"Piping
Times"《1986年》
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1985年
11月号に "The Flowers O' the Forest" の
作詞・作曲者を教えて欲しい、という読者からの問い合わせに、回答を呼び掛けた記事が有りました。 3人の回答を総合した中身は、 Wikipedia の "The Flowers O' the Forest" の項に記載されている内容とほぼ同じ。…なので、あえて紹介はいたしませんが、当時とし てはこのような情報は、何よりも有難く感じたものでした。 この3通の投稿に続いて、当 時の "Piping Times" の常連執筆者であるカルフォルニア在住の David Kennedy さんからの興味深い内容の投稿があ りました。それは、1985年3月号の "To B or not to B" を フォローする内容です。 曰く、19世紀初期の各種楽譜集の内、Angus MacKay、Donald MacPhee、Angus MacArthur の楽譜集については、どれも D-Crunluath は B-gracenote を使うよう表記されているが、Donald MacDonald の楽譜集については、Crunluath、 Taorluath 共に、B-gracenote と D-gracenote 両方の表記が見られる、 とのことです。 大変興味深い情報です。 早速、Donald MacDonald の楽譜
集をめくって見ました。当時の楽譜は、繰り返しも含めて全ての音符が省略されずに延々と表記されているので、それらを
チェックする訳です。 これらの楽譜は現在では Piobaireachd Society、Ceol Sean、Pipetune、Alt
Pibroch Club の各サイトで誰でも閲覧可能です。時間が有ったらどうぞ確認してみて下さい。 "Redundat A" については、PipingPress
のこのぺージ※1とこのページ※2に関連記事があります。ページ※1に挿入されている音源は "Classics From The College Volume 1
- P/M Robert Reid" のトラック7 "The
'Redundant A': Talk And Demonstration On Practice
Chanter" の前半部分。 P20 Glencoe - A Plot ageinst the
Campbells は言うまでもなく、The Massacre of
Glencoe( Glencoe の虐殺) に関する話。 客人とし て Glencoe に滞在した Campbell が、その後ホストたる MacDonald の民を如何にして虐殺したか、という事については誰もが聞いた事があるはずだ。現在でもそれが一般的な見解ではある。し かし、この出来事から300年を経 過して幾つかの非難されるべき点はウィリアム王(King William)と、虐殺の 首謀者たるステア伯爵(Master of Stair)にある と言われるようになってきた。そもそも、実際に虐殺に手を下したのは Campbell の者ではなく、英国軍(British Army)のアーガイル連隊(Argyll's regiment)だったことが分かっている。 当時の事実を詳細に見つめてみると幾つかの疑問点が浮かび上がってくる。 ウィリアム王は愚か者では ない。極めて頭の切れる悪賢い政治家である。事実を別の角度から見直してみると、兵士たちは巧妙に仕掛けられた罠に嵌め られた、という事が見えてくる。 ・虐殺の実行者としてアーガイル連隊が選ばれたのは、よく考えられた上での事だ。アーガイ
ル連隊のスコットランド兵は消耗品であるとともに、厳然として英国軍の兵士(British
Soldiers)でもある。 ・アーガイル連隊の兵士たちはプロテスタント&長老派、一方 Clan MacDonald はカソリック&ジャコバイトである。両者を一つ屋根の下で真冬の人口過密な状況下に置く事は、トラブルの発生を保証したようなものだ。 虐殺の実行日も重要な意味を持っていた。 それぞれに宛てた命令書で指示された時刻も興味深い。 Campbells の最初の襲撃によってクランのチーフ MacIain を倒された MacDonalds は、Robert Campbell
を討ちとって仇を打つべしと考えるはずである。 この出来事が全てウィリアム王の
企て通りに推移したと仮定してみよう。 しかし、実際には物事は計画通りには進まなかった。 MacDonald
が滞在中の兵士たちを虐殺したとしても責められるべき理由が無くなってしまったので、他の理由を考える必要が生じた。そこで「MaDonald
は宣誓書に署名するのが遅れた」という、いささか説得力に欠ける理由がこじつけられた。 虐殺の命令にウィリアム王、Master of Stair と共に署名した John Campbell Earl of Breadalbane
は、その後、この虐殺に関わった罪で逮捕され死に掛けたが、ウィリアム王の
命により数ヶ月後に釈放された。 Robert Campbell
は債務を負った貧乏人のまま1696年にベルギーのブルージュで死去。 Robert Campbell が Major Duncanson から受け取った命 令書(↑)は当初は Glenlyon家に、そしてその後は Breadalbane家に伝えられ、「Robert Campbel は命令に従っただけである」という証拠として大切に保管されている。 もしも、この出来事が当初のウィリアム王の 当初の企て通りに完結していたとしたら、Clan MacDonald は「ゲストを虐殺したクラン」として歴史に汚名が記されていた事であろう。 以上がこの記事の全容です。自身が Campbell の名を名乗っている Jeannie Campbell 女史としても、Campbell 一族が長年に渡って汚名を着せられてきた事は耐え難かった、という一面も決して否定できないでしょう。 確かに Wikipedia の「事件の影響」の項ではウィリアム王の謀略とその失敗による体制の動揺についても触れられ ています。しかし、Clan MacDonald と Clan Campbell が1715年と1745年の両方の蜂起に於いて、ジャコバイト陣営として共に闘ったという事実はこの記事で初めて認識しました 歴史というのは深く掘り起こす事によって、こうも見事に通説とは違った姿が見えてくるも のなのですね。3ページ半のコンパクトな記事ですが、示唆に富んだ大変興味深い内容でした。 P23 Henry Starck - Bagpipemaker の記事に入る前に、まずは前項の著者 Jeannie Campbell 女史の代表作である Highland Bagpipe Makers(2nd edition/2011/P142〜149)を参照して、このバグパイプメイカーの概要を説明します。 20世紀後半〜21世紀に掛けて「工房の場所と作者」共に非スコットランドながら、最高峰の名声を勝ち得ているパイ プメイカーといえば、言うまでもなく David Nail & Co. と 言えるでしょう。このメイカーの主 Leslie Cowell が 1976年に自らの工房を興す前、1946〜1955年に丁稚奉公してパイプメイキングの技術を習得したのが、ロンドン に工房を構えていた Henry Starck です。 1889年から1962年まで、親子孫3世代に渡って続いたこのパイプメイカーも、そもそもは18世紀にドイツから
イングランドに移住してきた、楽器製作を生業とする Starck
Family の末裔。 Starck の名が初めてロンドンの職業人名簿に 掲載されたのは1812年版で、当時はフルート・メイカーとしてでした。途中、時計製造業や食糧取扱業として掲載された こともありますが、ほぼ一貫して楽器製造業として名簿に記載。1889年以降は Henry Starck (表紙写真)の名で Musical Instrument Maker として掲載されています。 1880年代のある時、当時ビクトリア女王のお抱えパイパーであると同時にバグパイプ・メイキングビジネスを営んで
いた William Ross(1854〜1891、※資料1、※資料2/P/M William Ross, MBE
1878〜1966とは別人)は、ドイツ仕込みの優れたウッドターナーの技術を持ちフルート・メイカーの看板を掲げていた
Henry Starck に目を付け、粘り強い説得の
末自らのバグパイプ・メイキングビジネスに引き入れました。(Henry
Starck はそれまでバグパイプ製作は手掛けていません。) William Ross は1891年に亡くなり
ますが、Henry Starck
はその後もパイプメイキングのビジネスを続けます。後には息子(Albert
Henry)と孫(Henry Albert)
も引き入れながら優れたパイプを作り続け、パイプメイカー Henry Starck
の名は確固たるものとなりました。 Henry Starck
は通常のハイランド・パイプの他に、1900年代初頭にはアイルランド人 William O'Duane
と共同して、チャンターにキーを備えてより広音域かつクロマチック・スケールが演奏可能な新しいバグパイプを開発し特許を取得。その仕組みを備えたパイプ
に古のアイルランド王の名を冠した Brian Boru Bagpipes、あるは、William O'Duane の居住地の地名を取った
Dunc(g)annon Pipes といった名称を付けて製品化していました。 さて、ここでやっとこの号の記
事の紹介を…。 「2台目は友人がロンドンの露店で£400で購入したものを譲り受けたあるドイツ人が所有。そのドイツ人はその楽器 で街頭演奏をしている。筆者はドイツには度々行っているが、未だ彼に遭遇したことがない。」と書かれています。 筆者は2代目の Henry Starck が作成 した「78回転のレコード盤を 持っているが、その音源が Duncannon Pipes なのか、Brian Boru Pipes なのかは分からない。(Brian Boru Pipes については?)北アイルランドに未だ沢山存在するようだ。何故なら、つい最近、現地で私は4本のチャンターを売りさばい たからだ。」と書かれています。 筆者は「2 Regents Park Road にある Museum Sharpes というプライベート・ミュージアムに何かがある、と聞いているがまだ訪ねた事が無い。そもそもこれがロンドンなのかグ ロースターなのかが分からない。知り たければ両方を訪ねてみる必要がある。」と書かれています。 「代々の Starck
は皆パイパーでは無いが、 初代 Henry は手慰
みにパイプを演奏することは有った。(前述の)レコードはそのようにして録音されたものである。」 何度読み返しても、この記事は不可解な点ばかり。 不可解なだけでなくこの筆者の素性が「著しく怪しい」と思い始めたきっかけは、何度も読み返している内にピンと来た 次の表記。 "Museum Sharpes, 2 Regents Park Road." どっかで聞いたような住所だな?と閃いて、思いついたある組織のホームページを検索してみたら思った通りでした。 My
Roots Music
のコーナーに書いているように、セシル・シャープの尽力により復興した、ブリティッシュ・トラッドからこの世界に足を踏
み入れた私にとっては、セシル・
シャープハウスは正にキリスト教徒にとってのバチカン、イスラム教徒にとってのメッカにも等しい場所。1977年のイギ
リス旅行の際には訪問必須の場所で した。 実は住所でピンと来たというのにもそれなりの訳があります。 グーグルマップがなかった当時、旅行ガイドにも載っていないようなマニアックな場所にたどり着く方法は、地図で該当 地の道路を探してひたすら端か ら地番を追っかけて行くしかありません。幸い、欧米の住居表示は道路&地番ですから道路さえわかれば必ず該当地にたどり 着くことができるのが良いところ。 ロンドンの市街地図を広げ有名なリージェンツ・パークの周辺をざっと見回すと、西南側に隣接して幅広い "Park
rd." が直ぐに見つかりました。具合い良くシャーロック・ホームズで有名なベイカー・ストリートの名を冠した地下鉄
Baker St.
駅が、ちょうどこの道路の一端に位置している様子。早速、現地に出向いて地番を当たって行きます。しかし、2番地にはそ
れらしい建物は有りません。まあ、
なんかの勘違いかなと思いつつ、道路をもう一方の端まで行って戻りましたが、やはりそれらしい建物はどこにも見当たら
ず、仕方なく一旦宿に戻りました。 ちなみに、ようやくたどり着いたセシル・シャープハウスでは早速 EFDSSの会員登録をし、暫くの間は会報などを受け取っていました。しかし、その後ますますスコットランドの音楽に ディープに嵌って行くに従い、イング ランドの音楽を深く追求する余裕が無くなり、会員登録の更新は止めて久しいといった所です。 さて、兎にも角にもこの記事の筆者は人づてに「2 Regents Park Road の Sharp's
Museum には Braian Boru Pipes
に関する何らかの資料が有る。」という情報を伝え聞いたのでは無いでしょうか? 以前にも、1979年4月号にはこんなジョーク記事が載ったことがあるので、もしか したら…。 P30 An Anonymous Manuscript and its Position in the History of Piobaireachd Playing (Part2)は連載の後半。やはり、到底ついては行 ける内容ではありません。高度すぎて紹介不能。完璧なまでに撃沈されました。 |
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毎号の様にピーブロックネタが有って、読み応え十分なこの当時の "Piping Times" 。今月も2つの貴重な記事があります。 P19
Piobroch of Donald Dubh はつまりは Piobaireachd
Society Book Vol.3 P87、Kilberry Book No.92(P99)の "Black
Donald's March" の事。 この記事の著者 Frank Richardson の文章は Seumas MacNeill のそれに 比べてリーダー・アンフレンドリーで難解極まりない事は、以前 "PIOBAIREACHD and its Interpretaion" by Seumas MacNeill and Frank Richardson (John Donald Pub./1987) を読んだ際に痛感させられています。正直なところ Frank Richardson が書いた本の後半部分は何が書いてあるか殆ど理解でませんでした。 この記事もそれなりのスコットランド史の知識が有る事を大前提として書かれている上に、文学作品でも無いのに必要以 上に気取った言い回しが曲者。 また、説明無く唐突に登場する人物も多数。登場人物の呼称(や省略の仕方)も一定していないので、それが「名」なのか 「姓」なのか、先に登場した人物と同 一なのか異なのかも直ぐには理解し難い事が度々。その度 Wikipedia の助けを借りながら、あれこれ推察を重ねつつ読解。僅か3ページ強にも拘らず悪戦苦闘させられました。ここでは、読み進 め易い様に分かる範囲で囲みや(かっこ) 内に肩書き、クラン名、注釈、疑問、苦情等を加筆してあります。 Donuil Dubh とは Donald Cameron of Lochiel の事。彼は(Clan Donald のチーフで)2代目 Lord of the Isles である Donald(of Islay)の血縁者である。※1
1411年、Donald(of Islay)は Ross の伯爵位(Earldom of Ross)を求めて主張を強め(活動を強化す)る。Donuil Dubh は Donald(of Islay)の この活動を支援したが、最終的にこの企ては部分的にしか成功しなかった。Donald(of Islay)はスカイ島の広大な地域、インバネスシャー、マレー(Moray)の領地を手中にしたが、伯爵位を得る事は叶わなかっ たのだ。 このキャンペーンはアバディーンシャーの Inverurie に於いて、Earl of Mar(,Alexander Stewart)に率いられたジェームズ王(King James 1/1394〜1437)の軍勢との間で闘われ た、激しく、かつ、勝敗が明確で無い Battle of Harlaw(1411 ※2)で終結する。この時、国王はごく若年(ロンドン塔に幽閉中?)だったので、叔父に当たる Duke of Albany(,Robert Stewart)が摂政として実権を握っていた。
Donald(of Islay)は1423年に死
去。3代目 Lord of the Isle の地位は長男 Alexander(of
Islay, Alexander MacDonald)に引き継がれる。 その一方、ジェームズ王は Alexander に
対する友好的な態度の裏側で、John Mor of Kintyre
(説明無く唐突に登場。誰?)をそそのかし、
Alexander と対立するよう画策した。John
Mor は彼の甥(原文には2人の親戚関係について何の説明も無いが、実は John Mor of Kintyre は Donald of Islay
の弟)と対立することを拒否。国王の遣いの James
Campbell (またしても説明無く唐突に登場。誰?)に殺害された。
Alexander(of Islay)は自身の釈放
を受けて、Clan Chattan(単独クランでは無く連合体を意味する?/Wikipedia
を参照)をジェームズ王の討伐遠征に動員(唐突な展開で意味不明?)。彼(Alexander)
の父(Donald of Islay)が率いた
Harlaw への遠征にも参加した Donuil
Dubh(Donald Cameron)はこの侵略に再び(自らの?)Clan Cameron
を動員した。 そこで Donuil Dubh(Donald Cameron)は 「生き残るためには寝返るしか無い」と判断し、国王の側に付く事を宣言。不安定ではあるが長年続いてきた Clan Cameron と Clan Chattan の同盟関係は決裂し、領土紛争が顕在化。1430年に Clan Cameron は(Clan Chattan の?)熾烈な攻撃を受けた。 ここに至り、Alexander(of Islay)は国王への許しを請う事を決断。国王の元に出
向き頭を下げた彼と彼の母親は再び投獄された。
以上が Frank Richardson によるこの曲の生まれた歴史的な背景描写です。全くもってこの人は読み手をバカに(見下)しているとしか思えません。読 んでいて腹が立ちます。この文章は Wikipedia へのリンクを示した資料と割り切って、あれこれ参照しながら概要を掴んでいただければ幸いです。ちなみに、Donald of Islay と Alexander of Islay の項を中心に他のリンク先の関連項目を拾い読めば↑でもったいぶって書いてある事柄(以上の内容)が全て、すっきりと整理されて書いてあります 続いて、原文では具体的なこの歌&曲の伝承について以下のように書かれています。 歌(Song)の "Piobaireachd Dhomhnuill Duibh"
は South Uist の MacDonald を通じて伝承されている。Skye島と
Barra島に別のバリエーション(歌)が伝わっている。 ピーブロックに関して言えば、1815年に Neil
MacLeod of Gesto(のカンタラック集で)は、この曲を "Piobaireachd
Dhomhnuill Duibh"(Piobaireachd
Society book などの表記と微妙に異なりhが
入る)あるいは "Camerons' Gathering" と名付けてい
る。 実は、原文にはもう少し詳しくは書いてあるですが、例によって余り要領を得ない文章であるのと、上で名の出てきた 19世紀の楽譜集については、現在では Piobaireachd Society、Ceol Sean、Pipetune、Alt Pibroch Club の各サイトで誰でもアクセス可能。こんな人が30年前に書いた解説を読むよりは、自分で確認した方がましです。興味のある方はご自身でお目通し下さい。 また、ご存知のように、ハイランド・パイプの曲としてはこのピーブロックから派生した同名の Quick Step
の曲があります。著者は最後の1ページ弱をその辺の話に触れていますが、それについてはこのサイトの守備範疇では無いの
で省略します。 オリジナル記事 ⇒ Bagpipe News(on May 20,
2020) ※ 筆者についての訂正情報→1986年
5月号 Angus MacKay's Book に記載されている1781年以降の Highland Society's Competition の結果に関心を持った人は、最初の頃の勝者の中に多くの MacGregor パイパーが名を連ねていることに感銘を受けることだろう。 実際のところ1781〜1813年の間に少なくとも17人か、おそらくもう少し多くの MacGregor パイパーが競い、その内12人が1位を獲得している。全員を特定するのは簡単な事ではないが、様々な断片的な情報を集め て精査したところ、驚くべきことに それらの殆どが一つの家族に属しているということが分かってきた。少なくとも12人の優勝者の内9人が一人のパイパーの 子と孫だということは明らかであ り、事によると全員が直系子孫だったと考えらる。 The Clann an Sgeulaiche(race of the
story-teller)は、Glenlyon の MacGregor
一族に属する。彼らは、パイパー、フィドラー、ストーリーテラー、バルドとしての極めて優れた資質を備えた一族である。
歴代のパイパーたちは17世紀まで代々に渡ってチーフのパイパーを務め、その内の一人は 1602年の戦いを記念した
"The Rout of Glenfruin" を作曲したと信じられている。 初期の頃の MacGregor パイパーの中で最初に特定できるのは Duncan Mor。Battle of Glenfruin の際に Clan Gregor のために演奏したと言われる。ハンサムで優れた演奏技術を持っていた故に妖精に連れ去られたという伝説が伝わる。 彼の孫、Alpin は Rob Roy のお気に入りパイパーだった。1734年の Rob Roy の死去の際に葬いの演奏をしたと言われている。 3人目は、Simon Lord Lovat のパイパーで "Lord Lovat's Lament" の作者として知られる Ewen。演奏者として極めて名高い。1743年に死去。 Iain Dubh Gearr は Glenlyon の出身で、16〜7世紀屈指のパイパー&バルドとして知られる。"Reel of Tulloch" の作者であると言われている。 The Clann an Sgeulaiche
の歴史をより詳細に見てみると、それは Patrick Mcin
Skerlich から始まる。1706年、彼は Duke of Atholl
のパイパーとなったが、Dull(注:Aberfeldy
の近くの地名)の市場で乱闘騒ぎを起こし、役目から降りることになった。その後、Menzies of Menzies に雇われ、一時は Highland Independent Companies
のパイパーを務めた。 John は Prince Charles Edward が Glenfinnan に上陸した際に馳せ参じ、彼のパイ パー&付き人になった。彼はチャールスの行軍に最後まで仕えたが、Battle of Culloden で太腿を負傷。なんとか Fortingall(注:Dull の近くの地名)まで辿り着くことが出来た。その後は Col. Campbell of Glenlyon のパイパーとなった。 彼はの4人の子供と8人の孫は全てパイパーであり、少なくともその内4人は John を名乗る。そのため、コンペティションの結果表に載っている多くの John MacGregors を識別するのは簡単ではない。そこで、夫々の John に番号を振ることとし、まずは創始者であるこの John を John 1 とする。 Angus MacKay' Book によると、John1は1781 年の Falkirk での第1回コンペティションに於いて73才にして3位に入賞。翌1782年の第2回は2位。1783年は Falkirk と Edinburgh のコンペティションに参加するが、それは純粋な競技者としてではなく、Highland Society of London 所属のパイパーとして、言わばジャッジとコンペティターの中間の立場としてだった。Edinburgh では大会のオープニングに "Clanranald's March" を演奏 した。 John1の4人の息子は、John2、Archibald、Alexander の3人までははっきりしている。そして、おそらく次男と考えられているのが、1781年の第1回大会で優勝した Patrick na Coraig である。Angus MacKay によると、彼はトップハンドの薬指の殆どを失っていたので代わりに小指を使っていたにも拘らず、その演奏は驚くほど卓越していたという。 Patrick は Henry Balneaves of Edradour の パイパーとなった。Henry の妻は Glenlyon の娘であり、Glenlyon のパイパーの息子が、Glenlyon の義理の息子のパイパーになるということは決して不自然な事では無い。もしも、Patrick が John1の息子ではないとすれば甥か近親者であろう。しかし、1824年の Patrick の死去に際して書かれた Edinburgh Magazine の死亡記事によると、Patrick が 確かに John1の息子である事が推測される。 Angus MacKay は John 1の息子の 一人が 「大変卓越したパイパーで、しばらくの間 Dunvegan(注:MacCrimmon の所という意味)に行っていた事がある。」と書いている。これは普通ならば長男の John2であると考えられるところだが、Patrick na Coraig が確かに John1の息子だとすれば、これは Patrick の事を示していると考えるべきであろう。彼と後 ほど登場する彼の息子 John4はハイランド・パイプの 世界では、飛び抜けて卓越したパイパーとして知られているからだ。 長男の John2は1782年に3位、1784年 に優勝。1786年頃 Lord Breadalbane の第1パイパーに就任。1799年に死去。1785年と1790年に過去の優勝者による模範演奏を行い、曲はどちらも "Cameron's Gathering" であった。 次男と推測される Patrick na Coraig も やはり1785年と1790年に模範演奏を披露。曲は "A Piece" (注:題名不明という意味?)と "MacGreor's March" であっ た。 3男 Archibald は1783年に2位、1787年に優勝。その年から Glenlyon のパイパーに就任。彼もまた1790年に模範演奏を行った。曲は "Craigellachie"。 4男 Alexander は1790年に2位("Prince's Salute")、1797年に優勝("Chisholm of Strathglass")。兄を継いで Glenlyon のパイパーに就任。 John 1の8人孫全てを特定するのは容易ではな い。5人までは明らかであり、Patrick na Coraig が John1の息子だとすれば6人目までは特定できる。残る2人に ついては幾つかの可能性が考えられるが、不確実性は残る。 まず、長男 John2の4人の息子については次の
通り。 John 1の孫の中で最も華々しいのは Patrick na Coraig の息子 John4(1780〜1822)である。彼は1792年に12才
(注:生年が1781/2で当時10才という説もある)にして3位に入賞。その時の優勝者は満場一致で John MacKay of Raasay だった。1798
年に2位、1806年に "Donald Gruamach" を演奏して優勝。 彼のキャリアについて、1822年3月号の Edinburgh Magazine に掲載された死亡記事には(上記の内容と一部細部が異なっている部分があるが )次の通り記されている。 「1822年1月1日、ロンドンにて、名高いスコティッシュ・パイパーである Mr John MacGregor はアルバニーにある Mr
John Wedderburne
の屋敷に於いて、予期せず階段を転げ落ちた。彼はその場所で開催されるパーティーに於いて、彼の優れた技量を披露する準備をしていたところだった。Mr MacGregor はハイランド地方
Parthshire の出身で、古くから数多くの名パイパーを生み出してきた the Clann An
Sgeulaiche の一員である。 6番目の孫、4男 Alexander の子 John5は1807年に3位、1810年に2位、1811年に
優勝。若い頃に数年間 Duke of Atholl のパイパーを務めた後、Farquharson of Monaltrie
のパイパーを務めた。1839年の The Eglinton Tournament の折
にビクトリア女王が Taymouth Castle を訪問した際に Atholl
Highlanders のパイパーとして女王の前で演奏した。 ここまででこの記事のおよそ2/3。続いて筆者は John1の ひ孫や玄孫たち、あるいは直系子孫とは思われないその他の John や、Hugh、Malcolm、Donald、 Alexander という名のその他の MacGregor パイパーたちの成績を振り返ります。ここら辺に来ると余りにも微細に入りすぎるので、パイプメイカーとしても名を残した Malcolm についてのみ紹介するに留め、最後に著者 Archibald Campbell of Kilberry のまとめを…。 Malcolm MacGregor from
Glasgow は1802年に3位、1803年に2位、1804年に優勝。
さて、彼らは後世の我々に一体何を残したのだろうか? 彼らは現在の我々と同様の曲を演奏していた。今と同じように演奏したのだろうか? 今となっては、これらの疑問に対する回答は推測でしか得られない。
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P27 Sound Compass of the Bagpipe は The Scottish Television Pipe's Association という組織(!?)の依頼により、グラスゴーにあるという Scottish Television's Studio に於いて行われた、ハイランド・パイプの音波の計測に関するレポート。 この組織が当該スタジオに於いて運営し ているバグパイプ教室の生徒たちが、チューニングに臨む際に助けになるようなデータ取得が目的とのこと。パイパーが生涯 に渡る経験を経てやっと会得するこ とが出来るこのような数値としての概念を、早い段階で示してあげようという親切心の様です。 "Piping Times" にはこの手のハードウェアの音(波)に関する記事が折々掲載されます。現時点でのこの類の記事をおさらいしてみると以下の通りです。 1)1978 年5月号 Comparsion of Bagpipes by Harmonic Measurement 2)1978 年7月号 Metrification and the Highlande Bagpipe(Part 2) 3)1979 年3月号 Octave Band Measurements on the Chanter Sounds 4)1979 年8月号 The Acoustical Enviroment of the Highland Bagpipe out of doors(Part 1) 5)1979 年9月号 The Acoustical Enviroment of the Highland Bagpipe out of doors(Par 2) 6)1981 年6月号 The Principles of Air Maintenance and Air Exchanges in the Highland Bagpipe(Part 1) 7)1981 年8月号 The Principles of Air Maintenance and Air Exchanges in the Highland Bagpipe(Part 2) 8)1984 年3月号 The Nature of the Sound Field Surrounding the Piper in Open Air こうやって振り返ってみるまでもなく、自分の理解力を超えているこれらの記事については、どれも共通して見事に内容 の紹介になっていません。ただ「こんな記事がありました。」と…。今回も、そんな調子でこの記事の2つの画像でご勘弁 を…。 次の波形写真の他、691Hz、235Hz、704Hz、120Hz、948Hzの波形 写真が掲載され、それぞれ(私には到底理解不能な)専門的な解説がされています。 後半の読書投稿欄 P42〜50の Evening Post に、1986年1月号の Henry Starck の記事に関 して、北アイルランド在住の読者から関連情報の提供がありました。 おそらくディーラーと思われるこの人は、1950年代半ばに現地(アイルランド)のパイプバンドや軍隊相手に数百 セットの Brian Boru Bagpipes(何故かこの人は Brien と綴ります)を売り捌いた、と書いています。Brian Boru Bagpipes のチャンターは3〜14個のキー付きのタイプがあり、ドローンはカモンストックという様式だったとのこと。この人自身は 4キー・チャンターのパイプと7 キーのチャンター、そして、4キーのプラクティス・チャンターを所有しているそうです。 また、Brian Boru Bagpipes と同時期に(アイルランドの)コークの郵便局員である Mr Magher という人によって Magher
Bagpipe というバグパイプが造られていた事が紹介されています。 |
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この号の表紙が白黒なのは、2010年6月1日の日記で書いた「オリジナルのコピー」の一冊だからで す。 P17 The Curse of the MacCrimmons
は、タイトルから推して、パイプのかおり第14話で紹介した、老婆の呪いと"Mac Cruimein"
に関連するピーブロックネタと思いたい所。 まず、この病気について上のリンク先から抜粋すると以下の通り。 【概要】 【病因】 【治療】 病因の項に書い てあるように 「北欧系の白人に多い」ということで、マクリモンの時代から多くのハイランド・パイパーが悩まされてきた病の様です。小 指や薬指に症状が出るとなると、birl や D-taoluath on B などが致命的な影響を受けます。 記事では、高名な医師でもある Alex Haddow を始めとして、John MacFadyen、Bob Hardie、Archie Kenneth、David Murray、P/M Angus MacDonald、Duncan MacFadyen、Donald Morrison、General Thomason といった錚々たるパイパーたちが、皆この病を患ってきたとのこと。 実は Seumas MacNeill 自身もこの病に悩まされてきた一人だというのです。明確な記憶は無いそうですが、おそらく10〜15年前(1970年代 前半)に最初の兆候が現れたと思わ れるとの事。この病気の進行は極めてゆっくりしていて徐々に症状が悪化するので、当初は自分でも気が付かなかったそうで す。しかし、1978年頃になると パイピングにも明らかに影響が出始め、それまでよりも多くの練習を積まなくては、満足な演奏ができなくなったと書いてい ます。 この年の前年1985年のピーブロック・ソサエティー・カンファレンスに於いて医学分野に於いて世界で最も権威のあ るエジンバラ大学に所属する、優れた外科医でありパイパーでもある Iain MacLaren は "Medical Aspect of Piping" という講演を行っています。Seumas MacNeill はこの人のアドバイスに従い、外科手術を受ける事を決意。結果として大変良好に経過している、という顛末報告がこの記事 の趣旨です。(本文には Seumas 自身の手術前後 の写真も掲載されていますが、この号はコピーのためスキャンしても鮮明さに欠けるので、これらの写真も引用したサイトか ら拝借しました。) P38 A Checklist of Bagpipe Music Manuscripts held in the National Library of Scotland は ↑のタイトル下説明のような企画。Part 1のこの号は実際のリストは2ページに19タイトルが紹介されるに留まり、前段の Roderick Cannon 御大によるやはり2ページに渡 る趣旨説明がメインといった所。 主導するのがピーブロック・ソサエティーではあっても、ピーブロックに関する物に限定す る事はなく、主要な権威者によ るものだけでなく無名のプレイヤーによるものも、あるいはハイランド・パイプだけでなく多様なバグパイプのものも…、と 幅広くリストアップしたいという意 図だという事です。 Dr Jack Taylor
sent us a small book of excellent poems by Betty Allan of Skene,
Aberdeenshire. One of these concerns itself with
piping, and is the best we have seen in a very long
time. We are very grateful to Betty Allan for permission to
publish it here.(太字引用者) そして、同じ P43 Ceol Mor がその詩のタイトル。 Ceol
Mor
I don’t understand pibroch. The theme is a forgotten dream Almost recaptured; or the stem Of a fairy tree with golden boughs And crystal blossoms. I don’t understand pibroch, The delicate fingering flings the notes Up like a shower of diamond drops, Which dazzle me as they catch the light In split second perfection. I don’t understand pibroch, Which may be the secret of its spell Like aurora, or a shooting star, It seems to come within my reach — And then is gone I don’t understand pibroch, But always am grateful to the men Who hold its secrets, and work with love, Mind and soul and supple fingers Striving for perfection. I don’t understand pibroch. For me it remains an enigma, and I would not wish it otherwise. この詩は、2019年11月号の "Piping Times" に再掲載されています。その時の紹介文によると、Betty はアバディーンシャーの Ballater の出身で、1940年代後半にバルモラル城でタイピストとして働いていて、国王ジョージ6世が滞在している間、毎日パイプを聴いていたそうです。その時の パイプ奏者は P/M Alexander MacDonald (Scots Guards) だった由。 一方、2019年にこの詩を当時のエディターの Stuart Letfort に送って来たのは、この詩の作者 Betty Allan の娘である、Madge Bray という女性。彼女はその時には名の知れたガーリック・シンガーの一人だった様です。その年、2019年8月の "Piping Live!" のイベントで Allan MacDonald のパイプに合わせてキーニング(歌)を披露したとの事です。 |
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P44 A Checklist of Bagpipe Music Manuscripts held in the National Library of Scotland は Part 2。 今回のリストも3ページ程に40タイトル弱と、ボリューム自体はさほど多くはありません。 この号、その他には目ぼしい記事がありません。ちなみに、P12 The Silver Chanter は8月6日に開催されるこのコンペティションの告知記事で、レポートではありません。そこには 35曲の MacCrimmon Tunes のリストが掲載されていて、参加者はこの中から選んだ6曲を事前申告するシステム。 目次には出てこないのですが、P18に Pibroch of Donald Dubh とタイトルされた、ちょっと興味深い囲み記事がありました。内容は2月号で紹介したこのタイトルの記事に関する訂正と お詫び。 私はその中でこの記事の筆者たる Frank Richardson の事を散々こき下ろしましたが、なんとこの記事の筆者はこの人ではなかったという事。Seumas MacNeill は Frank Richardson と真の筆者双方に詫びています。 ただ、真の筆者についてはこの時点で不明のようです。オリジナルの記事は Seaforth Highlanders か Queen's Own Highlanders の軍関係の出版物に掲載されたと思われるという事を伝えつつ、読者に情報提供を呼び掛けています。 多分、2月号の記事を読んで、Frank Richardson 自身が「わしゃ、あの記事書いてないよ。」とでも伝えたのでしょう。それにしても、見事に Frank Richardson と思わせるような難解な記事を書く人が他にも居るんですね。 |
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この号は、様々なコンペティションのレポートと、間近に 迫っ たこの年のサマー・シーズンの各地でのハイランド・ゲームに関する事前情報が多くを占めています。その中で、唯一ご紹介 に値するピーブロックネタは、P52 Niel MacArthur という2ページの記事。 Patrick Og MacCrimmon に師事した Charles MacArthur を始めとする The MacArthurs 一族は、Skye 島に於いてThe MacCrimmons 一族に次いで名の知れたパイピング・スクールを営んでいた名門パイピング・ファミリー。 Charles には Neil、John Ban という2人の弟が居たのですが、 2番目の弟である、Neil に関しては多くの情報が伝 得られて居ないとのこと。しかし、有名な Professor John MacArthur は Neil 息 子であるということから、この知られざる Neil MacArthur についてスポットライトを当てた記事だということです …と書かれても、私自身は Charles の甥で、Patrick Og の息子である Malcolm MacCrimmon に師事したと言われる Professor John MacArthur という人がどういう意味で有名なのか?については、イマイチ理解できていません。 一方、この記事では当時の遺言書やら何やらを紐解いて、Neil MacArthur の人となりを掘り下げて推測しているのですが、正直言って私の理解力を超えています。背伸びして無理な紹介は諦めます。 |
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目次を一瞥して思わず期待してしまうのは、Iain Dall MacKay 作のピーブロックのタイトル を冠した P24 The Blind Piper's Obstinacy で すが、これには ー an impression of "Fairy Piping" ? と言うサブタイトルが付いています。 "Fairy Piping" とは「この世のモノとは思えない名曲の数々を生み出した The MacCrimmon のパイパーたちは、実は名曲を紡ぎだす術を妖精たちから授かったのである。その妖精との出会いは(かくかくしかじか)…。」と 言うパターンのストーリーとしてハイランド各地に伝わる妖精伝説を示します。 著者は John Gould という人。記事は
次のように始まります。 私が最初に思ったのは『誰かが近くの草地か何処かで真夜中のパイプ演奏を楽しんでいる』ということだった。 肉体としての内耳が音楽を奏で、私自身がそれを聴くことが出来ているという状況。私は紙とボールペンと用意すればそ の音を書き下ろすことを出来るのではないか?と夢想した。しかし、疲れ切っていた私はその音楽を聴きつつ寝入ってしまっ た。」 翌日、筆者は仕事に行く道すがら、昨夜の音楽はいわゆる "fairy piping" であったのではないかと思い至り、もしそうだとしたらそもそもその音楽を書き下ろすことは無理だった事を悟ります。なぜ なら、そのような音楽を記録する事が出来た例はこれまでにないからです。彼は「もしも自分が "fairy piping tune" を耳にしたのであれば、様々な言い伝えにあるように 自分も優れたパイパーになる事が出来るのではないか?」と自分自身を慰めました。 彼はすぐにその事を忘れていましたが、6週間後に再び同じ事が起こります。今回は前回よりもバリエーションが複雑では無 くシンプルなメロディーが奏でられ たので、メロディーを採譜する事が無理無く出来ました。さらに、翌年のイースターの頃とその直後に2度、その音を耳にす る事が出来たのですが、最後の機会 はその音はそれまでに無く微かでゆっくりと途切れがちでした。 ここに至って、筆者は自身のこの経験がいわゆる "fairy piping" と か "fairy music" と 呼ばれる民間伝承の存在に対して、生理学的好奇心に基づく関心から光を当てる例に成り得ると考えるようになります。そこ で、当時 Salford University(マンチェスターに有るようです)に勤務していた筆者は、同僚の生理学者に自身の耳鳴り (ringing in the ears)の意味について問いかけました。そうしたところ「お〜、それは耳鳴り(tinnitus/医学用語)という現 象で、耳が聞こえなくなる前兆とし て発症する現象だ。君はどんな具合なのかな?」という答えが帰ってきました。 これは明らかに良くない見立てでしたが、同時に筆者に「パイパーでは無くごくありふれた民衆が関わるタイプの
"fairy piping' stories"」の事を思い起こさせました。その中のあるバー
ジョンは次の通り。 さて、本文ではこれに続いて "fairy piping" ストーリーの幾 つかのパターンに関する解説や、 自身が採譜したメロディーについての細かい説明が続きます。本文中には彼が採譜した楽譜が Ex.1とか Ex.2&3 とかいうように、さもこの記事のどこかに掲載されているかのように書かれていますが、その実、そのような楽譜はどこにも 掲載されていません。ですから、そ れからの1ページ程はほぼ意味不明。 著者は妖精から授かったメロディーと思わしき楽曲を探しますが、その時点で彼が知りえたのはピーブロックに於いては 4曲だけとの事(具体的なタイトルには触れられていません)。そこで、ピーブロック以外のライト・ミュージックに対象を 広げると、"The Eagle's Whistle"(Irish tune)とか "The Fairy Dance"、そして、"Thomas the Rhymer"(a border ballad)などが思い浮かんだとの事。著者は "fairy piping" に関してしばらく興味を失います。 その後の10年間の内に、筆者に一度だけ "fairy piping" を
思い起こさせた事がありました。それは、Radio Scotland から流れてきたある Urlar
のメロディー。そのメロディーに fairy piping tune の特質(the repetitive phrasing punctuated by
leaps to a higher note, and a typically simple but
ingenious turn of the phrase.)が全て備わっているように感じた筆者
は、あれこれ楽譜を当たってその曲を突き止めます。それは、Maol
Donn(MacCrimmon's Sweetheart)でした。筆者はこの曲について次の
ように記します。 筆者が何年かして再び "fairy piping" に思いを馳せるように なったきっかけは、何曲かの Iain Dall MacKay 作の曲をレパートリーにするようになった時でした。新たな Iain Dall チューンとして Hen's March Over the Midden を練習し始めた時、この曲の繰り返しフレーズの習得に手こずります。そして、筆者はいつも上手く習得できずに難儀するこのフレーズは The Brind Piper's Obstinacy のそれとそっくりだ、と気が付きます。そして、「Iain Dall MacKay は何故 Lament for Patrick Og MacCrimmon や Unjust Incarceration と大きく異なるこのようなパターンの曲を作曲したのだろう?」という疑問から、再び "fairy piping" について思いを馳せるようになりました。何故なら、筆者にとっては Hen's March Over the Midden と The Brind Piper's Obstinacy の2曲は、明らかに fairy piping tune にインスパイアされて作曲されたと感じられたからです。 To Be Continued… …と、筆者は4ページを費やして導入部分を書き下した後、本題については「次号へ続く…」と締めくくります。 いや〜、我慢してなんとか読み下して紹介してきましたけど、この時点での私は、筆者の言わんとする
"fairy piping tune" の何たるかが理解できたとは到底言い難い状況。ま
あ、今の所は来月号を楽しみにするしかなさそうです。 オリジナル記事 ⇒ Bagpipe News(on September
14, 2020) この号のもう一
つのピーブロック・ネタは P32 Lament for MacLaine of
Lochbuie です。 そして、この記事の著者も A. G. Kenneth 御大です。どうやら、この1ページ半の記事はこの20年間にこの曲に関して新たに判明した事柄を幾つかまとめた、いわば Piobaireachd Society Book の解説ページの追加資料といった所。Angus MacKay のマニュスクリプトにはこう書いてあって云々、Duncan Campbell のマニュスクリプトにはこう書いてあって云々、…と言った雰囲気の極めて個々の楽譜分析的な内容なので、詳細な紹介は致しません。 P44 A Checklist of Bagpipe Music Manuscripts held in the National Library of Scotland は Part3 Annexes。まだ続くようです。 |
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P20 The Blind Piper's Obstinacy は Part2 前月に続きいよいよ後半、本題です。 筆者は、バグパイプの特徴の一つである「音の持続性」と言うのは fairy music の持つ「延々と継続する」性格との相性が良い。そして、継続性から生み出される長い曲と言うのは、ピーブロックの持つ性 質に完璧に一致する、と分析。それに続いて、ウルラールやそれぞれのバリエイションと fairy music との相性について、ページの半分程を使って直ぐには理解できないような込み入った理屈をあれこれ捏ねまわします。 筆者曰く「一般的には fairy music とピーブロックの相性については多々問題もある所だが、The Brind Piper's Obstinacy に関して言えば、それらの問題点が全てクリアされ、ピーブロックの伝統的な形式の下で、見事に fairy musicが表現されている例である。」と主張します。そして、続くページの1/3程を割いて、 この曲のウルラールと各バリエイションが如何に展開して行くかについて、楽理的な視点から事細かに考察します。 ところが、いくら読み進めても楽理的素養ゼロの私には、この記事は「真面目に論じているのか? 単なるジョークなの か?」俄かには判断し難いと言うのが正直な所。 締めくくりとして、筆者は他者との会話の中で一、二度真顔で「自分が fairy piping を実際に聴いた」と言うことを話した事があるそうですが、誰一人真に受ける人は居なかったとのこと。 翻って、Iain Dall MacKay の時代にはこのような事は無かったであろう、と当時を羨ましそうに振り返ります。 う〜ん、…。 オリジナル記事 ⇒ Bagpipe News(on September 14, 2020) P25 The Rout of Glen Fruin は PS Book 8 p221、Kilberry Book No.85 の曲。PS Music Library で Bruce Gandy の演奏音源を聴くことができます。作者は Duncan Mor MacGregor。(MacGregor パイパーについては、1986年2月 号の記事を参照。) 由来となった Clan Gregor と Clan Colquhoun による 1603年の Battle of Glen Fruin について詳しく知るため、例によってググって検索。まずは Wikipedia の Battle of Glen Fruin の項に目を通しました。しかし、この件に関しては Wilipedia の情報は至ってあっさりとした内容。そこで、ヒットしたその他の幾つかのサイトに目を通して見ました。どのページも Wiki とは段違いに様々な視点からの大量の記述が盛り込まれています。 中世スコットランドの戦いをテーマにした ScotWars と言うサイトの Battle of Glen Fruin,1603 の項では、戦 いそのものにスポットを当てつつあれこれ引用して解説。このサイト、今後も参考になりそうなのでブラウザのお気に入りに 入れました。 Glen Discovery というサイトの Geography of Glen Fruin in relation to the traditional tales of the Conflict というページでは、 Google Earth を使ってこの戦闘について地理的に解説。両軍がどのように移動しつつ最終的な衝突に至ったかが詳細に図解されています。 Geograph というサイトの Memorial for the Battle of Glen Fruin というページでは、この戦闘を記念した Monument の詳細な位置を知ることができます。 その名も、An Authentic History of the Clan Gregor というサイトでは、当然ながら The ROUT of Glen Fruin というページが有ります。 ちょっと変わり種ですが、Youtube で朗読を聴く事もできます。 まあ、どれもそれぞれの視点や立場から深く突っ込んで書かれている様なのですが、何故かどのサイトも今ひとつレイアウト デザインに無頓着な物ばかり。文字 の背景がタータンで読み難かったり、文字が小さいので拡大しようとしても、文字列の幅が規定されていなくてブラウザ自体 をいじる必要があるなど、どのサイ トもアンフレンドリーなこと著しい。 そんな中で、文句無くお薦めなのが、HELENSBURGH HERITAGE
というサイトの Battle of Glen Fruin 1603 (by Stewart
Noble) のページです。 Wikipedia の解説では「Clan Gregor
の旅人2人が、Clan Colquhoun
の領地に差し掛かった際、一夜の宿を求めたにも関わらず断られた。2人は仕方なく無断で打ち捨てられた空家を見つけ
て露をしのぎ、羊を一匹殺して食べ飢え をしのいだ。それを知った The Colquhouns
は2人を捉えて処刑。知らせを聞いた The MacGregors のチーフは仲間のクランと共に The
Colquhouns を報復の戦いを仕掛けた。」という様
な内容ですが、それを読んだ段階では「例によって直情型スコットランド人らしく、ほんの些細な出来事からクラン間の猛々
しい戦いが引き起こされたんだな〜」といった程度の理解にしか至りませんでした。 この記事の大半は Wikipedia の内容をほぼ踏襲している程度なので、記事に書かれているこの戦闘のバックグラウンドなどについての紹介は割愛しますが、時間が許すならば上で紹介した HELENSBURGH HERITAGE のページを始めとする其々のサイトの解説に目を通して、当時のスコットランドの情勢に想いを馳せる事をお勧めします。 さて、そもそも Glen Fruin の位置、そして Monument があるのは↓の場所です。(引用:Googlマップ) この記事の中では、このモニュ
メントの文字は長年の風化で殆ど読めなくなっている、と記載されています。 Near This Spot 記事の中ではこの戦いから生まれたもう一つの曲、The Balck Wedder's White Tail(PS book 11 p334)についても触れられています。 これまで、ありきたりの辞書ではどうしても "wedder" という単語が見当たらなかったのですが、この機会にネット上の辞書をあれこれ検索してやっと探り当てました。曰く…、 wedder=wether : male sheep especially a castrated one(去勢された牡羊)との事。 ごく初期のピーブロック・ソサエティー・カンファレンスに於いて、この不可解なタイトルの由来について誰も説明が出
来なくて顔を見合わせて居たところ、幸いな事に参加者の中に Alex
Haddow が居て、その由来を解説し皆が納得したそうです。 P42 A Checklist of Bagpipe Music Manuscripts held in the National Library of Scotland は Part4 Annexes(Continued)。まだまだ続いています。 |
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P13 Boreraig Revisited は今年の Boreraig Day に関するレポート。(この定例行事の由来と内容は1983年9月号を参照して下さい。) 例年、奉納演奏の後にランドオーナーの Olaus Martin のお屋敷 Husabost House で若手パイパーを対象にしたコンペティションが催されます。今年の記事を書いた Scott Bennett という人は、Seumas MacNeill からこのコンペティションの ジャッジとして声を掛けられ、この楽しい一日を過ごした由。 なんと言うか、ほのぼのとした詩的な文体で書かれた記事なので、読解するのに少々苦労しました。どうやら、この方自 身が若かりし頃、このコンペティションの参加者であったようで、当時の淡い思い出を振り返りながら、この一日を存分に楽 しんだようです。 この年の奉納演奏は、Seumas MacNeill に よる "MacCrimmon will never return" と、Iain MacFadyen による "A Frame of warth for Patrick Caogach" だったとの事。写真→ P16 Piobaireachd Society Gold Medal と言うタイトルの記事には、本文の表題の前に Ontario の文字が入っています。つまり、カナダのオンタリオで開催されるコンペティションのレポートです。レポーターはこのコンペのジャッジとして招聘された Seumas MacNeill 。 このコンペティションは、あの The "How to" Piobaireachd Manual を 記した、カナダ・ハイランド・パイプ界の重鎮 Archie Cairns が、1973年に当時ピーブロック・ソサエティーの Music Commitee 書記だった John A MacLellan を通 じて、ピーブロック・ソサエティー公式ゴールドメダルの交付を依頼したのが嚆矢。この依頼は受諾され、それ以来毎年ソサ エティー公認のジャッジ参加の下で開催されてきたのです。 コンペティション参加者の中には、Bruce Gandy、Donald MacPhee、Michael Grey と いった、その後大いに活躍する名前がちらほら見受けられます。 P20 Notes on Piobaireachd は↑のタイトル下説明によると、第2次世界大戦最中の1944年、ドイツ南部バイエルン州のとある捕虜収容所内で行われた講演との事。講演者は J. Hector Ross という人。捕虜収容所の 中なので、一切の関連書籍を参照せずに纏められた由。今から72年前、当時から遡っても42年前の講演録です。 ボリュームは4ページ余りで、概ねの内容は「ピーブロックとは何ぞや?」といったところ。 内容的には、このサイトのあちこちで説明している内容とほぼダブっているので、ここでは逐語訳的に紹介する事はいた しません。 印象的なのは、収容所の中で手元に何の参考資料も無いと言う状況下で行われた講演であるにも拘らず、触れられている 様々な出来事の年代や内容が極 めて正確に述べられている事。講演者はこの方面に関する余程の博識者だと思われます。スコットランドでは著名な方なので しょうか? ダメ元でネット検索し てみましたが、残念ながら特定する事はできませんでした。 P44 A Checklist of Bagpipe Music Manuscripts held in the National Library of Scotland は Part5(Concluded)で ようやく完結です。トータルで18ページ余りのボリュームになりました。現在は、このリストをベースにテーマをピーブ ロックに絞ってアップデートされた最新のリスト(PDFファイル/19ページ)が 、CoP(CoP が NPC に吸収された後、2023年現在は、PipingPress) の サイトにアップされています。 ⇒ Piobaireachd Manuscripts in the National Library of Scotland さらには、今ではリストだけでなく、原本そのものがデジタル化されてネット上で容易に閲覧できる時 代。僅か30年ですが、正に隔世の感があります。 |
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P14 The Silver Chanter は
この年の "The MacCrimmon Memorial Piobaireachd Recital" の
レポート。無署名なのでレポーターは過去のこのイベントと同様に Seumas
MacNeill 自身だと思われます。 レポート冒頭の "The twentieth MacCrimmon Memorial Recital held in Dunvegan Castle attracted again a capacity crowd, all anxious to hear the great MacCrimmon tunes played in the room where they were first publicly performed." という書き出しに、このリサイタルのプレスティージアスな位置付けが表現されています。 レポート文中の "It must be the aim of every piper in the world to visit Dunvegan Castle and Boreraig at least once in his lifetime." という一文 がグサッと胸に突き刺さります。言われるまでもなく分かっているのですが…。果たして私には果たす事が出来るのでしょう か? このリサイタルの唯一の欠点は「会場の狭さ」との事。ホールの収容人数はせいぜい 80人ほどなので、溢れた聴衆はダイニングルーム(それでも、さぞかし広いのでしょうが…)で妙なる演奏に聴き入るしか無いとの事。その場合、演奏者の姿 を観る事はできません。 この年は8人のパイパー(過去のゴールドメダリスト)が招待された由。
招待されたパイパーから申し出のあった6曲の中から、当日演奏を求められる曲がセレクトされるという事です。 演奏者と演目は次の通り(演奏順)。 ・Iain MacFadyen "Macleod
of Colbeck's Lament" そして、この年の The Silver Chanter は Hugh MacCallum に授与されたとの事です。 P17 Argyllshire Gathering は同様に格式の高くかつ長い歴史の有る(本来の意味の)コンペティションのレポート。表紙の説明にあるように、この年の Gold Medallist は Fred Morrison と の事ですが、この人は顔写真から判断するに、多分こ の Fred Morrison とは別 人でしょう。もしかしたら、父親? ちなみに Gold Medal の部門のその他の結果は、2nd James MacGillivray、3rd Hugh MacCallum、4th Logan Tannock といった順位でした。 |
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P34 The Little Prince はピーブロックのタイトル。実は、この曲については、これまで演奏音源と出会った事が全くなかったので、目次に目を通した段階では、まさかこれがピーブ ロックのタイトルであるとは気が付きませんでした。 しかし、A. G. Kenneth による1ページにも満たないごく短いこの記事に目を通し始めると、どうやらこれはあるピーブロックについて書かれた記事だという事が想像されました。 そこで、ピーブロックの曲名リストに当たると、確かに "Little Prince - You
Are My Choice" という曲が有り、PS Book 13/P410
との事。早速、楽譜を広げてみました。 さて、肝心のこの記事は次のように書き出されます。 A. G. Kenneth は「Seumas MacNeill はこの曲を Secondary tune としているが、それはちょっと違うんじゃないか?」と述べます。もし、そうならばもっと覚え易いはずだと…。そして、具体的に構造を解析。 さらに、この曲が覚え難い理由の一つとし て、cadence for C の不整合性が有る、と指摘。ウルラールとバリエイションで同じ場所の cadence for C の前後の音が B だったり Low A だったりする事が混乱させられる原因だと分析します。 そんなかんなで、一般的な Secondary tune とは違った珍しい構成の曲ではあるが、大いに魅力に富んだ曲である。そして「タイトルと音楽的内容から推して lullaby であろう。」と推しています。 極めて短い記事ですが、薀蓄に富んだ中々興味深い内容でした。誰かの演奏音源に出会いたいものです。 上の記事の見開き反対側、P35 Piper's Quiz が興味深い。古い写真の人物当てクイズは "Piping Times" の定番の一つです。 P43の答えは次の通り。 1985年7月号 James Campbell of Kilberry の講演 "50 Years of Judging” で触れられていた、若き後継者たる James がアマチュア・ジャッジとしてデビューして間もな い頃のポートレイト。21才の James が先輩諸氏 に囲まれ、どことなく落ち着き無くおずおずとした表情が印象的です。 |
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表紙の写真の主、ベレー帽姿でお判りでしょうか? Murray Henderson
御大です。さすが若いですね。 P13 Glenfiddich は The Grant's Championship から通算13回目の今回は、Glenfiddich に名称変更されて2年目に当たります。コンペティション・シーズンを締めくくる、最高峰のコンペティションのレポート。(このイベントのコンセプトについ ては 1985 年12月号参照。) この年の結果は以下の通り。 1st ★★★ Iain MacFadyen
"The Old Men of the Shells"(77、81、84年の覇者) ★_★ Bill Livingstone "The
Battle of Pass of Crieff" (冒頭の印は過去3カ年の連続出場状況/★は出場 /☆は初出場/_は参加実績無し/順位はピーブロック部門) ちなみにオーバーオールチャンピオンも Iain MacFadyen でした。 パイパー名の頭に付けた記号でお判りの通り、この年初登場は Willie MacCallum と Roderick MacLeod
の2人。両人のその後の活躍はご存知の通り。この後の30年間、常にトップ10パイパーの一人であり続けています。 Willie MacCallum の叔父に当たる Hugh MacCallum と、The MacFadyens の1人 Iain MacFadyen の2人がトップ・オブ・ザ・トップという訳ですから、なんともいう豪華メンバー揃い踏みといった所。レポートの冒頭で、Seumas MacNeill も「13というのは決して不運な数字ではない。今年はこれまでのこのイベントのベストの一つである。」と書いています。 P29 Finlay's Lament は PSブック No.1 P28の曲(Lament for Finlay)に関する 記事。実は PSブック No.13 P429 にも同じタイトルの曲がありますが、全く別の曲との事。 A. G. Kenneth 御大が PSブックのセッティングにご不満のようで、個人的見解としながらも、かくかくしかじかの方がすんなり来るとして、1ページに渡ってあれこれ説明。見開き ページに修正版の楽譜を掲載しています。 P34 Gleanings from pre-MacKay Piobaireachd: Clialudh は、あの Frans Buisman による第2弾。今回は3回 連載モノ。(何故かタイトルで名前の i が抜けています。) 内容は Donald MacDonald の "Collection of the ancient material music of Caledonia" (1820年)のイントロページに記述されているという "Clialuidh" という装飾音についての研究レポートといった所。今回だけでも5ページに渡ります。例によって専門的な内容で私の力量で紹介 できるようなものではないので、 残念ながら今回も細かい内容は端折らせて頂きます。 それにしても、当時と今とで厳然と違うのはこのような記事と出会った際に、文中に名前の出てくる古い楽譜やマニュスクリプ トのオリジナル画像をその場で目にする事が出来る事。理解できるかどうかは別にしても、その記事に対する興味は段違いに深ま ります。 この記事にも、Joseph MacDonald の "A Compleat Theory of the Scots Highland Bagpipe"(1760 年)の名前が頻繁に出て来ますが、今ではその復刻本まで手元にあるので、読み進めながら「ふん、ふん…」と頷く事しきり。 実に感慨深いものがあります。 |
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