序文ページに目を通すと、Book15は当初1989年にはリリース される運びだった様で、当時の音楽委員会代表 A. G. Kenneth が序文を書き終えています。しかし、その後1989 年7月に Kenneth が死去した ため、一旦延期されたのでしょう。1年以上の遅延の後、Kenneth の序文の下に、1990年11月付けの James Campbell、John MacLellan、Hugh MacCallum の連名による、Kenneth への追悼を含めた新たな序文が書き加えられて、1990年末頃リリースされた様です。この広告が最初の告知になります。

 告知文の次の様な一文に注目。
 "There will probably be further publications by the Piobaireachd Society in due course, but they will be of a different character, in a different format with a different purpose."(太字引用者)
 
 つまり、当時の音楽委員会としては、従来の編集方針による楽譜集としてはこの Book15が最 後の巻である、との認識が強かった事が読み取れます。その事は、25年間のブランクの後、2015年にリリースされ た Book16の序文にも書かれています。

 しかし、実際の Book16はその後の様々な発掘(?)の成果を反映しつつ、従来と同じ形式と 目的を持った同じ性格の楽譜集としてリリースされたのはご存知の通りです。
 P19  Judging Piobaireachd Contests はタイトルにピーブロックの文字が入っているので一応説明します。
 結論から言うと、これは 1973年のピーブロック・ソサエティー・カンファレンス(の 2nd session)の講演録の転載です。
 この当時は、初期の PS カンファレンスの講演録は既に絶版になっていた由。そこで、貴重な情報源としてこの講演録を本誌に復刻掲載する事にした、とリードで説明されています。

 翻って現在は、全ての講演録が PS サイトにアップされているので、会員はいつでも過去の講演録にアクセス可能です。この講演録に関心のある方(会員)はどうぞ原本にお目通し下さい。

 P35 Piping in 1938Jeannie Campbell お 得意の Oban Times のバックナンバーを紐解いての回顧記事。今回はタイトルにある通り、第2次世界大戦を間近に控えた1938年のパイピング・シーンを振り返ります。時代の 大きな変革期に当たるので取り上げた由。
 4枚の写真を挿入しつつ、全部で9ページのボリュームある記事ですが、余りに事細か過ぎて正直、着いていけません。また、 今回の記事は3月12日の出来事で終わっているので、特段「次回に続く」とはなっていませんが、もしかしたら連載かもしれま せん。

 そんな中、挿入されている4枚の写真の中の次の1枚に目が止まりました。



 何故か、1938年では無くて 1950年の Oban Games、つまり、The Argyllshire Gathering に於ける写真。コンペに参加した主要なパイパーたちによる記念 撮影だと思われます。錚々たる老練パイパーたちを従えて中央に写っているのは、弱冠16才の John D. Burgess。この年の Piobaireachd 部門 Gold Medal 受賞者です。半歩下がって立ち並ぶ老練パイパーたちが、丁度自らの子供世代に当たるこの若者の歴史的快挙に少々困惑している様な、複雑な面持ちが見て取れ ます(クリックで拡大)

 しかし、ご存知の通り、John D. Burgess はこの直後の Inverness に於ける The Northern Meeting でも  Gold Medal を獲得。空前絶後の史上最年少 Double Gold Medalist に輝き、留めの一発を打ち込みます。その時の衝撃は推して知るべし。流石に事そこに至っては、居並ぶ老練パイパー達も困惑を通り越してひれ伏したであろう 事は想像して余りあります。John D. Burgess
 
 不思議なのは、当の記事本文は徹頭徹尾1938年の出来事を記述していて、最後までこの写真に関する記述が見当たらないと いう事。単なる写真挿入の間違いなのでしょうか?

 P47 A Note on the MacKenzie Manuscripts はあの Frans Buisman によるピーブロック関連記事です。この方の記事はいつも超難解でほぼ毎回読解不能。紹介を諦めてしまいがちですが、今回の5ページ強の記事に関しては、文 章自体は割と理解の範疇に入っています。ただ、例によって分析&解析のツッコミ程度は半端無く「そこまで分析してどうすん の?」という感じは否めません。

 タイトルの MacKenzie Manuscripts とは、数年前(つまり、1980年代半ば?)に The National Library of Scotland に寄贈された5冊の手書き草稿との事。筆者は Ronald and Alexander MacKenzie と いう2人の人物。執筆された期間は1860年頃〜19世紀終盤に掛けて。
 Ronald MacKenzie(1842〜1916) は、あの John Ban MacKenzie(1796〜1864) の従兄弟(それにしては年が離れていますが…?)に当たり、パイプ演奏に関しては弟子だったとの事。
 各冊の内容はそれ以前に出版されていた Angus MacKayDonald MacDonald の楽譜集から引用 されたものが殆ど。オリジナルとの装飾音の微妙な表記違いについて、例によって事細かに解説されていますが、余り意味が無い ので割愛します。

 文中でちょっと興味深いと思った下りは、Joseph MacDonald の表記から、D. MacDonald、A. MacKay、P. Reid、A. MacArthur の表記と、現代の表記への変化の仕方について筆者が気付いたという点を図示した次のイラスト。まあ、これとて「それがどうした?」という感じでもあります が…。


 もう一つは、Ronald MacKenzie があるページで紹介している "tuning prelude" について、Joseph MacDonald のそれと比較している次のイラスト。



 Joseph MacDonald のものは、彼の "Compleat Theory of 〜" P28に登場している "Generall Prelude for the Pipes" です。(18世紀半ばの英語綴りは現代とは微妙に異なります。)
 一方で、Ronald MacKenzie のものは、"Tuning notes, very old, get from my uncle John MacKezie, Taymouth Castle 1856" と記されて いる由。
 P17 Piobaireachd Society Seminars for Judge - 1990 は先月の記事と似たタイトルの記事ですが、これは文字通りこの年のセットチューンに関するセミナーのレポー ト。何故か本来は 1991となる筈のタイトルが 1990 となっているのはご愛敬。単 なるミスでしょう。

 セットチューンとして提示された13曲に関してセミナーで伝えられた内容について、 概ね各曲当たり数行程度でコンパクトに記されています。

 興味深いと思ったのは、何曲かについて、「Urlar の3行目5小節と6小節については Donald MacDonald セッティングでは、○○の様になっていて、そのように演奏される例もあり、(間違いでは無いと)認められる。」と いう様な記述が複数箇所で見られる事。

 つまり、当時としては既に主流派では無くなって久しい Donald MacDonald セッティング等、傍流のセッティングについても、一部取り入れて演奏する例が有った事。そして、コンペティションに於いても、それらがそれなりに許 容される状 況にあった事が推測できます。

 先月号に続く P33 Piping in 1938 はやはり連載でした。今月号の記事ではPart2 とタイトルされています。先月号 とほぼ同じく8ページ余り を費やして、Oban Times の4月2日の記事から始まっ8月13日の記 事で終わっています。つま り、まだ続く様です。

 概ね先月と同様に細かすぎて特段紹介するような記事は無いのですが、一つだけちょっと目を引く記事がありました。それは、 我らが Tomas Pearston の若かりし姿を紹 介した記事。
 どうやらこの方、1930年代半ばに、若手パイパーの一人として様々なコンペティションで目覚ましい成績を挙げていたよう です。 1937年の The Argyllshire Gathering の Strathpey & Reel 部門では5位に入賞した由。
 そして、あるコンペでの様子として "He looked so small that the full sized set of pipes he carried seemed beyond him." と描写されています。確かに、その記事からおよそ50年後に私が会った際 も、確かに小柄 な方でした。

 今回も写真が3枚挿入されています。その内の一枚を紹介しましょう。これは間違いなく1938年の写真だと思われます。Lochaber Gathering に於ける写真との事。当時の第一線パイパーが勢揃い。



 P45 Judging Piobaireachd Contests - Part2は文字通りの先月の続き。1973年 PS カンファレンス(2nd session)の講演録の続きです。

 久しぶりに広告ページから。
 1ページ大の広告にいきなり大きな顔写真が登場して びっ くり! 特段の説明は必要ないと思います。今を時めくピーブロック・ソサエティー・チェアマンたる、 我らが Robert Wallace の若かりし 姿。…と言っても「見間違える程に若々しい風貌」という訳では有りません(失礼)。
 この方、この当時は自身のデザインによる、この Lowland Pipes をフィーチャーした The Wistlebinkies のメンバーとして活躍していました。

 P30 Judging Piobaireachd Contests2月号から始まっている 1973年 PS カンファレンス(2nd session)の講演録再掲載の3回目。
 目次は同じタイトルが続いているのですが、何故か今回の本文のタイトルは Judging Piobaireachd Competitors  Part2 と記されています。更に、リードには「1974年の カンファレ ンス」という記載もあったりして…???
 連載の3回目とは違うのかな?とも思ったのですが、1973年と1974年の講演録と照らし合わせてみると、明ら かに 1973年講演録の内容でした。
 まあ、この様な混乱(?)も当時の "Piping Times" では時折見掛けられるご愛敬の一つです。Seumas も だいぶボケが入り始めていたのでしょう。

 P39 Piping in 1938 はやはり2 月号か ら始まったシリーズの3回目。
 今回扱う8月後半〜は Argyllshire Gathering(Oban)、 Northern Meeting(Inverness)の2大イベントを始めとする、パイピング・ハイシーズンなので、 それらを中心に当時のパイピングシーンの詳細な紹介 で埋められています。たっぷり6ページを費やしても、9月末までの1ヶ月余りの記事紹介で終わってしまい、まだ続くと の事です。

 全部を紹介するまでも無いので、幾つか興味深い内容を拾って、箇条書きで紹介します。
  • Cowal Games のピーブロック部門で Robert Reid が15回目の優勝。
  • Cowal Games の Piobaireachd Boys under 18 で Donald MacPherson(こ の方、1922/9/5生まれですから丁度16才 に成ったかなら無いかの頃。)が優勝。
  • AG のルールとして「年齢16才未満の男子、女性と少女はどのイベントにも参加不可 "Boys under 16 years of age, and women and girls are not eligible to compete in any events"」と記されている。
  • AG Junior Piobaireachd 部門2位に Thomas Peaston が入賞。(但し、参加者は5人。)
  • AG のレポートの中で当時の権威筋によるジャッジの有り様を如実に表している下り ⇒ "John Wilson, Edinburgh played 'The Sound of the Waves against the Castle of Duntroon' very well indeed but the judges did not consider his version of the tune sufficiently well authenticated."
  • William Ross の3冊目の楽譜集の出版が予告されている。
 P35 Piping in 19382 月号か ら始まったシリーズの4回目にして最終回。10月から年末まで3ヶ月間のパイピングシーンについて、今回も6ページを費やしています。以下に、幾つかの興 味深い記事について紹介します。
 
 10月1日の紙面には、ピーブロック転ソサエティーが 1939年のセットチューンに関する告知が掲載された由。
 シニア部門の課題曲としては、"MacKay's Banner"、"Clanranald's Salute"、"The Old Men of the Shells" が示されたとの事ですが、これらは全て、この年(1938年)にリリースされたばかりの PS Book7に 収録されている曲。つまり、参加者は必然的に Book7を購入せざるを得ない様に仕組まれている。何故なら、The Kilberry Book のリリースは 1948年の事だから。…と筆者は PS の意図を読み解きます。

 「同じ週に、Montana の A.K. Cameron による "The history of the MacCrimmons" という長文の手紙が掲載されている。」という記述にピピッと反応しました。
 この米国モンタナ在住の A.K. Campbell という人物の名前は、パイプのかおり第39話で紹介した Simon Fraser の文通相手の名前として記憶に 残っていたからです。

 12月24日付け記事に The S.P.A.(Scottish Pipers' Association)コンペティションのレポートが掲載されているとの事。ピーブロック部門の結果の紹介に続いて、またしても若き Tomas Pearston に関する記述が…。曰く、"The judges thought Tom Peaston of Glasgow, the youngest competitor, a very promising player worthy of special mention." と の事。
 表紙の人物写真が白黒なのは追悼の意味。目次ページの表紙写真キャプションにあ る様に、この方は 20世紀のパイピング・レジェンドの一人 John MacLellan M.B.E.(1921〜1991)。 この年の春、パイパーとしては比較的若い70才で亡くなった由。

 P15 Editorial の冒頭から、この方の死を悼んだ言葉が並びます。

 そして、本文 P18 John A. MacLellan のタイトルで、同じく Seumas MacNeill の筆になる4ページ余りの追悼文。この方の生い立ちや、この方が 20世紀パイピング界に果たした偉大な貢献などについて、詳細に記されています。

 私がハイランド・パイプに取り組み始めた1970年代半ば当時でも、教則本やハンドブックなどを通じてその名前を 頻繁に目にする機会が多く、その時点で既に「伝説的なパイパー」という印象でした。
 しかし、正直な所、これまでこの方についての詳しい事は殆ど知りませんでした。それどころか、恐らく1991年当 時の私は「あれ、この方まだ生きている人だったんだ?」という程度の受け止め方だったと思います。
 ですから、この追悼文を読んで初めて知った事が多々ありました。
 この方は演奏技量や創作能力に優れていただけで無く、ハイランド・パイプ普及に関して実に多大な貢献をした、その 後の世代の全てのパイパーが感謝すべき、偉大な人物だったのですね。
 後者の意味では、この追悼文を書いている当の Seumas MacNeill と双璧を成す存在 だと言えるでしょう。



 DXな時代の有難い事には、この追悼文は 2020年7月1日付けの Bagpipe News Features の コーナーに丸々再録されています。…なので、無駄な抄訳をしても意味がないので、紹介はここまでにします。どうぞ、 原文にお目通し頂き、この20世紀の偉大なパイパーについての認識を深めて頂ければ幸いです。

 ただ、どうしても触れておきたいのは、それまでスコットランドの学校に於ける音楽教育の対象として、殆ど顧みられ ていなかったハイランド・パイプについて、John MacLellan が(恐らく、Seumas MacNeill と共に)関係各方面に強く働き掛けた下り。その働き掛けの結果、その後のス コットランドの若者たちは正規教育の中でハイランド・パイプを学ぶ機会が与えられる様になったのですから…。この方 が、現代のハイランド・パイプ興隆の礎を築いた功績の大きさは計り知れません。

 P24 Burns Night in Russia は当時としては極めて珍しいイベントのレポート。レポーターは P/M Angus MacDonald.

 タイトルから推せる様に、そのイベントというのは 1991年1月に何とロシアの2大都市で開催されたバーンズ・ナイトの事。Seumas の仲介により、ロシアの The Friendship Society の招きでレニングラードとモスクワで日程をずらして開催された2ヶ所のバーンズ・ナイトを梯子して、それぞれのイベントでハイランド・パイプの模範演奏を した由。
 
 ここで改めて時代を振り返ってみて下さい。ソビエト連邦が崩壊したのは1991年12月の事。つまり、このバー ンズ・ナイトが催された 1991年1月というのは、ソビエト連邦の時代。タイトルで in Russia となっていますが、この場合のロシアは当時としてはソビエト連邦の中のロシア共和国を意味する固有名詞です。

 P/M Angus MacDonald はこのレポートを次の様に書き出します。
 "I have never really expressed any great inclination to visit the countries behind the Iron Curtain." 
 30年が経過して「鉄のカーテン」という表現はすっかり歴史用語になってしまいましたが、当時としては鉄のカーテ ンの向こう側に出掛けるというのは、極めて非日常的な出来事で、それ程気の進む企画ではなかった、というが気持ちが 伝わります。
 
 現在でも過去でも、スコットランドをルーツとする人々が一定程度集まって居住している地域に於いて、それらの人々 にとってはバーンズ・ナイトは欠かせぬイベントだというのは想像して余りあります。しかし、雪解け前のソビエト連邦 に於いてその様なイベントが盛大に執り行われていた、というは想像の域を超えていました。
 しかし、考えてみれば、国民的詩人プーシキンをこよなく愛し、事ある毎にその詩を引用するロシア人にとって、ス コットランド人が自らの国民的詩人たるロバート・バーンズを敬って集まるバーンズ・ナイトの催しは何か心が通じる所 があるのでしょう。いつの頃からか、このイベントが開催されていた様です。

 恐らく P/M Angus MacDonald はこのイベントに於いて、本場から招待された初めての超一流のパイパーだったのでしょう。非常に丁重に扱われ、空港 到着から帰国するまでの間アテンド付きで、キーロフ劇場でのバレエ、ボリショイ劇場でのオペラやバレエの鑑賞、レー ニン廟や博物館の訪問などなど、様々な楽しみを堪能する事ができた様です。そして、当初の杞憂とは裏腹に極めて満足 すべき旅だった事が、↓の記念写真での笑顔からも十分に伺えます。



 P27 The Early History of Leumludh はあの Frans Buisman による研究論文。2回連載の今回は Part1
 例によって超難解。ただ、初めてこの方の記事を紹介した1985 年12月号の当時(今から5年半前)に比べると、こちらの古い楽譜に関する情報と知識は格段に増し ているので、文字面を読んで、この方が言わんとしている事が朧げには理解できる様には進歩しています。しかし、 相変わらず十分に咀嚼して紹介するまでには至りません。
 P25 Pipers' Curiosity はピーブロッ クネタ。リードには次の通り記されています(クリックで拡大)

 
 筆者たる、SSS の Margaret Bennett がニューファンドランドに出向いてインタビューした人物というのは、The MacArthurs パイパーの末裔として、1884年に Newfoundland で生まれた Allan MacArthur という老パイパー。1971年に死去したという Allan へ のインタビューは、その直前(つまり、彼が80歳台の頃)に行われた様です。

 Allan MacArthur の祖父の家族は1820年代にスコットランドの Canna から、そして、祖母の家族(The MacNeills)は 1840年代に Moidart から、それぞれカナダに移住しました。

 Allan MacArthur は piper, dancer, Gaelic singer, story-teller, historian, craftsman, sometimes fiddler, accordion player として膨大な知識を持っていた由。そして、それらを全てをGaelic 文化伝承では当たり前の術「口承」で受け継いでいたのです。
 
 生前、Allan MacArthur はカナダを訪れた John MacPherson と会った事が有り、深い造詣を持ったパイパー同志として多くの実りある楽しい時間を過ごしたと思い出を語っていま す。
 しかし、スコットランド本土から遠く離れた地に生まれ育った Allan は、チャンピオン・パイパーとして名を馳せていて、彼にとっても "He was a wonderful piper, the best I ever heard." と いう印象を受けたという、John MacPherson が本国ではどの様な活躍をしていたのか? 何故にその当時カナダに居たのか? 更には、The MacPhersons パイパーの系譜等に ついて、どうにも知る術が無く、長年に渡って悶々として過ごしたとの事。現代の様にググれば何事に関しても直ぐに膨 大な情報が手に入る状況とは大きく異なる時代ならではの逸話と言えるでしょう。
 

 筆者はその後、Allan MacArthur の想いを継ぐかの如く、John MacPherson がある時点でカナダに滞在していた経緯についてリサーチ。John MacPherson の娘(つまり、Calum Piobaire の孫)である Tryphosa MacPherson に辿り着きます。
 そして、彼女から、John MacPherson の カナダ旅行について、次の様に思い出話を伝えられます。



 続いて彼女は、The Macphersons パイパーの来歴について連綿と語ります。そして、 父 John MacPherson の活躍について書かれている、1908年のある新聞切り抜きを取り出しました。そこには、次の様に書かれていたとの事。



 Allan MacArthur が聞き及んでい た通りのチャンピオンパイパーの素顔が見えてきました。興味深い事に、John MacPherson は海外に出向いた際に、現地のパイパー達に対して、本国に於ける自らの 輝かしい受賞歴については一切語る事はなかった由。つまり、賢者の言う "When you're that good, you don't have to! The music will speak for itself." として振る舞ったのでした。そして、The MacArthurs パイパーの末裔であり、自らも 優れたパイパーであった Allan MacArthur は見事にその素性を見抜いていたのです。

 P36 The Early History of Leumludh  は Part2。 詳細は省略いたします。

 P53 Petrus/Giordano Bruno1987年7月号で紹介したあの Frank Timoney による記事。タイトルから推して、1987年11月号で紹介したマクリモン一族の由来に関する諸説の内の一つ 「クレモナ出身説」に関連した内容であろう事は容易に推察できます。
 
 目を通してみると、パイプのかおり第39話に登場する Dr. Barrie Orme による The Red Book P25 "The History and Religion of the MacCrimmons" を補完する内容の様です。
 
 ↑で紹介した際にも書きましたが、この方は結構とっ散らかった文章を書かれます。今回は僅か2ページの記事に情報 が沢山詰め込まれている為か、その傾向がより強く出ている様で、正直、ちょっと簡単には飲み込むのが難しい記事と なっています。いつか、出てくる資料をきちんと参照しながら、読み込んでみたいとは思いますが、今回は紹介できるま でに至りません。ご勘弁願います。
 P19 The Goretex BagSeumas MacNeill による、ゴアテックス・ファブリックを使った "The Canmore Bag" に関する4ページのレビュー。
 冒頭の説明によると、この画期的なパイプバッグはおよそ2年前(つまり1989年頃?)に商品化された由。
 現在ではごく一般的になっていますが、この頃はこの様なハイテク製品に関して、まだまだ懐疑的な見方も多かったの でしょう。 Seumas は製品の有り様につい て詳しく説明。欠点と利点に関して丁寧に解説しています。
 いつも何事にも辛口の Seumas ですが、このバッグに関する評価としては、決して悪くない様です。
 その時点で、自身の No.1パイプにはこのバッグ、No.2パイプにはシープスキン・バッグを装着しているとの事です。

 ちなみに私自身は The Canmore Bag を使った事は有りませんし、実は実物を目にした事も、触った事も有りません。その当時から現在まで、そして、恐らく将来的にも関心が湧く事は無いでしょ う。

 P23 Review of the Book14 of the Piobaireachd Society もタイトルの通り、この号に於けるもう一つのレビュー記事です。
 しかし、Book14 がリリースされたのは 1986年の事。何を今更なのでしょう?
 更に言えば、1991年1月号で紹介した様 に、1990年11月には足掛け5年ぶりに Book15 がリリースされたばかりです。Book15 のレビューならば理解できますが…。
 記事の筆者はあの Thomas Pearston です。この人、書く文章もとぼけていますが、とうとうテーマの選択まで大ボケかましているのでしょうか?

 レビューというタイトルですが、一部を除いて特段に評論的な記事といった印象はありません。5ページに渡って、Book14に 収録されている20曲について1曲毎に概ね数行から10行程度の解説されています。そして、解説内容は Book 自体の曲の解説とダブっている部分もかなり有ります。また、何故か取り上げる順序は目次の掲載順序ではなくて全くの アトランダム。

 最初に取り上げているのは目次16番目の Melbank's Salute についてで、例外的にこの曲についてだけは半ページ以上を費やしています。半分は Book 自体の解説部分とダブリますが、もしかしたら、どうしてもこの曲について書きたい事があったのか? 



 どうやら、2つ目のセンテンスに書かれている、Mallbank という場所のロケー ションに関する考察について触れておきたかったのではないかと思います。この 方、ピーブロック・サファリと称して様々なピーブロックの背景となるロケーションについての考察がお好みで すから…。

 P31 A Penny and a Piobaireachd は1991年の Boreraig Day のイベント・レポート。今年のレポートは写真も無くて非常に簡素。後段に、例によって若手対象のコンペティションの結果を掲載しつつ全体で2ページほどに 収められています。
 今年奉納されたピーブロック演奏は、Finlay MacNeill による "The MacLeod's Controversy" と、Iain MacFadyen による "Lament for Mary MacLeod" の2曲だった由。
 P24 Clan Donald Contest はタイトル下に Willie MacCallum が優勝杯を手にして写っている1ページ大の写真一枚が掲載されているだけ。

 キャプションには "Winner of the MacDonald Memorial event held at the Clan Donald Centre, Armadale, Skye …" と書いてあります。

 オンラインで開催された 2021年Donald MacDonald Quaich コンペティションで用意されたプログラムに過去の優勝者一覧が掲載されていて、1991年第5回の 覇者は Willie MacCallum となっていますし、キャプションの説明から推しても、この写真は明らかにその時の写真だと思われます。

 でも何故か、タイトルにも写真キャプションにも Donald MacDonald Quaich という表記が見当たりません。何らかの理由があるのでしょうか?  それとも、エディターの単なる気まぐれ?

 写真キャプションの下段の説明に目が留まりました。
 3人の背景に写っている肖像画は Flora MacDonald suite の壁に飾られている Flora MacDonald の肖像だとの事。これまで見たものとは、ちょっと違う感じの肖像画です。



 この30年前の "Piping Times" シリーズでは Seumas MacNeill が関わっていた各地のサマー・スクールに関する記事についても、幾度となく紹介してきました。最初の記事はシリーズ開始4号目にあたる 1978年1月号に掲載されていた "Summer Schools, 1977" という記事。Seumas が北米を中心に本国も含めてあちこちを飛び回りつつ、ハイランド・パイプ文化の伝導に奮闘している様子が丁寧に描かれていました。

 P29  20 Years in California はその中でも紹介されていた、北米カルフォルニアに於けるサマー・スクールが1991年に20周年を迎えた機会に、その 20年間の歩みを振り返った記事。
 …と言っても、さほど事細かに書かれている訳ではなくて、主に開催場所の変遷とその場所の様子についての 思い出話といった感じの軽い内容です。(出てくる地名をそのまま英語で転 記するので、グーグル・マップで検索しながら読み進めて下さい。)

 1972年に始まったカルフォルニア・サマー・スクールの最初の3年間は Lake Sequoia the gate of King's Canyon National Park という場所で催された由。この場所は、レッドウッドの巨木が繁るこの山岳地帯で「毎年、美しい巨木の中で 樹々にこだまする音を聴きながらピーブロックを演奏するのは、とても印象的な体験だった。」と振り返りま す。

 1975年以降の開催場所は The Robert Louis Stevenson school at Pebble Beach, Monterey に移動。1977年のレポートで描かれているのは、この場所での様子です。
 この場所に移った理由の一つは、教師や生徒たちが快適に寝泊りするための施設が充実していたためと言う 事。そして、「海から流れて来る霧がスコットランド西海岸と似ている事も、この場所が好ましい点だった。」 と書いています。
 
この記事の中では触れられていませんが、私の記憶にある限りでは Pebble Beach で開催された期間は長かった様に思います。(バックナンバーを捲って毎年の告知やレポートを読み返せば、正確な事は判るハズ。)

 次の移動先は The university campus at Santa Cruz, at the north end of Monterey Bay。ここではその後3年間開 催された由。

 次の4つ目の開催場所は再び山岳地帯に移ります。その場所は、San Jacinto mountains の中、ロサンゼルスの真東140マイル(225km)に位置する Idyllwild という小さな村。
 標高6,000ft(1,800m)に位置するこの場所は「(ブリテン島最高峰たる)Ben Nevis 山(4,409 ft/1,344 m)よりも 2,000ft 近く高い場所故に、空気が薄くパイプ演奏には大きく影響した。」と回顧します。しかし、同時に「過去の全ての開催場所の中で、この場所が最高の場所だっ た。」とも記述。宿泊施設は Lake Sequoia より優れ、Pebble beach よりも陽光に恵まれ、Santa Cruz の様な喧騒からも逃れられる、…と。

 20年間に参加してくれた講師陣の名前が次の通り挙げられています。Dr John MacAskill、Hugh MacCallum、John Burgess、Duncan Johnstone、Ronnie Lawrie、Arthur Gillies、Jimmy Bayne、Harry McNulty、Angus J. Malellan、Angus MacDonald。言うまでも無く、実に豪華な面々。

 最後に、1991年のスクール参加者の内訳に触れた一文を紹介します。冒頭の記述に注目。



 P32&33見開きページに、この記念すべき第20回1991年の参加者の集合写真がカラーで掲 載されています。対比する様に次の P34&35見開きページには、第一回1972年の集合写真(白黒)が載っています。(1991年の写真はクリックで大きなサイズに拡大します。見知った顔を探してみ て下さい。この年の講師の1人である P/M Angus MacDonald が何故か生徒の中に紛れています。そして、唯一の日本人参加者は…。)



 P17 The Argyllshire Gathering のコンペティションの結果は次の通り。

 Gold Medal は 1st James MacGillivray(The Big Spree)、2nd Eric Rigler(In Praise of Morag)、3rd Duncan MacGillivary(The Big Spree)、4th Angus MacColl(Ronald MacDonald of Morar's Lament)。

 Senior Piobaireachd は 1st William MacCallum(Craigellachie)、2nd Roderick MacLeod(Donald Gruamach's March)、3rd  Brian Donaldson(The Earl of Ross's March)、4th John MacDougall(Lament for the Laird of Anapool)。

(↓クリックで拡大)



 P24 The Northern Meeting のコンペティションの結果は次の通り。順位だけを表記した1ページに纏められた速報で、曲名等の情報は有りません。もしかし たら、次号で詳報レポートが掲載されているのかもしれません。

 Gold Medal - 1st Alfred Morrison、2nd Angus MacClll、3rd  Eric Rigler4th Brian Donaldson、5th Robert Wallace

 Clasp - 1st Murray Henderson2nd Mike Cusack3rd William MacCallum4th Bill Livingstone

 P30 The Silver ChanterSeumas MacNeill による記事。
 1967年にこの長い名前のイベント "The Silver Chanter Memorial Piobaireachd Competition/Recial" の初回が開催されてから25周年の Silver Jubilee に当たるとの事。
 "Piping Times" では毎年9月号か10月号でこのイベントのレポートが掲載されていて、このシリーズでも概ねフォローしています。このイベント(リサイタル)の性格につい ては1978年9月号1979年10 月号1984年9月号で詳しく紹介していますので、そちらをご参照下さい。
 
 冒頭でこのリサイタルが構想された当時(1966年)の事が回想されています。
 それによると、当時のハイランド・ゲームに於けるピーブロック・コンペティションの状況に危機感を感じて、問題解決の 為に何らかのアクションを起こすべきだと思い立った クラン MacLeod のチーフ夫人 Dame Flora MacLeod of MacLeod が、John MacFadyenSeumas MacNeill の2人に相談。
 程なくして「Gold Medal(Northern Meeting & Argylshire Gathering)受賞履歴のあるパイパーによるコンペティションを(クラン MacLeod の居城である)Dunvegan Castle で開催。優勝トロフィーは銀製のチャンター(レプリカ)とする。」…といった概ねの構想が形作られます。そして、初回からこのイベント(リサイタル)は大 成功を収めたとの事。
 
 
↓は初回の1967年の第一回イベントに於いて John MacFadyen Seumas MacNeill が主催関係者たちを先導している様子(クリック で拡大します)。



 そして、25周年の記念すべき今年のリサイタルには、存命する8人の過去優勝者たちが招待されました。Hugh MacCallum Iain MacFadyen は既に通常のコンペティションの世界からはリタイヤしていましたが、このリサイタルへの参加については快く応じてくれた、との事です。

 出演者と曲名は次の通り。
 Murray Henderson(Rory MacLeod's Lament)、Dr Jack Taylor(Lament for the Children)、Hugh MacCallum(Lament for Donald of Laggan)、Iain MacFadyen(Lament for Mary MacLeod)、Iain Morrison(Salute on the Birth of Rory Mor MacLeod)、John MacDougall(Lament for MacSwan of Roaig)、Roderick MacLeod(MacDonald's Salute)、Colin MacLellan(Lament for Earl of Antrim) 
  P18 Armadale Competition9月号 P24 Clan Donald Competition のタイトルとともにページ大の写真一枚が掲載されていた、1991年第5回 Donald MacDonald Quaich の詳細レポート。
 つまり、またまたタイトルが違っている訳。紛らわしい限りです。レポーターはいつもの通り Malcolm McRae。どうやら当時の PSチェアマンたるこの方、DMQレ ポートのスペ シャリストの様です。記事の量は写真抜きで3ページ。

 この年の演奏者と演目は Duncan MacGillivray "The Massacre of Glencoe"、Allan MacDonald "The Lament for Patrick Mor(Og) MacCrimmon"、Ronald MacShannon "Too Long in this Condition"、William McCallum "James William Grant's Salute(The Elchies Salute/The MacNab's Salute)"。( )内は一般的なタイトル

 9月号の写真の通り、1991年の栄えある Donald MacDonald Quaich を授与されたのは、William McCallum でした。

 コンペティションと言うよりもリサイタルに近いこのイベントでは、毎回(形式上の?)審査員は1人。第1回〜3回とこの第 5回は John Burgess がその役目を務めています。何故か1990年第4回のレポー トがその年の "Piping Times" 誌上に見当たらないので不明ですが、恐らく第4回も同様だったと思われます。

 一般的なコンペティション・レポートに事細かに書かれている様な、各人の演奏に関する重箱の隅をつつく様な解説につい ては、私は殆ど関心が有りません。しかし、1989年11月号の記事紹介の 際にも書いた様に、この DMQのレポートに関してだけは、Donald MacDonald Setting についての当時の演奏者たちの演奏(解釈)について気になるので、いつも興味深く読んでしまいます。
 以 下について、Donald MacDonald Book & MS の楽譜集をお持ちの方は、該当ページを紐解きな がら読んで頂くと楽しめると思います。

 例えば、William McCallum の演奏については次の様に書いてあります。(斜体:原文通り)
 "He departed from the timing of some of the note in MacDonald's manuscript, choosing long introductory Es where the score indicates otherwise and altering the timing of the echo-beat on B and A(resting on the 2nd low G grace note each time in the ground and playing the firs low A long in hiharin in variation 1 where the score shows it short ), although all to good effect." 

 それに続けて更に興味深い記述がありました。(下線部:引用者)
 "In common with the other three players, he repeated the urlar before the taorluath singling, notwithstanding that this is not indicated in the score."

 つまり、今回の参加者4人とも「 taorluath バリエイションの前で Urlar をリピートした」との事。しかも、この繰り返しは Donald MacDonald の楽譜には示されていないのです。
 その説明として、Malcolm McRae は自身の見解を次の様に続けます。

 "The practice of repeating the urlar before the singling of each succeeding variation was falling into disuse between the 1820's and '30s and by the time of Angus MacKay's book(1838)was probably limited to a repetition before the crunluath singling and again at the end of the tune. The exigencies of competition, which led to demise of this feature, will probably ensure that it dose not revive. If piper choose to re-introduce it in non-competitive playing, insertion of the urlar - if only once between variations - appears to me to fit more pleasingly before the crunluath than before the taorluath variation. The written souces do not support a repetition before the taorluath singling in isolation."

 Allan MacDonald の演目は現代で言う所の "Lament for Patrick Og MacCrimmon" ですが、 DM Book No.16 では "Lament for Patrick Mor MacCrimmon" というタイトルになっています。Angus MacKay が今の様なタイトルにする以前は、このタイトルが一般的だったとの事。

 4人の演奏に関する個別のレポートを書き終えた所で、Malcolm McRae は次の様に書き進めます。曰く、

 「今年の夫々の曲の解釈から、いくつかの論点が浮かび上がって来た。それ は、(一般的に知られている物と異なる)Donald MacDonald の楽譜表記は、単なる表記ス タイルの問題であり、その通り演奏される事は決して無かった物なのか、それとも、厳密に細部までその通りに演奏されるべ き物であるのか? 
 これまで(DMQが始まってからの5年間)、 誰一人として Donald MacDonald の 表記通りに演奏しようとし なかった。それは、そこに書かれた楽譜が Donald MacDonald が意図したことを正確に記録したものでは無いと解釈している事なのか、それとも、彼の楽譜のある部分が音楽的に受け入れられない物であるために拒否してい る、という事なのか?」( )内は引用者補足

 そして、この時の Allan MacDonald の演奏(解釈)を聴いて、その解釈について解説を交えながら、幾つかの論点について次の様に提起しつつ、今回のレポートを締めくくります。



 現在、巷で聴く事のできる Donald MacDonald Setting の演奏音源については (一部に例 外も有りますが)、少なくとも最近の Donald MacDonald Quaich に登場する演奏者達は、ごく自然に Donald MacDonald の楽譜表記(タイミング、装飾音 etc.…)にほぼ忠実な演奏をしています。

 しかし、DMQが始まったばかりのこの頃は、関係者達にとって Donald MacDonald の楽譜表記の解釈については、ま だ まだ手探りの状態だった事が分かりました。

 それと共に、この1991年DMQ に於ける Allan MacDonald の演奏(解釈)が、その後の Donald MacDonald Setting の演奏(解釈)に関して、大きな転換点になった事も想像して余り有ります。

 それから15年後の2006年、Roderick CannonKeith Sanger の尽力によりピーブロック・ソサエティーからリリースされた "Donald MacDonald's Collection of Piobaireachd Vol.1(1820)" 、そして、2010年リリースの続編 "Vol.2 Manuscript (1826)" が世に出た 事によって、誰一人として Donald MacDonald の楽譜表記の意味する所に疑いを挟む人は居なくなった、という様な経過だったと想像できます。

 P17 The Glenfiddich は18回目を迎えた1991年のコンペティション・レポー ト。
 結果は以下の通り。
(冒頭の印は過去3カ年の連続出場状況/★は出場/☆は初出場/_は 参加実績無し/順位はピー ブロック部門)

1st ★_★ Roderick MacLeod "Donald Gruamach's March"
2nd ★_★ Alasdair Gillies "Lament for Donald Duaghal MacKay"
3rd ★★★ Murray Henderson "The Earl of Ross's March"(79、80、85、89年の覇者)
4th __★ James MacGillivray "The Vaunting"(88年以来3年ぶり)
5th ★★★ Willie McCallum "Craigellachie" (90年の覇者)

 その他の出場者と曲名は次の通り
★★★ Mike Cusack "Unjust Incarceration"
__★ Alfred Morrison "The End of the Great Bridge"(86年以来5年ぶり)
__☆ Angus MacColl "The Big Spree"(その後、常連となるこの人の初登場?)
_★★ Bill Livingstone "曲名不記載"
_★★ Colin MacLellan "曲名不記載"

 オーバーオールチャンピオンは MSR部門1st、ピーブロック部門 2nd を獲得した若き Alasdair Gillies で した。