30年前の“Piping Times”《1985年》

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1985年1月号

January/1985

Vol. 37/No.4

PT8501contents この号、いつもにも増して紹介する内容が乏しい。仕方ないので前年1月号と同様にケルトの新年に入った最初のイベント、The Scottish Piping Society of London コンペティションのレポートP16 The London Competition でお茶を濁します。

 1984年の The Bratach Gorm に輝いたのは Brian Donaldson、曲は "I got a Kiss of the King's Hand" でした。

 以下の順位と演奏曲は次のとおり。
・2nd Donald MacPherosn "Lament for the Children”
・3rd Iain MacFadyen "Clanranald's Salute"
・4th Malcolm MacRae "Lament for the Viscout of Dundee"

 前年と違ってこの年の参加者は全部で12人だったということで、この他の演奏者として、Roberrt Wallae、Murray Henderson、Andrew Wright、Gavin Stoddart、といった辺りがお馴染みの顔ぶれです。


 お馴染みの顔ぶれといえば、P20 に Pipers from "The Piper's Tune" とタイトルされた写真があり懐かしい顔ぶれがお揃いです。1960年代に放映されていたという BBC TV シリーズ "The Piper's Tune" の関係者が、前年秋の Glenffidich チャンピオンシップに際してジャッジあるいはコンペティターとして顔合わせをしたので、ブレア城の客間で記念撮影をした由。

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1985年2月号

February/1985

Vol. 37/No.5

8502contents  我が国の付加価値税(Value added Tax=VAT)たる「消費税」は1989年4月に3%の税率で導入され、8年後の1997年4月に5%にアップ。しばらくは変動がなかった後、2014 年4月に8%に。続いて予定されていた2015年10月の10%への税率アップは、1年半延期されましたが、果たしてどうなるのでしょうか?

 翻ってイギリスの VAT は1973年4月に10%の税率で導入。翌年から一旦8%に引き下げられましたが、1979年に15%、1991年に17.5%に引き上げられて現在(2015年)に至ります。
 ただ、日本の消費税と違ってイギリスの VAT の場合は、対象品目に応じて非課税、ゼロ税率、軽減税率を細かく導入して、税の逆進性への配慮がなされています。

 P17 THAT ! ! ! to VAT は、この当時それまでゼロ税率適用だった本、雑誌、定期刊行物などの印刷物が適用除外にされそうになっていることに対する異議申し立ての記事。

  「古くは19世紀半ばから現在に至るまで、本や新聞といった情報を広く伝えるツールに関しても様々な税金が課税されそうになった幾多の危機を、我々はその つど乗り越えてきたではないか。今回もこのような愚行は決して許すことはできない!」といってような論調で、様々な具体例を紐解きながら、反対意見が粛々 と記述されています。

 各方面からのこのような猛烈な異議申し立てが功を奏したのでしょうか、イギリスではその後も現在に至るまで印刷物に対するゼロ税率適用は継続されています。


PT8502Sidelights P30 Sidelights on the Bagpipe Scale というタイトルは、前々月1983年12月号の Sidelights on the Kilberry Book と語呂合わせ?  ただし、語呂合わせになっているのはタイトルだけで、その内容はハイランド・パイプの音階に関する記事です。
 Seumas MacNeill による "Piobaireachd - Classical Music of the Highland Bagpipe" (BBC Publications)の中で、ハイランド・パイプの音階に関して記されている箇所を読んだある読者から質問あり、それに対して Seumas 自身が回答した由。この質疑応答は他の読者にも参考になるだろう、ということでそのやりとりが紹介されています。

 音楽理論に精通している方にとってはス〜っと入ってくる内容でしょうが、その方面に疎い私にはちょっと難解。それでもなんとか読解できた範囲では、いくつかの点でピーブロックに関する重要なポイントが示されているように思えました。


 Jimmy McIntoshMurray Henderson の共同経営会社 McIntosh & Henderson が分裂した旨について、P3とP5に両者からの別々の全面広告で告知されています。

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1985年3月号

March/1985

Vol. 37/No.6

PT8503contents P14 Scots In American History は、あの有名な「アラモの戦い」に於けるスコットランド出身者の話。

 あの有名な、と言いつつその実幼い頃に映画のタイトルで見聞きした程度で、この戦いの詳しい経緯は知りません。そういう時は知ったかぶりせずに即 Wiki頼り→

 アラモの戦い(Battle of the Alamo)は、テキサス独立戦争中の1836年2月23日 - 3月6日の13日間にメキシコ共和国軍とテキサス分離独立派(テクシャン反乱軍)の間で行われた戦闘。

 …とのことです。そして、アラモの戦いと言えばデヴィー・クロケット(Davy Crockett)の名前もお馴染みですね。

 さて、200人以上の守備隊戦死者の中には複数のスコットランド人が居ましたが、その中で最も有名なのが John MacGregor という2等軍曹。
 デヴィー・クロケットの友人でもあったこの人、フィドル等の楽器を演奏する仲間とチームを組んで、時間をやり過ごすためにパフォーマンスを演ずる際の中心人物でした。

 ある時、余興として「最も大きな騒音を出すコンテスト」が催された際には、彼の "strange, dreadful sound" のハイランド・パイプが文句なく優勝したと言い伝えられています。

 そして、戦闘が始まった折には同胞たちの戦意を高揚させるために、左の絵のようにしてパイプを演奏したのは想像に難くありません。

 John MacGregor は、Prince Charles Edward のパイパーを勤めた John MacGregor の孫にあたります。(祖父の)John MacGregor は1781年の Falkirk Competition で3位を獲得。ちなみにその時に優勝したのは彼の息子 Patrick MacGregor でした。
 
その後30年間の The Highland Society of London Competitions は、実質的に MacGregor 一家が支配していたので、John of the Aramo も米国に移住する前には、これらのコンペティションに参加していたであろうと推測されています。


 ハムレットの有名な独白にかけた P17 To B or not to B はパイプのかおり第33話で話題にした、誰もが呪うあの D-Taorluath の B-gracenote に関する話題。

 そこに追記し たように、1988年のピーブロック・ソサエティー・カンファレンスに於いて D-Taorluath を(B-gracenote ではなくて)D-gracenote で演奏することについて論議されています。具体的には、1986年の Oban(Argyllshire Gathering)の senior piobaireachd 部門の優勝者がそのような指遣いで優勝したことや、Donald MacLeod はそのようにして演奏していたということが暴露されていました。


 今回のこの記事の中で筆者 Ian K. Murray 「私のピーブロック演奏技量は人類学的に言うとネアンデルタール人レベルでしかない。私の技量が新石器時代にも到達できない大きな壁の一つが D-Taorluath に於ける B-gracenote を明瞭に演奏できないことである。」…と、面白い比喩で嘆きます。

 そして、「いっそのこと D-Taorluath の出てくる曲を避けて先に進むという手段もあるが、そのような臆病者の振る舞いは潔しとしない。そしてその選択は多くの偉大な曲の演奏を諦めざるを得ないということを意味する。」と悩める心情を吐露します。

 さらに続けて「D-Taorluath や D-Crunluath を D-garcenote で演奏することは道徳的、倫理的に道義に反することで、ケルト人としてこれほどまでに卑劣な行為はない。」…と、正にハムレットを気取ったかのように大げさに逡巡します。

 しかし、彼は見てしまったのです
 昨シーズンの2つの大きなコンペティションに於いて、彼が尊敬するある偉大なパイパーの一人が、畏れ多くも D-Taorluath を全て D-gracenote で演奏する様子を…。そして、そのパイパーは一つのコンペティションでは2位に、そして、もう一つのコンペティショでは1位になったのです。

 「B-gracenote を避けるというトップパイパーのこのような行為が、一切のお咎めを受けるばかりか称賛を受けることが出来るのであれば、D-garcenote が選択肢の一つとして受け入れられるということであろうか? もし、そうであるのならばそのニュースは広く知らしめられるべきであろう。それは B-gracenote の呪縛に囚われている多くのパイパー達にとって、くびきから解き放たれてより多くの曲を演奏できるようになることを意味して、なによりも朗報である。」

 「囚人たちを解放する唯一の権威を持つのはピーブロック・ソサエティーである。彼らはこの件について見解を示すべきではないか?」

 最後に筆者は「私も新たな見解が出されることを期待する一人である。そうすれば、私は60才になる前にクロマニヨン・ピーブロック・プレイヤー程度には成れることであろう。」と締めくくります。


 どうやら、Ian K. Murray のこの記事が火付け役となって、1988年 Piobaireachd Society カンファレンスに於ける議論に結びついたのではないかと思われます。

→関連記事※1("Piping Times" 1985年5月号)
→関連記事※2("Piping Times" 1986年1月号)


 P26 The History and Art of Angus MacKay のタイトルと序文は次の通り。この記事と関連してこの号の表紙は Angus MacKay of Raasay の肖像画です。

 …ということで、その当時は絶版になってしまっていた “Piping Times”1950年6月号(Vol.2/No.9)〜に掲載された Archibald Campbell of Kilberry による Angus MacKay of Raasay に関する連載記事の35年ぶりの再掲載。翌4月号と併せた2回シリーズの第1回目で、今回の7ページと次号の3ページを合わせて10ページのボリュームです。文体から推してどこかでのレクチャーの講演録と思われます。

  Angus MacKay of Raasay に関するまとまった資料としては、1994年のピーブロック・ソサエティー・カンファレンスに於ける Seumas MacNeill によるレクチャーの講演録があります。

 ピーブロックの歴史を語る上で欠かすことのできないこの重要人物については、共に非常に濃い内容のこれらの資料に基づいてパイプのかおりでじっくりと紹介することが必須だと思われます。…ので、今回の記事についての内容紹介はいたしません。(つまり、手抜き&先送り)

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1985年4月号

April/1985

Vol. 37/No.7

PT8504contents P17 The History and Art of Angus MacKay は、先月からの連載の後半部分。詳細については、上に書いた通り。


 P27 Pipe Chanter Reed SurveyThomas Pearston による、この人にしては珍しいハードウェアに関するレポートです。
 33本のリードが並べられた見開きの写真を挟んだ4ページの記事なので、文章は2ページだけの割と軽い読み物です。
 並べられているリードは、 Thomas Pearston 自身が過去40年間(つまり70年前〜)に集めた物とのこと。

 その当時までの最も偉大なリードメイカーは、 Peter Henderson にリードを供給していた John Dickson という人だと書かれています。
 このリードが供給されていたのは第一次世界大戦の頃までだということ。しかし、その後も1940年頃まではなんとか入手可能だったそうで、Thomas Pearston 自身も苦労の末に幾つかを購入したということです。それは、ステイプルの継ぎ目も目に見えない様な巧みな仕上がり具合で、「正に《芸術品》だった」と書いています。
 愛用者によると「John Dickson のリードは10本の内9本がドンピシャに使えた。」と言い伝えられているようで、非常に高い信頼性を誇っていたようです。
 写真の最下段の "D" がJohn Dickson のリード。

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 通常、リードはフランスやスペインの地中海沿岸産の Cane "ARUNDO DONAX" を素材としていますが、そうではなくてイギリス本土で入手可能な植物で作られた例もあったようです。
 "A" は Heather Root、"C" は Elder Wood。また、"B”はスコットランドに自生する竹に近い強度の茎を持つ草から作られたリードだということ。もっとも、この程度の鮮明さしかない白黒写 真ではどれも殆ど区別が付きませんね。まあ、いろいろと試みがあったということです。

 また、グラスゴーに出入りする商船が積荷のクッション材として Cane を使っていたことから、実は過去100年以上に渡ってリード素材の主な供給元としてそれらが重宝されていたという興味深い話も紹介されていました。


 P37 MacIntosh and Henderson は、2月以降の毎号に宣伝が掲載されている彼らの共同経営体が分裂した件に関する記事です。

 詳しい経緯や年代は調べていませんが推測するところによると、ニュージーランド出身の Murray Henderson は、スコットランドに拠点を置いてパイピング・シーンで活躍。Patricia と結婚した後、ある時点で夫妻で米国に移住。その地で同様にスコットランドからの移住組である Jimy MacIntosh と共同でディストリビューターを立ち上げ経営していたのではないでしょうか。

 この時点でこの共同経営体が分裂することになったのは、 Murray & Patricia Henderson 夫 妻が活動拠点を再びスコットランドに戻すことになったからのようです。この記事の論調としては "We in Scotland are delighted to welcome the Hendersons back again." と書かれ、「メジャー・コンペティションもさらに活況を呈するようになるだろう。」と二人の帰国を大いに歓迎している様子が伺えます。

 一方、Jimy MacIntosh はプライベートで前年(1984年)秋に自身も優れたパイパー&ダンサーである Joyce MacFarlane と いう女性と結婚。オフィシャルには科学・工学・コンピューター・サイエンスに於ける全米の中心に位置するピッツバーグのカーネギー・メロン大学のパートタ イム・ポストに就いたということ。当然ながらパイピング・ライフも継続している訳で、公私ともに新世界での暮らしを満喫している、と紹介されています。


 P41 The Eriskay Ski Lilt はこんなショット。キャプションも載せたのでお目通し下さい。
 当時既にゴアテックス製バッグやポリペンコ製パイプなんてものが出回っていたのでしょうか? それとも、勇気あるというか余程腕に自信のある牧師さんなのか…。

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1985年5月号

May/1985

Vol. 37/No.8

PT8505contents 表紙写真はスコットランドに活動拠点を戻して大歓迎されている Murray Henderson 御大。若々しいですね。


 定期刊行物に欠かせないのはいわゆる読者投稿欄。“Piping Times” にもほぼ毎号設けられています。しかし、そのコーナーのタイトルは何故か一定せず毎号の様に様々に変化。
 ほぼ定番は "Letters to the Editor""The Customers Always Write" のどちらか。たまに単に "Letters" だったりします。
 定番の変形バージョンとして、たまたまその時に投稿が少なかったことを拗ねたのでしょうか、1982年4月号"The Customers Sometimes Write" というもあったりして笑えます。

 ところが、シェーマスもここへ来てそんな気紛れなタイトル付けに終止符を打ったようです。先月1985年4月号から登場している "Morning Mail" "Evening Post" というのがそれ。

  読者からの投稿を巻頭と巻末の二ヶ所に分けて掲載。「朝便・夕便」というそのタイトル、さしずめ新聞の「朝刊・夕刊」といったところでしょうか。二つに分 けられてはいますが、かと言って投稿内容によって分けている様でもなく、単に投稿欄が一ヶ所に多く固まらないようにという工夫のようです。 "Morning Mail" の方は正に巻頭、幾つかの宣伝や簡単な告知と共に目次ページの前に掲載されています。

 シェーマスはこのタイトルと配置が大いに気に入ったようで、以降は1996年4月の彼自身の死去によって編集長が交代するまでの間この体裁がずっと続きます。


 さて、早速この号の P6〜 Morning Mail からある投稿をご紹介。

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 そうです、3月号の To B or not to B に対する(共感の)投稿です。

 それにしても、文中で紹介されている John MacFadyen の回答は全く回答になってない何とも突き放した言い方。そして、Seumas MacNeill の編集長コメントも直接的で刺々しいですね。この方、この様に何かにつけて自説と相反する意見を徹底してやり込めるので、生前少なからぬ人から煙たがられていた事が頷けます。


 1984年5月号でその背景を紹介しましたが、3月9日に開催されたという1985年の P17 Uist and Barra Contest のピーブロック部門では、Fred Morrison が "Beloved Scotland" の演奏で優勝しています。ちなみに競ったパイパーは20人。2位は後日のピーブロック・ソサエティー・チェアマンたる Andrew Wright の "The Earl of Seaforth's Salute" でした。


 P35 From the Past は1937年に撮影されたという貴重なショット。当時の錚々たるマエストロ・パイパーとその関係者が勢揃いです。有名な曲のタイトルになっているご婦人も…。

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 最後に上の写真の次ページ、P36の CoP 自身の全面広告をご紹介。この後、CD-ROM の時代を経て現在はインターネット経由ですが、この当時はこれが時代の最先端でした。

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1985年6月号

June/1985

Vol. 37/No.9

PT8506contents P24〜35の9ページに渡ってこの号の記事の中で最も大きなボリュームを占めているのは、この時期の定番である Guide to the Games.
 この号では5月末から11月末までのサマーシーズンにスコットランド各地およそ 60カ所で次々と開催されるパイピング・コンペティションが網羅されています。

 現代ではこのようなイベント開催情報もインターネットで容易に取得することができますが、この当時はこのような一覧が大層重宝されたことは推して知るべしです。


 その他の記事としては、既に開催された各種コンペティションのレポート、4月26日に開催された P21 The John MacFadyen Lecture と3月末に催された P35 Piobaireachd Society Conference のレポートが重要です。

 表紙写真もこの催しに関連していて、 The John MacFadyen Lecture の際に演奏を披露したマエストロお二人。

 John MacLellan 御大は、心臓の病気で一時は二度とハイランド・パイプを演奏できなくなるのではないかと懸念されていたとのこと。このイベントの際には、そんなシリアスな状況から見事にリカバリーされ素晴らしい演奏を聴かせてくれたそうな。


 先月号で、読者投稿欄のタイトルと体裁が新しいスタイルに固定化した、というような紹介をしましたが、ちょっと早とちりだったようです。この号では早々にひねくれタイトルが復活。なんと、P52 The Customers Seldom Write という新バージョン。その通り、投稿はたったの二つだけ。でも、その実、これはあくまでもエディターの一存で他の記事をてんこ盛りにした結果だと思うのですが…。

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1985年7月号

July/1985

Vol. 37/No.10

PT8507contents P8 Morning Mail の冒頭、Frank Richardson から、5月号のマエストロパイパー達の写真のキャプションの間違いを指摘する投稿が…。

 曰く、前列中央の白スパッツの人物は Dr. Neil Ross ではなくて、P/M R. Meldrum という人。後列右端に立っている人こそが Dr. Neil Ross だそうです。


 P32 50 Years of Judging は先月号に概要がレポートされていた The John MacFadyen Lecture に於ける James Campbell of Kilberry の講演録。自身の50年間に及ぶジャッジ人生を振り返っています。9ページというまとまったボリュームが有り、なかなか興味深い内容でした。興味深いというのは、パイピング・コンペティションに於けるジャッジの属性の歴史的な変遷が見えてきたからです。

 そもそもパイピング・コンペティションというのは、中世のクランチーフたちがそれぞれのお抱えパイパー達の腕を競い合ったことが起源だと思われます。
 その当時の概念としては、ローマ時代の貴族がお抱え剣闘士たちの腕を競わせた事や、はたまた現代のドックショーやキャットショーなど愛玩動物の優劣を競 う大会などにも通じるものがあったと思われます。当然ながら、そのような場では「競技者とジャッジ」の立ち位置はそもそも厳然と分かれています。クラン チーフなどはパイパーの技を競わせる主催者であり、かつ判定を下す立場。お抱えパイパーはその技をアピールするのみ。
 それぞれの分野でそれなりの成績を残したその道のエキスパートがリタイヤ後に審査員を務めるのが通例である、体操競技とかフィギア・スケートやバレエのコンペティションとは根本的に概念が異なっているのです。

 James Campbell の父親、Kilberry Book of Ceol Mor の編者である Archibald Campbell of Kilberry 1984年12月号で 紹介したとおりの人物。クランチーフの伝統を受け継ぐ典型的なハイランド領主です。ハイランド・パイプの演奏を嗜み、マエストロ・パイパーたちから手ほど きを受けて演奏技量を磨いたとしても、それはあくまでも文化を守る擁護者として学究的探究心からのこと。下々のパイパーたちに交じって自身がコンペティ ションで技を競う、などいうことはしません。時代が下っても、彼ら貴族階級に属する人々はパイパーに技を競わせる側であって、コンペティションに於いては 常に審査する立場です。


 そんな父親の下で、James Campbell はジャッジとしての帝王学を学び始めます。
 彼が初めてジャッジを務めたのは 1935年の Skye Gathering に於けるコンペティションでのこと。その時彼は僅か19才。その時の事を「私は最も難しい立場に投げ込まれた19才の青二才だった。」と振り返ります。… が同時に、それはその当時のごく普通のやり方であり「ピーブロック・ソサエティーのジャッジはアマチュアの中から選任されるのが常だった。」と述べていま す。Oban でも、Inverness でもプロフェッショナルなジャッジは居なかったと…。

 通常「アマチュア」という言葉からは「素人愛好家」といった意味合いで、プロフェッショナルよりもランクが劣るように イメージしがちです。しかし、この場合アマチュアとプロフェッショナルという用語の意味するところは、ある分野に於ける習熟度の高低を示すのではなく、社 会的地位によるカテゴリーの別を示していると考えるべきでしょう。
 つまり、ここで言うところのアマチュアとは「貴族階級のハイランド・パイプ愛好家」と捉えるべきで、一方「プロフェッショナル」というのは多くの場合そ のような貴族に仕えるお抱えパイパーを意味します。アマチュアというのはプロフェッショナルよりも社会的地位が高い人々が属するカテゴリーなのです。
 貴族のハイランド・パイプ愛好家たちが自らを「アマチュア」と表現する際には、自分たちを卑下する気持ちなどさらさら無いでしょう。どちらかと言うと 「我々アマチュアはお金の為ではなく純粋にその芸術を理解し愛好しているのだ。だからこそプロフェッショナル・パイパーたちに給与を支払って音楽を奏でさ せているのだ。」といった自負が込められているのではないかと思われます。

 ドラマ「ダウントン・アビー」の中で印象的なシーンが有りました。想定されていた相続人がタイタニック号の沈没により 死去したことを受けて、お屋敷(クローリー家/グランサム伯爵)の新たな相続人として登場した青年(マシュー)が、これまで通り弁護士の仕事を続ける意向 を示した時、英国の名女優マギー・スミス演じる先代グランサム伯爵夫人(バイオレット)が「貴族が仕事をするなんて非常識極まり無い」という様な言い方を します。
 そもそも貴族の務めは統治する領地や屋敷と地域の雇用・文化を守ることであり、自らがなんらかの業務の専従者「プロフェッショナル」になることは、紛れもなく堕落なのでしょう。

 確かに、ドラマの中では当主グランサム伯爵が領地や屋敷を適正に維持・管理・運営することによって村人達の雇用を守り つつ、先代から引き継いだ資産を次代につつがなくバトンタッチするための苦闘が描かれています。20世紀初頭の激動の変化に翻弄されつつ、伝統と変革のバ ランスに悩みながらもなんとかして一族の生き残りを模索する姿です。

 そんな貴族たちは経済面と同様に文化面でも地域文化のよき理解者でありかつ擁護者たる「アマチュア」として、あくまで もボランティア精神の下、その道に専従する下々の者が「プロフェッショナル」足り得るように取り計らう事こそが、自分たち上に立つものの務めであると考え るのではないでしょうか。

PT8508JCK さて、講演の中では当時のそのようなアマチュア・ジャッジ陣の中で唯一の例外(プロフェッショナル・パイパー)が John MacDonald of Inverness だった、ということが述べられています。

 ダウントン・アビーでも描かれているようにその当時のイギリスは、第一次世界大戦を経て財政的に逼迫した状況に陥り、 貴族階級に対する税の優遇措置が大幅に削減されました。貴族階級もそれまでのように悠長に構えて居られなくなり、否が応でも自ら汗して稼がなくてはならな くなったのです。上手く稼げなければ領地を切り売りし、最後には破産へと…。ドラマのシーズン3には正にそのような状況に至って広大な領地を手放さざるを 得なくなったスコットランドのある貴族が登場しています。

 そのような状況下では、多くの貴族にとって文化の擁護者を務めるといった余裕が無くなるのは理の当然。パイピング・コンペティションのジャッジを悠々と務められるような有閑な「アマチュア」の数が激減した事は想像して余りあります。
 そのような状況を受けて、若い貴族にジャッジの帝王学を学ばせる際の指南役として、リタイヤしたプロフェッショナル・パイパーにジャッジの役目を回さざるを得くなった。そして、その先駆けが John MacDonald of Inverness だったという所でしょう。

 1865年生まれで、Gamekeeper(猟場の管理人) をしていた John MacDonald は、Archibald Campbell たちがピーブロック・ソサエティーを立ち上げた1903年当時、油の乗りきったパイパーとして活躍していました。そして、様々な成功を収めたコンペティ ターとしての活躍だけでなく、ピーブロック・ソサエティーが各地で催したパイピングスクールの講師や、ソサエティーが軍と話しを付けて始めた明日のパイプ メジャーを育てるためのパイピングスクールの講師としてパイパーの育成に多大な貢献をした功績が認められ、MBE を授けられたとのこと。また、王に仕えるパイパーにも命ぜられ、いわば、その他のプロフェッショナル・パイパーとは一線を画した存在でした。

 James Campbell はある時は父親の Archibald Campbell やその他の先輩アマチュア・ジャッジ、また別の時には John MacDonald と ともにジャッジを務めてはジャッジ技量の研鑽に励みます。とは言っても、当初2年間は Ceol Beag しか審査させてもらえなかった由。初めて Ceol Mor の審査を受け持ったのは1937年の Lochaber Gathering に於けるコンペティションだったとの事です。その際の他2人のジャッジは父親の Archibald Campbell John MacDonald だったというのですから、つまりは正に名目だけのピーブロック・ジャッジ・デビューです。
 James Campbell 自身も「自分がジャッジとして一人前と思えるようになったのは、第2次世界大戦後に30才を過ぎてそれまでの指導と経験を十分に活かせるようになった頃だった。」と、率直に振り返ります。(→当時の様子

 講演では、第2次世界大戦挟んだ戦前戦後のパイピング・シーンに関する興味深い思い出話が多く語られています。Robert Reid、Malcolm MacPherson、John Wilson、Bobs of Balmoral などが活躍した戦前は言うまでもなく、戦後も John MacLellan、Donald MacLeodDonald MacPherson、John Burgess などなど1940年代、50年代と才能あるパイパーたちが続々登場し活躍します。
 つまり、コンペティションのコンペティターが不足することを心配する必要は全くなかったのですが、それとは対照的にアマチュア・ジャッジに関しては人材 の枯渇が益々顕著になります。第1次大戦後、第2次世界大戦までの間に新たにアマチュア・ジャッジの任務に就いたのは僅か2人だけだったということ。

 この問題を解決するためには John MacDonald of Inverness の先例のように、プロフェッショナル・パイパーの中からジャッジを補充するしかありません。現代で考えればごく自然で簡単なことと思われるでしょうが、James Campbell は 「30年前(1950年代半ば)の時点ではそれは決して簡単なことでは無かった。」と主張します。彼の言い分は、良くも悪くも長年に渡ってコンペティター 一筋であり続けたということは(つまり、常に他のパイパーと競っていた訳ですから)必ずしもジャッジとして適任とは言い難い。ジャッジとなるためには、頑 固な保守主義者から進歩主義者まで、全てのパイピング関係者から幅広い尊敬を集めなくてはならない。そのような資質を持ったプロフェッショナル・パイパー はそうは見当たらない、といったようなもの。(「下々の者の中にそのような高貴な人間が居ると思うか?」と懐疑する差別意識が垣間見えます。)
 それでも、1960年代初頭には幾人かのプロフェッショナル・パイパー上がりのジャッジが幅広い支持を受けるようになり、後進たち活躍へ繋がる道筋がつけられました。

 そして次の段階として、比較的若いうちにコンペティターとしての活動を切り上げて、早々にピーブロックの学術的な側面への関心を強めるような人が出現し始めた。そのような人材が複数現れ、強い抵抗にも会わず平和的にジャッジの地位に収まるようになったと回想します。
 この新しいタイプのプロフェッショナル・パイパーを象徴する人物、そして、ピーブロックを取り巻く状況をより良い方向に変革させた最大の功労者だったのが John MacFadyen です。James Campbell は講演の締め括り部分でいくつかのエピソードを交えながら John MacFadyen の人間像を丁寧に紹介しています。(→”Piping Times”1979年2月号参照

 

 エピソードの一つとして John MacFadyen が「プロフェッショナル・パイパーの生涯には3つのステージが有る」と説明していたことが紹介されています。
 第1ステージ楽曲をどのように演奏するのかを習得する時期第2ステージ賞を獲得する時期。そして、第3ステージそれぞれの楽曲について、紙に書かれた楽譜や自らがそれまで習得した演奏スタイルを超えた次元の表現方法を学究的に探求する時期

 John 自身にとっての第1ステージは〜1950年代、第2ステージが1960年代、そして1970年代に入ると早々に第3ステージに入りました。そして、「名 声、豊富な知識と柔軟な思考」といった受け入れ側の望む全ての資質が完璧に備わっていた彼はなんら問題無くピーブロック・ソサエティーのジャッジ団の一員 となります。

 彼はこの第3ステージで2つの大きな成果を残したと高く評価されています。一つが、ピーブロック・ソサエティーの出版物の歴史の中でエポックメイキングなものである Book13 の編纂を Archie Kenneth とともに尽力したこと。もう一つが、彼の提唱によりピーブロック・ソサエティーの年次カンファレンスが始まったこと。1972年から始まった年次カンファレンスによって「アマチュア・ジャッジとプロフェッショナル・ジャッジの壁は完璧に過去のものとなった。」と James Campbell は回想します。


 現代のパイピング・コンペティションのジャッジとコンペティターとの関係というのは、体操競技やフィギア・スケートな どのそれとほぼ同様の構造になっています。しかし、うすうす察してはいましたが、そのような構造というのは、実はほんのつい最近になって醸成されたこと だった、ということが明らかになりました。
 想像するに、プロフェッショナル・パイパーがジャッジになる(昇格する?)際の最大の障壁は、それまで自分たちだけで独占していたハイソな世界に、新た に自らが競技者であったような下々の者が入ってくるということに対する、貴族たち自身の心理的抵抗感だったのでしょう。

 Archibald Campbell はそのようなことを真剣に考えずに済んだ最後の世代。一方で子息の James Campbell にとってのジャッジ歴50年間は、過去の遺物にならんとするアマチュア・ジャッジの一人として、否が応でもその大変革の過程をしかと見届けざるを得なかった50年間だったと言えるでしょう。

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1985年8月号

August/1985

Vol. 37/No.11

PT8508contents P15 June at Boreraig は聖地に於ける6月の定例行事のレポート。(この定例行事の由来と内容は1984年8月号1983年9月号のレポートを参照して下さい。)

 Seumas MacNeill にとっても、この由緒ある建物と石碑の管理者として、季節の良い毎年春のスカイ島への小旅行は、楽しくも喜びに満ちた旅のようで、毎年紙面に楽しげな旅レポートを掲載。
 この年も、いく先々でパイパー仲間の家庭を訪問しては、ひとしきり歓談にふけっている様子が伺えます。

 今年奉納されたピーブロックは Seumas MacNeill による "The King's Taxes"、Cameron MacFadyen による "Lament for the Only Son"、 Iain MacFadyen による "Lament for the Harp Tree" の3曲だった由。


 P24 Piper's Choice は1984年の Grant's Championship に於いて、10人のエントリー・パイパーたちが、自らのレパートリーとして選んだ6曲の人気ランキング。

 ピーブロックの部門では The Earl of Antrim を選んだパイパーが6人。続いて、In Praise of Morag が5人。Lament for the Children が4人ということ。

 複数のパイパーに選ばれた曲の一覧とランキングは次の通り。


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1985年9月号

September/1985

Vol. 37/No.12

PT8509contents 20世紀半ば、パイパーの地位向上を求める運動が胎動します。Seumas MacNeill による P20 The Professional Pipers Association はそのような目的で設立されたこの組織の活動を振り返った記事。

 この記事の内容に入る前に、当時に至るパイパーの置かれた状況を思い描いてみましょう。そのためには近代に於ける「パイパー」という立場を「労働者階級の一つの職種」と位置付けて思いを巡らせてみると理解し易いと思われます。

 7月号の記事で紹介したように、近代化に伴って貴族階級の立ち位置が大きく揺らぐ中で、パイピング・コンペティションの位置付けも大きく変化しました。コンペティションに参加するパイパーの属性や動機も大きく変化します。

 当初、コンペティションに参加する(させられた?)のは、貴族のお抱えパイパーに限られていた事でしょう。当時はパイピングに専念が出来て、優れた技量を持ち得たのはそのような立場のパイパーだけでしたから。

  ところが、ビクトリア女王の鶴の一声で19世紀に軍楽隊としてのパイプバンドが誕生すると、職業パイパーの就職先として軍隊が大きな位置を占めるようにな ります。軍としても隊員たちのモチベーション維持のため、積極的にコンペティションに参加させて技量研鑽を図ったことは容易に想像できます。

 20世紀に入ると、趣味としてのパイピングが一般化し、職業パイパーではないにも関わらず高い技量を持つパイパーが出現。そして、そのようなパイパーたちは当然のようにコンペティションにも参加するようになります。
 コンペティターたちの属性は、貴族(カーネギーの様な新興実業家も含む)のお抱えパイパーか軍人や警察官といった職業パイパーと、その他のパイパーとい う構成になります。その他のパイパーも、この段階では農夫や羊飼いなど、田園地帯の第一次産業を生業とする人が多かったと推察できます。ちなみに、John MacDonald of Inverness は猟場管理人、Robert Reid は炭鉱夫でした。

 さらに時代が下り20世紀半ば、2度の世界大戦が終焉し庶民の暮らしもようやく安定して来るに従い、趣味としてパイピングを嗜む人口は都市部の人 々にも急激に増加したと思われます。その結果、コンペティションに参加するパイパーの属性も職業パイパーの他は田園地帯の第一次産業従事者よりも都市部の 自営業者やサラリーマン、さらには、医者や学者といったインテリ層の比率が増加したことは想像に難くありません。貴族のインテリと違って、平民出身のイン テリ層はパイピングを愛好する延長上として、自らコンペティションに参加するのはごく自然な流れだったと推察されます。それはつまり、私たちが知っている 現代のパイピング愛好家たちのごくありふれた姿です。

 20世紀に入ってパイピング愛好家の属性と行動が大きく変化する中でのコンペティションのジャッジの変容について知ることが出来たのが7月号の記 事でした。ところが、貴族のアマチュア愛好家の専用席であったジャッジ席が下々の者に解放されるようになっても、コンペティターたちの立ち位置については 直ちに大きく変化することはなかったようです。つまり、パイパーは単なる楽器の演奏者として見られていて、一人の芸術家・音楽家として丁重に扱われる様な 事は無かったのです。コンペティションで優秀な成績を収めたとしても、手にする賞金はあくまでも上から目線の微々たる「ご褒美」程度でした。

 20世紀半ば、そのような状況を根本的に打破しコンペティションに参加するようなパイパーを一人の芸術家・音楽家として扱うよう地位向上を求める運動が胎動。1948年1月、The Professional Pipers Association(P.P.A.)が設立されました。Seumas MacNeill The College of Piping を創設したのが1944年のことですから、これはそれから間もない頃の事。
 設立に際しては "all professional competitors" に声が掛けられ、同時にそれが加入資格でした。ご存知のとおり Seumas MacNeill の本業はグラスゴー大学の教授ですから、普通に考えれば彼にとってのパイピングはアマチュアのはずです。しかし、実際には彼自身がこの組織の発起人の一人 だという事は想像して余りあります。その証拠にこの記事の中で自身が初代役員の一人として書記(Secretary)を務めた、と記されています。ちなみ に、その他の役員の中には Donald MacPherson R.G.Hardie といった名前も見受けられます。

 一方でこの組織は「アマチュア・パイパーには門戸が開かれていなかった」とのこと。この事から察するに、この場合の「プロフェッショナル・パイパー」と いう定義は「コンペティションに参加するパイパー」という概念と捉えるべきです。そしてもう一つ、「プロフェッショナル・パイパー」という言い方には 「(貴族の)アマチュア・ジャッジ」に対峙する立場という意味合いが込められている様に思われます。

 ただ、コンペティションに参加するパイパーの中でも、業務の性格から軍人と警察官については参加が認められませんでした。結果として当時のトップ パイパーの内のある程度の割合を除外することにはなったのですが、その代わりそれ以外のトップ・パイパーは全てこの組織に参加したということです。

 この組織が掲げた目標は「プロフェッショナル・パイパーの地位向上」というシンプルなもの。そして、最初に行ったのはコンサートで演奏する際のパイパーの待遇改善でした。
 当時、コンサートで演奏する際に他の音楽家たちにはきちんとギャラが払われる一方で、パイパーたちにはカップ一杯の酒が振舞われるだけ、といったような不当な扱いを受けていたのです。

 その次にターゲットとしたのはハイランド・ゲームに於ける賞金の引き上げ。その当時の賞金は本当に僅かで、例えば Alva ゲームでは6人の入賞者で7.50ポンドを、また Strathallan ゲームでは12人の入賞者で19ポンドを分け合う、といった具合でした。

 1949年の P.P.A. の活動のハイライトは、いくつかのハイランド・ゲームに於けるボイコット活動で した。そして、総額19ポンドだった Strathallan ゲームの賞金総額を27ポンドに上げさせることに成功するなど、このボイコット活動は100%の成果を上げた。…と書かれていますが、その当時の貨幣価値 を考慮したとしても、決して大きな額とは思えません。

 1951年になると P.P.A. の存在はより大きくなり、Airth、Alva、Crook of Devon、Thornton ゲームでボイコットを実施。Aboyne、Badenoch、Rothiemurchus、Braemar、Cowal、Mallaig、Nairn の各ゲームで賞金の増額を勝ち取りました。また、Skye ゲームの主催者との話し合いの結果、主催者の求めに応じてパイパーがダンサーの伴奏をさせられることを止めさせたということです。

 このレポートでは P.P.A. がいつまで存続したのかは定かに書かれていません。しかし、Seumas は 「存在した短い期間の間に、それまで動かすことなどおよそ考えられなかった強固な抵抗勢力に対峙し、パイパーたちの合法的な切望に対する無関心を打破。パ イパーたちを "musicians and artistes" と認めさせるに至ったのは大きな成果だった。」と総括。
 そして、 P.P.A. の活動が、その後1976年に設立されその当時の(そして、21世紀の現在も)コンペティションに参加するハイランド・パイパーにとって重要な後ろ盾となっている The Competing Pipers Association(C.P.A)の礎となったことを誇らしげに振り返っています。

 想像して余りありますが、 P.P.A. のこのような活動は主催者サイドのみならず、保守的な考え方のリタイヤしたパイパーたちからも大きな反発を受けたということ。締め括りの一節に書かれていた "The battle was fierce but we were young and right was on our side. " と言う一文が印象的です。
 生業は大学教授というインテリ層でありながら、パイパーの立場では一人の労働者階級として、その地位向上に心血を注いだ若き日の Seumas MacNeill の姿が彷彿とします。


 P23 Girvan Recital はクライド湾に面したガーバンという街で開催された John D. Burgess によるリサイタルのレポート。
 "John gave a recital the likes of which the audience had never heard before because of the magical and breathtaking quality of his fingering coupled with John's brilliant musical interpretation" という表現が全てを伝えます。レポーターはさらに "My words are inadequate to express how we all felt after such an evening to always remember." と書き加えます。

 ちなみに、ピーブロックは "Old Woman's Lullaby" が演奏されたということです。

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1985年10月号

October/1985

Vol. 38/No.1

PT8510contents この時期は主にサマーシーズンの各コンペティションの報告で誌面が埋まります。P15 Argyllshire Gathering はこの号のメイン。表紙の説明にあるように、この年の Gold Medallist はかの Robert Wallace でした。曲目は "King's Taxes"だった由。

 ちなみに Senior Piobaireachd の部門は、1st Donald MacPherson "Lament for Patrick Og MacCrimmon"、2nd Colin MacLellan "Glengarry's March"、3rd Hugh MacCallum "Lament for the Earl of Antrim"、4th Malcolm MacRae "Lament for Donald Duaghal MacKay" といった順位でした。


 幾多の名パイパーを生み出した Uist島を舞台にした P19 South Uist Games のレポートには力が入っています。大判の写真を含めて6ページに渡ります。

 ピーブロック部門には当時の若手の有望株が勢揃いといった風情。

 1st Iain Duncan "Earl of Seaforth's Salute"、2nd Roddy MacLoed "Lament for Donald Duaghal MacKay"、3rd Bain MacGregor "I got a Kiss of the Kings Hand"、4th Gordon Duncan "McIntosh's Lament" という結果でした。

 そして、今は亡き若き日の Gordon Duncan が写っているこんな写真が掲載されていました。ところで、1st を獲得した Iain Duncan というのは、 Gordon のお兄さんなのでしょうか? 今や、NPCのチェアマンたる Roddy MacLoed も若い(そして細身)ですね。

 

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1985年11月号

November/1985

Vol. 38/No.2

PT8511contents これまで 38年間の “Piping Times” の購読期間に途中数年間のブランクがあった経緯については 1978年9月号で触れました。そして、その後それらの欠番補充に至った顛末は 2009年1月 2010年5月〜8月の日記で報告した通り。
 手続き上は1985年10月号以降の購読料支払いが滞っていた訳ですが、タイムラグにより10月号までは手元に届きました。ですから、実際にはこの 1985年11月号から1991年5月号までの数年間分がリアルタイムで手にすることが出来なかった号になります。
 2010年に久方ぶりにそれら67冊を入手した際にざっと目を通した以外はどの記事もほぼ初見。ケルトの新年の始まりに相応しく心機一転、これからしばらくはこれまでの号とはまた違った新鮮な気持ちで、各号の誌面を紹介してまいります。


 欠番補充の顛末報告の中で「67冊の内3冊については、販売できるバックナンバーが完璧に無くなっているようで、 オリジナルの白黒コピーでした。」と書きましたが、この号もまた別の意味で新品ではありません。表紙写真を拡大して見ると分かる通り、一度二穴ファイルに 綴じ込まれた形跡があります。
 想像するにこの号もまた完全に在庫切れだったので、CoP のスタッフか誰かの手元でファイルされたいたものを提供してもらった、なんてところではないでしょうか。由来はどうであれ、二つの穴を除けば冊子自体には 何ら汚れ等は無く、全くの新品と言っても差し支えない状態です。


 P14 "The Flowers O' the Forest" は私の数少ない非ピーブロック・レパートリーであるスローエアー。はて、どんな記事かなと思ってページをめくってみると、P14 の下方に僅か7行の記事。曰く、

 "We all know that this famous tune commemorates the Battle of Flodden in 1513, when we lost 3-2 to the White Shirts. But who wrote the song, words and music ? "  

 …ということで、「オーストラリア在住のある読者がこの疑問についてどうしても知りたいそうなので、誰か答えを教えてあげて欲しい。」という呼びかけでした。

 後日の誌面で回答が示されるのでしょうか? 期待したいところです。

 ところで、現代のIT環境が有難いのは、曲の背景となった "The Battle of Flodden" について知りたければこんな詳しい史料にワンクリックでアクセス出来るということ。バトルフィールドについてもこんなリアルなマップがすぐ呼び出せて、その当時に思いを馳せることが容易に出来る。何とも便利な時代です。


 さて、P15 MacLeod of Colbeck's Lament は CoP の共同創設者 Thomas Pearston による記事。補充された欠番最初の号からいきなりピーブロックネタ登場です。67冊が届いてざっと目を通した際「欠番補充して本当に良かった。」と実感した次第。

 この曲の 12.12.8 というパターンは稀なもので、他の例では Lament for Donald Ban MacCrimmon、Craigellachie、The Fairy Flag、MacKenzie of Gairloch's Lament、Donald Grumach's March、My King Has Landed in Moidart の6曲だけという事。

MacLeod of Colbeck's Lament  曲の特徴としては、echo beat や birls が登場せず、cadendes も少なめで、"melody flows on and on" という風情。しかしその一方で、その長さから初心者にとっては少々手強い曲、と紹介されています。ちなみに私のコレクションしている数人の演奏音源に於け る演奏時間はおよそ16〜17分程度といった所。

 この曲は Angus MacKay の父親 John MacKay of Raasay(1767〜1845)が Colonel John MacLeod of Colbeck のために作曲したと言われています。Colonel John の母親と妻は共に MacLeod of Raasay の出身という事。
 Colonel MacLeod は西インド諸島のジャマイカに領地を持ち、その土地に Colbeck Castle を建てたと言われている人物。この曲が捧げられた John MacLeod は、最初にジャマイカの領地を手にした父親を継いで2代目として Colbeck を名乗った John MacLeod of Colbeck (ジュニア)。1823年にロンドンで死去した際に作曲されたと推察されています。

 収録されている楽譜集は Piobaireachd Society Book Vol.10、Angus MacKay's Collection、Thomason's Ceol Mor、The Simon Fraser Collection。記事の最後では、それぞれの楽譜集に於ける表記の違いについて細かく説明されています。


 以上、曲の解説としては1ページと1/3程度の非常に軽い内容。ところが、実はこの記事はどうやらイントロだったようで、編集部がこの号でどうしても紹介したかったネタは "The West Indies Chronical 1973年8/9月号"に掲載された Taylor という人による「John MacLeod と Colbeck Castle に関する物語」の方だったようです。再掲許可が得られたので以下に記事全文を掲載します、という紹介文に続いて6ページに渡る次のような大変興味深い記事が掲載されていました。


Colbeck Castle P16 The Mistery of Colbeck Castle というのがこの記事のタイトル。
 唯一挿入されている建物の写真(白黒)はまるで数回コピーを繰り返したかの様に濃い部分が完全に潰れていて、何が何だかわかりません。しかし、朧に浮かぶその外容からは既に屋根部分は崩れ落ちて廃墟と化しているように見えます。
 まあ、如何にもどんよりとしたスコットランドの空の下の廃墟の城なのでしょう。…と思いきや、実はこの建物こそがジャマイカに建てられた Colbeck Castle そのものでした。ピーブロックに関する物語の舞台がスコットランドではなくてジャマイカだというのは初めて。全くの意外な展開です。

 最近はどんな場所でもまずはグーグルマップで検索し、可能であればストリートビューでその場所を確認してみます。でも、今回ばかりは無理だろうな?と思いつつ、ダメ元でジャマイカ国内を検索してみると、何と直ぐに Colbeck Castle がヒットしました。

 ストリートビューは見られませんでしたが、写真は沢山掲載有り。ほぼ同じアングルから撮影したと思われる、如何にもカリブ海らしい抜ける様な青空 をバックにしたカラー写真を一枚拝借。クリアなカラー写真なので印象は大違いですが、外容については先ほどの1973年当時の白黒写真とさほど変化は無い ようです。

 さて、この意外な展開に付いていくため、私にとっては「レゲエ発祥の地、陸上競技王国、ブルマンコーヒーの産地」という程度の認識でしかなかったジャマイカという国について、ウィキペディアでにわか勉強に取り組みました。
 コロンブスが1494年の第2回航海で「発見」。その後、1509年にスペイン領となった後、1655年にイギリスが侵攻してスペインから奪い取って植 民地として支配。1962年に独立して英連邦の加盟国となる、という経過から分かる通りある意味で至って英国色の濃い国だということを認識しました。確か に現在の地名を見てもまるで英国そのものですね。


 さて、いよいよ記事を紹介していきましょう。
 スペイン統治時代の首都だったスパニッシュ・タウンから12マイルの所に建つ Colbeck Castle と呼ばれるこの廃墟は、かつてはジャマイカ島の中で最も堂々とした建物でした。この建物に関する謎としては、何時?誰が?この建物を建てたのかという事に 関する正確な根拠が見当たらないという事。さらに、諸般の状況から察するに、この建物はほぼ完成間近で突然建築作業が中断。その後建築作業は再開されず、 結局一度たりとも住居として使用した形跡が無いというのです。

 この土地の最初の所有者は Colonel John Colbeck という人物(ピーブロックを捧げられた人とは別人)。スパニッシュ・タウン大聖堂にある彼の墓碑銘から、1630年生まれの彼は、1655年にイギリス軍 の侵攻の際に軍人としてこの島に上陸。1682/3年にこの島で死去しました。おそらく侵攻の際に武勇を示したのでしょう、侵攻から程なく下士官から順調 に昇進を重ねます。1662年には島の北部方面への遠征などを指揮するといった実績を重ね、軍隊の地位としては最終的に Colonel(大佐)にまで登り詰めます。
 さらに、軍隊の中だけではなく1664年には地元議会の議員として推薦され、さらに程なくして議長を務めるようになります。

 何年か前に調査が行われた結果、イングランドの Colbeck family には二つの家系が有る事が分かりました。一つは Bedfordshire の家系、もう一つが Lincolnshire の Louth の家系という事です。後者の家系には「昔、一人の若者が西インド諸島に Elm tree(楡/ニレの木)を伐採するために出向いた。そして、それによって彼は財を成した。」という言い伝えがあるとの事。
 John Colbeck の死去から3年後の1685年に、John Colbeck の相続人と思わしき Louth の Colbeck 家の人々が、枢密院に対して彼の遺言書の法的正当性について疑問を呈し回答を求めている事から、彼が財を成したというのは確かな様です。
 生涯独身だった John Colbeck は植民地での仲間である2人の管財人に全ての資産を一括して委ね、イングランドの親戚筋には一切何も残さなかったのです。

【ウィキペディアから引用】
 ポート・ロイヤル(Port Royal)は、17世紀のジャマイカの海運業の中心地。当時は「世界で最も豊かで最もひどい町」の両方の名声を得た。ヘンリー・モーガン「黒髭」ことエドワード・ティーチをはじめとするバッカニア(海賊)たちが奪った宝物を持って来て、消費することで有名な場所だった。17世紀、英国は海賊を奨励し、ポート・ロイヤルを海賊の拠点として、スペイン船やフランス船を攻撃していた。
 1692年6月7日の地震は、ポート・ロイヤルに甚大な被害を与え、町の3分の2がカリブ海に沈んだ。この惨事の後、商業の中心地はキングストンに移される。
 沈没船などから中国などからの財宝なども出てきて、当時の繁栄が解明されつつある。 ※17世紀当時の西インド諸島の状況に関する基礎的知識が全く欠如している身にとっては、ウィキペディア無くしてこのレポートは読解できません。レポートに出てくる「ポート・ロイヤル」という地がこの様な場所であったということをまずは知っておく必要があります。

 さて、John Colbeck が財を成したのは、イングランドの家系の言い伝えにある様に楡の木の伐採などではなく、後に彼の管財人となる2人を含めた複数の軍隊時代の仲間達と共に、 海賊達がポート・ロイヤルに持ち込む金銀財宝の取引きで利ザヤを稼いだというのが真相の様です。そして、稼いだ資金を元手に侵攻当時からの旧知の上官たち が要職を占める植民地政府から、安く土地を譲り受けたと思われます。John Colbeck はその様にして築き上げた大きな富の形成に尽力してくれた仲間達への感謝の気持ちから植民地時代の友人2人を管財人として指定、全ての資産を信託したのでした。

 John Colbeck の死後、Colbeck Castel が建てられた一体の地所(Colbeck Estate)は管財人の1人であり自身でも広大な土地を所有する Samuel Bernard という人の手に渡りました。
 1695年の Samuel の死後、地所は息子 Thomas、孫息子 William Henry と代々引き継がれます。最終的に、この William Henry は1749年にジャマイカの全ての資産を Lewis 島出身の John McLeod に£19,600で売払います。ピーブロックのタイトルになった人物の父親です。
 John McLeod(シニア)は Colbeck Estate のオーナーとなったことによって、Colonel John McLeod of Colbeck と名乗るようになったのでしょう。たまたまこの人も Colonel の肩書きを持った John だったこと、そして、よくあるパターンですが親子が同じ John であるのが話をややこしくする一因です。
 後日、1775年に John McLeod が死去した後は、Colbeck Estate は不在地主の手元を転々とするようになります。


 さて、肝心の建物について…。
 20世紀半ばまで「Colbeck Castle は(最初の)John Colbeck によって1600年代半ばに建てられて、彼の住居として使用されていた。」というが定説でした。しかし、1950年代に実施された建物調査の結果、次のような点が明らかになり、この定説に様々な疑問が生じ始めます。

・母屋(main building/中央部分?)については完成かほぼ完成間近だが、4棟の離れ(outbuilding/4隅の塔のような部分?)の内2棟については明らかに未完成。
・キッチンの4つの壁炉(fireplace)の内、使われた形跡があるのはたった1つだけ。
・見つかった幾つかのオランダ製タイルの切れ端の模様は1730年以前には制作されてはいない。
・キッチン外のゴミの中から見つかったボトルのデザインは1750年以降のものではない。
・母屋から見つかった焼け焦げた床板の端切れから、ある時点で火事に見舞われている。
・壁から剥げ落ちた漆喰のカケラにコテで刻まれた "K.J. Francis 1?48" というサインが認められる。2番目の?文字は6か7のどちらか。
・建物のアーチ部分に石工が壁塗り作業のために盛った一山の漆喰が手付かずで残されている。
・建物の外にも手付かずの漆喰が残されている。
→これらの証拠は、この建物には人が居住したことが無いことを示している。

 また、この調査の後程なく、ある建築家がこの建物の外壁の角に施された隅石の仕様が1740年代に流行ったイタリアの別荘様式と類似していることから、建物の建築年代を1740年代と推測する説を唱えました。

 また、その他にもこの建物は John McLeod が(つまり、1749年以降に)建築したと主張する建築家が居ます。この人の説では、建築が開始されたのは1770年で、John MacLeod が死去する1775年にはほぼ完成間近だったとしています。その根拠としては、1769年に島を去ったある有名な歴史家が書いたジャマイカ島の建築物に関する著書の中に Colbeck Castel に関する記述が見られないこと。この歴史家はこの建物のすぐ近くに地所を持っていたので、もし既に建物が建っていたとしたらこの建物について記述しないはずが無いと推測します。

 この説は多くの人々に受け入れられています。確かに、John McLeod には Colbeck Castel を建設する資金と動機がありました。しかし、同時にこの理論を証明する確かで明らかな証拠が見当たらないという事から、レポーターは次の様なもう一つのセオリーについて思いを巡らせます。


 その規模から推し量ってこの建物の建設には長い時間が掛かったと想定される。レンガ、タイル、スレートなどの建築資材は全てイングランドから輸入 する必要があり、腕の良い職人を確保するのは何時でも簡単なことではなかった。当時のプランテーションに於ける建築工事に於いては、農作物の収穫時期に工 事が中断することが度々あり、収穫時期が終了した際にも何らかの理由で工事の再開が行われないことも度々だった。

 John Colbeck がこの建物の建設工事を開始したのだとしたら、自分の寿命が少なくなってから開始するとは考え難い。管財人 Samuel Bernard は息子 Thomas が副総督を務めるほどの重要な地位に居たにも関わらず、何故工事を継続しなかったのか? Thomas は植民地に立派な屋敷を建てようとするのはごく自然であり、そうであれば彼が死去する1728年には建設が始まっていたはずである。Thomas が死んだ時にまだ未成年だった彼の息子 William Henry も1740年頃には成年に達していて、父が亡くなって一旦中断していたこの建物の建設工事を再開したはずである。
 1744年、完成間近だったと思われるこの建物に最初の災難が降りかかった。ジャマイカが「グレート・ハリケーン」と呼ばれる未曾有の巨大ハリケーンに 襲われたのだ。港に係留されていた105隻の船の内、ハリケーンの被害から逃れられられたのはたった1隻だけ。おそらくこの時、この建物のスレート屋根は 吹き飛んでしまった事だと思われる。

 さらに、William Henry は金欠に陥っていて、この建物の建設工事は1748年までに止まっていたのではないかと推察される。そして、さらなる災難が降りかかる。建物の一部で火事が発生し壁の一部が崩壊したのである。
 彼は負債を軽くするためにジャマイカに所有する資産の殆ど全てを John McLeod に売り払った。売り渡した金額は本来の価値には程遠いものであったが、それによって William Henry はイングランドに戻って暮らす事ができた。

  John McLeod は代金の一部を現金、残りは借り入れして支払った。債務は5年後の1754年に完済している。
 1728年には John McLeod Colbeck Castel から少々離れた場所にある、自らの経営する砂糖きび加工工場を見晴らす位置に建てられた "Great House" と呼ばれる慎ましい規模の屋敷に住んでいた。
 1741年の時点で、彼の農場〜工場の精製された砂糖とラム酒の生産量は満足すべきレベルではなかった。そこで、彼は水車を回すのにより適した水量が得られ、1749年に入手した Colbeck Castel の修復作業から遠くない場所に工場を移す事を計画した。
 一方、この頃本国では7年戦争(1756〜63)が迫っていて、イングランドからスレートを運び込むのが困難になる事が想定された。さらに、1950年に再びジャマイカを襲った大きなハリケーンによりこの建物はさらな被害を被った。
 そのような経緯を経て、彼は結局 Colbeck Castel を完成させることを諦め、残ったスレートと木組みを取り外して工場の近くに "Mansion House" 呼ばれる屋敷を建て、1775年に老衰で死去するまでそこで暮らした。

 …と書きつつ、レポーターは「このセオリーにも裏付けとなるような明確な証拠は無い。しかし、将来学者たちが真実を見出してくれるための一つの道筋を示しているはずだ。」と締めくくります


 以上、淡々と紹介してきましたが、正直なところそれほど長文では無いにも関わらず、話があちこち飛ぶので要点を掴むのに苦労しました。そして、最後まで読んでも要は「Colbeck Castel に関する謎が解明された訳では無い。」という事が分かったまでで、ちょっと煮え切らな思いがします。

 しかし、一曲のピーブロックにまつわる物語を通して、当時の大英帝国の人々のインターナショナルな活躍の様子を垣間見れたのは何よりも興味深かったところです。
 「カリブ海の海賊」と言ったら、ピーターパンの童話かディズニーランドのアトラクションを思い浮かべるのが関の山だったのですが、実際にはいわば国家公 認の「海賊」という存在が当時の西インド諸島の領有を巡る英国、フランス、スペインといった国家間のパワーバランスの中で大きな役割を果たしていた事、海 賊たちの略奪した財宝が地域経済に於いてそれなりの位置を占めていたという事、などを知ることができたのは大きな収穫でした。

⇒関連記事 "Piping Times" 1987年9月号


 Dunvegan Castle を舞台にした8月の重要なイベントとして定着している P37 The Silver Chanter コンペティション。この年は8月7日に開催されていたのですが、大分遅くなってこの号にレポートされています。

 このコンペティションの参加者資格については、前回から "invitation only" のシステムになったことは1984年9月号のレポートで報告した通り。ところが、前回は10人の招待者の内最終的には参加者が6人になってしまったことを踏まえてか、この年は早々にシステムが見直されています。
 なんとこの年の招待者はたったの4人だけ。ただし、各々が2曲づつ演奏することを求められるとの事で、2曲については長い曲と短い曲を1曲づつという趣 向。これはもう「コンペティションの体裁を模した(その実は)リサイタル」という主催者側の考え方を、あえて明確にしたという所でしょう。

 その証拠に、今回この催しでは競われたパイパーたちに対して賞金は支払われません。"The most artistic performance" を披露したパイパーに対して、トロフィーたる The Silver Chanter(銀製のチャンター)が授与されますが、参加者には結果に関わらず一律の謝礼が支払われるだけなのです。

 確かに "the great MacCrimmon tunes in the very room where they were first performed for the MacLeod Chiefs" というシチュエーションは誰でもが簡単に叶えられる事ではなく、ハイランド・パイパーにとっては何よりも栄えあるチャンスですから、参加費を貰えるだけでも御の字ってところでしょう。
 そして聴衆にとっては "the greatest pipers in the land cause the walls to re-echo once again to the great music is an experience no one can ever forget." という一文が全てを語っています。

 招待されたパイパーたちと演奏曲目は次の通り。(最初の方が長い曲)

Brian Donaldson
 
"Lamenmt for Donald Ban MacCrimmon" "MacLeod 's Controversy"
Hugh MacCallum
 
"Lament for the Earl of Antrim" "A Frame of Wrath for Squinting Patrick"
Jack Taylor
 "Mrs MacLeod of Talisker's Salue" "Lament for Donald of Laggan"
Iain MacFadyen
 "Lament for the Harp Tree" "Pretty Dirk" 

 そして、今回 The Silver Chanter を授与されたのは Iain MacFadyen。同じく今回の招待パイパーである Hugh MacCallum と並んで4度目の受賞とのこと。

 ジャッジは John D. Burgess、Frank Richardson、Alasdair D.G.Milne という面々。…の予定でしたが、前年もジャッジ団の1人だった Alasdair D.G.Milne という人は「北アイルランド問題の報道に関して生じたトラブルに関する取り調べのためロンドンで勾留されていたため」参加できなかったとのこと。よって、 ジャッジは前者2人で担当した由。このイベントは毎年 BBC が大量の機材を持ち込んで録音している事などから察するに、この人の本業は BBC の報道関係なのかもしれませんね。
 さらにもう一人主催者側で欠席せざるを得なかったのは、演奏者と曲について説明する役目が予定されていた Seumas MacNeill。家族の服喪により参加できなかったそうです。

 このレポートでは通常のコンペティション・レポートと同様にそれぞれのパフォーマンスについて事細かにコメントが記述されています。それらの内容をあえて細かく紹介するまではありませんが、Hugh MacCallum の "A Frame of Wrath〜" に関するコメントの中の次の下りが気になりました。
 "As Always Hugh played well and correctly, lacking perhaps the fire which John Burgess himself put into this tune on one famous occasion in that very room."
  John D. Burgess という人は、末長く語り草になるような一期一会のパフォーマンスを幾つも残しているのですね。(関連記事→

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1985年12月号

December/1985

Vol. 38/No.3

PT8512contents 今年もまた P15 The Glenfiddich Championship のレポートの季節が巡ってきました。このコンペティション、1974年の第一回から昨年までは The Grant's Championship という名称でしたが、12年目の今回から現在お馴染みのタイトルに変更された由。

 「演奏者はその一年間(この場合の一年間というのはケルト暦的に11月〜翌年10月)に最も活躍したトップ10人のパイパー。季節は紅葉真っ盛りな晩秋のハイランド。舞台は Atholl 公爵の居城たる白亜の "Blair Castle" 大ホール。」
 このようなコンペティションが人気を博さない訳がありません。あっという間に、パイピングワールド最高峰のコンペティションの地位を揺るぎないものとし たようです。既にこの当時から米国、オーストラリア、ドイツ、フランス、ノルウェーなどなど世界各国のハイランド・パイプ愛好家たちが、このイベント目当 てに遠路はるばる晩秋のハイランド目指して来訪する、とレポートされています。

 思うに、このイベントが急速に人気を高めた理由の一つは、演奏される曲がバラエティーに飛んでいる点にあるのではないでしょうか。
 このコンペティションではパイパーたちは「自ら選んだ6曲のリスト」をジャッジ団に事前に提出。ジャッジからは当日朝にその中の一曲が指定されるという 仕組みです。リストの曲は各人が自ら選ぶのですから、当然ながらそれぞれが得意とする曲である訳です。6曲それぞれに関して各人の演奏の特徴も知り尽くし たジャッジ団は、それらも考慮しながら、なおかつ10人の演奏曲目が重ならないように配慮しつつ、曲を指定するのでしょう。結果として、聴衆はトップ10 パイパーによる選りすぐりの10曲を存分に堪能する事ができるのです。
 事前に主催者側(ピーブロック・ソサエティー)からセットリストが示されて、参加者はそれらの中から指定された曲を演奏するシステムである他の2大コン ペ(Argyllshire Gathering と The Northern Meeting)と大きく異なるのがこの点。
 先月号で紹介した、The Silver Chanter コ ンペティションと同様に、コンペティションの形式はとってはいますが、その実「リサイタル」の雰囲気を色濃く取り入れたスタイルと言えましょう。おそら く、「血眼になってトップ獲得を目指す」と言ったスポ根的な雰囲気よりも、シチュエーションに相応しく「優雅に芸術を楽しむ」、と言った雰囲気が色濃く 漂っているように想像されます。

 さて、この年の結果は以下の通り。

1st ★★★ Murray Henderson "Park Piobaireachd No.2"(79、80年の覇者)
2nd _★★ Bill Livingstone "Lament for the Laird of Anapool"
3rd ★★★ Iain MacFadyen "The Earl of Ross's March"(77、81、84年の覇者)
4th __★ Malcolm MacRae "Lament for the MacLeod of Colbeck"
5th __☆ Alfred Morrison "Queen Anne's Lament"

★★★ Hugh MacCallum "Lament for Colin Roy MacKenzie"(78年の覇者)
_★★ John MacDoughal "My Dearest on Earth Give me your KIss"
__☆ Robert Wallace "The Earl of Seaforth's Salute"
__☆ James MacGillivray "Lament for the Departure of King James"
__☆ Alasdair Gillies "Isabel MacKay"

(冒頭の印は過去3カ年の連続出場状況/★は出場/☆は初出場/_は参加実績無し/順位はピーブロック部門)

 ちなみにオーバーオールチャンピオンも Murray Henderson でした。


PT8612AnonymousManuscript.jpg

 欠番補充して入手したバックナンバーの目次に P23 An Anonymous Manuscript and its Position in the History of Piobaireachd Playing (Part1)という様なタイトルを見つけると「あ〜、補充して本当に良かったな〜。」と痛感します。

 著者の Frans Buisman は1980年台半ば〜の "Piping Times" 常連執筆者の一人。実は、この記事が初登場です。これ以降 2000年代初頭までの10数年間に40ほどの記事が掲載されます。また、本としての著作は、Roderic Cannon、Andrew Wright の協力の下に著した "The MacArthur - MacGregor Manuscript of Piobaireachd(1820)" (2001)が代表作。

 … と言っても、それらの記事で参照される資料は(当時の読者にとっては)現地の図書館にでも出向かなければ到底目にする事が叶わない様な古い楽譜や文献ばか り。そして、内容も極めて学術的かつハイレベル。正直、全てが猫に小判状態でした。ですから、その頃は「やたらと小難しい論文を頻繁に書 いている人だな〜? きっと、どこかの大学のいかつい顔をした老教授様なんだろう。」と思っていました。

 今回この記事を目にして「そう言えば、上記の本がリリースされた後 は、"Piping Times" への投稿がピタリと止まったし、その後、新しい本のリリースの話も聞かないな〜? ピーブロック・ソサエティーでの講演にも登場しないし…。」と思い、現 代の魔法の杖で(ネット)検索してみました。

 そうした所、意外な事実が判明。
 名前からしてフランス系スコットランド人かな?と思っていたこの人、実は生粋のオランダ人でした。1942年生まれという事なのでこの記事を書いた当時はまだ43才。自 転車が趣味で世界各地を旅して周り、ツール・ド・フランスをこよなく愛するアクティブな人物だった様子。2000年代初頭で記事の執筆が途切れるのは、な んと2002年にオーストリアに於いて車のスリップ事故で死去。享年59才。上記の本は期せずして彼の遺作となっていたのです。
 ⇒ THE SCOTSMAN("Piping Times" 2002年11月号に掲載された追悼記事)

PT200211FransBuisman.jpg Frans Buismanある文化に関する研究を進めるために、まずはその言語を習得したとの事。インド、パキスタンの言語から始まって、ゲール語はもちろんの事、なんと中国語 や日本語も学んだ由。おそらく何らかの形で極東アジア〜日本文化研究にも頭を突っ込んでいたのでしょう。オランダ人は言語習得に飛び抜けた才能を持っている、という 話はよく聞きますが、正にその事を体現した人物の様です。

 追悼式に於ける参集者たちの様子からも伺う事ができますが、ピーブロックに関する古い資料を再考察するムーブメントの先駆け的存在だった彼の突然の死は、Barnaby Brown、Alan MacDonald、Roderick Cannon といった、この方面の同志たちにとっても甚大な喪失感をもたらした様です。言うなれば四天王の一角が崩れた…と。
 しかし、ある意味、その遺志を引き継ぎ、そして、J. David Hester という新しい四天王を補う人物を迎えた事が、ひいては 2013年の Alt Pibroch Club の創設や、最近の Piobaireachd Society 自体の変革に繋がった、と言えるのかもしれません。

 検索結果の一つとして、ケルト関係の資料のデータベースサイトに Frans Buisman の著作一覧が有りました。⇒ CODECS: Online Database and e-Resources for Celtic Studies

 その中の Secondry sources に、Roderick Cannon による "Tribute - Frans Buisman" という文献が有ります。これは Cannon が "Piping Times" 2003年3月号に投稿した追悼文。当時はそもそも私が Frans Buisman の重要さを十分に認識できていなかった事もあり、彼が亡くなった事実も、この追悼文にも全く気がつきませんでした。
 ここでは、Frans Buisman の人となりだけでなく、(外国人であるにも関わらず)ピーブロックというスコットランド文化の粋に対して彼の成し遂げた様々な貢献について丁寧に紹介されています。今回初めて目を通してみて、この人が現代ピーブロック解釈に残した功績の大きさを深く認識しました。
 Cannon
は冒頭でまず次の様に書いています。

 "It was not until 1985 that Frans began that series of writing that have done so much to enlarge our understanding of piobaireachd, but he had been studying the subject for at least fifteen years before then."

 そうか、そもそもはこの人のこの記事が嚆矢だったとは…。そして、デビュー論文までには、十数年に及ぶ研究の蓄積が有ったとの事。
 
Frans Buisman は自分の演奏能力については常に寡黙だったそうですが、その実、ある時点では(古の)ピーブロック演奏に適したハイランド・パイプを実際に製作していたとの事。あの Barnaby Brown と深く通じる所が有ったのは推して知るべしです。Barnaby Brown が復元を手がけた Highland Pipe

 彼は科学者として極めて優れた才能の持ち主だった。彼はこれまで誰も疑問に感じなかった事柄について適正な疑問ーその方面の新たな探求の道が切り開かれる様な疑問ーを投げかける能力を備えていた。その様な彼のピーブロックに関する貢献の一つがカンタラックの研究にある。」そして、"He was one of those who realised that the famous Campbell Canntaireachd is not simply an attempt to write down what the old pipers sang:  it is a precise music notation invented on the basis of the traditional chant." 
 
 …と書いてありますが、正直に言って
"old pipers sang" と "traditional chant" の違いなど、そもそもの英文の意味が私の理解を超えています。今後の記事を紹介する中で、少しづつ理解できていくかどうか? 
 讃辞はさらに続きます。

 「彼のピーブロックに於ける主たる研究対象の一つはカンタラックだった。文字で書かれた記号の研究に彼のゲール語発声学の知識(ネイティブじゃないんですよ!)を当てはめる事に よって、これまで朧げだったカンタラックについて多くの事が明らかになった。また、その手法をさらに進める事によって、MacKay や MacCrimmon/Gesto といった他のカンタラックについての理解も大きく進歩した。

  「彼の功績の深さと幅広さを短い言葉で評価することは到底不可能だ。さらに難しいのは、実際の演奏に際して最も影響を与えた彼の研究成果はどれか?という事だ。 彼は、一旦は失われてしまったその知識を復元する事によって、現代のパイピングをより豊かにする手法についてを研究対象として注力し続けていた。
 彼の最も長く続いた探求の対象はいわゆる "gracenote" と呼ばれるものである。彼はそれらを "pseudo notes" "reflexive shakes" "introductions" の3つに分類した。
 "pseudo(見せかけの)notes" はごく短く実際の音の長さにカウントされない装飾音。high-G gracenote などがこれに当たる。"reflexive shakes" はメロディーノートの反復で、短いけど短すぎない装飾音。"introductions" はメロディーノートになだれ込んでその音を強調するための装飾音。
 Frans はピーブロックの演奏に於いて昔は "reflexive shakes" が極めて重要だったが、現代ではそれは失われてしまっている事を明らかにした。"introductions" は現代でも使われているが、そられも今では利用の幅が狭まり、いわゆる "cadence E" などごく限られたものだけになっている。これらについて、彼の最新かつ偉大な業績である "The MacArther-MacGregor manuscript" の中で詳しく読む事が出来る。

  ↑で紹介した、この後 "Piping Times" に掲載された記事のタイトルを眺めると、確かにこれらの内容に関連していると思わしきタイトルが並んでいます。今後の記事をきちんと消化しなくてはなりません。また、10数年前に購入して以来、最初に 目を通しただけで放ったらかしになっている "The MacArther - MacGregor manuscript of Piobaireachd(1820)" についても、改めて気合いを入れて目を通す必要がありそうです。

 一方で Cannon は次の様にも書いています。
 「Frans の親しい友人たちは『彼の論文表現は常に読み易い』とは言わないだろう。彼の記事を読み解くためには、彼がその記事を書くために投入したと同等のその件に対する真剣さが必要とされる。
 正にその通りだと思います。これからの10数年間に沢山登場する彼の記事について、果たして私自身がどの程度消化可能で、皆さんに紹介できるか? 今から戦々恐々としています。
 念のため付け加えておきますが、論文表現の難しさと(Frank Richardson の様に)文章の言い回し自体が難解なのとは違います。この人の場合、英文自体はどちらかと言うと読み易い方だと思います。


 今回のデビュー作も Cannon の言葉を借りるまでもなく極めて高度に専門的です。要約して言うと、ナショナル・ライブラリーに寄贈されている、作者不明のあるマニュスクリプトについて、同時代の各種出版物やマニュスクリプトとの比較考察と言ったところ。
 このマニュスクリプトが書かれたのは1811〜1819年の間と思われるということで、Donald MacDonald's Book の記載との比較に重点が置かれています。このマニュスクリプトに収録されているのはたった10曲なのですが、各曲について数ヶ所づつ、まるで重箱の隅を 突っつくが如く、音符一音一音の差異を取り上げ考察されています。

 …ので、デビュー作からあえなく沈没。私ごときの理解力では詳しい内容は到底紹介できません。今月は Part1 ということですが、来月の Part2で目ぼしい内容が出てきたら、その時はまた…。(⇒Part 2


 熱心なピーブロック愛好家なら、目次の P37 Who were the MacCrimmons ? というタイトルにもピピッと来るのではないでしょうか? ところが、これは別の意味でまるで肩透かしモノの僅か5行の文章でした。

 内容は、この年の Lonach Gathering のプログラム冊子に掲載されていた「バグパイプの音楽」という記事の中で「マクリモン一族はマクレガー一族の末裔で…」と書かれた箇所について Seumas MacNeill が "Is that the mystery solved.?" と皮肉たっぷりに噛み付いただけでした。

 原文には著者の実名入り。シェーマスとしてはそういったデタラメな記述については、コテンパンにやっつけないと気が済まないのでしょう。

 

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