ハイランド・パイプに関するお話「パイプのかおり」 |
第39話(2020/2) マクリ
モンの伝統を伝える一本の細い糸 パイプのかおり第38話の最後で予 告した通り、あれから既に1年半以上経過しました。それでも今なおこの件について上手に伝える自信が有りません。確かに自分自身 は、フレイザー・スタイルの装飾音をそこそこに会得。オーストラリア繋がりでこの所愛用している Blair Digital Chanter を使ってはお馴染みの曲を何曲か、自分なりになぞってみては、一人で悦に入っています。しかし、そもそも私はロクに楽譜も読めず、全てを感覚的にこなして いるので、各々の曲についてロジカルに伝える術に欠け、"Simon Fraser ライン" についてどの様に紹介して行けば良いのか思い悩む日々が 続いていました。 そうは言っても、マクリモンの真の姿を伝えていると思われる、この興味深い音楽の存在をいつまでも伝えられないのはもどかしい 限り。そこで、この第39話では主に資料そのものを引用しつつ、この奇特なラインについて紹介する事にしました。複数の引用が重 なって、同じ内容が繰り返し出てくる箇所も多々有りますが、どうかご勘弁願います。 まずはイントロとしてフレイザー・スタイルの演奏を収めた Dr. Barrie Orme のCDシリーズ Vol.1にライナーノートに書かれている Bridget MacKenzie による解説文を全訳して引用します。なお、原文については Music Scotland のサイト にもアップされています。 ■ Barrie Orme -
Piobaireachd (Old Settings) Vol.1のライナーノート ■
オーストラリアの Simon Fraser によって保存されていたピーブロックのオールド・セッティングは、スカイ島のマクリモン一族の演奏に直接的に繋がっています。その音楽にはオールドスタイ ルによる並外れた音楽的クオリティーと装飾の豊かさが見られます。 オールドスタイルのピーブロックがどのようなものか思いを巡らせたことはありますか? 年配の男性が「現代のピーブロックは、 本物の薄っぺらいイミテーションに過ぎない」と言うとき、あなたは彼らが一体何を知っているのだろうか?と想像するでしょう。 ここに、楽譜化される際の「標準化」に晒されることなく、スカイ島のマクリモン一族を起源として、営々と受け継がれてきた音楽 の録音があります。このオールドスタイルは1800年代の初めにオーストラリアに持ち込まれて、孤立したある一家のパイパーたち によって保存され、主にカンタラックで歌い、書き起こされて保存されて来ました。それ故、彼らが弟子たちに教えたものはオールド スタイルの独立した実例です。 この音楽を聴いた人が直ぐに気付くのは装飾の豊かさです。演奏者は、今日ではもはや使われなくなった運指や装飾音、そして、現 代のパイパーには知られていないバリエイションを持った稀なセッティングを演奏します。ビートも現代のビートと異なり「3」に重 点を置いて展開されます。各テーマノートを次の短いノートの2倍の長さに保持して、小節を3つに分割します。ピーブロック・ソサ エティーの標準セッティングは、ジャッジを容易にするため、昔から伝わる装飾音を減らしたり排除したりした結果、徐々にその楽曲 の持つキャラクターの多くが失われました。 オーストラリアのビクトリ ア州在住の Dr. Barrie MacLachlan Orme は、2つのソースからパイプを学びました。彼の最初の教師はスカイ島 Glendale の著名なパイパー一家出身の Dan(Donald)MacPherson でした。Dan は標準化されたセッティングが公になる前にオーストラリアに移住して来たので、彼の教えもオールド・セッティングでした。その後、Barrie は Hugh Fraser の演奏を聴いて、彼の運指スタイルだけでなく、際立って稀でかつ音楽的なセッティングに魅了されました。彼は Hugh Fraser の所に行き、ピーブロックのレッスンを受けました。Barrie が制作したこの録音は、彼が Hugh から教えられた演奏を録音したものです。 Hugh の父 Simon Fraser はいくつかのソースからセッティングを引き継ぎました。それは、両親がカンタラックで歌った調べ、マクリモン一族の直弟子であった Glenelg の Alexander Bruce の息子である Peter Bruce の教え、そしてそれら と共にスカイ島の Neil MacLeod of Gesto によるカンタラックのマニュスクリプトです。このマニュスクリプトは Iain Dubh MacCrimmon のカンタラックから書き起こされ、1828年に Simon の父 Hugh Archibald Fraser によってオーストラリアに持ち込まれたました。 Simon Fraser は 口承またはマニュスクリプトから習得した曲を、音譜と文字との両方に書き起こしました。彼は「ピーブロックについて殆ど理解していない、まるで才能の無い 演奏者である。」と言われて来ましたが、それは有り得ない事です。ピーブロックを完璧に理解していない人間が、あれ程に音楽的か つ私たちが知っているピーブロックの構造と伝統に完全に一致する一流のセッティングを作り出すことができるはずがありません。彼 がパイピングを真剣に考え始めたときに40歳を過ぎていたという意味から、彼は無頓着な演奏者だったかもしれません。ですが、彼 は確かにこの音楽を理解していました。 Barrie Orme は自身に「Simon Fraser のセッティングを公に知らしめ、師匠の演奏スタイルを記録し保存する。」という任務を課しました。そして、数冊の本を出版するだけでなく、3時間の演習ビ デオを制作。今日では使われなくなった、オールドスタイルで使用されている様々な運指をどのように演奏するか、そしてこれらが 各々の曲でどのように使用されているかを実演しています。その後、彼はこのビデオからDVDを作成しました。曲の演奏ではなく、 運指の演習です。彼はまた、Hugh Fraser から学んだ曲から6枚のCDを作成しました。その中からセレクトしてこれらのCDが制作されました。 彼が1979年に出版した最初の本である "Simon Fraser with Canntaireachd" は、その表紙の色から "The Red Book" として知られています。1985年には第2版が登場しました。約140曲についての音譜とカンタラックでの表記に併せて、カンタラック・システムについて の短いセクションと、運指を演奏するテクニックを教えるいくつかのページがあります。Fraser 家、Bruce 家、MacLeod of Gesto 家についての伝記資料、そして写真も収められています。 この本には、現在ではおそらく多くの人が受け入れられないと思われる、19世紀初期のフリーメーソンの慣行に基づいていると考 えられる、正統的でない宗教的信念の一部が含まれます。Barrie は Simon Fraser が「この宗教的信念こそがこの音楽を理解す る上での基礎となる」と信じていたため、この部分をあえて含めました。 "The Blue Book" として知られる Barrie の2冊目の本は、"Piobareached Exercises with some selected Ceol Mor in the style of Simon Fraser" と題され、Simon Fraser とマクリモン一族についての短い紹介付きの教 則本です。Fraser スタイルの装飾音の練習と、音譜とカンタラック表記の両方で書き込まれた18曲が収録されていて、両方のシステムを同時に読み取ることができます。 彼が亡くなってから数日後の2007年1月に出版された Barrie の 最新作は、46曲の収録した改定版教則本です。 3冊の本はすべて、ピーブロックの理解に価値ある寄与をしています。 Simon Fraser のピーブロックのセッティングは、 スコットランドに於いては冷ややかな歓迎を受けました。これは、彼の奇妙な宗教理論のせいもありますが、それ以上の理由として は、既存体制の人々の考えが Fraser のセッティングを断固として受け入れなかったからです。少数のパイパー、特に Fraser から多くのマニュスクリプトのコピーを購入していた P/M Willie Gray は歓迎しました。これらのマニュスクリ プトのコピーは現在、エジンバラのスコットランド国立図書館にあります。 The Red Book が最初に出版された1979年当時は、ピーブロック・ソサエティーがコンペティションでのジャッジを容易にするために導入した、標準化セッティングを強く 推進している時代でした。ソサエティーを牛耳っていた権威者たちは、植民地の成り上がり者による、歌で伝承された素晴らしい音楽 の実りないアプローチを支援する気持ちなどサラサラ有りませんでした。 Archibald Campbell of Kilberry 率いる彼ら権威者たちは、Fraser のセッティングを「クズ」と言い放ち、あらゆる機会にそれ らを中傷しました。 冷静かつ議論の余地のないアプローチで、Barrie Orme は Fraser の音楽が公平に評価される様、多くの努力を尽くしました。現在の、より良識ある意見が言える風土では、パイパーたちは自信を持って異なるスタイルを探求し 始めることができます。Barrie はその様な人々の地平を大きく広げることができました。パイピング界は彼に大きな借りが有ると言えます。 ■ "The Piobaireachd
of Simon Fraser with Canntaireachd"/The Red Book ■
次に、実際に The Red Book を紐解き、Fraser
家の来歴について紹介したいと思います。これまで殆ど意識が向かなかったオーストラリア移民によるスコットランド文化継承の有り様、移民たちの暮らしぶり
も見えて来て、大変興味深い内容でした。
The Red Book の目次は次の通り。
楽譜集のインデックスは P3〜6の4ページに及び(合体版/クリックで拡大⇒)、収録されている楽譜数は140。セッティング違いが収録されている曲も複数あるので、曲数的には 若干少なくなります。左側に一般的なタイトル、右側に Simon Freser が受け継いだタイトルが表記されています。 ●The Introduction P7
この項は冒頭で紹介した Bridget MacKenzie
の解説文から、さらにもう一歩掘り下げてこのラインの全体像の概要説明になっているので、以下にそのまま全訳を引用します。
( )に 年代、(小カッコ)に訳注を入れました。Simon Fraser(1844〜 1934)は長年に渡ってオーストラリアのリーディング・パイパーでありピーブロックの第一人者でした。彼は、Donald Ruadh MacCrimmon(1743〜1825)の お気に入りの弟子であった Alexander Bruce の 息子、Peter Bruce からパイピングを学びました。 彼は極めて音楽的な家族に生まれた傑出した人物です。父親の Hugh Archibald は、Ian Dubh MacCrimmon(1731〜1822)と、Captain Neil MacLeod of Gesto(1754〜1836)からカンタラックを習得。Hugh Archibald は Gesto と 1745年(のジャコバ イトライジングの際)に Lord Lovat 付 きのパイパーであった David Fraser の血縁に当 たります。 母親もまた、カンタラックとマクリモン一族の伝承に精通していました。彼女は Charles MacArthur の孫娘であり、マクリモン一族の血縁でもあったからです。 Simon Fraser は偉大なパイパーだっただけでなく、乗馬や乗馬用鞭の製造、バイオリン(フィドル)製 作の能力に長けていました。彼はまた、ダンス伴奏も於けるフィドルの名手でもありました。 晩年の Simon は、彼の受け継いだピーブロックに関心 を示した世界中のパイパーたちと頻繁に手紙のやり取りを行い、書き下ろした楽譜やカンタラックによってそれらを伝える活動を行い ました。 彼は手紙の中で全部で117曲のピーブロックについて繰り返し書いているだけでなく、それらに加えて膨大な数の曲の断片につい ても数々の手紙の中で触れています。 これらの手紙やマニュスクリプトを取りまとめて編集し、このコレクションに収めるのが、著者(Barrie Orme)の責務と考えます。それらは、ピーブロック・プ レーヤーや研究者たちにとって計り知れない価値があると思われます。 このコレクションには、今日のスコットランドで受け入れられているスタイルとは異なるパイピングのスタイルが含まれています が、著者はこれらが今日に至る他のどのルートの伝承よりも、マクリモンの伝統をより正確に伝えていると信じています。 Simon Fraser はいくつかのソースに基づいてピーブロックを探求しました。彼は約200曲のカンタラックを収録した Gesto のマニュスクリプト(Gesto はこの中から20曲をセレクトして、1828年に本として出版)を所有していましたが、さらに Gesto の未出版の本(1826)の正式な写本を所有していました。 残念ながら、これらの Gesto の著作のいずれもが失わ れてしまい、今日の研究に資する事ができません。Fraser はまた、両親と Peter Bruce の両方からマクリモンの演奏とカンタラックの伝統を受け継いでいました。 著者は、この本に Simon Fraser の宗教的見解の章を含めました。なぜなら、それらはマクリモンのピーブロックの宗教的な基盤を理解する上で必須となるからです。読者はそれらを極めて推測 的なものと捉えると思いますが、実際の所はそれらは、このオーストラリア・パイピング界に於ける偉大な人物にさらなる光を当てる と思います。 Simon によってマクリモンの音楽と伝統を注意深く教えられていた長男の Jack が 1914年に若くして亡くなった事は、Simon にとって深刻な打撃であり、彼はその後、終生そのショックから決して立ち直る事は有りませんでした。Simon は後年、マクリモンの音階や伝統に基づくピーブロックに関す る本を出版しようと意図しましたが、それが結実する事は有りませんでした。彼は多くの曲の楽譜を書き下ろしましたが、残念なが ら、高齢故にその記述にはいくつかの間違いが含まれていました。 Simon
の主たる文通相手は、1902年にスコットランドから北米モンタナ州に移住した牛飼いの A. Keith Cameron でした。北米に移住する前の彼は、Donald Cameron(1810〜1868/参照:パイパー系図)の指導を受けた、ロン ドン在住の J.F. Farquharson
からピーブロックの手ほどきを受けていました。A. K. Cameron
の父親もパイパーであり、祖先は Chisholm of Erchless Castle に仕えるパイパーでした。
A. K. Cameron はスコットランド・ダンバートン の P/M William Gray に宛てた 1931/11/22 付けの手紙の中で次のように書いています。「お互い全く見ず知らずで、地球半分を隔てた距離に居る Fraser と (私の師匠である)Farquharson は、それぞれ異なったソースで教えられたにも関わらず、全く同じ音楽を共有している。唯一の違いは 'dra'(the grip on D)だけだ。」なお、Simon Fraser は Farquharson との面識は無かった事を自身で記 しています。 Donald Cameron と Simon Fraser の表記の正確さについては、疑問の余地はありません。カンタラックに関する私自身の研究からも、その点に関しては絶対的な確信があります。彼らの表記は正 確で、その他の表記には何かしらの間違いが見られます。 A. K. Cameron は400ページに及ぶピーブロックの写本を Simon Fraser 経由で譲り受けたと書き残しています。1931〜2年の彼の手紙には、P/M William Gray も同様に Fraser から、マクリモンのパイピングの伝統を伝えられた、と書かれています。 インドのカルカッタ在住の Dr. G. S. Ross は、Simon からマクリモンに関する情報を受け取り、1926年と1929年に、Fraser のカンタラックといくつかのマクリモン・チューンを扱った2冊の本を出版しました。 Dr. J. D. Ross-Watt が 1936年に Paterson’s Publications から出版した "Empire Book of Pipe Tunes and Tunes for the Pipes" の中で、同様に Fraser から得た情報について記述しています。 Simon は、1909年から1933年にかけてこれらの人々と手紙のやり取りを行なっていました。A. K. Cemeron に対しては、Angus MacKay’s Book(1838年)の写本に関する修正点や、新たなマクリモン・カンタラックを楽譜に書き下ろしたものを伝えています。 Dr. Ross-Watt に対しては、彼は Gesto の出版された本(1828)を翻訳して訂正しました。これらの本は現在、エジンバラのスコットランド国立図書館に寄託されています。 Simon Fraser が1934年に亡くなった後、A. K. Cemeron と Dr. Ross-Watt は、Simon と交わした膨大な手紙類をスコットランド国立図書館に寄託 し、閲覧&コピーする事を可能にしました。それ故、著者はそれらを研究する事ができるのです。 最終的に本として出版する目的で、Simon は多くの曲のマ ニュスクリプトを念入りに作成しました。彼が書き下ろしたセッティングは、それまで公開されていたものよりも韻律の規則性が強調 されています。"The Comely Tune" や "Piper’s Warning to his Master" などの曲では失われていた幾つかの小節を示しています。 一方、"MacIntosh’s Lament" などの他の曲では、Simon は これまで知られている幾つかの小節を本来含めるべきでは無いという見解を示しました。彼は cadence を拍子表記に組み入れて、曲の習得を遥かに容易にしました。 彼の作品を綿密に調査すると、いくつかの矛盾点が明らかになります。初期のマクリモンの歴史について言及された中で、アイルラ ンドに渡った Petrus Bruno の叔父が Giordano Bruno だとすると、その年代は正確ではありませんでした。いくつかの曲の作曲家の名前にも多少の違いがあります。Simon は "The Lament for the Laird of Anapool" の作者を場合によって異なって記述しています。ほとんどの手紙では Pietro Bruno と記していますが、ある記述では Bruno の孫である Donald(Mor MacCrimmon)としています。同様に "Lament for the Great Music" と "The Red Hand of the MacDonald’s Arms" という2つのパロディ・チューン(?)では Patrick Mor あるいは Patrick Og MacCrimmon の作かが不確かです。とは言え、彼の年齢とこれらの手紙を執筆した長い期間を考慮すると、それらの資料の一貫性は驚くべきものです。 この本に収録しているマニュスクリプト は、さまざまな入手先から得た物です。 筆者は Simon の次男であるHugh Fraser からピーブロックを手ほどき受ける中で、約80曲について主に楽譜を通して学びました。Hugh が1970年に亡くなった後、彼の息子の Hector は、主にカンタラックで記された約60曲のマニュスクリプトをコピーすることを許可してくれました。 1976年に P/M William Gray が亡くなった際には、未亡人は、楽譜やカンタラックで記された約90曲のコレクションを筆者に売り渡してくれました。幾つかの曲に署名入りのコメントが記 入されていた事から、このコレクションは、以前に Dr. G. S. Ross が所有していたものである事は明らかです。コレクションの一部は、恐らく Dr. Ross 自身によって書き下ろされていますが、曲の構成は Simon が使用したのと同じ形式に従っています。Gray コレクションの残りは Simon Fraser 自身の手になるものです。 A.K. Cameron と Dr. Ross-Watt からのさらなるコレクションとして、Gesto 本の20曲(1828年)の楽譜と、その他の20曲の楽譜が エジンバラのスコットランド国立図書館に寄託されています。 約20年に渡って偶然の産物として収集されたこれらのコレクションについて、すべての資料の日付を特定することはできませんで したが、Simon の作品の特徴について特定できる均一性を示 しています。 Hugh Fraserは、オーストラリアのチャンピオンパイ パーであり、1895年から1930年にかけてオーストラリアのソロコンペティションサーキットに出場しました。Hugh は、チャンピオンの地位を維持するために、父親のプレイスタイ ルをいくつかの点で変更する必要がありました。彼は、Leumluath、Taorluath、Crunluath のミドルA(redundant A)を押しつぶさなければならず、’heiririn’は、最初と最後の音を強調する様にビートを変更せざると得ませんでした。しかし、Simon の表現の多くの特徴は保たれています。 Hugh Fraser は非常にセンシティブな性格の人物で、パイピング・テクニックについて論争する事を好みませんでした。論争好きなパイパーの多くはその当時一般的だった奏 法にこり固まっていたので、その様な人々に対して(フレイザー・スタイルの)パ イピング を伝授する事は出来ませんでした。Hugh は(フレイザー・スタイルの)ピーブロックを非常に個人的なものと見なし、それを演奏する ことに よって、自身で深い感動を得ていたのです。 著者は、彼に多くの時間と原稿の資料を与えてくれたオーストラリアのビクトリア州出身の故 Miss Blanche Jebb、Mr. Hector Fraser、Mr. Harry Fraser(Simon Fraser の 父親 Hugh Fraser の子孫たち)に謝意を表しま す。エディンバラ大学の School of Scottish Studies の Mr. Peter Cooke による、この本を作成する上での全てのアドバイスに対して心から感謝いたします。 ※ 謝意を表したこの一文の中に、Geroge Moss を見 出したエジンバラ大学 School of Scottish Studies の Peter Cooke の名が登場している事に注目。 ●The History of the Frasers P11
この章については、抄訳です。Simon Fraser の父、Hugh Archibald Fraser は1796年7月生まれ。職業は作家または弁護士でした。Hugh は1812年に Captain Neil MacLoed of Gesto と知り合いになり、1816年に Gesto から Iain Dubh MacCrimmon(1731〜 1822)を紹介されます。Hugh はバグパイプを演奏することはできませんでしたが、Jew’s Harp(口琴)によって覚えたピーブロックを可能な限り表現する事が出来ました。彼は Iain MacCrimmon から口承システムで教えられた曲を、Gesto の為にカンタラックに書き下ろす作業を行ないました。 Huhg はスコットランドで治安判事に昇進することが約束されていましたが、それを断って1828年にオーストラリアに移住。ニューサウスウェールズ州 Hunter River Valley の農場に居を構えました。そして、1844年に Charles MacArthur の孫娘に当たる当時17才の Mary Anderson と結婚します。 Charles MacArther は Mary の父親である Norman Anderson に彼が知っている全てを伝授。そして、Norman はピーブロックに対して強く関心を抱いた娘の Mary に自分が受け継いだ全てを伝えました。Mary は "Lament for the Children" の20節や "The Comely Tune" の全部の節を唄う事が出来ました。彼女は、マクリモンのすべての口承システム、歴史、秘伝を知っていたのです。 Hugh Archibald は48才の時、国内最大の流刑 地として有名なタスマニア州 Port Arthur に於いて刑務監督官の地位に着きます。そして、この地で3年間を過ごしますが、その厳しい冬の寒さに体調を崩した彼は、医師の勧めもあってより温暖な土地 への移住を決意。妻と2人の息子(SimonとPeter)と共にメルボルン北西に位置するビクトリア州 Mansfield の近くに移り住み、そこで農場管理人の職を得ます。 この一帯は密な茂みに覆われ、後日に勇名を馳せる事になるネッド・ケリーの様なブッシュレンジャーが徘徊する地域。Simon の息子の Hugh は、幼い頃にケリー一家に会った事があると語っていました。 Hugh Archibald Fraser は1893年12月に97歳で亡くなりました。 Simon Fraser は Hugh Archbald の12人の子供の長男として1845年2月18日に生まれました。彼は父の働く農場で育ち、後に一緒に働きました。 父の2つ目の農場で働いていた頃、彼は "Nangus Jack" と いう名のアボリジニから鞭の作り方を教わりました。そして、その高度な技を習得して、羊やカンガルーの皮を使用した鞭、手綱、バ グパイプバッグの製造で名を知られる存在になります。彼は1/4インチの太さに16本の皮を編み込む事や、一度に最大40本の革 紐を撚るといった高度な技を駆使して、極めて優れた鞭を世に送り出しました。 教え手の名をとって "Nangus Jack"(スタイル) と呼ばれた彼の鞭は、Whip Cracking チャンピオンシップ優勝者から絶大な信頼を受け、極地探検隊から(犬ぞり用?)依頼を受けるなど、製作の依頼が殺到します。 英国王と妃がオーストラリアを訪問した際に、当時の Whip Cracking チャンピオンがその妙技を披露した時の鞭も Simon Fraser の作ったものです。その鞭の出来栄え にいたく感心した国王夫妻に Simon 作の鞭が贈呈されました。 その名声をバックに Simon の鞭は本国イングランドやス コットランドに於いても販売されるに至ります。全ての国で最優秀賞を獲得したその鞭の素晴らしさは、彼の死後も末長く語り継がれ るほどでした。 乗馬用の鞭を作るだけでなく、Simon 自身も障害物競馬の名手で、有名なライダーを破った事もある程の腕前だったとの事です。 音楽家としても Simon は際立って多才で、バイオリン、フルーティナ(Flutina)、コンサーティナを演奏しました。後年には、Simon は家族によるダンスバンドを編成。各々がピッコロ、クラリ ネット、ピアノ、バイオリン、ハープを演奏しました。 1915年7月23日の "Oban Times" (恐らくオーストラリア版が発行され ていて、それを指していると思われます)に次のように書かれています。 「Mr. Fraser は極めて多才な男だ。彼はバイオリンの絶妙な演奏者として、これまで聴いた中で最高のストラスペイを演奏する。しかも、彼のバイオリンは自作である。鞭製 作者として彼はオーストラリア連邦で比類すべき者が居ない。英国王ジョージ5世と女王が数年前にここ(文脈からここがスコットランドの Oban では辻褄が合わない)に来訪した際、Simon Fraser によって作られた Stockwhip が贈られた。若い頃の Simon Fraser は州で最も大胆で有能な障害物競走選手の一人だった。」 Simon はビクトリア州のある農場で働いている時に彼の将来の妻にな る1851年生まれの Florence MacMillan と 出会います。Florence は音楽一家の出身で、父親はパイパーでした。2人は1872年12月15日に結婚しました。 Simon Fraser が Peter Bruce からバグパイプを真剣に学ぶことを決めたのは 40歳の時でした。彼は次のように書いています。 「Peter Bruce は父親の Alexander Bruce からパイプの手ほどきを受けた後、Gesto による指導によってパイピングを完成させました。彼はマクリ モン一族が生徒たちに指導したのと全く同じ方法でパイピングを教えてくれました。Peter はマクリモン一族の秘伝と歴史を知っていました。彼は、Angus MacKay と Donald MacDonald の楽譜のビートを修正する方法を教えてくれました。彼はこれらの楽譜集のほとんどの曲を演奏しました。」 Peter Bruce は Simon Fraser の他には、誰一人パイピングを指導していません。Fraser 家 と Bruce 家とは長年の親しい間柄であったので、Simon への指導は特例だったのです。Fraser 家は既にマクリモンの口承システム、歴史、秘伝の何たるかを知っていたので、Peter Bruce も Simon に自分の知っている秘伝を伝えたのでしょう。 Simon はレッスンのために Peter の居る農場までの40マイルの道を馬を走らせ、そして再び家 に帰るというハードワークを行いました。Peter は Simon が曲をそらで唄う事ができるまで、プラクティス・チャンター での演奏を許しませんでした。 1900年頃、Simon は農業から引退。しばらく Benalla という土地に住んだ後、大きなスコットランド人コミュニティがある西ビクトリア州 Warrnambool に居を移します。そこで、彼はバグパイプとフィドルの製造&修理業、教師としてのビジネスを立ち上げました。 彼はインド産ケーンからリードを、Briar wood、Cocos wood、African Black wood、Ebony などの木材を使ってバグパイプを製作しました。 彼が Warranabool に引越した後で、彼は Benalla の作業場の棚に Gesto の未出版の校正刷りを置き忘れて来た事を思い出しました。 この校正刷りには、マクリモンの歴史、伝統、音階、口承システムについて書かれた100ページと、50曲のピーブロックが新旧の カンタラックで書かれていました。これらの曲は、約200曲分のマニュスクリプトから Gesto によってセレクトされたもので、その一部は、Simon Fraser の父親が Ian Dubh MacCrimmon から書き留めたものでした。 これらの校正刷りは、 1826年に発行するために Gesto によって準備されていましたが、作成された校正刷りは世の中にたった2つだけ。Gesto の息子 Norman の手元に有った物は Norman が1847年に亡くなったときに失われたました。 Simon は校正刷りを取り戻すために Benalla に戻りましたが、既に子供たちが破って捨ててしまった言われました。こうして、1826年に作成された Gesto の2つの校正刷りは永遠に失われてしまったのです。 1914年、Simon を更なる甚大な不幸が襲います。長男 John が(妻と4人の子供を残して)死去したのです。Simon からマクリモンの伝統を丁寧に教え込まれていた John はチャンピオンパイパーの地位を確保していました。 Simon Fraser はその後1920〜30年(76〜86才)には、東メルボルンに居住。この間、彼はパイプ音楽のマニュスクリプトについて最も活発に執筆を行なっていまし た。それらの多くはアメリカの A.K. Cameron、カル カッタの Dr. G.F. Ross、南アフリカの J.D. Ross-Watt といった海外の文通相手に送られていました。スコットランドの P/M William Gray は G.F. Ross との文通によって Fraser の手になる約90曲を収集しました。 Simon は他の2人の息子、Hugh と Ralph に、鞭編み、バイオリン、バグパイプを注意深く教え込みました。彼は彼らにマクリモンの歴史、秘訣とカンタラックを教え、彼らは また Peter Bruce からもバグパイプの教えを受けま した。 1907年、スコットランドでパイプ メーカー&名演奏家として名を馳せていた Jimmy Centre がオーストラリアに移住して来ました。それからの12年間、Centre は Fraser 一家と深い友情を築き、しばしばパイプの腕を競い 合いました。ある時、Simon は Jimmy Centre に "Sir James MacDonald’s Lament" のカンタラックを渡して、読み解いて曲を演奏するチャレンジを課しました。しかし、Centre はカンタラックを読み解く事ができなかったので、イングラ ンドの Dr. Charles Bannatyne にそのカンタラックを送って解読(譜面化)を依頼しました。その事がきっかけで、Fraser と Bannatyne の文通が始まります。 Bannatyne はそれまで、世界中でカンタラックを読解 する事が出来るのは自分一人だけだと思っていたのですが、地球の裏側にその様な変人がもう一人居たという事にいたく感激したので す。彼らが交わした手紙には、お互いのカンタラック・コレクションを嬉々として交換し合う下りが綴られています。 Simon Fraser はビクトリア州 Mansfield でモーターサイクルに追突され腰骨を骨折、その後まもなく1934年4月89歳で亡くなりました。彼は結局マクリモンの歴史、伝 統、音楽に関する本を出版する事無く亡くなりました。その意味では非常に失望すべき結末だったと言えましょう。 それから30数年後、チャンピオンパイパーとして長年に渡ってオーストラリアのパイピング界に尽力しした Hugh Fraser もまた、同じ土地で車に轢かれます。そして、その怪我が元で1970年2月19日に亡くなりました。享年90才でした。 ●The History and Religion of the
MacCrimmons P25
taken from notes and letters of Simon
Fraser,
from the Encyclopaedia Britannica and
The American Encyclopaedia.
Simon Fraser の膨大な記述や書簡、そして、英&米の百科事典の資料を基に取り纏められた内容です。Bridget MacKenzie による解説文の中で「19世紀初期のフリーメーソンの慣行に基づいていると考えられる非正統的な宗教的信念」と書かれていた章です。 導入としては "Piping Times" 1987年11月号の "Cremona and MacCrimmons" Part1 で登場しているマクリモン由来クレモナ説の端緒となる Giordano Bruno の人物像について。そして、アイルランドを経由してスコットランドに渡ってマクリモンの祖となったされる甥の Petrus Bruno に関するストーリーが展開され、次のような文章が続きます。 「Petrus Bruno は『言語内の言語』と呼ばれる古のパイパーたちの言語を発明しました。音楽の意味のほかに、拍子がキリスト教の信条を表現するなど、宗教的な言葉も含まれ ていました。音楽の秘密を知らなかった人々は、その重要性を認識していませんでした。Petrus は "Canntaireachd" の代わりに秘密の言葉 "Sheanntaireachd" を採用しました。この言葉には、キリストの名前のすべての文字が含まれていたからです。"Sheanntaireachd" は、三位一体を表すために複数の「3」を意味していました。一小節に3つの拍子はそれ以上分割できないため「完璧」と見なされま した。 アイルランドのシャムロックも完璧な3の別の例です。…etc.」 この辺から、聖書の引用が続出。カンタラックと聖書の訳の分からないこじつけ(失礼)や、 主に Patrick Mor MacCrimmon の作品と キリスト教の信条の関連性などが、7ページ以上に渡って連綿とつづられます。中には、"Lament for the Children" の歌詞など、それなりに興味深い部分も出てくるのですが、大部分は私の理解力を遥かに超えて いる内容なので、紹介は省き(出来かね)ます。 ●The History of Captain Neil
MacLeod of Gesto P33
かなり端折りながらポイントだけ抄訳します。 Neil MacLeod of Gesto は、Gesto 家の屋敷と領地を占有していた最後の一家でした。何故かとい うと、クランのチーフたる Dunvegan の Johon Norman MacLeod との間で Gesto 家 の領地の境界についての長年の法廷闘争が揉めて、チーフから貸し与えられていた土地のリース契約が1825年に失効したまま更新 されなかったからです。屋敷と領地を失った後、Neil MacLeod は 妻と家族と共に Stein の村に住んでいました。彼の肩書は陸軍大尉でした。 1831年からの数年間にエジンバラで観察された彼の風態は次の様でした。 「彼は、長い鼻、白髪、白い帽子、タータンズボンとプレイドを装った背の高い薄い顔をした男だった。彼は昼夜を問わず出入りし ていた場所に因んで『国会議事堂の幽霊』とか『図書館の幽霊』として知られていた。彼はピーブロックに夢中だったが、自分自身で は演奏しなかった。彼は、存在するほぼすべてのピーブロックを知っていた。曲名、作曲家、起源、由来などについて。図書館では彼 は頻繁に Donald MacDonald の父親でハイラ ンド・ソサエティーのパイプメジャーである John MacDonald と 落ち合って何時間も一緒に座っていました。彼は John MacDonald に求めてピーブロックを演奏してもらうのを常として、それらの曲全てをマクリモンの口承システムで的確に表現する 事ができました。彼はその様にして自身で書き下ろしたマクリモン・ピーブロックの膨大なマニュスクリプト集を所持していた。」 Neil MacLeod of Gesto は1836年に亡くなり、家督は彼の4番目の息子 Kenneth 引き継ぎました。Kenneth MacLeod は、インディゴのプランテーションを経営してインドで大金を稼いだ後、Skye に戻り、Greshornish と Orbost の土地を購入しました。 もう一人の息子の Norman は、父親の手で優秀なパイパーになった後、オーストラリアのメルボルンに移住。彼は父の出版を予定していた本(1826)の校正刷りを持って行ったが、そ れは1847年に彼が亡くなったときに失われました。Norman はこの他に Neil MacLeod of Gesto 2 冊の本の原稿を作成するためにセレクトする基となった約200曲分のマニュスクリプトもオーストラリアに持参しました。このマ ニュスクリプトは一旦は Fraser 家の手に渡りましたが、1922年頃に Simon Fraser は カナダに住んでいるマクリモン一族の子孫に売り渡しました。 ●The History of the Bruce P37
この章の内容については "Piping Times" 1988年5月号 に要約して載せてあります。その顛末も含めて、そちらを参照して下さい。 ●The Canntaireachd P42
Dr. Charles Bannatyne が1912年に Dr. Ross-Watt に送った手紙の中で、カンタラック に関して記述している内容が、7ページ余りに渡って長々と紹介されています。大体知った様な内容でしたが、その 中で以下の記述について大変興味深く感じました。 「MacCrimmon、MacArthur、Campbell の 3つのカンタラック・システムの内、Gesto は MacCrimmon のシステムがオリジナルだと書いている。ほぼすべての弟子がそれぞれ独自のシステムをを試み、曲を変更し、曲に他の名前を付けたり、時には自分の創作だと 主張してきた。Angus MacKay はこの点については最悪の犯罪者(the worst offenders)だ。Peter Bruce は私に『ウルラールに High-A(thumb)バリエイションを付け足したのは、MacKay の発明だ。』と言っていた。他の楽譜集では High-A バリエイションは見当たらない。弟子たちは皆、カンタラックを改善しようとしたが、どれも失敗している。」 Bannatyne の手紙の紹介に続いてカンタラック発明の経緯や新旧のスタイルの違いなどが詳細に解説されています。 ●Instructions on Fingering the Note P49
as taught by P/M Hugh Fraser to
the Author
筆者が Simon Fraser のマニュスクリプトから 読み解いたり、Hugh Fraser から直接手ほどきを受け た具体的な運指法についての細かく説明されています。ここで説明されている内容は、その後の The Blue Book で更に詳しく解説されています。概ねについては "APC Guide to Pibroch" で学ぶ事が出来ま す。 ●The Tune and the Beats(Bars) P51
from Simon Fraser’s Manuscript and P/M
Hugh Fraser’s Tuition
ここでは Simon Fraser の伝えるピーブロックが「3」という数字で構成されている事を強調しています。1小節の中が3つの主要音で構成される事、バリエイションが3行で構成され る事などです。 この内容は極めて特異で興味深い内容です。APCのサイトや "APC Guide to Pibroch" も含めて他では目にした事が有りません。簡潔にまとめられているので、抄訳と共に譜面を引用し ます。 出典は Simon Fraser の1912年8月20日付けの記述。 「伝統的に、古のハイランドでは完璧な信号システムを持っていました。危険が迫った際、夜間に主要な丘でかがり火を焚き、人々 に危険を警告しました。」 映画「指輪物語」には、正にこの文章で描かれている様にして、丘の頂から頂にかがり火がリレー的に焚かれて、遠隔地に素早く情 報を伝達するシーンが出てきます。北米の先住民族などの「狼煙を上げて」情報を伝達するのと同じです。 「バグパイプも警告伝達楽器として使用されていました。パイパーたちの間では、Warning Tunes で使用するための次の様な完璧なコードシステムがありました。Warning Tune の最後の2小節の音は同じであることがわかります。この配置を基に、パイパーはこれらの小節の音を変更し、代わりに暗号となる音列を挿入。秘密の暗号音列 によって危険を警告して仲間の命を救ったのです。 暗号音列を耳にした全てのパイパーが、自分のパイプを手にして、それらを演奏。 人々は襲撃が近づいている事を知るのです。そのシグナルに従って、戦士は敵と戦うために集まり、女性は子供を集めて事前に決めら れた避難所に逃げ込む、老人や少年は襲撃が終わるまで武器や食料の貯蔵庫の守りを固めるのです。」 The Red Book の本文紹介は以上です。 ■ The Barrie Orme
Tapes of the Simon Fraser Playing Style ■
つまり「The Red Book と The Blue Book 両方の PDF版が
APC のサイトにアップされている。」と記述されているのです。確かに、2018年の時点では The Blue
Book がアップされていました。The Blue Book を持っていなかった私は、その
PDF版をダウンロードしてコレクションに加えたのですから…。しかし、その時点で The Red Book
についても同様に APC サイトにアップされているとは知りませんでした。
2018/7/18、APCサイトの Lerning Living Pibroch ブログに Bob Gresh と いう人による表題タイトルの投稿がありました。そして、7/22にはその投稿に対して Dr. Barrie Orme の弟子だったという Geoff Jones という人が応答し、なんと Dr. Barrie Orme
が制作した1時間分の動画を投稿してくれました。(動画には⇒の画像からもリンクしています)
Dr. Barrie Orme が自身の手になる The Blue Book のページをめくりながら、要所要所の運指法について実演してい ます。Bridget MacKenzie の解説文にあった、彼が制作した3時間の演習ビデオの一部だと思われます。非常に貴重な動画です。 ここで、最初の Bob Gresh の投稿の最後から2番目の次の様なセンテンスが気になります。 "While PDF’s of his 1985 book, Piobaireachd of Simon Fraser, and his Piobaireachd Exercises are available on this site, it would be invaluable to have the instructional film/video of Orme demonstrating his style of playing ornaments, etc." いずれにせよ、この記事を書いている 2020年2月の現時点では、以前 The Blue Book PDF 版にリンクしていた URL にはアクセス出来なくなっているだけでなく、サイト内をあれこれ検索しても、どちらの本も見つかりません。 …と言う事は、恐らくその後、Dr. Barrie Orme のご遺族から異議が唱えられるなどして、著作権の問題で削除せざるを得なかったのでは無いでしょうか? オーストラリアの著作権 保護期間は70年なので、どう考えても保護期間内である事は明白。そもそも、The Blue Book がアップされている時点で、その点については不思議に思えたものでした。 ■ 本来のピーブロックの姿とは… ■
さて、再び冒頭に戻って、Dr. Barrie Orme の CDシリーズに戻りましょう。 リリースから10年以上経過しましたが、このシリーズは今でもあちこちで購入できるので、Fraser ラインの音楽に興味を持たれた方は、是非ご購入下さい。()内に記した曲の長さから推察できると思いますが、全てがフル音源というのは Vol.1だけなので、購入する際の優先順位は言わずもがなです。 Vol.3 ラストに収録されている Hugh Fraser 本人によるフル音源の "Mary’s Praise" を除き、他は全て Dr. Barrie Orme による演奏です。 ●Vol.1
ここでも書きましたが、2008年頃にこのCDシリーズを購入した直後は、たった 一度聴いただけで即お蔵入り。それ以来10年間一度も聴いた事がありませんでした。ところが、オールドスタイルに目覚めてからと いうものは、上記33曲とその曲のモダーンスタイルの音源、曲によっては Donald MacDonald セッティングの音源や George Moss の音源も一緒に並べたプレイリスト(全73曲/約12時間分)を作成。折々にそれぞれの楽譜を見 比べながら聴き比べをしています。そして、その度に考えさせられる点が多々あって、楽しくも悩ましい日々を過ごしている次第。 私 には、これら33曲全てについて、オールド&モダーンの違いを事細かに説明する力量は有りません。そこで、違いが際立っている曲 の一例として Vol.1-3 Cave of Gold について触れてみたいと思います。(フレイザー・スタイルの楽譜/クリックで拡大⇒) 比較するのモダーンスタイルの音源は The World's Greatest Piper シリーズ Vol.4 Murray Henderson の演奏音源です。同じ音源がピーブロック・ソサエティーのサウンド・ライブラリーにも収録されています。 PS サイトの説明にもある通り、この曲のそもそもの伝承元は Simon Fraser です。なので、スコアについても、表記の違い こそあれ構成はほぼ同一。そして、演奏についも、2人は Urlar、Var.1、Var.1doubling については Orme の方が若干アップテンポである程度の違いで、さほどの相違感はありません。また、Taorluath と Clunluath については、それが「トラディショナルタイプ か否か」の違いですが、余程注意して聴かない限り、これもさしたる相違感は感じられません。 しかし、ショッキングな程に違うのは Taorluath-a-mach と Crunluath-a-mach のバリエイション。↓は The Blue Book の解説ですが、書いてある通り何と フレイ ザー・スタイルでは a-mach は右手の指全て(この曲では D を除く lowG、A、B、C)で演奏 されるので す。ご存知の通り、モダーンスタイルの常識では a-mach は B、C、D だ け(この曲で は D は無し)です。 さらに、フレイザー・スタイルでは2つ目の音を伸ばすスタイルなので(MacArthur-MacGregor のスタイル)、装飾音自体のリズム感が大きく異なります。Dr. Barrie Orme は説明の中で「Hugh Fraser は Taorluath を3拍子(triple sound)でマシーンガンの様な "rat-a-tat, rat-a-tat" という風に表現した。」と書いています。 ↓ Cave of Gold のフレームに、それぞれスタイルで a-mach を演奏する音に赤点をつけました。見ての通り、Fraser スタイルでは殆どの音が a-mach で演奏される事になります。a-mach 自体のリズムの違いと相まって、全体のリズム感の違いは衝撃的です。 モダーン・スタイル
フレイザー・スタイル 百聞は一聴に如かずなので(少々著作権侵害になりますが)実際に演奏 を聴き比べて下さい。 ● Crunluath(最終ライン)〜 Crunluath-a-mach 正直、最初にこの a-mach バリエイションを(意識して)聴いた時は衝撃的でした。「な、なんなんだ? こ、これは !?」と言う感じ。そして、あれこれ楽譜を見比べ、The Blue Book の解説を読んでようやく納得した次第。 先に紹介した通り、この曲はそもそも Simon Fraser の マニュスクリプトが原典。…と言うことは、この曲の本来の姿は Dr. Barrie Orem の演奏であることは明白です。《標準化》の洗礼によって本来の姿が大きく変えられてしまった一例と言えましょう。 モダーンスタイルでは決して聴く事のできない、この様なリズミカルかつエネルギッシュな a-mach バリエイションの展開は この他にも Vol.1-1 The Bells of Perth、Vol.2-1 The Sutherlands' Gathering、Vol.2-5 The Rout Of Glen Fruin(George Moss’s version)、Vol.2-8 The Finger Lock 等で 聴く事が出来ます。(本来は a-mach がある曲は他にもまだ有りますが、ショートカット音源のため残念ながら聴く事が出来ません。) Vol.2 を購入された方でピーブロック・ソサエティーの会員の方は、試しに Vol.2-1 The Sutherland Gathering について、Barrie Orme の演奏音源と PSサイト・サウンド・ライブラリーの Angus MacColl の モダーンスタイルの演奏音源と聴き比べてみて下さい。「さあ、行くぞ!」といった活気に溢れて、その演奏に合わせて 思わず行進したくなる様なエネルギッシュな前者。それに比べて、 のったりとした後者はまるで Lament の様に聴こえます。 PS Book 14 のこの曲の解説に「この曲のセッティングのベースは Dr. Barrie Orme の許可を得て The Red Book から引用した。」あり ます。…とすると、この曲についても Fraser セッティングの信憑性は高い。恐らくこの曲もまた《標準化》によって、曲のキャラクターがすっかり骨抜きにされてしまった例なのでしょう。 これらの例で明らかな様に、実は「これらこそが正しく伝承された、それぞれの曲の真の姿」と言えるのではないで しょうか。 Dr. J David Hester は APC Guide to Pibroch Chapter2 P8 で次の様に書いています。 Piobaireachd is not a "genre" of bagpipe music. It is a class, beneath which are a multitude of genres. Piobaireachd is a class of music that was performed for the many aspects of the public life of the Gaels. また、パイプのかおり第3話 の冒頭では Seumas MacNeill の次の様な言葉 を紹介しました。 「ハイランド・パイプの音楽は大きく3つに分けられる。1つは Ceol beag (Little music) と呼ばれ、主にパイプバンドで演奏される March、Strathspey、そして、Reel のこと。2つ目が Ceol meadhonach (Middlle music)と呼ばれる、Slow Air と Jig である。(中略)そして、3つ目のカテゴリーが Ceol mor(Big music)と呼ばれるもので、つまりは Piobaireachd のことを言う。」 確かにこの分類は理にかなっているので、どうしてもこの「ジャンル分け」に囚われがちです。しかし、同時に Seumas は次の様にも説明しています。 「ゲール語で piob とは "a pipe" を、そして piobaire は "a piper" を意味する。だから、piobaireachd とは "a piper do with a pipe" ということで、実質的には "pipe playing" あるいは "pipe music" という意味になる。実際、19世紀半ばまでは、ハイランド・パイプで演奏される曲というのはイコールその殆どがピーブロックであった。」 ですから 、J David Hester の言葉に従って頭 を切り替えれば、 「ピーブロック(パイプ・ミュージック)には Lament、Salute、Gathering tune、Rowing tune etc.…といった多彩なジャンルがある。」と考 えるべきなのです。 確かにそういう観点で見れば、上で挙げたエネルギッシュな a-mach バリエイションを伴う5曲は、Lament とは違って勇壮なイメージを持ったジャンルのピーブロックだと言えるでしょう。 私はこれまで事あるごとに「あらゆるピーブロックはゆっくり であればある程良い。」と自分のかなり偏った好みを主張し続けて来ましたが、今後は「あらゆる Lament はゆっくりであればある程良い。」と言い換えます。Gathering tune、ましてや Rowing tune がやたらゆっくりだったら、戦いに勝てません。あるいは、Salute がのったりしていたら、せっかくのお祝い気分も沈んでしまいます。 フレイザー・スタイルのピーブロックを聴いてみて、これまで聴いて来たピーブロックの《標準化》の洗礼以前の姿が気になって仕 方なくなりました。あれやこれやの曲についてこれまで知らなかったオルタナティブな《本来の》姿を見出す事によって、ピーブロッ クを聴き、演奏する行為が益々楽しくなりそうです。これだか ら、ピーブロック道は止められません。 1年半越し2回連続のパイプのかおりで、マクリモンの伝統を伝えた2つのラインを紹介して来ました。どちらにも共通しているの が、貴重な伝統がたった一人の奇特な人物によって繋がれたという事実。本当に一本の微かな細い糸と言って差し支えないでしょう。 この2人が居なかったとしたら?と考えるとゾッとします。 更に言えば、これらの2人の伝承を後世に伝える貴重なアクションを担った、Peter Cooke と Dr. Barrie Orme の存在無くしてはこれらの文化も途絶えていたのは明らかです。 一方で、マクリモンの伝統を伝える文献資料はそれなりに残されているのも事実です。その存在自体は知られていましたが、現代の テクノロジー下ではそれらの資料に誰もが容易にアクセス可能だという事を広く知らしめ、かつ、そのための万能ツールを構築してく れたのも、J. David Hester という一人の奇特な人物でした。 文化とはかくも危うい伝承の仕方をするものなのでしょうか。 2016年に最初に書いたパイプのかおり第 36話以来、4年間4話に渡ってオルタナティブ・ピーブロック関連の記事を書いてきました。しかし、振り返ってみれ ば Sister's Lament の古の表現に目覚めたり、Alan MacDonald の "Dastirum" のアルバムと出会った 2007年頃が、私のオルタナティブ・ ピーブロックの旅の始まりだった様な気がします。 一方で現地のパイパイング・ワールドを振り返ってみると、The Red Book のオリジナルリリースから8年経過した1987年、スカイ島 Armadale の Clan Donald Centre にて開催された The Donald MacDonald Quaich が、現 在に続くオルタナティブ・ ピーブロック復興活動の嚆矢だったと言えるでしょう。30年前の "Piping Times" を通じて当時のパイピング・ワールドを振り返るのは、その様な復興活動の推移を再確認する旅になのかもしれません。 1973年にこの「ピーブロック」という特異な楽曲と出 会ってから半世紀近くになりますが、知れば知るほどピーブロックの奥深さに魅了され続けています。インデックスページのトップに掲げている、Iain L. MacKay の "It is music of great depth, and one can study or ponder over a piobaireachd for a lifetime, and still progress in one's understanding of the music and find new depths in it." という名言をつくづく噛み締める今日この頃です。
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