30年前の“Piping Times”《1986年》

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1986年1月号

January/1986

Vol. 38/No.4

 1985年11月号 "The Flowers O' the Forest" の作詞・作曲者を教えて欲しい、という読者からの問い合わせに、回答を呼び掛けた記事が有りました。
 早速、P6 Morning Mail 冒頭の2ページ半に渡って、3人の読者からの丁寧な解説が掲載されています。

 3人の回答を総合した中身は、 Wikipedia の "The Flowers O' the Forest" の項に記載されている内容とほぼ同じ。…なので、あえて紹介はいたしませんが、当時としてはこのような情報は、何よりも有難く感じたものでした。


 この3通の投稿に続いて、当時の "Piping Times" の常連執筆者であるカルフォルニア在住の David Kennedy さんからの興味深い内容の投稿がありました。それは、1985年3月号の "To B or not to B" をフォローする内容です。

 曰く、19世紀初期の各種楽譜集の内、Angus MacKay、Donald MacPhee、Angus MacArthur の楽譜集については、どれも D-Crunluath は B-gracenote を使うよう表記されているが、Donald MacDonald の楽譜集については、Crunluath、Taorluath 共に、B-gracenote と D-gracenote 両方の表記が見られる、とのことです。

 大変興味深い情報です。

 早速、Donald MacDonald の楽譜集をめくって見ました。当時の楽譜は、繰り返しも含めて全ての音符が省略されずに延々と表記されているので、それらをチェックする訳です。
 ところが、Vol.1、Vol.2 全部の曲をざっと見渡したところでは、残念ながら D-gracenote で表記されている例は見つけられませんでした。それぞれの曲の Crunluath を一つ見て B-grecenote だったら次の曲に行ったのですが、もしかして一曲の中で表記が入り混じっているのでしょうか? もうちょっと時間を掛けたチェックが必要なようです。

 これらの楽譜は現在では Piobaireachd SocietyCeol SeanPipetuneAlt Pibroch Club の各サイトで誰でも閲覧可能です。時間が有ったらどうぞ確認してみて下さい。
 ちなみに、この当時の楽譜では、Taorluath も Crunluath も下記(Donald MacPhee の楽譜から引用)の様に、いわゆる "Redundant A"(不必要なA) が入った表記になっているので戸惑わない様に…。

 "Redundat A" については、PipingPress のこのぺージ※1とこのページ※2に関連記事があります。ページ※1に挿入されている音源 "Classics From The College Volume 1 - P/M Robert Reid" のトラック7 "The 'Redundant A': Talk And Demonstration On Practice Chanter" の前半部分。
 Robert Reid がプラクティス・チャンターで "Redundat A" 付きの Taorluath と Crunluath を、スロー・スピードと通常の演奏スピードとの両方でデモンストレーションしています。非常に貴重な音源です。上の楽譜を見ながら聴いてみて下さい。

→関連記事


 P20 Glencoe - A Plot ageinst the Campbells は言うまでもなく、The Massacre of Glencoe( Glencoe の虐殺) に関する話。
 スコットランド史上最も良く知られた史実の一つであるこの出来事については、Wikipedia の「背景〜経緯〜虐殺事件」の各項に書かれているのがごく一般的に流布しているストーリー。
 しかし、(MacDonalds ではなく)「Campbells に対する陰謀」と題されたこの記事ではちょっと違った視点からの解釈が示されています。
 筆者はもう一人の "Piping Times" 常連執筆者 Jeannie Campbell 女史。彼女はハイランド・パイプ文化研究に対する長年の貢献が認められ 2015年にMBE勲章を授与されました。
 なお、 "Massacre of Glencoe" はこの年(1986年)のPiobaireachd Society セットチューンとのこと。


 客人とし て Glencoe に滞在した Campbell が、その後ホストたる MacDonald の民を如何にして虐殺したか、という事については誰もが聞いた事があるはずだ。現在でもそれが一般的な見解ではある。しかし、この出来事から300年を経 過して幾つかの非難されるべき点はウィリアム王(King William)と、虐殺の首謀者たるステア伯爵(Master of Stair)にあると言われるようになってきた。そもそも、実際に虐殺に手を下したのは Campbell の者ではなく、英国軍(British Army)のアーガイル連隊(Argyll's regiment)だったことが分かっている。

 当時の事実を詳細に見つめてみると幾つかの疑問点が浮かび上がってくる。
・虐殺(皆殺し)という観点から見ると、400人以上のクランメンバーの内僅か38人しか殺すことが出来なかったこの企ては「失敗」と見なすべきである。
ウィリアム王の意図がこの小さなクランを本気で壊滅させる事であったのならば、何故イギリスやオランダの軍隊(English or Dutch soldiers)を投入しなかったのか? 彼は戦いの経験も豊富であり、このような作戦にどう対処すべきかはよく分かっていたはずだ。
・兵士の一団は何故虐殺の2週間も前に Glencoe に駐屯したのか?
・MacDonald の兵士は何故反撃しなかったのか?
・死傷者の内、実は兵士の数はごく僅かだった。
・政敵から格好の攻撃の種となり、彼の政治的立場を危うくするのが明白だったにも拘らず、ウィリアム王は何故この虐殺を命じたのか?

 ウィリアム王は愚か者ではない。極めて頭の切れる悪賢い政治家である。事実を別の角度から見直してみると、兵士たちは巧妙に仕掛けられた罠に嵌められた、という事が見えてくる。

・虐殺の実行者としてアーガイル連隊が選ばれたのは、よく考えられた上での事だ。アーガイル連隊のスコットランド兵は消耗品であるとともに、厳然として英国軍の兵士(British Soldiers)でもある。
・アーガイル連隊は Clan Campbell とは緊密な繋がりがある。両クラン間の敵対意識がその場の緊張感を必然的に高める事が想定される。
・Campbell の将校、Robert Campbell of Glenlyon は虐殺の指揮官として最適任者である。何故なら、彼は Clan MacDonald のチーフの息子の妻の叔父であり、本来なら親族の一員として扱われるべき立場にあったにも拘らず、Clan MacDonald の襲撃により領地を追われ、59才になって軍人のキャリアを選ばざるを得なかったからという経歴を持っていたからである。
・酒飲みでギャンブラーでもあった彼は、生かして於いても軍人としては使い物にならなかったが、死んだ場合には絶好の殉教者扱いができるという意味で、極めて好都合な存在だった。

・アーガイル連隊の兵士たちはプロテスタント&長老派、一方 Clan MacDonald はカソリック&ジャコバイトである。両者を一つ屋根の下で真冬の人口過密な状況下に置く事は、トラブルの発生を保証したようなものだ。

 虐殺の実行日も重要な意味を持っていた。
・それは、ウィリアム王の就任宣言から3周年目の日であり、Clan MacDonald を何らかの行動に駆り立てる可能性があった。

 それぞれに宛てた命令書で指示された時刻も興味深い。
Robert Campbell が 2月12日夕刻に受け取った命令書には翌朝5時きっかりに Clan MacDonald の虐殺を開始するように書かれていた。
・彼は上司の Major Duncanson と共に強力な援軍がその時間か、遅くとも直後に駆けつけると伝えられていた。
・しかし、それと同時に「味方の到着を待つ事なく必ず5時に実行すべし」という事も言い添えられていた。
・ところが、その一方で Major Duncanson と彼の部隊には7時までにそれぞれの持ち場に着くように命令されていた。
・その結果、Robert Campbell と仲間たちは4倍の人数を相手にして、その2時間を闘い抜かなければならなかった。

 Campbells の最初の襲撃によってクランのチーフ MacIain を倒された MacDonalds は、Robert Campbell を討ちとって仇を打つべしと考えるはずである。
 勇猛な闘士として知られる Clan MacDonald の兵士たちにとって、勝手知ったる暗闇のホームグラウンドという状況下は「Campbell の兵士たちを」虐殺するための完璧なコンディションであったはずだ。(それにも拘らず、何故そうしなかったのか?)

 この出来事が全てウィリアム王の企て通りに推移したと仮定してみよう。
・Fort Williams は過密だった(という理由)で2中隊(2 companies of soldiers)の兵士たちが Glencoe に駐屯する。
・2週間後、(想定された通りの)トラブルをきっかけに争いが始まる。
・兵士たちはホストたる MacDonald に虐殺されるが、同時に MacDonald も多く殺害される。
Major Duncanson が2時間後に到着。MacDonald たちを成敗する。
・谷から逃走を図った殺人者(MacDonalds)たちは、逃げ道に待ち構えていた Major Duncanson の兵士たちに捉えられ殺害される。
・罪の無い英国軍の兵士(innocent British soldiers)たちが、野蛮なハイランダー(Highland Barbarians)に殺されたということを知った大衆は激怒する。
ウィリアム王は寛大にも許しを与えることによって、彼が望んだ通り人民からの支持を勝ち得る。
・翌年春〜夏にはハイランドの平定が完了、ジャコバイト反乱の脅威は無くなる。

 しかし、実際には物事は計画通りには進まなかった。
・驚くべき事に、駐屯した兵士たちとホストの MacDonald たちは、昼はスポーツその他の野外活動、夜はケイリーやカードゲームを共に楽しむなど、日々仲良く過ごした。
・ MacDonald を虐殺するよう命令が下った時、兵士たちはその命令の遂行に対して気が進まなかった。
・そして、多くの MacDonald に対して、身の危険が迫っていることが警告された。
・MacDonald チーフの息子 John は何かが企まれていることを察し、生き延びる唯一の方法は、敵の兵士たちによって封鎖されている通常のルートではなく、冬場に越すことは不可能と思われている極めて危険なルートを通って、安全な Appin を目指して部下たちと共に逃げることだと悟った。

  MacDonald が滞在中の兵士たちを虐殺したとしても責められるべき理由が無くなってしまったので、他の理由を考える必要が生じた。そこで「MaDonald は宣誓書に署名するのが遅れた」という、いささか説得力に欠ける理由がこじつけられた。
 ウィリアム王は同時にその罪を Campbell になすりつけるよう巧妙に仕組んだ。

 虐殺の命令にウィリアム王Master of Stair と共に署名した John Campbell Earl of Breadalbane は、その後、この虐殺に関わった罪で逮捕され死に掛けたが、ウィリアム王の命により数ヶ月後に釈放された。
 ブレダルベーンの連隊は1715年蜂起The Battle of Sheriffmuir に於いてジャコバイトとして戦った。その時80才になっていた伯爵は軍を率いる事はできず、程なく死去した。

 Robert Campbell は債務を負った貧乏人のまま1696年にベルギーのブルージュで死去。
 息子の John Campbell of Glenlyon は The Battle of Sheriffmuir に於いて 500人のブレダルベーン連隊を率いて、Clan MacDonald と共にジャコバイトとして戦った。
 John の息子 Archie Campbell of Glenlyon 1745年蜂起で自身の連隊を率いてジャコバイトとして戦った。

 Robert Campbell Major Duncanson から受け取った命令書(↑)は当初は Glenlyon家に、そしてその後は Breadalbane家に伝えられ、「Robert Campbel は命令に従っただけである」という証拠として大切に保管されている。

 もしも、この出来事が当初のウィリアム王の当初の企て通りに完結していたとしたら、Clan MacDonald は「ゲストを虐殺したクラン」として歴史に汚名が記されていた事であろう。


 以上がこの記事の全容です。自身が Campbell の名を名乗っている Jeannie Campbell 女史としても、Campbell 一族が長年に渡って汚名を着せられてきた事は耐え難かった、という一面も決して否定できないでしょう。

 確かに Wikipedia の「事件の影響」の項ではウィリアム王の謀略とその失敗による体制の動揺についても触れられています。しかし、Clan MacDonald と Clan Campbell が1715年と1745年の両方の蜂起に於いて、ジャコバイト陣営として共に闘ったという事実はこの記事で初めて認識しました

 歴史というのは深く掘り起こす事によって、こうも見事に通説とは違った姿が見えてくるものなのですね。3ページ半のコンパクトな記事ですが、示唆に富んだ大変興味深い内容でした。


 P23 Henry Starck - Bagpipemaker の記事に入る前に、まずは前項の著者 Jeannie Campbell 女史の代表作である Highland Bagpipe Makers(2nd edition/2011/P142〜149)を参照して、このバグパイプメイカーの概要を説明します。


 20世紀後半〜21世紀に掛けて「工房の場所と作者」共に非スコットランドながら、最高峰の名声を勝ち得ているパイプメイカーといえば、言うまでもなく David Nail & Co. と言えるでしょう。このメイカーの主 Leslie Cowell が1976年に自らの工房を興す前、1946〜1955年に丁稚奉公してパイプメイキングの技術を習得したのが、ロンドンに工房を構えていた Henry Starck です。

 1889年から1962年まで、親子孫3世代に渡って続いたこのパイプメイカーも、そもそもは18世紀にドイツからイングランドに移住してきた、楽器製作を生業とする Starck Family の末裔。
 1712年にイギリスに移住してロンドンに居を構えていた作曲家ヘンデルが、自分の求めるフルートがイギリスでは手に入らなかった際、本国ドイツに求めた入手先が Starck Family だったとのことです。

 Starck の名が初めてロンドンの職業人名簿に掲載されたのは1812年版で、当時はフルート・メイカーとしてでした。途中、時計製造業や食糧取扱業として掲載されたこともありますが、ほぼ一貫して楽器製造業として名簿に記載。1889年以降は Henry Starck 表紙写真)の名で Musical Instrument Maker として掲載されています。

 1880年代のある時、当時ビクトリア女王のお抱えパイパーであると同時にバグパイプ・メイキングビジネスを営んでいた William Ross(1854〜1891、※資料1※資料2P/M William Ross, MBE 1878〜1966とは別人)は、ドイツ仕込みの優れたウッドターナーの技術を持ちフルート・メイカーの看板を掲げていた Henry Starck に目を付け、粘り強い説得の末自らのバグパイプ・メイキングビジネスに引き入れました。(Henry Starck はそれまでバグパイプ製作は手掛けていません。)
 そして、女王お抱えのパイパーと優れたターナーがタッグを組んだ末に生まれたバグパイプは瞬く間に高い評価を獲得します。

 William Ross は1891年に亡くなりますが、Henry Starck はその後もパイプメイキングのビジネスを続けます。後には息子(Albert Henry)と孫(Henry Albert)も引き入れながら優れたパイプを作り続け、パイプメイカー Henry Starck の名は確固たるものとなりました。
 初代 Henry は読み書きが出来なかったのですが、その高い名声故に、妻に教わった自分のサインだけで、象牙業者から£1,000(当時の価値はいかほど?)の象牙を購入することが出来たそうです。
 Starck 家は "English workmen could outdo the Scots at making thire national instrument." を誇りとしていた由。弟子 Leslie Cowell が興した David Nail & Co. の現在の姿と見事に重なります。(この号のPRページで謳われている1986年の成績も見事です。)

 Henry Starck は通常のハイランド・パイプの他に、1900年代初頭にはアイルランド人 William O'Duane と共同して、チャンターにキーを備えてより広音域かつクロマチック・スケールが演奏可能な新しいバグパイプを開発し特許を取得。その仕組みを備えたパイプに古のアイルランド王の名を冠した Brian Boru Bagpipes、あるは、William O'Duane の居住地の地名を取った Dunc(g)annon Pipes といった名称を付けて製品化していました。
 Brian Boru Bagpipes の特許期間(20年)はとっくに過ぎているので、Henry Starck の工房が閉じられた後もレプリカを作るメイカーが存在しているようです。現在でもアイルランドなどで愛好者が多いようで、Youtube には実際の演奏風景がアップされています。
 Highland Bagpipe Makers
には1908年のパテント取得の際の仕様明細(キーの仕組みや運指による音階の出し方について詳細に解説されている)が記載されています。私の理解力は完全に超えていますが、興味のある方はぜひお目通し下さい。


 さて、ここでやっとこの号の記事の紹介を…。
 この記事は主に全部で3台作られたという Duncannon Pipes について、特にその行方についてかなり具体的に記述されています。
 この Duncannon Pipes はローランド・パイプスなどと同様に、カモン・ストックにそれぞれ音程の異なる3本のドローンを備えていました。そして、チャンターには10個のキーが備 わっていたとのこと。(→この記事に挿入されていた当時の広告画を参照の事)

 「その内1台の行方は、Surry州 Aldershots の "Potters of Potters Corner" というところ(バグパイプのディストリビューター?)で、この店の『資料館にはオリジナルの Brian Boru Bagpipes も有る。』と店主は言っているが筆者はまだ訪ねたことはない。」と書かれています。

 「2台目は友人がロンドンの露店で£400で購入したものを譲り受けたあるドイツ人が所有。そのドイツ人はその楽器で街頭演奏をしている。筆者はドイツには度々行っているが、未だ彼に遭遇したことがない。」と書かれています。

 筆者は2代目の Henry Starck が作成した「78回転のレコード盤を 持っているが、その音源が Duncannon Pipes なのか、Brian Boru Pipes なのかは分からない。(Brian Boru Pipes については?)北アイルランドに未だ沢山存在するようだ。何故なら、つい最近、現地で私は4本のチャンターを売りさばいたからだ。」と書かれています。

 筆者は「2 Regents Park Road にある Museum Sharpes というプライベート・ミュージアムに何かがある、と聞いているがまだ訪ねた事が無い。そもそもこれがロンドンなのかグロースターなのかが分からない。知り たければ両方を訪ねてみる必要がある。」と書かれています。

 「代々の Starck は皆パイパーでは無いが、 初代 Henry は手慰みにパイプを演奏することは有った。(前述の)レコードはそのようにして録音されたものである。」
 そして、改行の上「このレコードは我々のメンバーの一人である Mr Shone に貸し出し中である。」という極めて唐突な一文によってこのレポートは締めくくられます。


 何度読み返しても、この記事は不可解な点ばかり。
・経緯、地名、名前等についてはやたらと具体的に書かれているにも関わらず、結局はその場には行った事が無い、会ったことが無いというのが決まり文句。
・3台目のパイプについては触れられてないのは何故か?
・それは「自分が所有している」から触れるまでも無いという意味なのか?
・記事の何処にも筆者が「何処の誰で、商売人なのか?」という事にも一切触れられて無い中で「アイルランドでチャンターを4本売った。」と書いている意味は?
・最後の一文で前後の脈略もなく唐突に「我々のメンバー」と何らかの組織をほのめかし、さらに貸し出し中の「個人名」を書いているのは意味不明かつ不自然。

 不可解なだけでなくこの筆者の素性が「著しく怪しい」と思い始めたきっかけは、何度も読み返している内にピンと来た次の表記。

 "Museum Sharpes, 2 Regents Park Road."

 どっかで聞いたような住所だな?と閃いて、思いついたある組織のホームページを検索してみたら思った通りでした。
 そうです、ロンドンのこの住所は紛れもなく "English Folk Dance and Song Society"(EFDSSの本拠地の住所です。そして、そこにある建物はイギリスのフォーク・リバイバルの父と言われるセシル・シャープ(Cecil Sharp)を名を冠して Cecil Sharp House と名付けられています("Sharpes" では無い)。

 ミュージアムは無かったと思いますが、イギリスの作曲家ヴォーン・ウィリアムスの名を冠した Vaughn Williams Memorial Library という非常に充実したライブラリーがあり、バグパイプに冠する図書も数多くコレクション。当然、ハイランド・パイプに関するものが多数を占めています。(ライブラリーのコレクション検索で確認可)

 My Roots Music のコーナーに書いているように、セシル・シャープの尽力により復興した、ブリティッシュ・トラッドからこの世界に足を踏み入れた私にとっては、セシル・ シャープハウスは正にキリスト教徒にとってのバチカン、イスラム教徒にとってのメッカにも等しい場所。1977年のイギリス旅行の際には訪問必須の場所で した。
 ですからその時、大英博物館至近のB&Bに宿をとったにも関わらずその大英博物館も、ロンドン塔も、バッキンガム宮殿も、およそ観光客が訪ねそうな場所には一切行かず、私は迷わず(?)セシル・シャープハウスに出向きました。
 ちなみにもう一つ必須の訪問場所はロンドン市内では数少ない、ブリティッシュ・トラッド関係のレコードを専門にコレクションしていることで知られていた Collet's というレコード・ショップ。ここは宿のすぐ近くだったのでロンドン滞在中幾度となく入り浸りました。

 実は住所でピンと来たというのにもそれなりの訳があります。

 グーグルマップがなかった当時、旅行ガイドにも載っていないようなマニアックな場所にたどり着く方法は、地図で該当地の道路を探してひたすら端か ら地番を追っかけて行くしかありません。幸い、欧米の住居表示は道路&地番ですから道路さえわかれば必ず該当地にたどり着くことができるのが良いところ。

 ロンドンの市街地図を広げ有名なリージェンツ・パークの周辺をざっと見回すと、西南側に隣接して幅広い "Park rd." が直ぐに見つかりました。具合い良くシャーロック・ホームズで有名なベイカー・ストリートの名を冠した地下鉄 Baker St. 駅が、ちょうどこの道路の一端に位置している様子。早速、現地に出向いて地番を当たって行きます。しかし、2番地にはそれらしい建物は有りません。まあ、 なんかの勘違いかなと思いつつ、道路をもう一方の端まで行って戻りましたが、やはりそれらしい建物はどこにも見当たらず、仕方なく一旦宿に戻りました。
 宿で落ち着いてもう一度地図を広げて見直してみると、有りました有りました公園の北側に隣接して今度こそ文字通りの "Regents Park rd." が。つまり、単なる早とちり。地下鉄 Camden Town 駅が至近のその道路に再チャレンジして無事現地に到着できたという顛末。
 そんなかんなで、この住所は苦い思い出とともにきっちりと脳ミソに刻まれていた訳です。

 ちなみに、ようやくたどり着いたセシル・シャープハウスでは早速 EFDSSの会員登録をし、暫くの間は会報などを受け取っていました。しかし、その後ますますスコットランドの音楽にディープに嵌って行くに従い、イング ランドの音楽を深く追求する余裕が無くなり、会員登録の更新は止めて久しいといった所です。

 さて、兎にも角にもこの記事の筆者は人づてに「2 Regents Park Road の Sharp's Museum には Braian Boru Pipes に関する何らかの資料が有る。」という情報を伝え聞いたのでは無いでしょうか?
 ハイランド・パイプも英国の民俗音楽の端くれ。いくらスコットランド特有の楽器とは言え、このパイプの愛好家がイギリス人だとしたら、セシル・シャープハウスの事を知らず、こんなトンチンカンな書き方をするのはどう考えても怪しすぎます。
 ライターの Aile'an Nicholson というのは明らかに Alien Nicholson に掛けたペンネーム。一体この人誰なのでしょう? もしかしたら、完璧なフェイク記事? そうだとしたら表紙写真まで使ってやけに手が込んでいますが…。シェーマスの意図は如何に?

 以前にも、1979年4月号にはこんなジョーク記事が載ったことがあるので、もしかしたら…。


 P30 An Anonymous Manuscript and its Position in the History of Piobaireachd Playing (Part2)は連載の後半。やはり、到底ついては行ける内容ではありません。高度すぎて紹介不能。完璧なまでに撃沈されました。

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1986年2月号

February/1986

Vol. 38/No.5

PT8602contents 毎号の様にピーブロックネタが有って、読み応え十分なこの当時の "Piping Times" 。今月も2つの貴重な記事があります。


 P19 Piobroch of Donald Dubh はつまりは Piobaireachd Society Book Vol.3 P87、Kilberry Book No.92(P99)の "Black Donald's March" の事。
 どちらのタイトルもゲール語表記では "Piobaireachd Dhomnuill Duibh" となっています。
 シンプルな構成で取り組み易く初心者にお薦め故、ピーブロック教則本には必ず登場するこの曲、確かにピーブロックの歴史上ごく初期の作品だという事を思わせます。15世紀の出来事に由来するというこの曲の背景は…。

 この記事の著者 Frank Richardson の文章は Seumas MacNeill のそれに比べてリーダー・アンフレンドリーで難解極まりない事は、以前 "PIOBAIREACHD and its Interpretaion" by Seumas MacNeill and Frank Richardson (John Donald Pub./1987) を読んだ際に痛感させられています。正直なところ Frank Richardson が書いた本の後半部分は何が書いてあるか殆ど理解でませんでした。

 この記事もそれなりのスコットランド史の知識が有る事を大前提として書かれている上に、文学作品でも無いのに必要以上に気取った言い回しが曲者。 また、説明無く唐突に登場する人物も多数。登場人物の呼称(や省略の仕方)も一定していないので、それが「名」なのか「姓」なのか、先に登場した人物と同 一なのか異なのかも直ぐには理解し難い事が度々。その度 Wikipedia の助けを借りながら、あれこれ推察を重ねつつ読解。僅か3ページ強にも拘らず悪戦苦闘させられました。ここでは、読み進め易い様に分かる範囲で囲みや(かっこ) 内に肩書き、クラン名、注釈、疑問、苦情等を加筆してあります。


 Donuil Dubh とは Donald Cameron of Lochiel の事。彼は(Clan Donald のチーフで)2代目 Lord of the Isles である Donald(of Islay)の血縁者である。※1

※ 1 原文は "Donuil Dubh was Donald Cameron of Lochiel, a kinsman of Donald, second Lord of the Isles."  この一文を解釈するのに Wikipedia に頼りつつ数日悩みました。ある時、最初の Donald と後の Donald は別人を示しているということに気が付き、ようやく読解。読解できた後になっても「こんな書き方は無いでしょ!」と悪態をつきたくなります。
 それはともかくとして、このストーリーの要となるのはここに登場する Donald of Islay とその息子の Alexander of Islay という2&3代目 Lord of the Isles 父子です。最初に Wikipedia の Lord of the Isles の項に目を通しておけば、以下のストーリーを理解し易くなります。

 1411年、Donald(of Islay)Ross の伯爵位(Earldom of Ross)を求めて主張を強め(活動を強化す)る。Donuil Dubh Donald(of Islay)のこの活動を支援したが、最終的にこの企ては部分的にしか成功しなかった。Donald(of Islay)はスカイ島の広大な地域、インバネスシャーマレー(Moray)の領地を手中にしたが、伯爵位を得る事は叶わなかったのだ。

 このキャンペーンはアバディーンシャーの Inverurie に於いて、Earl of Mar(,Alexander Stewart)に率いられたジェームズ王(King James 1/1394〜1437)の軍勢との間で闘われた、激しく、かつ、勝敗が明確で無い Battle of Harlaw(1411※2)で終結する。この時、国王はごく若年(ロンドン塔に幽閉中?)だったので、叔父に当たる Duke of Albany(,Robert Stewart)が摂政として実権を握っていた。

※2 スコットランド史上最も血生臭く熾烈な戦いの一つと言われているこの戦いについては、余りにも情報が多く克明に記載されているので、いつもの様にいきなり Wikipedia のこの項に目を通すのは避けましょう。まずは要約されている※資料3※資料4などで概要を掴んでから、落ち着いて Wikipedia の解説にお目通し下さい。そうすれば、15世紀スコットランドのクラン同士の熾烈な陣取り合戦の世界にどっぷりと浸かる事が出来ます。
 さらに、この戦いに由来した歌やバラッドなどが数多く伝承されているので、それらについてGoogle 検索でヒットした資料や動画などを丹念にたどっていけば、優に1ヶ月間は楽しめるでしょう。

Harlaw1411 そして、中世スコットランドのめくるめく世界にすっかり魅了されてしまった方にお薦めなのは、アメリカ人フィドラー Bonnie Rideout がこの戦いの600周年!に合わせて 2011年にリリースした2枚組CD "HARLAW-Scotland 1411" です。1枚目が音楽、2枚目がストーリーのナレーション、ブックレット付きという入魂の逸品。これだけで数年間は楽しめます。
 この戦いに由来するものとして、この曲以外にも、"War or Peace" "Lament for Red Hector of the Battles" などが収められています。前者では Bonnie Rideout お得意のフィドル・ピーブロックや Allan MacDonald によるガーリック・シンギングも聴けます。また、"Desperate Battle of the Birds" Barnaby Brown の Triple Pipes と Rideout の Violin で奏でるという極めて珍しい音源も…。そして、音楽盤だけでなくナレーション盤も聴きモノ。流して聴いているだけで、あっと言う間に 600年前の現地にタイムスリップ出来てしまいます。
 長年ブリティッシュ・トラッドを聴いて来ましたが、これまで出会ったコンセプト・アルバムの中で最高に味わい深い作品。ピーブロックの音源を聴く以外、アルバムを通して聴くなんてことから極めて縁遠くなっている私にとっては、非常にレアな例外です。

※ 写真からジャケット&ブックレットの PDFファイルにリンクしています。(CDサイズだと文字が小さすぎるので、スキャン・ファイルを拡大して読むのがローガン者の常套手段。)

 Donald(of Islay)は1423年に死去。3代目 Lord of the Isle の地位は長男 Alexander(of Islay, Alexander MacDonald)に引き継がれる。
 ジェームズ王は1424年には(幽閉から解放され、戴冠式も済ませて)摂政たる叔父の影響下から脱し、物事を自ら決断する様になっていた。1424年と1427年にインバネスに於いて議会が開催された。Alexander は明らかに国王のお気に入りとなり、Master of Ross(Master = the title of the heir apparent of a Scottish viscount or baron)の称号を与えられたが、またしても Earl の称号では無かった!

 その一方、ジェームズ王は Alexander に対する友好的な態度の裏側で、John Mor of Kintyre (説明無く唐突に登場。誰?)をそそのかし、 Alexander と対立するよう画策した。John Mor は彼の甥(原文には2人の親戚関係について何の説明も無いが、実は John Mor of Kintyre Donald of Islay の弟)と対立することを拒否。国王の遣いの James Campbell (またしても説明無く唐突に登場。誰?)に殺害された。
 1427年の議会に於いて、ジェームズ王は招集された多くのチーフたちを捕え、処刑する機会を得た(意味不明?)。Alexander と彼の母親(今度はいきなり母親が登場/でも、これには深い意味がある※5)は捕えられ投獄された(理由は?)が、後日には釈放(後日っていつ頃? 何故?)。James Campbell は、「(殺害は)国王の指示に従っただけ」という訴えにも拘らず、John Mor 殺害の罪で処刑された。

※5 Wikipedia を読んで知ったのですが、貴族の爵位は男子後継者が不在の場合には、女子の長子に継承されます。
 Battle of Harlaw の Claims on the Earldom of Ross の項に詳しく記述されていますが、1372年に William, Earl of Ross が死去した際、嫡子は2人の姉妹だけでした。そこで、Ross のEarldam(伯爵位)は長女の Euphemia に引き継がれ、彼女は Euphemia, Countress(伯爵夫人)of Ross となりました。
 Euphemia は最初の夫との間に Alexander Mariota という男女の子をもうけます。そして、1394年に Euphemia の死去に伴い爵位は長男が継承し Alexander, Earl of Ross となります。(後日、Earl of Ross となる Alexander of Islay, MacDonald と混同しないように…。)
 スコットランド全土での影響力増大を図っていた国王の摂政 Robert Stewart, Duke of Albany は1938年頃 Alexander に娘を嫁がせます。そして、二人に女の子が生まれて間もない1402年に Alexander が早々と死去。祖母と同じ名を授かったその跡継ぎ Euphemia が伯爵位を継承することになりますが、その子がまだ幼いという理由から Duke of Albany は後見人として実質的に Ross を支配します。
 一方、Donald of Islay は Ross を支配し伯爵位を得たいがために、 Euphemia の叔母に当たる Mariota と結婚。Mariota こそ Countress of Ross の正統的な継承者だと主張します。
 そして、この2者の対立が、Harlaw に於いて血で血を洗う両陣営の争いとなったという訳。
 Alexander of Islay の母親たる Mariota は Battle of Harlaw の後も Ross の伯爵位、つまり支配権の行方の要となる重要人物だったのです。ちなみに、彼女はその後正式に Mariota, Countress of Ross と認められます。そして、それを継承したのが、Alexander of Islay, MacDonald

 ちなみに、英国貴族の爵位の序列は、Duke(公爵)→ Marquis /Marquess(侯爵)→ Earl(伯爵)→ Viscount(子爵)→ Baron(男爵)との事。

 Alexander(of Islay)は自身の釈放を受けて、Clan Chattan(単独クランでは無く連合体を意味する?/Wikipedia を参照)をジェームズ王の討伐遠征に動員(唐突な展開で意味不明?)。彼(Alexander)の父(Donald of Islay)が率いた Harlaw への遠征にも参加した Donuil Dubh(Donald Cameron)はこの侵略に再び(自らの?)Clan Cameron を動員した。
 Lord of the Isles(つまり Alexander の事/紛らわしいからいちいち呼び方を変えるな〜!)はなんとかインバネスまで至った所で、強力な国王の軍隊の前に撤退せざるを得なくなる。最終的に彼らは Battle of Lochaber(1429年)に於いて国王の軍隊に撃破された。

 そこで Donuil Dubh(Donald Cameron)は 「生き残るためには寝返るしか無い」と判断し、国王の側に付く事を宣言。不安定ではあるが長年続いてきた Clan Cameron と Clan Chattan の同盟関係は決裂し、領土紛争が顕在化。1430年に Clan Cameron は(Clan Chattan の?)熾烈な攻撃を受けた。

 ここに至り、Alexander(of Islay)は国王への許しを請う事を決断。国王の元に出向き頭を下げた彼と彼の母親は再び投獄された。
 Lochaber 地方は国王の強力な軍隊の管理下に置かれる事になった。おそらくこの行為に対する反発と共に、John Mor of Kintyre(, MacDonald)の殺害に対する復讐心からもあったのであろう、息子の Donald Balloch, MacDonald/今後は唐突に息子が登場/つまり Alexander の従兄弟)は Clan Donald を動員し(て国王の軍隊と敵対し)た。
 Donuil Dubh は1429年に彼を苦しめたジレンマに再び陥ったが、彼は再び国王の側に立つ事を決断した。※6
 そして、Battle of Inverlochy(1431年)に於いて(Donald Balloch に率いられた)Clan MacDonald が(国王の軍を打ち破って)Lochaber 地方を支配する様になった時、Lochiel(つまり Donuil Dubh の事/気取って呼び方を変えるな〜!)は、自分が負け組に入っている事を認識せざるを得なかった。

※ 6 原文は "Again he decided to side with the King(as did Clan Chattan, with thire Chief imprisoned in Tantallon Castle). " と括弧書き付きの一文。
Clan Chattan は一体いつから王の側に付いたのか? そうだとしたら2つのクランの対立は解消されたはずだが?
"thire Chief" は Clan Chattan の Chief を指しているのか? 
Wikipedia によると Alexander(of Islay, Chief of Clan Donald)が2度目に投獄されたのが Tantallon Castle との事。つまりこの "thire Chief" は Donuil Dubh が以前従っていた Alexander を指しているように思える。
もしかして単なる Chattan→Donald の書き間違い?


 以上が Frank Richardson によるこの曲の生まれた歴史的な背景描写です。全くもってこの人は読み手をバカに(見下)しているとしか思えません。読んでいて腹が立ちます。この文章は Wikipedia へのリンクを示した資料と割り切って、あれこれ参照しながら概要を掴んでいただければ幸いです。ちなみに、Donald of Islay Alexander of Islay の項を中心に他のリンク先の関連項目を拾い読めば↑でもったいぶって書いてある事柄(以上の内容)が全て、すっきりと整理されて書いてあります

 続いて、原文では具体的なこの歌&曲の伝承について以下のように書かれています。


 歌(Song)の "Piobaireachd Dhomhnuill Duibh" は South Uist の MacDonald を通じて伝承されている。Skye島と Barra島に別のバリエーション(歌)が伝わっている。
 この歌は、Battle of Inverlochy に於ける MacDonald の勝利を祝った歌だと伝えられる。確かに、戦いに負けた Cameron がこの様な歌を作る訳が無いはずだ。
 しかし、この歌のタイトルである "Dhomhnuill Duibh" という名は Battle of Harlaw と Battle of Inverlochy で戦った Donald Cameron of Lochiel の事をさしている。
 (もし、そうだとしたら)何故、Cameron は自らが敗北した戦いを記念した曲を大切にしてきたのだろうか? この歌は勇壮な曲であり、センチメンタルな感情を抱かせるラメントとは言えない。

 ピーブロックに関して言えば、1815年に Neil MacLeod of Gesto(のカンタラック集で)は、この曲を "Piobaireachd Dhomhnuill Duibh"(Piobaireachd Society book などの表記と微妙に異なりhが入る)あるいは "Camerons' Gathering" と名付けている。
  General Thomason、Angus MacKay's MS、Donald MacDonald の各楽譜には "Black Donald Balloch of the Isles' March" とされている。ピーブロック・ソサエティーは1920年の時点では "Black Donald Balloch of the Isles' March to Inverlochy" としている。


 実は、原文にはもう少し詳しくは書いてあるですが、例によって余り要領を得ない文章であるのと、上で名の出てきた19世紀の楽譜集については、現在では Piobaireachd SocietyCeol SeanPipetuneAlt Pibroch Club の各サイトで誰でもアクセス可能。こんな人が30年前に書いた解説を読むよりは、自分で確認した方がましです。興味のある方はご自身でお目通し下さい。

 また、ご存知のように、ハイランド・パイプの曲としてはこのピーブロックから派生した同名の Quick Step の曲があります。著者は最後の1ページ弱をその辺の話に触れていますが、それについてはこのサイトの守備範疇では無いので省略します。


※ 筆者についての訂正情報→1986年5月号


PT8602MP

 
 P30 The MacGregor Pipers of the Clann An Sgeulaiche はタイトル下の説明↑にあるように、1985年3月号と同じく Archibald Campbell of Kilberry による過去(1959年)の記事の再掲載。8ページを超す長編ですが、Frank Richardson のそれとは違って至って平易な文章なので、今回は真面目に取り組んでみました。基本的に()も原文通り。簡単な注釈は(注:)とし、込み入った説明は囲み内に追記してあります。


 Angus MacKay's Book に記載されている1781年以降の Highland Society's Competition の結果に関心を持った人は、最初の頃の勝者の中に多くの MacGregor パイパーが名を連ねていることに感銘を受けることだろう。

 実際のところ1781〜1813年の間に少なくとも17人か、おそらくもう少し多くの MacGregor パイパーが競い、その内12人が1位を獲得している。全員を特定するのは簡単な事ではないが、様々な断片的な情報を集めて精査したところ、驚くべきことに それらの殆どが一つの家族に属しているということが分かってきた。少なくとも12人の優勝者の内9人が一人のパイパーの子と孫だということは明らかであ り、事によると全員が直系子孫だったと考えらる。

 The Clann an Sgeulaiche(race of the story-teller)は、Glenlyon の MacGregor 一族に属する。彼らは、パイパー、フィドラー、ストーリーテラー、バルドとしての極めて優れた資質を備えた一族である。歴代のパイパーたちは17世紀まで代々に渡ってチーフのパイパーを務め、その内の一人は 1602年の戦いを記念した "The Rout of Glenfruin" を作曲したと信じられている。
 また、一時は Drumcharry(注:地名) でパイピング・スクールを運営し、最も優れたパイパーをスカイ島の MacCrimmmon スクールに、一年間派遣していたと伝えられている。

 初期の頃の MacGregor パイパーの中で最初に特定できるのは Duncan MorBattle of Glenfruin の際に Clan Gregor のために演奏したと言われる。ハンサムで優れた演奏技術を持っていた故に妖精に連れ去られたという伝説が伝わる。

 彼の孫、Alpin Rob Roy のお気に入りパイパーだった。1734年の Rob Roy の死去の際に葬いの演奏をしたと言われている。

 3人目は、Simon Lord Lovat のパイパーで "Lord Lovat's Lament" の作者として知られる Ewen。演奏者として極めて名高い。1743年に死去。

 Iain Dubh Gearr は Glenlyon の出身で、16〜7世紀屈指のパイパー&バルドとして知られる。"Reel of Tulloch" の作者であると言われている。

 The Clann an Sgeulaiche の歴史をより詳細に見てみると、それは Patrick Mcin Skerlich から始まる。1706年、彼は Duke of Atholl のパイパーとなったが、Dull(注:Aberfeldy の近くの地名)の市場で乱闘騒ぎを起こし、役目から降りることになった。その後、Menzies of Menzies に雇われ、一時は Highland Independent Companies のパイパーを務めた。
 彼の5人の息子は全てパイパーになり、 "Lord Lovat's Lament" の作者として知られる Ewen もその内の一人である。もう一人、John(1708〜1789)についてはよく知られている。

 John Prince Charles EdwardGlenfinnan に上陸した際に馳せ参じ、彼のパイパー&付き人になった。彼はチャールスの行軍に最後まで仕えたが、Battle of Culloden で太腿を負傷。なんとか Fortingall(注:Dull の近くの地名)まで辿り着くことが出来た。その後は Col. Campbell of Glenlyon のパイパーとなった。

 彼はの4人の子供と8人の孫は全てパイパーであり、少なくともその内4人は John を名乗る。そのため、コンペティションの結果表に載っている多くの John MacGregors を識別するのは簡単ではない。そこで、夫々の John に番号を振ることとし、まずは創始者であるこの JohnJohn 1 とする。

 Angus MacKay' Book によると、John1は1781 年の Falkirk での第1回コンペティションに於いて73才にして3位に入賞。翌1782年の第2回は2位。1783年は Falkirk と Edinburgh のコンペティションに参加するが、それは純粋な競技者としてではなく、Highland Society of London 所属のパイパーとして、言わばジャッジとコンペティターの中間の立場としてだった。Edinburgh では大会のオープニングに "Clanranald's March" を演奏した。

 John1の4人の息子は、John2ArchibaldAlexander の3人までははっきりしている。そして、おそらく次男と考えられているのが、1781年の第1回大会で優勝した Patrick na Coraig である。Angus MacKay によると、彼はトップハンドの薬指の殆どを失っていたので代わりに小指を使っていたにも拘らず、その演奏は驚くほど卓越していたという。

 Patrick Henry Balneaves of Edradour のパイパーとなった。Henry の妻は Glenlyon の娘であり、Glenlyon のパイパーの息子が、Glenlyon の義理の息子のパイパーになるということは決して不自然な事では無い。もしも、Patrick John1の息子ではないとすれば甥か近親者であろう。しかし、1824年の Patrick の死去に際して書かれた Edinburgh Magazine の死亡記事によると、Patrick が確かに John1の息子である事が推測される。

 Angus MacKay は John 1の息子の一人が 「大変卓越したパイパーで、しばらくの間 Dunvegan(注:MacCrimmon の所という意味)に行っていた事がある。」と書いている。これは普通ならば長男の John2であると考えられるところだが、Patrick na Coraig が確かに John1の息子だとすれば、これは Patrick の事を示していると考えるべきであろう。彼と後ほど登場する彼の息子 John4はハイランド・パイプの世界では、飛び抜けて卓越したパイパーとして知られているからだ。

 長男の John2は1782年に3位、1784年に優勝。1786年頃 Lord Breadalbane の第1パイパーに就任。1799年に死去。1785年と1790年に過去の優勝者による模範演奏を行い、曲はどちらも "Cameron's Gathering" であった。

 次男と推測される Patrick na Coraig もやはり1785年と1790年に模範演奏を披露。曲は "A Piece" (注:題名不明という意味?)と "MacGreor's March" であった。

 3男 Archibald は1783年に2位、1787年に優勝。その年から Glenlyon のパイパーに就任。彼もまた1790年に模範演奏を行った。曲は "Craigellachie"

 4男 Alexander のは1790年に2位("Prince's Salute")、1797年に優勝("Chisholm of Strathglass")。兄を継いで Glenlyon のパイパーに就任。 

  John 1の8人孫全てを特定するのは容易ではない。5人までは明らかであり、Patrick na Coraig John1の息子だとすれば6人目までは特定できる。残る2人については幾つかの可能性が考えられるが、不確実性は残る。

 まず、長男 John2の4人の息子については次の通り。
 John3(1773〜1830)は1799年に父親を継いで Lord Breadalbane のパイパーに就く。1785年には12才にして参加。その時の曲は "Battle of Sheriffmuir"。1789年に3位。1791年に2位。1793年に優勝。
 Peater は1794年に3位、1795年に優勝。
 Donald は1807年と1808年に4位、1810年に3位、1812年に優勝。
 Dancan は1809年に3位。

 John 1の孫の中で最も華々しいのは Patrick na Coraig の息子 John4(1780〜1822)である。彼は1792年に12才(注:生年が1781/2で当時10才という説もある)にして3位に入賞。その時の優勝者は満場一致で John MacKay of Raasay だった。1798年に2位、1806年に "Donald Gruamach" を演奏して優勝。
 Highland Society of London のパイパーとなり、同時に H.R.H. the Duke of Kent(ビクトリア女王の父親)のパイパー、The Loyal North Britons のパイプ・メジャーを務めた。
 ロンドンでパイプメイカーのビジネスを華々しく経営していた彼は1822年、Highland Society of London のディナーで演奏した直後に脳卒中で突然倒れ死去した。
 John4は、おそらく Angus MacArthur が Highland Society of London のために口述した Piobaireachd Society Book1&2の序文(現在はエジンバラの National Library に収蔵/注:直訳するとこうなるが、おそらく実際には The MacArthur-MacGregor MS のことを指していると思われる。)を筆記した人物と考えられる。それが真実だとしたら彼は明らかに熟達した音楽家である。そして、当時のハイランド・パイプ界に於いて彼が得ていた地位と、彼の父 Patrick na Coraig の集めた賞賛から推察するに「MacCrimmon に教えられた John 1の息子」というのは、紛れもなく Patrick na Coraig の事を指していると考えて良いだろう。

 彼のキャリアについて、1822年3月号の Edinburgh Magazine に掲載された死亡記事には(上記の内容と一部細部が異なっている部分があるが )次の通り記されている。

 「1822年1月1日、ロンドンにて、名高いスコティッシュ・パイパーである Mr John MacGregor はアルバニーにある Mr John Wedderburne の屋敷に於いて、予期せず階段を転げ落ちた。彼はその場所で開催されるパーティーに於いて、彼の優れた技量を披露する準備をしていたところだった。Mr MacGregor はハイランド地方 Parthshire の出身で、古くから数多くの名パイパーを生み出してきた the Clann An Sgeulaiche の一員である。
 現在も Fortingall に住んでいる彼の父親、 Peter MacGregorは Falkirk に於いて最初のパイピング・コンペティションが開催された際に、Highland Society of London が授与する prize pipe を初めて授けられたパイパーである。
 極めて若くして亡くなってしまったが、彼は父親に伴いロンドンに来て(注:1799年)から間もなく、その優れた演奏技量を見込まれて Highland Society of London のパイパーに就く(注:1806年)とともに、H.R.H. the Duke of Sussex のパイパーになった(注:ここが異なる部分?)。
 昨シーズンを地元パースで過ごした後、ロンドンに帰ってきた彼は The Parth Gaelic Society の後援を受けてコンサートを開催。僅か24時間の告知期間しかなかったにも関わらず、観客席を十分に満たし、彼の、Great Highland Pipe、Union Pipe、Flageolet、German Flute の各楽器に於ける特上の演奏に観客は皆酔いしれた。」(注:John4はマルチ管楽器奏者だった。)

 6番目の孫、4男 Alexander の子 John5は1807年に3位、1810年に2位、1811年に優勝。若い頃に数年間 Duke of Atholl のパイパーを務めた後、Farquharson of Monaltrie のパイパーを務めた。1839年の The Eglinton Tournament の折にビクトリア女王が Taymouth Castle を訪問した際に Atholl Highlanders のパイパーとして女王の前で演奏した。
 彼は祖父の John 1が Battle of Culloden の際に演奏した2本ドローンのパイプを所持していたが、後年窮乏した際にこのパイプを Duke of Atholl に売却。Duke of Atholl は代金だけでなく John 5にその後の年金を支給した。


 ここまででこの記事のおよそ2/3。続いて筆者は John1のひ孫や玄孫たち、あるいは直系子孫とは思われないその他の John や、HughMalcolmDonald、Alexander という名のその他の MacGregor パイパーたちの成績を振り返ります。ここら辺に来ると余りにも微細に入りすぎるので、パイプメイカーとしても名を残した Malcolm についてのみ紹介するに留め、最後に著者 Archibald Campbell of Kilberry のまとめを…。


 Malcolm MacGregor from Glasgow は1802年に3位、1803年に2位、1804年に優勝。
 1810年には Highland Society of London お抱えの Musical Instrumental Maker としてその名が登場。それまでずっと Prize pipe の製作・提供を担ってきた Hugh Robertson of Edinburgh に代わって 1812〜1815年の3年間の Prize pipe の製作・提供の名誉を獲得した。
 当時のロンドンに於いて2つのパイプメイカーが営業する余地はなかったと思われるので、既にパイプメイカーとして営業していた従兄弟の John4と共同経営していたと推察される。

 パイプメイカーとしての Malcolm MacGregor はハイランド・パイプだけでなく、Union Pipes や Northumbrian Small Pipes も製作。John4と同様に自身でもそれらの巧みに演奏しました。さらに、数個のキーを取り付けたハイランド・パイプのチャンターを考案。パテントを取得したとの事。そういう意味では、先月号で紹介した Henry Starck の製品の先駆けとも言えます。しかし、このデバイスは当時のトップパイパーたちからは "a flagrant and needless innovation" であると、ケチョンケションに貶されたそうです。

 さて、彼らは後世の我々に一体何を残したのだろうか? 
 確かに書いた物は残されていない。しかし、 Angus MacArthur MS (注:The MacArthur-MacGregor MS のこと。当時はこう呼ばれていた。)に見られる幾つかの独特な装飾音については John MacGregor 自身の演奏と何か繋がりが有るのか? 問い掛けてみたいところだ。(注:Angus MacArthur のカンタラックを音符に書き下したのが John 4 MacGregor
 もし、そうだとしたらそれは The Macintyres of Ronnoch と共通しているのか? 彼らの演奏技術は John Ban MacKenzieMacDougallsあるいは Duncan Campbell of Foss Donald Cameron を通じて我々の所に伝承されているのか? もし言い伝えが正しいのであれば、彼は(注:原文の文脈からは Donald Cameron を指しているように思えます)ある時期に何かしら得られるもの(注:演奏技術?)を求めて各地を旅したと伝えられている。
 あるいは、その著者(注:Colin Campbell)或いはその家族が、そのエリアである時期に何らかの繋がりがあったと推測される、あの膨大な Campbell Canntaireachd MS を通じて伝承されているのか?

 彼らは現在の我々と同様の曲を演奏していた。今と同じように演奏したのだろうか?
 1814年の Alexander Jr. の(注:コンペティションに参加する際に提出した?)リストには、Finger Lock、Craigellachie、Cogadh no sith(War or Peace)、Donald Gruamach、Prince's Salute、Battle of Sheriffmuir といった曲が載っている。
 また、1835年の John5のリストには、Donald Gruamach、Moladh Mairi(Mary's Prise)、Duke of Hamilton's Lament、Craigellachie、End of the Great Bridge、Camerons' Gathering、Frasers' Gatherig(Castel Menzies)、An t'arm breacdearg(Red Speckled Bull)、Black Donad's March、Prince's Salute、Chisholm of Strathglass's Salute、といった曲が載っている。

 今となっては、これらの疑問に対する回答は推測でしか得られない。
 しかし、我々はハイランドの Perthshire が高度なパイピング文化の温床(hot bed)だった時期が、いつであったかを特定することはできる。たとえ、それが、Duirinish、Trotternish、Gairloch のどれと比べても、さほど長い期間ではなかったとしても…。

 DuirinishMacCrimmon の拠点であった Boreraig と Clan MacLeod の居城である Danvagan Castle がある Skye 島の東側の半島。Trotternish は歴代の MacArthur パイパーが仕えた Clan MacDonald of Sleat の領地である Skye 島の北側の半島。Gairloch Iain Dall MacKay の出身地。

 歴代の MacGregor パイパーたちの成績を整理すると→コンペティション成績入り家系図
 各人の優勝回数が1回に限られている事からも分かる通り、Highland Socity のコンペティションでは、一度優勝したパイパーはそれ以降のコンペティターから除外されます。ですから、このコンペティションは「その時点で最高の技量を 持つパイパーを選ぶ」というよりは、新人パイパーの登竜門的性格を持っていると言えます。
 それ故、本番のコンペティションとは別に優勝経験者による模範演奏や、優勝経験者対象のコンペティションが開催された訳です。ちなみに、1935年の初めての優勝経験者コンペティションでは、John Ban MacKenzie が優勝しています。
 このコンペティションは 1781年に Falkirk で始まり3年後の1784年には会場を Edinburgh に変更。そのまま半世紀ほど続きますが、何故か1844年以降は権威が失墜した由。1849年からはそれ以前から並んで開催されていた、 Inverness の The Northern Meeting Piping Competition が正統な後継コンペティションと位置づけられます。

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1986年3月号

March/1986

Vol. 38/No.6

PT8603contents P27 Sound Compass of the Bagpipe は The Scottish Television Pipe's Association という組織(!?)の依頼により、グラスゴーにあるという Scottish Television's Studio に於いて行われた、ハイランド・パイプの音波の計測に関するレポート。

 この組織が当該スタジオに於いて運営し ているバグパイプ教室の生徒たちが、チューニングに臨む際に助けになるようなデータ取得が目的とのこと。パイパーが生涯に渡る経験を経てやっと会得するこ とが出来るこのような数値としての概念を、早い段階で示してあげようという親切心の様です。

  "Piping Times" にはこの手のハードウェアの音(波)に関する記事が折々掲載されます。現時点でのこの類の記事をおさらいしてみると以下の通りです。

1)1978年5月号 Comparsion of Bagpipes by Harmonic Measurement

2)1978年7月号 Metrification and the Highlande Bagpipe(Part 2)

3)1979年3月号 Octave Band Measurements on the Chanter Sounds

4)1979年8月号 The Acoustical Enviroment of the Highland Bagpipe out of doors(Part 1)

5)1979年9月号 The Acoustical Enviroment of the Highland Bagpipe out of doors(Par 2)

6)1981年6月号 The Principles of Air Maintenance and Air Exchanges in the Highland Bagpipe(Part 1)

7)1981年8月号 The Principles of Air Maintenance and Air Exchanges in the Highland Bagpipe(Part 2)

8)1984年3月号 The Nature of the Sound Field Surrounding the Piper in Open Air 

 こうやって振り返ってみるまでもなく、自分の理解力を超えているこれらの記事については、どれも共通して見事に内容の紹介になっていません。ただ「こんな記事がありました。」と…。今回も、そんな調子でこの記事の2つの画像でご勘弁を…。

 次の波形写真の他、691Hz、235Hz、704Hz、120Hz、948Hzの波形写真が掲載され、それぞれ(私には到底理解不能な)専門的な解説がされています。


 後半の読書投稿欄 P42〜50の Evening Post に、1986年1月号の Henry Starck の記事に関して、北アイルランド在住の読者から関連情報の提供がありました。

 おそらくディーラーと思われるこの人は、1950年代半ばに現地(アイルランド)のパイプバンドや軍隊相手に数百セットの Brian Boru Bagpipes(何故かこの人は Brien と綴ります)を売り捌いた、と書いています。Brian Boru Bagpipes のチャンターは3〜14個のキー付きのタイプがあり、ドローンはカモンストックという様式だったとのこと。この人自身は4キー・チャンターのパイプと7 キーのチャンター、そして、4キーのプラクティス・チャンターを所有しているそうです。

 また、Brian Boru Bagpipes と同時期に(アイルランドの)コークの郵便局員である Mr Magher という人によって Magher Bagpipe というバグパイプが造られていた事が紹介されています。
 このバグパイプには独立したストックによりテナー、ベース、バリトンの3本のドローンが備えられていたとのこと。チャンターには a leakage key same on clarinet(私には理解できない分野なので原文通り) が備えられており、それによって2オクターブが演奏できたそうです。

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1986年4月号

April/1986

Vol. 38/No.7

PT8604contents この号の表紙が白黒なのは、2010年6月1日の日記で書いた「オリジナルのコピー」の一冊だからです。


 P17 The Curse of the MacCrimmons は、タイトルから推して、パイプのかおり第14話で紹介した、老婆の呪いと"Mac Cruimein" に関連するピーブロックネタと思いたい所。
 しかし、実際は Dupuytren's Contracture/デュプイトラン拘縮(こうしゅく)という手の指の病気に関する記事です。著者は Seumas MacNeill


 まず、この病気について上のリンク先から抜粋すると以下の通り。

【概要】
 手のひらや指にしこりが生じ、指が曲がっていく病気。皮膚の下に病的な索状物が生じ皮膚がつっぱるために指を伸ばすことが出来なくなります。女性よりも男性に多く中高年に生じます。
 痛みはありませんが進行すると指が伸びないために生活上の支障が生じます。
 皮膚の下にある手掌腱膜に病的な結節が生じこれが索状に指に広がって指の皮膚や腱鞘までつながります。
 この索状物は弾力性がなく指の皮膚がひっぱられるため指が曲がります。この際、指の神経や血管を螺旋状に巻き込んでいく場合もあります。
 小指や薬指(環指)におこりやすいとされています。

【病因】
 北欧系の白人に多く黒人に少ないため遺伝的な素因が疑われていますが、はっきりしたことはまだ明らかにはなっていません。アルコール依存、抗てんかん薬(バルビタール)常用、糖尿病などが関連すると指摘されています。

【治療】
 手術以外の治療では効果が明らかな治療法はありません。手術では病的な腱膜の切離や切除を行います。皮膚自体も短縮してしまっているので皮膚を延長するためのZ形成術などを同時に行います。植皮(皮膚移植)を行う場合もあります。


 病因の項に書いてあるように「北欧系の白人に多い」ということで、マクリモンの時代から多くのハイランド・パイパーが悩まされてきた病の様です。小指や薬指に症状が出るとなると、birl や D-taoluath on B などが致命的な影響を受けます。

 記事では、高名な医師でもある Alex Haddow を始めとして、John MacFadyen、Bob Hardie、Archie Kenneth、David Murray、P/M Angus MacDonald、Duncan MacFadyen、Donald Morrison、General Thomason といった錚々たるパイパーたちが、皆この病を患ってきたとのこと。


 実は Seumas MacNeill 自身もこの病に悩まされてきた一人だというのです。明確な記憶は無いそうですが、おそらく10〜15年前(1970年代前半)に最初の兆候が現れたと思わ れるとの事。この病気の進行は極めてゆっくりしていて徐々に症状が悪化するので、当初は自分でも気が付かなかったそうです。しかし、1978年頃になると パイピングにも明らかに影響が出始め、それまでよりも多くの練習を積まなくては、満足な演奏ができなくなったと書いています。

 この年の前年1985年のピーブロック・ソサエティー・カンファレンスに於いて医学分野に於いて世界で最も権威のあるエジンバラ大学に所属する、優れた外科医でありパイパーでもある Iain MacLaren は "Medical Aspect of Piping" という講演を行っています。Seumas MacNeill はこの人のアドバイスに従い、外科手術を受ける事を決意。結果として大変良好に経過している、という顛末報告がこの記事の趣旨です。(本文には Seumas 自身の手術前後の写真も掲載されていますが、この号はコピーのためスキャンしても鮮明さに欠けるので、これらの写真も引用したサイトから拝借しました。)


 P38 A Checklist of Bagpipe Music Manuscripts held in the National Library of Scotland は↑のタイトル下説明のような企画。Part 1のこの号は実際のリストは2ページに19タイトルが紹介されるに留まり、前段の Roderick Cannon 御大によるやはり2ページに渡る趣旨説明がメインといった所。

NLSに関する関連記事⇒

 主導するのがピーブロック・ソサエティーではあっても、ピーブロックに関する物に限定する事はなく、主要な権威者によ るものだけでなく無名のプレイヤーによるものも、あるいはハイランド・パイプだけでなく多様なバグパイプのものも…、と幅広くリストアップしたいという意 図だという事です。

1986年9月号 Part5で完結⇒

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1986年5月号

May/1986

Vol. 38/No.8

 P44 A Checklist of Bagpipe Music Manuscripts held in the National Library of Scotland Part 2

 今回のリストも3ページ程に40タイトル弱と、ボリューム自体はさほど多くはありません。


 この号、その他には目ぼしい記事がありません。ちなみに、P12 The Silver Chanter は8月6日に開催されるこのコンペティションの告知記事で、レポートではありません。そこには 35曲の MacCrimmon Tunes のリストが掲載されていて、参加者はこの中から選んだ6曲を事前申告するシステム。


 目次には出てこないのですが、P18に Pibroch of Donald Dubh とタイトルされた、ちょっと興味深い囲み記事がありました。内容は2月号で紹介したこのタイトルの記事に関する訂正とお詫び。

 私はその中でこの記事の筆者たる Frank Richardson の事を散々こき下ろしましたが、なんとこの記事の筆者はこの人ではなかったという事。Seumas MacNeill Frank Richardson と真の筆者双方に詫びています。

  ただ、真の筆者についてはこの時点で不明のようです。オリジナルの記事は Seaforth Highlanders か Queen's Own Highlanders の軍関係の出版物に掲載されたと思われるという事を伝えつつ、読者に情報提供を呼び掛けています。

 多分、2月号の記事を読んで、Frank Richardson 自身が「わしゃ、あの記事書いてないよ。」とでも伝えたのでしょう。それにしても、見事に Frank Richardson と思わせるような難解な記事を書く人が他にも居るんですね。

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1986年6月号

June/1986

Vol. 38/No.9

PT8606contents この号は、様々なコンペティションのレポートと、間近に迫ったこの年のサマー・シーズンの各地でのハイランド・ゲームに関する事前情報が多くを占めています。その中で、唯一ご紹介に値するピーブロックネタは、P52 Niel MacArthur という2ページの記事。

  Patrick Og MacCrimmon に師事した Charles MacArthur を始めとする The MacArthurs 一族は、Skye 島に於いてThe MacCrimmons 一族に次いで名の知れたパイピング・スクールを営んでいた名門パイピング・ファミリー。

 Charles には Neil、John Ban という2人の弟が居たのですが、2番目の弟である、Neil に関しては多くの情報が伝得られて居ないとのこと。しかし、有名な Professor John MacArthurNeil 息子であるということから、この知られざる Neil MacArthur についてスポットライトを当てた記事だということです

 …と書かれても、私自身は Charles の甥で、Patrick Og の息子である Malcolm MacCrimmon に師事したと言われる Professor John MacArthur という人がどういう意味で有名なのか?については、イマイチ理解できていません。

  一方、この記事では当時の遺言書やら何やらを紐解いて、Neil MacArthur の人となりを掘り下げて推測しているのですが、正直言って私の理解力を超えています。背伸びして無理な紹介は諦めます。

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1986年7月号

July/1986

Vol. 38/No.10

PT8607contnts 目次を一瞥して思わず期待してしまうのは、Iain Dall MacKay 作のピーブロックのタイトルを冠した P24 The Blind Piper's Obstinacy ですが、これには ー an impression of "Fairy Piping" ? と言うサブタイトルが付いています。

 "Fairy Piping" とは「この世のモノとは思えない名曲の数々を生み出した The MacCrimmon のパイパーたちは、実は名曲を紡ぎだす術を妖精たちから授かったのである。その妖精との出会いは(かくかくしかじか)…。」と言うパターンのストーリーとしてハイランド各地に伝わる妖精伝説を示します。

 著者は John Gould という人。記事は次のように始まります。
 「1968年9月のある晩、私は左耳に微かな耳鳴りを感じつつ床に着いた。最初は殆ど気が付かない程度の音色だったが、頭を枕に載せるとともに、その音 は大きく明瞭になってきた。それは極めて澄んだ音色で、どちらかというとフルートとオーボエの間のような音質だった。最も明らかだったのは、その音がどん どん明瞭になり、幾つかのバリエーションを伴った繰り返しパターンを示すようになったことだ。

 私が最初に思ったのは『誰かが近くの草地か何処かで真夜中のパイプ演奏を楽しんでいる』ということだった。
 そこで、私はその音をより明瞭に聴くため頭を持ち上げたところ、音楽は止んでしまった。しかし、1分程して頭を枕に戻したところ、再び音楽が始まった。 この動作を数回繰り返して確認したことは、その音楽は私自身の耳の中で(頭の中では無くて)鳴っているということだった。

 肉体としての内耳が音楽を奏で、私自身がそれを聴くことが出来ているという状況。私は紙とボールペンと用意すればその音を書き下ろすことを出来るのではないか?と夢想した。しかし、疲れ切っていた私はその音楽を聴きつつ寝入ってしまった。」

 翌日、筆者は仕事に行く道すがら、昨夜の音楽はいわゆる "fairy piping" であったのではないかと思い至り、もしそうだとしたらそもそもその音楽を書き下ろすことは無理だった事を悟ります。なぜなら、そのような音楽を記録する事が出来た例はこれまでにないからです。彼は「もしも自分が "fairy piping tune" を耳にしたのであれば、様々な言い伝えにあるように自分も優れたパイパーになる事が出来るのではないか?」と自分自身を慰めました。

  彼はすぐにその事を忘れていましたが、6週間後に再び同じ事が起こります。今回は前回よりもバリエーションが複雑では無くシンプルなメロディーが奏でられ たので、メロディーを採譜する事が無理無く出来ました。さらに、翌年のイースターの頃とその直後に2度、その音を耳にする事が出来たのですが、最後の機会 はその音はそれまでに無く微かでゆっくりと途切れがちでした。

 ここに至って、筆者は自身のこの経験がいわゆる "fairy piping" とか "fairy music" と 呼ばれる民間伝承の存在に対して、生理学的好奇心に基づく関心から光を当てる例に成り得ると考えるようになります。そこで、当時 Salford University(マンチェスターに有るようです)に勤務していた筆者は、同僚の生理学者に自身の耳鳴り(ringing in the ears)の意味について問いかけました。そうしたところ「お〜、それは耳鳴り(tinnitus/医学用語)という現象で、耳が聞こえなくなる前兆とし て発症する現象だ。君はどんな具合なのかな?」という答えが帰ってきました。

 これは明らかに良くない見立てでしたが、同時に筆者に「パイパーでは無くごくありふれた民衆が関わるタイプの "fairy piping' stories"」の事を思い起こさせました。その中のあるバージョンは次の通り。
 「一 人の子供がある夏の日の午後、妖精の塚(fairy mound)の上で寝そべっている時、微かに聴こえてくる最高に素晴らしい音楽が聴こえてきました。明らかに塚の中から聴こえてくるその妙なる音楽を聴き ながら彼は寝入ってしまいました。日が暮れるとともに彼は目覚め、家に帰って彼が聴いた素晴らしい音楽の事を伝えたところ、両親は大変動転しました。その 後、その子は家族や仲間たちに関する関心を完全に失い、他の人々が言っている事は聴こえず、妖精の音楽 "fariy piping" だけしか聴こえないように見えました。そして、遂に彼はその音楽に恋い焦がれた挙句に死に至ったのでした。」

 さて、本文ではこれに続いて "fairy piping" ストーリーの幾つかのパターンに関する解説や、 自身が採譜したメロディーについての細かい説明が続きます。本文中には彼が採譜した楽譜が Ex.1とか Ex.2&3 とかいうように、さもこの記事のどこかに掲載されているかのように書かれていますが、その実、そのような楽譜はどこにも掲載されていません。ですから、そ れからの1ページ程はほぼ意味不明。

 著者は妖精から授かったメロディーと思わしき楽曲を探しますが、その時点で彼が知りえたのはピーブロックに於いては4曲だけとの事(具体的なタイトルには触れられていません)。そこで、ピーブロック以外のライト・ミュージックに対象を広げると、"The Eagle's Whistle"(Irish tune)とか "The Fairy Dance"、そして、"Thomas the Rhymer"(a border ballad)などが思い浮かんだとの事。著者は "fairy piping" に関してしばらく興味を失います。

 その後の10年間の内に、筆者に一度だけ "fairy piping" を思い起こさせた事がありました。それは、Radio Scotland から流れてきたある Urlar のメロディー。そのメロディーに fairy piping tune の特質(the repetitive phrasing punctuated by leaps to a higher note, and a typically simple but ingenious turn of the phrase.)が全て備わっているように感じた筆者は、あれこれ楽譜を当たってその曲を突き止めます。それは、Maol Donn(MacCrimmon's Sweetheart)でした。筆者はこの曲について次のように記します。
 "The style of the urlar is sustained throughout the thumb and second variations, but comes a sad cropper in the third variation, which not only snaps abruptury from the style of the tune up to that point, but introduces a sentimental touch which destroys the strange detachment of everything which has gone before it." 
 筆者は Maol Donn は確かに fairy piping tune の可能性大と確信しますが、それから暫くはこの事について考える事はありませんでした。

 筆者が何年かして再び "fairy piping" に思いを馳せるようになったきっかけは、何曲かの Iain Dall MacKay 作の曲をレパートリーにするようになった時でした。新たな Iain Dall チューンとして Hen's March Over the Midden を練習し始めた時、この曲の繰り返しフレーズの習得に手こずります。そして、筆者はいつも上手く習得できずに難儀するこのフレーズは The Brind Piper's Obstinacy のそれとそっくりだ、と気が付きます。そして、「Iain Dall MacKay は何故 Lament for Patrick Og MacCrimmonUnjust Incarceration と大きく異なるこのようなパターンの曲を作曲したのだろう?」という疑問から、再び "fairy piping" について思いを馳せるようになりました。何故なら、筆者にとっては Hen's March Over the Midden The Brind Piper's Obstinacy の2曲は、明らかに fairy piping tune にインスパイアされて作曲されたと感じられたからです。

To Be Continued…


 …と、筆者は4ページを費やして導入部分を書き下した後、本題については「次号へ続く…」と締めくくります。

 いや〜、我慢してなんとか読み下して紹介してきましたけど、この時点での私は、筆者の言わんとする "fairy piping tune" の何たるかが理解できたとは到底言い難い状況。まあ、今の所は来月号を楽しみにするしかなさそうです。


 この号のもう一つのピーブロック・ネタは P32 Lament for MacLaine of Lochbuie です。
 …と言っても、この曲は私でも、一度もその演奏音源を耳にした事が無いと言うほどに極めてマイナーな曲。それもそのはず、この曲が収められている Piobaireachd Society Book 11(1966年にリリース)の序文冒頭には当時の Piobaireachd Society music commitee の中心人物 A. G. Kenneth が次のように書いています。"This book - the eleventh of the series - mainly consists of little-known or unknown tunes."

 そして、この記事の著者も A. G. Kenneth 御大です。どうやら、この1ページ半の記事はこの20年間にこの曲に関して新たに判明した事柄を幾つかまとめた、いわば Piobaireachd Society Book の解説ページの追加資料といった所。Angus MacKay のマニュスクリプトにはこう書いてあって云々、Duncan Campbell のマニュスクリプトにはこう書いてあって云々、…と言った雰囲気の極めて個々の楽譜分析的な内容なので、詳細な紹介は致しません。


 P44 A Checklist of Bagpipe Music Manuscripts held in the National Library of Scotland Part3 Annexes。まだ続くようです。

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1986年8月号

August/1986

Vol. 38/No.11

PT8608contents  P20 The Blind Piper's Obstinacy Part2 前月に続きいよいよ後半、本題です。

 筆者は、バグパイプの特徴の一つである「音の持続性」と言うのは fairy music の持つ「延々と継続する」性格との相性が良い。そして、継続性から生み出される長い曲と言うのは、ピーブロックの持つ性質に完璧に一致する、と分析。それに続いて、ウルラールやそれぞれのバリエイションと fairy music との相性について、ページの半分程を使って直ぐには理解できないような込み入った理屈をあれこれ捏ねまわします。

 筆者曰く「一般的には fairy music とピーブロックの相性については多々問題もある所だが、The Brind Piper's Obstinacy に関して言えば、それらの問題点が全てクリアされ、ピーブロックの伝統的な形式の下で、見事に fairy musicが表現されている例である。」と主張します。そして、続くページの1/3程を割いて、この曲のウルラールと各バリエイションが如何に展開して行くかについて、楽理的な視点から事細かに考察します。

 ところが、いくら読み進めても楽理的素養ゼロの私には、この記事は「真面目に論じているのか? 単なるジョークなのか?」俄かには判断し難いと言うのが正直な所。

 締めくくりとして、筆者は他者との会話の中で一、二度真顔で「自分が fairy piping を実際に聴いた」と言うことを話した事があるそうですが、誰一人真に受ける人は居なかったとのこと。翻って、Iain Dall MacKay の時代にはこのような事は無かったであろう、と当時を羨ましそうに振り返ります。

 う〜ん、…。


 P25 The Rout of Glen Fruin は PS Book 8 p221、Kilberry Book No.85 の曲。PS Music Library で Bruce Gandy の演奏音源を聴くことができます。作者は Duncan Mor MacGregor。(MacGregor パイパーについては、1986年2月号の記事を参照。)

 由来となった Clan GregorClan Colquhoun による 1603年の Battle of Glen Fruin について詳しく知るため、例によってググって検索。まずは Wikipedia の Battle of Glen Fruin の項に目を通しました。しかし、この件に関しては Wilipedia の情報は至ってあっさりとした内容。そこで、ヒットしたその他の幾つかのサイトに目を通して見ました。どのページも Wiki とは段違いに様々な視点からの大量の記述が盛り込まれています。

 中世スコットランドの戦いをテーマにした ScotWars と言うサイトの Battle of Glen Fruin,1603 の項では、戦いそのものにスポットを当てつつあれこれ引用して解説。このサイト、今後も参考になりそうなのでブラウザのお気に入りに入れました。

 Glen Discovery というサイトの Geography of Glen Fruin in relation to the traditional tales of the Conflict というページでは、 Google Earth を使ってこの戦闘について地理的に解説。両軍がどのように移動しつつ最終的な衝突に至ったかが詳細に図解されています。

 Geograph というサイトの Memorial for the Battle of Glen Fruin というページでは、この戦闘を記念した Monument の詳細な位置を知ることができます。

 その名も、An Authentic History of the Clan Gregor というサイトでは、当然ながら The ROUT of Glen Fruin というページが有ります。

 ちょっと変わり種ですが、Youtube で朗読を聴く事もできます。

  まあ、どれもそれぞれの視点や立場から深く突っ込んで書かれている様なのですが、何故かどのサイトも今ひとつレイアウトデザインに無頓着な物ばかり。文字 の背景がタータンで読み難かったり、文字が小さいので拡大しようとしても、文字列の幅が規定されていなくてブラウザ自体をいじる必要があるなど、どのサイ トもアンフレンドリーなこと著しい。

 そんな中で、文句無くお薦めなのが、HELENSBURGH HERITAGE というサイトの Battle of Glen Fruin 1603 (by Stewart Noble) のページです。
 この戦闘に至るまでのそれぞれのクランの置かれた状況、戦闘当日の両者の動き、戦闘の結果としてもたらされた政治的&社会的状況、余談&後日談などが、 至って平易な分かりやすい英語で書かれています。文字を拡大しても見やすいレイアウトなのも有難いところ。


  Wikipedia の解説では「Clan Gregor の旅人2人が、Clan Colquhoun の領地に差し掛かった際、一夜の宿を求めたにも関わらず断られた。2人は仕方なく無断で打ち捨てられた空家を見つけて露をしのぎ、羊を一匹殺して食べ飢え をしのいだ。それを知った The Colquhouns は2人を捉えて処刑。知らせを聞いた The MacGregors のチーフは仲間のクランと共に The Colquhouns を報復の戦いを仕掛けた。」という様な内容ですが、それを読んだ段階では「例によって直情型スコットランド人らしく、ほんの些細な出来事からクラン間の猛々しい戦いが引き起こされたんだな〜」といった程度の理解にしか至りませんでした。
 しかし、その他のサイトでの詳細な記述を拾い読み、特に HELENSBURGH HERITAGE のページを読んでからは当時の両クランの置かれた状況がよく見えて来ました。それは、豊穣な領地を持つ The Colquhouns と Loch Lomond 東側の痩せた土地を領地とする The MacGregors という立ち位置。また、1603年の戦いの勝利者ではあったけど、その荒々しい振る舞い故に時の国王サイドから政治的に大きな制裁を受けて社会的には全くの敗者になってしまった The MacGregors のその後の境遇などです。

 この記事の大半は Wikipedia の内容をほぼ踏襲している程度なので、記事に書かれているこの戦闘のバックグラウンドなどについての紹介は割愛しますが、時間が許すならば上で紹介した HELENSBURGH HERITAGE のページを始めとする其々のサイトの解説に目を通して、当時のスコットランドの情勢に想いを馳せる事をお勧めします。


 さて、そもそも Glen Fruin の位置、そして Monument があるのは↓の場所です。(引用:Googlマップ)

 この記事の中では、このモニュメントの文字は長年の風化で殆ど読めなくなっている、と記載されています。
 しかし、その後、1990年代に一度修復の手が入ったとの事で、現在ではかなりくっきりとした次のような文字が判読可能な様です。

 Near This Spot
The
Battle of Glen Fruin
Was Fought
Between
Clan Colquhoun
and
Clan Gregor
on 7th February 1603


 記事の中ではこの戦いから生まれたもう一つの曲、The Balck Wedder's White Tail(PS book 11 p334)についても触れられています。

 これまで、ありきたりの辞書ではどうしても "wedder" という単語が見当たらなかったのですが、この機会にネット上の辞書をあれこれ検索してやっと探り当てました。曰く…、

 wedder=wether : male sheep especially a castrated one(去勢された牡羊)との事。

 ごく初期のピーブロック・ソサエティー・カンファレンスに於いて、この不可解なタイトルの由来について誰も説明が出来なくて顔を見合わせて居たところ、幸いな事に聴衆の中に居た Alex Haddow がその由来を解説し、皆が納得したそうです。
 それは「2人の The MacGregors たちが殺して食べてしまった羊は極めて珍しい『白い尾の黒羊(black wedder with white tail)』だったので、Clan Colquhouns の人たちはその羊が居なくなった事に直ぐに気づいた。」という逸話。つまり、事件発覚の元になったこの羊は「スコットランド史上最も有名な羊」という事だそうです。
 確かに、Haddow の本のこの曲の歴史の項にも少し触れられていました。


 P42 A Checklist of Bagpipe Music Manuscripts held in the National Library of Scotland Part4 Annexes(Continued)。まだまだ続いています。

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1986年9月号

September/1986

Vol. 38/No.12

PT8609contents P13 Boreraig Revisited は今年の Boreraig Day に関するレポート。(この定例行事の由来と内容は1983年9月号を参照して下さい。)

 例年、奉納演奏の後にランドオーナーの Olaus Martin のお屋敷 Husabost House で若手パイパーを対象にしたコンペティションが催されます。今年の記事を書いた Scott Bennett という人は、Seumas MacNeill からこのコンペティションのジャッジとして声を掛けられ、この楽しい一日を過ごした由。

 なんと言うか、ほのぼのとした詩的な文体で書かれた記事なので、読解するのに少々苦労しました。どうやら、この方自身が若かりし頃、このコンペティションの参加者であったようで、当時の淡い思い出を振り返りながら、この一日を存分に楽しんだようです。

 この年の奉納演奏は、Seumas MacNeill による "MacCrimmon will never return" と、Iain MacFadyen による "A Frame of warth for Patrick Caogach" だったとの事。写真→


 P16 Piobaireachd Society Gold Medal と言うタイトルの記事には、本文の表題の前に Ontario の文字が入っています。つまり、カナダのオンタリオで開催されるコンペティションのレポートです。レポーターはこのコンペのジャッジとして招聘された Seumas MacNeill

 このコンペティションは、あの The "How to" Piobaireachd Manual を記した、カナダ・ハイランド・パイプ界の重鎮 Archie Cairns が、1973年に当時ピーブロック・ソサエティーの Music Commitee 書記だった John A MacLellan を通じて、ピーブロック・ソサエティー公式ゴールドメダルの交付を依頼したのが嚆矢。この依頼は受諾され、それ以来毎年ソサエティー公認のジャッジ参加の下で開催されてきたのです。

 コンペティション参加者の中には、Bruce GandyDonald MacPhee、Michael Grey といった、その後大いに活躍する名前がちらほら見受けられます。


Note on Piobaireachd

 P20 Notes on Piobaireachd は↑のタイトル下説明によると、第2次世界大戦最中の1944年、ドイツ南部バイエルン州のとある捕虜収容所内で行われた講演との事。講演者は J. Hector Ross という人。捕虜収容所の中なので、一切の関連書籍を参照せずに纏められた由。今から72年前、当時から遡っても42年前の講演録です。

 ボリュームは4ページ余りで、概ねの内容は「ピーブロックとは何ぞや?」といったところ。
 まずは紀元前のケルト民族の勃興からヨーロッパ全域にまで圏域を広げた繁栄の時代、その後他民族との勢力争いに負けて主にブリテン島の辺境に圏域を狭め た経緯から紐解かれます。そして、ケルト民族に愛好されていた楽器がハープからバグパイプへ変遷した経緯。伝承手段としてのカンタラックについて。マクリ モン一族の生い立ちと、一族がピーブロックの発展に果たした役割。そもそもピーブロックとはどんな音楽か? 1745年後のピーブロックを巡る変遷、19 世紀の保存運動などなど…。そして、締めくくりは1943年に Duncan Lamont という人が作曲し、高く評価された新作ピーブロックについて触れて終わります。

 内容的には、このサイトのあちこちで説明している内容とほぼダブっているので、ここでは逐語訳的に紹介する事はいたしません。

 印象的なのは、収容所の中で手元に何の参考資料も無いと言う状況下で行われた講演であるにも拘らず、触れられている様々な出来事の年代や内容が極 めて正確に述べられている事。講演者はこの方面に関する余程の博識者だと思われます。スコットランドでは著名な方なのでしょうか? ダメ元でネット検索し てみましたが、残念ながら特定する事はできませんでした。


 P44 A Checklist of Bagpipe Music Manuscripts held in the National Library of Scotland Part5(Concluded)でようやく完結です。トータルで18ページ余りのボリュームになりました。現在は、このリストをベースにテーマをピーブロックに絞ってアップデートされた最新のリスト(PDFファイル/19ページ)が 、CoP のサイトにアップされいます。

Piobaireachd Manuscripts in the National Library of Scotland

 さらには、今ではリストだけでなく、デジタル化されたものについては原本そのものがネット上で容易に閲覧できる時代。僅か30年ですが、正に隔世の感があります。

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1986年10月号

October/1986

Vol. 39/No.1

PT8610contents P14 The Silver Chanter はこの年の "The MacCrimmon Memorial Piobaireachd Recital" のレポート。無署名なのでレポーターは過去のこのイベントと同様に Seumas MacNeill 自身だと思われます。
 第1回が開催されたのが 1967年ということですから、この年は節目の20周年に当たります。
 このリサイタルについては、1978年9月号1979年10月号1984年9月号で詳しくお伝えしている通り、コンペティションの形式を取ってはいますが、その実、歴代の MacCrimmon 一族が仕えた Clan MacLeod の居城を舞台にした、ハイランド・パイプ界で最も格式の高いリサイタルといった所。

 レポート冒頭の "The twentieth MacCrimmon Memorial Recital held in Dunvegan Castle attracted again a capacity crowd, all anxious to hear the great MacCrimmon tunes played in the room where they were first publicly performed." という書き出しに、このリサイタルのプレスティージアスな位置付けが表現されています。

 レポート文中の "It must be the aim of every piper in the world to visit Dunvegan Castle and Boreraig at least once in his lifetime." という一文がグサッと胸に突き刺さります。言われるまでもなく分かっているのですが…。果たして私には果たす事が出来るのでしょうか?

 このリサイタルの唯一の欠点は「会場の狭さ」との事。ホールの収容人数はせいぜい 80人ほどなので、溢れた聴衆はダイニングルーム(それでも、さぞかし広いのでしょうが…)で妙なる演奏に聴き入るしか無いとの事。その場合、演奏者の姿を観る事はできません。

 この年は8人のパイパー(過去のゴールドメダリスト)が招待された由。 招待されたパイパーから申し出のあった6曲の中から、当日演奏を求められる曲がセレクトされるという事です。
 ここまではよく有るコンペティションの形式に似ていますが、このイベントでは当日のパンフレットには既に出演者とその演目が印刷されているという事から も、演目の指定はかなり早い段階されるようです。主催者側としては、その年の招待パイパーの顔ぶれを考慮した上で、そのメンバーにとってその時点で最も相 応しい演目の組み合わせを選ぶとともに、演奏者には事前に入念な準備をしてもらい、聴衆にベストの演奏を聴かせようという意図なのでしょう。

 演奏者と演目は次の通り(演奏順)。

Iain MacFadyen "Macleod of Colbeck's Lament"
Andrew Wright "The King's Taxes"
Marlcolm MacRae "Lament for the Children"
John MacDougall "Salute on the Birth of Rory Mor MacLeod"
Robert Wallace "Lament for the Earl of Antrim"
Duncan MacFadyen "Lament for the Only Son"
Murray Henderson "Lament for MacSwan of Roaig"
Hugh MacCallum "MacLeod's Salute"

 そして、この年の The Silver Chanter Hugh MacCallum に授与されたとの事です。


 P17 Argyllshire Gathering は同様に格式の高くかつ長い歴史の有る(本来の意味の)コンペティションのレポート。表紙の説明にあるように、この年の Gold Medallist は Fred Morrison との事ですが、この人は顔写真から判断するに、多分この Fred Morrison とは別人でしょう。もしかしたら、父親?

 ちなみに Gold Medal の部門のその他の結果は、2nd James MacGillivray、3rd Hugh MacCallum、4th Logan Tannock といった順位でした。

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1986年11月号

November/1986

Vol. 39/No.2

 P34 The Little Prince はピーブロックのタイトル。実は、この曲については、これまで演奏音源と出会った事が全くなかったので、目次に目を通した段階では、まさかこれがピーブロックのタイトルであるとは気が付きませんでした。

 しかし、A. G. Kenneth による1ページにも満たないごく短いこの記事に目を通し始めると、どうやらこれはあるピーブロックについて書かれた記事だという事が想像されました。

 そこで、ピーブロックの曲名リストに当たると、確かに "Little Prince - You Are My Choice" という曲が有り、PS Book 13/P410 との事。早速、楽譜を広げてみました。
 このような時、PSブック・デジタル版のメリットで、一連の作業を一切腰を上げる事なく完了できてしまう便利さを痛感します。

 さて、肝心のこの記事は次のように書き出されます。
 "This attractive little tune presents difficulty in memorising."
 う〜ん、一見するところ短くて音数も少なく至ってシンプルに見えるのですが…。それよりも、本家の著名な専門家でも「覚え難い曲」というのが有るのだ、という妙な所に安堵しました。

 A. G. Kenneth は「Seumas MacNeill はこの曲を Secondary tune としているが、それはちょっと違うんじゃないか?」と述べます。もし、そうならばもっと覚え易いはずだと…。そして、具体的に構造を解析。

Little Prince さらに、この曲が覚え難い理由の一つとして、cadence for C の不整合性が有る、と指摘。ウルラールとバリエイションで同じ場所の cadence for C の前後の音が B だったり Low A だったりする事が混乱させられる原因だと分析します。

 そんなかんなで、一般的な Secondary tune とは違った珍しい構成の曲ではあるが、大いに魅力に富んだ曲である。そして「タイトルと音楽的内容から推して lullaby であろう。」と推しています。

 極めて短い記事ですが、薀蓄に富んだ中々興味深い内容でした。誰かの演奏音源に出会いたいものです。


 上の記事の見開き反対側、P35 Piper's Quiz が興味深い。古い写真の人物当てクイズは "Piping Times" の定番の一つです。 

Piper's Quiz

 P43の答えは次の通り。
 Oban Games; 1937; Euan MacDiarmid, Dr Jock Simpson, James Campbell(Kilberry)

 1985年7月号 James Campbell of Kilberry の講演 "50 Years of Judging” で触れられていた、若き後継者たる James がアマチュア・ジャッジとしてデビューして間もない頃のポートレイト。21才の James が先輩諸氏に囲まれ、どことなく落ち着き無くおずおずとした表情が印象的です。

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1986年12月号

December/1986

Vol. 39/No.3

 表紙の写真の主、ベレー帽姿でお判りでしょうか? Murray  Henderson 御大です。さすが若いですね。

 P13 GlenfiddichThe Grant's Championship から通算13回目の今回は、Glenfiddich に名称変更されて2年目に当たります。コンペティション・シーズンを締めくくる、最高峰のコンペティションのレポート。(このイベントのコンセプトについては 1985年12月号参照。)

 この年の結果は以下の通り。

1st ★★★ Iain MacFadyen "The Old Men of the Shells"(77、81、84年の覇者)
2nd ★★★ Hugh MacCallum "In Prise of Morag"(78年の覇者)
3rd ★★★ Murray Henderson "Lachlan MacNeill Campbell of Kintarbert's Fancy"(79、80、85年の覇者)
4th _☆★ Alasdair Gillies "The Earl of Seaforth's Salute"
5th __☆ Willie MacCallum "The Battle of Auldearn No.2"

★_★ Bill Livingstone "The Battle of Pass of Crieff"
_★★ Malcolm MacRae "The Blind Piper's Obstinacy"
_☆★ Alfred Morrison "The End of the Great Bridge"
_☆★ James MacGillivray "MacDougall's Gathering"
__☆ Roderick MacLeod "My King Has Landed in Moidart"

(冒頭の印は過去3カ年の連続出場状況/★は出場/☆は初出場/_は参加実績無し/順位はピーブロック部門)

 ちなみにオーバーオールチャンピオンも Iain MacFadyen でした。

 パイパー名の頭に付けた記号でお判りの通り、この年初登場は Willie MacCallum Roderick MacLeod の2人。両人のその後の活躍はご存知の通り。この後の30年間、常にトップ10パイパーの一人であり続けています。
 初出場から30周年に当たる 2016年のステージで、Roderick MacLeod は、司会者の John Wilson に「これまで総合優勝5回、ピーブロック部門を9回征覇している。」と紹介されていました。そして、その 2016年総合&ピーブロック部門を征覇しました。つまり、30年間にピーブロック部門を10回征覇したという事になります。一方で、この年初登場5位と健闘の Willie MacCallum は、その後総合優勝8回。彼のピーブロック部門の制覇回数は正確にカウントしていませんが、おそらくこの30年間にこの2人だけで、半分以上制覇しているのは間違い無いと思います。(↓記念写真の後列左端に並ぶ2人。若い!)

PT8612Glenfiddich.jpg

 Willie MacCallum の叔父に当たる Hugh MacCallum と、The MacFadyens の1人 Iain MacFadyen の2人がトップ・オブ・ザ・トップという訳ですから、なんともいう豪華メンバー揃い踏みといった所。レポートの冒頭で、Seumas MacNeill も「13というのは決して不運な数字ではない。今年はこれまでのこのイベントのベストの一つである。」と書いています。


 P29 Finlay's Lament は PSブック No.1 P28の曲(Lament for Finlay)に関する記事。実は PSブック No.13 P429 にも同じタイトルの曲がありますが、全く別の曲との事。
 A. G. Kenneth 御大が PSブックのセッティングにご不満のようで、個人的見解としながらも、かくかくしかじかの方がすんなり来るとして、1ページに渡ってあれこれ説明。見開きページに修正版の楽譜を掲載しています。

PT8612FinlaysLament.jpg

PT8612GpMPtitle.jpg
 P34 Gleanings from pre-MacKay Piobaireachd: Clialudh は、あの Frans Buisman による第2弾。今回は3回連載モノ。(何故かタイトルで名前の i が抜けています。)

 内容は Donald MacDonald "Collection of the ancient material music of Caledonia" (1820年)のイントロページに記述されているという "Clialuidh" という装飾音についての研究レポートといった所。今回だけでも5ページに渡ります。例によって専門的な内容で私の力量で紹介できるようなものではないので、 残念ながら今回も細かい内容は端折らせて頂きます。

 それにしても、当時と今とで厳然と違うのはこのような記事と出会った際に、文中に名前の出てくる古い楽譜やマニュスクリプトのオリジナル画像をその場で目にする事が出来る事。理解できるかどうかは別にしても、その記事に対する興味は段違いに深まります。
 この記事にも、Joseph MacDonald"A Compleat Theory of the Scots Highland Bagpipe"(1760年)の名前が頻繁に出て来ますが、今ではその復刻本まで手元にあるので、読み進めながら「ふん、ふん…」と頷く事しきり。実に感慨深いものがあります。

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