"Piping Times"《1992年》
 P23  The London Competition はケルト暦的に言う所の新年(11月)最初のコンペティション、1991年11月2日に開催された、正式名称 "The 52nd Annual Competition of the Scottish Piping Society of London" のレポート。
 
 Oban Inverness のゴールドメダル取得者及び、過去の London オープン部門優勝者のみを対象とする、最も映えある Bratach Gorm の結果は次の通り。
 ちなみに、この部門の優勝者は自動的に翌年の Glenfiddich チャンピオンシップに出場する事になります。
  1. Willie MacCallum "MacNeill of Barra's March"
  2. Michael Cusack "Lament for Donald Duaghal MacKay"   
  3. Roderick MacLeod "I Got a Kiss of the Kings Hand"
  4. Murray Henderson "Old Men of the Shells"
  5. Andrew Wright "MacRaes' March"

 その他のコンペティターは、Brian Donaldson、Iain Macey、P/M Angus MacDonald、Ronnie MacShannon、Kenneth MacLean といった面々。

 オープン部門の結果は次の通り。
  1. Roderick MacLeod "The Battle of Audearn, No.2"
  2. Murray Henderson "Lament for Donald Duaghal MacKay"
  3. Brian Donaldson "The Big Spree"
  4. Willie MacCallum "The Finger Lock" 
  5. Michael Cusack "Unjust Incarceration"

 レポートの中で、ロンドンで開催されるこのイベントの位置づけ(意味合い)に関して次の様に書かれています。
 "The gathering is more than just a competition; it appears to be one of the most important annual get-togethers for pipers and piping enthusiasts in the South of England. And even further abroad, because Jacky Pincet and Patrick Molard had come over from brittany, and a regular attender throughout the day was Tommy Moore from Dublin."(太文字&色文字:引用者)


 P37 Petrus/Giordano Bruno例の Frank Timoney の署名記事。
 これは是非紹介しなくては…、と黄色マーカーを手に読み込みます。2ページの記事が最後まであちこち黄色だらけになった 頃、ふと「似たような記事があった様な…?」という想いに囚われます。更に、そもそもこの記事の元になった数年前の記事が 有った筈だが、それはどこだっけな?…と、過去記事を検索。
 そして判明した事は、なんとこの記事は 1991年7月号 P53に 既に掲載されていた記事その物だったのです。

 いや〜、Seumas もかなりボケが入ったものだな〜、と妙に感じ入りました。
 …がしかし、よく考えて見れば、僅か数ヶ月前に紹介した記事について、すっかり忘れてしまっている自分の方こそボケが酷 い、と愕然。1917年生まれの Seumas は当時 70代半ばのハズ。私は現時点(2022年1月)でもう少し若いのですが…。

 P56 の広告ページを紹介します。
 1993年9月1日の Canntaireachd - MacCrimmori's Letter No.10 で取り上げた David Naill & Co. 製のエレクトロニック・パイプです。その中で書いた様に、当時 の "Piping Times" の誌面に継続して広告が掲載されていましたが、そもそもこの号が最初だった様です。

 でも、この広告、ちょっと変わった広告です。
 何故かというと、肝心の製品の価格が書かれていない。更に言えば、上に写っているボックスがフルセットタイプの EL2で、 下のチャンターと電子ユニットだけの製品が EL1ですが、その様な説明すら書いてありません。

 つまり、これはある意味で、現代ではよく使われる手法「ティーザー広告」のはしりとでも言える物なのではないでしょうか。 まずは製品完成の告知。「当社ではこの程、この様な優れた製品を開発完了しました。近日発売! 乞うご期待!」と言った所?

 次号以降の広告で順次、価格が開示されて行く様子、そして、最終的には製品が EL2に一本化される様 子 をお伝えできると思います。

 今月号にはピーブロックネタが2つ。
 1つは目次タイトルで直ぐにそれと判る、P26 Joseph MacDonald's Introductory Runs です。
 しかし、これは難解なネタ。何故かと言うと執筆者があの Frans Buisman だからです。
 
 テーマ的には興味のある内容でもあり、手書きスコアもあれこれ挿入されていて、分かり易いかなと思い、何とかして理解しよ う と読み進めます。
 …が、やはり途中でギブアップ。何しろボリューム的にも、Part1と題された今回だけでも11ページと膨大。とても着い て行けませんでした。



 因みに挿入されている手書きスコアというのは↑こんな感じです。(クリックで拡大)

 タイトルからは ちょっと想像し難いのですが、実は次の P39  Dots and MacDonald もう一つのピーブロックネタです。但し、こちらの MacDonaldDonald MacDonald の方。

 1991年11月号の1991年第5回 Donald MacDonald Quaich の記事の中で、レポーターの Malcolm McRaeAllan MacDonald による "Patrick Mor(Og) MacCrimmon" の演奏について、色々と考察していた事を紹介しました。この記事はその Malcolm McRae の考察に対する当の Alan MacDonald からの応答(回答、反論?)です。

 Allan MacDonald はピーブロックとガー リッ ク・ソングとの関連性について長年に渡って探求。1995年には 300ページ近い論文 "The Relationship between Pibroch and Gaelic Songs" を執筆し、エジンバラ大学で学位を取得しています。その論文に目を通(そうと)した際に感じたのですが、この人の文章は言い回しが独特かつワンセンテ ンスが長い傾向にあり、Frans Buisman の論文とはまた違った意味で難解(結局、この論文読破も途中挫 折)。

 僅か2ページのこの文章も、サッと読んだ位では彼が言わんとしている事が中々飲み込めません。記事をスキャン&テキスト化 して頼りになる翻訳ソフト(DeepL)に掛けてもかなりチンプンカンプンな訳文に…。音楽用語やピーブロックの専門用語も あれこれ出てくるので、それは致し方無いとして、再度原文と照らし合わせながら、どうにかこうにか意味の通じる日本語にして 読解を試みます。

 どうやら、Allan MacDonald Malcolm McRae の考察に対して強弁に反論している訳でも、かと言って、全面的に賛同している訳でも無い様です。幾つかの点についてその様に演奏すべき根拠を解説し、ある 点についてはその位置付けを明確に示す。また、ある点については「それは真逆である」と反論、…と言った風です。

 一つ印象的なのは、Cadence を、現代の様に E を伸ば(強調)して演奏するので無く、Run(連符)として演奏する正当性に関しては「ガーリック・ソングとの共通性は言うまでもないが、それを引き合いに出すまでも無 く、古(いにしえ)の演奏スタイルにその証拠は色濃く残っている。」と 強調している事です。

 最後の方でこの様に記述する前、前半部分では「Donald MacDonald 時代のエコービートは、Joseph MacDonald 時代と現代のそれとの架け橋になっている。」と言った様な記述が見られます。Run についても、同様に Joseph MacDonald が残した記述の中に、明確な証が示されていると言いたかったのでしょう。…という意味では、↑の Frans Buisman の記事もいつかきちんと理解できる様に なりたいものです。

 何れにせよ、1991年第5回のレポート紹介で書いた様に、Donald MacDonald Setting の表現(解釈)について、この1991年の Allan MacDonald の解釈による提起(演奏)が大きな転換点になった事は確かな様です。

 どうにか日本語的には意味が通じても、楽理的素養が決定的に欠如している私には、内容を正確に翻訳する事はどう考えても無 理。どうせ近日中にデジタル化されるので、この際全ページをペーストしておきます。興味のある方はどうぞお目通し下さい。

 最後、水平線下の格言?(誰もが称賛すると確信できる事を行ったとしても、 誰かには必ず疎まれる)が、この時の Allan MacDonald の心境を端的に表している様に思えます。



 先月号に初登場した David Naill & Co. 製のエレクトロニック・パイプの広告。この号で漸く価格が表示されました。余りの変わり ばえの無さ。もしかしたら、先月号の広告は単純なミスプリで、単に価格を記載し忘れただけだったのかも知れませんね。


 タイトルだ け で ピーブロックネタと判るのは、P16 MacCrimmon's Prentise - A Post Graduate Student Perhaps?
 
著者は Roderick Cannon と並ぶ(共著も多数)著名なパイピング歴史研究者 Keith Sanger 御大。4ページの割とコンパクトな記事です。
 
 冒頭で、 "Piping Times" 1977年5月号(Vol.29/No.8)に掲載された、Ruaraidh Halford MacLeod という人による "The End of the MacCrimmon College" という記事のについて触れられています。

 今回冒頭で紹介されているのは、この記事の中の Campbell of Barcaldine papers(古文書)に 1698年11月1日付けで記されているという、Sir John Campbell, Earl of Breadalbane が彼の執事に当てた指示書き "give McIntyre ye pyper forty pounds scots as his prentiseship with McCrooman" という記述。
 確か、この記述については「スコットランドの歴史の中で MacCrimmon…とそれに類する様々な名前)がいつ登場しているか?」という件について書かれ た、Seumas MacNeillBridget MacKenzie の諸処の記述のあちこちで目にした記憶が有ります。
 
 筆者によると、Scottish Record Office によるこの古文書の最近の再目録化作業によって、パイパー育成に於ける "prentiseship(徒弟見習い)" に関連する補完的な資料や、当時のその地域のハイランド・パイプ文化の背景に関する理解を拡大する様な資料が明らかになった、との事。

 Sir John Campbell が彼のパイパーが レッスンを受けられる様に手配したのはこれが最初の事ではなく、1675年10月(先の指示書きの23年前)には "give Donald Roy pyper fortie pund Scotts to learn his trade and give him four pund Scotts to buy him cloaths" (pyper、 fortie、pund 等の綴りは全て原文通り)という記載されている由。その他にも、この Donald Roy McIntyre という pyper に対してプレイドや靴などを手配する記述が散見されているそうです。

 筆者はこれに続けて、この Donald Roy McIntyre というパイパーが「一体どの MacCrimmon の下で修行したのか?」等について様々な考察を深掘りしています。諸処に興味深い記述もありますが、概して極めて細部にわたる解説の為、全体としては私の 理解を超える内容。 …なので、紹介はここまでとさせて頂きます。

 P22 From the Past は一枚の写真の紹介です。
 1970年
The Argyllshire Gathering に於けるパイパーたちの記念撮影。当時から数えて 22年前、今から半世紀余り前の第一線パイパーの面々が勢揃い。
 この当時(1992年)にもまだ第一線で活躍中のパイパーも見られます。Dr Jack Taylor Hugh MacCallum、そして、私にとっては特別な存在(※1※2)である Angus J. MacLellan さんの若々しい事…。(クリックで拡大します)



 因みに、この時のウィナーは、Senior Piobaireachd 部門が John MacFadyen、Gold Medal 部門が Andrew Wright だったとの事。また、Andrew Wright は2週間後の The Northern Meeting に於いても Gold Medal を獲得。Double Gold Medalist になった由。



 P33 Association for the Promotion of Piobaireachd in Brittany(A.P.P.B.)はフランスのケルト圏たるブルターニュでの、新たなピーブロック愛好団体 が設立された事をアナウンスした2ページの記事。
 フランス語名 Association pour la Promotion du Piobaireach en Bretagne というこの新たな組織の設立趣旨は "for the promotion, knowledge and spreading of Ceol Mor in our part of the Celtic world." 。そして、その成果として "make people discover a magnificent music which tends to be confined in a limited circle of pipers"(太 字引用者)を目指すとしています。

 この記事が書かれた時点では「誕生から1週間しか経っていない」と書かれている事から、組織としての創立自体はホヤホヤで すが、その前段階としてのブルターニュ地方のピーブロック愛好家たちの活動が極めて活発だった事は想像に難くありません。今 後は、目的達成のための様々な活動やイベントの開催を企画している、と意気軒昂に宣言しています。(↓関連記事)

 ↑の意気込みが決して 絵空事ではない証拠として、P40 Ceol Mor in BrittanyA.P.P.B. 設立前のプレイベントとして前年1991 年の11月9日に開催された コンサートのレポートです。コンサートを企画したのは A.P.P.B. 設立の仕掛け人かつ代表を務める Louis-Marie Mondeguer という人物で、実は↑の記事を書いたのもこの方。

 参加したパイパーは本国スコットランドから駆けつけた Fred Morrison と、地元ブルターニュを代表する Patrick Molard
 「たったの2人だけ?」と思うなかれ。なんとこの2人がそれぞれ4曲づつ!演奏したというのです。英仏を代表するマエスト ロ2人によるピーブロックを8曲も堪能できたら、もうそれは立派なグランド・コンサート。ピーブロックを愛する人々にとって は至福のひと時だった事は想像して余りあります。因みに演目は↓の通り…。

Patrick Molard

  1. Glengarry's March(Cill Chriosd)
  2. The Gathering of Clan Chattan
  3. The Prince's Salute
  4. The Sister's Lament
Fred Morrison
  1. Earl of Seaforth's Salute
  2. Lament for Patrick Og MacCrimmon
  3. The Battle of Waternish
  4. Lament for Ronald MacDonald of Morar
 更に、主催者としてはこのイベントを単なる(曲を聴くだけの)コンサートとしてだけでは無く、「ピーブロックとは何ぞや? その歴史は?この曲の背景は?」といったピーブロックという芸術文化の全体像を伝えるためのセミナーとして明確に位置づけて いました。ですから、当日配布されたプログラム資 料には、ハイランド・パイプの楽器としての説明や歴史に留まらず、演奏される各曲について、Alex Haddow Angus MacKay の楽譜集から引用された詳細な説明や背景が記されていたとの事。
 そもそも、当日演奏された8曲も次の3つのカテゴリーを意識した選曲だった由。お見事!
  • War and Battle(PM-2、FM-3)
  • Salutations to great men(PM-1&3、FM-1)
  • Lament(PM-4、FM-2&4)

 マルチ・パイパーたる Fred Morrison は他国の様々なパイパー達との交流にも意欲的。恐らくブルターニュのパイパーたちともこのイベント以前から親交が深かっ たのでは無いかと想像されます。
 また、彼はそれ以降もブルターニュのイベントには精力的に参加しています。Lorient という街で(恐らく1997年〜)開催されている Festival Interceltique de Lorient のピーブロック・コンペティションでは常連&常勝といった感じ(YouTube に動画が沢山アップされています。)。
 自身のソロアルバム "Up South" にも収録されている The Earl of Seaforth's Salute は彼の十八番でいつも名演奏を聴かせてくれますが、2014年のコンペティションで はこの曲で優勝しています。

 この極めてマニアックとも思われるイベントになんと300人近くの聴衆が集まったとの事。恐らく、主催者としても予 想を上回る反響だったのでは無いでしょうか。そして、その予想を超えた反響と成功が A.P.P.B. 設立に向けての大きな原動力となった事は想像して余り有ります。

 天と地ほどの差があって比較するのは極めて僭越ですが、1977年のブリティッシュ・トラッ ド愛好会設立に至った時の経験を踏まえると、このイベント主催者の当時の高揚感が想像できてしまうのです。

 このレポートは恐らく Seumas MacNeill 自身が書いたと思われますが、最後 を次の様に締め括っているのがとても印象的です。

 It would seem that the presenters of piobaireachd recitals and competitions in Scotland, and also throughout the world, could learn something from the way in which this particular concert was put on.

(スコットランドのみならず世界中のピーブロックのリサイタルやコンクールの主催者は、このコンサートの開催方法か ら、何かを学ぶことができるのではないだろうか。)


 スコットランド文化の中で極めてマイナーな存在に埋れてしまっているピーブロック。順位付け有りきで、長々としたチューニ ング付きの課題曲を繰り返し聴かされるごく一般的なコンペティションでは、幅広い共感は得られません。
 崇高かつ魅力的な芸術、a magnificent music であるピーブロックを遍く知らしめる事が、思う様に出来ていない実情に、日頃から強いフラストレーションを感じていたのでしょう。
 目ぼしい記事が乏し い中で、唯一紹介すべきは P36 An Index to the "Notices of Pipers" という記事。
 何故かと言うと、著者があの Dr. Roderick Cannon 御大だから…。

 この方の研究対象はピーブロックだけでなく、歴代の名パイパーたちや、バグパイプ音楽全般に関する事まで広範囲。
 バグパイプ音楽全般に関する目録としては "A Bibliography of Bagpipe Music" (1980年)が有名です。
  この手の目録は、リリースから年月を経て新しい情報が入らなくなると途端に陳腐化、単なる過 去の参考文献になってしまうものですが、故 J. David Hester が率いた APC ではこの目録をアップデートし続ける事を重要な使命と位置付けていました。
 更に、APCが Pibroch Net という名称となり、体制を 再構築した後も、その意思は引き継がれているようです。名著に対するリスペクトが感じられます。

 さて、今回の記事の "Notices of Pipers" については、次の様に書き出されています。

 "This famous compilation of historical information about pipers and piping is a large album of notes, cuttings and pictures originally compiled by Lt. John MacLennan, who passed it on to his son, the late Captain D. R. MacLennan."

 そして、概要について説明。
  • (印刷物として纏められたものではなく、活字としては)1967 年(4月号/Vol.19/07)〜1974年(9月号/Vol.27/12)の "Piping Times" に 連載された記事。
  • 当初は "A dictionary of Pipers and Piping" というタイトルだったが、連載されるようになってから "Notice of Pipers" と改称された。
  • 1976年(3月)ピーブロッ ク・ソサエティー年次総会に於いて、Captain D. R. MacLennan がその内容について講 演している。⇒ 1976年 PS Proceeding/Session1"Reminiscences of Pipers and Piping"
  • オリジナルの原稿はエジンバラの The Notional Library of Scotland に収蔵されている。
  • 記事の殆どは特定のパイパーに関する内容だが、幾つかは著述者やパイピング界に於ける重要人物に関するもの。 ハイランド・パイプだけでなく、中にはその他のバグパイプに関する記事もある。
  • 記事は概ねアルファベット順に掲載されたが、概ねなので記事を検索する時は次のリストを参照して欲しい。
 上記の概要説明に続き、 ほぼ2ページ分になる全部で74件の記事の対象としているアルファベット範囲と、それらが掲載された "Piping Times"Vol.- No.- Page のインデックスが掲載されています。↓





 この当時の "Piping Times" を読んでいると、この "Notice of Pipers" という名称が頻繁に出て来ていました。これまで、その意味が良く分かっておらず、今回の記事で漸く全体像が見えた次第。いずれ、"Piping Times" がデジタル化され、バックナンバーに自在にアクセスできる様になった暁には、このインデックスに沿って気になる記事に目を通し てみたいものです。
 P17 1892 は面白い記事です。
 筆者の John Don MacKenzie は、当時のパイピングシーンにその名が時折り出てきているパイパー。音源も複数残されています。ただ、本職は何なのかは知りません。

 写真無しの4ページのこの記事が「面白い」と思うのは、その記述内容そのものが面白いというよりも、記事のテーマ自体が面 白い、という意味です。
 
 タイトルの 1892 というのは 1892年の意味。つまり、この号が発行された年の 100年前。筆者は、遡る事100年前のパイピングシーンを、まるで昨日の事の様に描き出します。

 例えば、次の様に…、
 「(この年)Cameron boys たちは未だ生きていた。Alick は54才、Colin は49才、そして Keith は38才。彼らは、"Cameron School" と呼ばれる演奏と指導のスタイルを確立し、非常に高く評価されていた。彼らは父親の Donald や、John Ban MacKenzieAngus MacKay, Rassay に指導を受けた叔父の SandyAlexander)から指導を受けた。'Camerons' の最も知られた弟子たちは、John MacDonal, InvernessJohn MacDougall Gillies、etc.…」と言った様な文章が連綿と続きます。

 要するに、この系譜に出て来る様なパイ パーたちの様子を 1892年(前後)の視点で淡々と紹介している感じ。その他には「○○年のコンペティションでは誰々が優勝…」等々…。ま た、時折り、現 代のシーンにも触れたり…。

 冒頭でも書来ましたが、内容的には特段の目新しい事が書かれている訳ではありません。言うなれば新聞の三面記事といった雰 囲気。ただそれだけで、4ページに渡ってツラツラ書かれている。そこが、どことなく「面白いな〜」と思った次第。(特段、難 癖を付けている訳ではありません。)

 P24 Manchester Piping Recital はタイトル通り、イングランドのマンチェスターに於いてこの年の2月22日(金)に開催されたパイピング・リサイタルのレポート。レポートを書いた Owen D, Nash という人は、恐らくこのイベントを主催した地元の人物だと思われます。



 写真で判る通り、演奏者は当時の若手パイパー代表格の2人、Gordon DuncanFred Morrison という豪華キャスト。記事によると、1970年代初めに Angus J. MacLellanDonald MacLeod を招いて同様のリサイタルが開催されたとの事。マンチェスターでは久方ぶりの本格的なパイピング・リサイタルだった訳です。
 
 ピーブロックについては Fred Morrison "Lament for Mary MacLeod""Lament for the Children" を披露。つまり、初心者向けの「短く分かり易い曲」と「必聴のマスターピース」という組み合わせです。
 一方で Gordon Duncan は自作のピーブロック "Lament for the Coming of the White Settlers" のグラウンドを演奏した由。私は、彼がピーブロックを作曲していた事は知りませんでした。当然ながら、この曲についても聴いた事はありません。意外な事実 が判明しました。

 同じ英国内とは言え、各地でハイランドゲームが開催されたり、ローカル番組で頻繁にハイランド・パイプの映像や音声がオン エアされるスコットランドとは状況が異なるイングランド。インターネット経由で自在に映像や音声にアクセスできる現在とは 違って、ハイランド・パイプ音楽に興味を持っていたとしても、実際にスコットランドに足を伸ばさなくては、本物の音楽に接す る事が容易ではなかった時代です。ですから、このイベントには、日頃なかなかその様な機会に恵まれないハイランド・パイプ愛 好家たちが、マンチェスターのみなら ず、周辺各地から大勢(およそ150人)集まったとの事。

 ご存知の通り、この2人はこの当時としても(そして、その後も長年に渡って)特にライトミュージックの演奏に関しては飛び 抜けた存在でした。主催者としても、久方ぶりのパイピング・リサイタルで、いきなり聴衆を難解なピーブロック漬けにするのは 憚られたのでしょう。それよりも、当代随一のアトラクティブなパイピング・テクニックを見せ付ける事によって、まずはハイラ ンド・パイプ・ミュージックのファンを増やそうとした意図は明らかです。

 そして、この2人がその期待にたがわず、超絶技巧であれこれのライトミュージックの数々を披露して聴衆を魅了した事 は想像に難くありません。イン ターバルには魅力的な景品の当たるくじ引きイベントも実施され、リサイタルはなんと3時間半にも渡ったと言う事。集まった聴衆たちも さぞかし満足した事でしょう。
 
 主催者たる Owen Nash さん、イベントの成功に気をよくした様で、この年の10月か11月に次回を予定している、とレポートを締め括っています。

 P35 Postscript on James Logan の著者はあの Frank J. Timoney
 「Angus MacKay Book に於ける James Logan の関与は如何に?をテーマにした《著者違いの》一連の記事の Part5に 当たります。因みに、Part1〜4は次のとおり。
  1. "James Logan" by Seumas MacNeill/1987年9月号
  2. "James Logan Part2" by Frank J. Timoney/1988年3月号
  3. "James Logan Part3" by Ruairidh Halford-MacLeod/1990 年2月号
  4. "James Logan Part4" by Ruairidh Halford-MacLeod/1990 年3月号
 想像が付くとは思いますが、今回の記事は Ruairidh Halford-MacLeodPart3に対 する、Frank J. Timoney からの反論です。

 この記事を紹介するために、改めて Part1〜4を読み返したのですが…。正直言ってそれだけで疲れま した。特に、Frank J. Timoney による Part2の 最後のちゃぶ台返しから、Ruairidh Halford-MacLeod による反論が展開される Part3&4のカオスはうんざり。更にその反論となると完全にお手上げです。
 今 回の記事の分量は1ページ半程度ですが、相変わらずの長文&難解な文章を紹介する気は完全に失せました。
 P21 Binneas is Boreraig - Music and Boreraig は、タイトルで想像できる通り、パイプのかおり第14話(2003/7)で取り上げている、 このユニークな楽譜集に関する紹介記事。量は3ページ弱。
 
 パイプのかおり第14話の冒頭で私は「2003年6月号と7月号の "Piping Times" の記事から引用して紹介」と書いていますが、どうやら、そもそもその記事のオリジナルは、この1990年初頭の「最初の1巻だけを復刻した」際に書かれた 文章だった様で す。

 今回の記事に署名はありませんが(逆にそれだからこそ)十中八九 Seumas MacNeill  が書いた文章だと思います。
 つまり、2003年の全巻一括復刻版(コンプリート・コレクション)の際の紹介記事、更には 2008年リリースの "Masters of Piping" 等に、自身のこの文章を使い回した、といった所なのでしょう。
 
 その様な訳で、この記事の内容はパイプのかおり第14話とパイプのかおり第34話の後 半「Malcolm Ross MacPherson の項」の中にほぼ網羅されているので、ここでは新ためて紹介は致しません。

 この当時の "Piping Times" には毎号↓の広告が掲載されていました。この広告と今回の記事を読んで、私はこの Vol.1を取り寄せしたのでした。記憶に定かではありませんが、恐らく、広告に書いてある通りの価格で(つまり、船便で)取り寄せたのだと思います。



 P24 Japan for Piping は気になるタイトル。半ページ程の軽い記事なので、↓にそのままコピペします。



 つまり、その当時のスコットランドに於ける日本総領事を務めていた Seiichiro Otsuka という人が、現地でハイランド・パイプを演奏していた様です。
 更には、スコットランドに於ける最初の日本人パイパーとして、やはり日本領事館所属の Yukio Sutoh(Satoh の間違い?)という名前も紹介されています。

 P41 Joseph MacDonald's Introductory Runs は言うまでもなく、Frans Buisman による2月号の記事 Part2。恥ずかしなが ら、いつもの通りスルーさせて頂きます。
 P21 The MacCrimmons はピーブロック愛好家には気になるタイトル。

 冒頭の書き出しも次の通りです。
 "When we see that name we tend to think of Donald Ban or Patrick Og or Iain Dubh, or any of the other great heroes in our piping history."

 この記事は、この伝説的な一族の現在の状況について、次の様に紹介しています。

 現在(1992年)スカイ島には MacCrimmon 家は残って居らず、唯一、インバネスに居住する一家族の一員が、ジュニアのパイピングシーンで活躍し始めている。
 
 一方で、MacCrimmon 一族の末裔たちの多くはカナダにて元気に暮らしている。中でも、パイピングに関した家族としては、オンタリオ州グエルフ(Guelph)に住む Hugh とその妻 Irena、息子 Iain、娘 Carol は Boreraig との強い繋がりがある。

 そして、反対側(原文では "At the other side" /次の記述からアルバータ州エドモントンを指していると理解)には、 The MacLeod of Dunvegan に仕える9代目世襲パイパーたる Malcolm R. MacCrimmon が居る。

 この Malcolm と同じ名の祖父 Malcolm シニアは 1851年にオンタリオ州ウッドビル(Woodville)で、スコットランド移民の息子として生まれた。21歳になった彼は、当時の若者達の多くと同 様、仕事を求めて西部に向かい、鉄道会社で職を得る。そして、西部開拓の様々な困難な路線開発に携わった。後年、彼は現在も 孫が住んでいるアルバータ州エドモントン(Edmonton)に居を構える。

 MacCrimmon 一族はカナダのこの地域で家族を増やし、地域の発展に大きく貢献した。Malcolm シニアは鉄道延伸工事の契約を獲得。一時は200人以上の人間が彼の下で働いていた。彼の兄弟である PeterDonald、 従兄弟の HectorNorman、そして、彼の2人の息子 Roderick J. Arthur いずれもがこの事業に従事していた。
 
 Roderick(1862年生)は現在の Malcolm MacCrimmon(1918年生)の父親である。 この Malcolm はパイピングに興味を持って育ち、 第2次世界大戦中にカナダ軍の一員としてスコットランドを訪問。その後、彼はスコッツ・ガードに転籍してエジンバラ城で P/M William Ross の指導を受ける様になる。

 彼の息子である Iain(1952年生)はカナダではよ く知られたトップ・パイパーである。彼はいくつかの優れた曲を作曲し、パイプミュージックの楽譜集を3冊出版している。

 Iain は 1983年に John MacLeod of MacLeod によって The MacLeod of Dunvegan に仕える第10代世襲パイパーとして承認された。1981年生まれの Iain の息子 Calum は現在チャンターによる練習を始めており、彼がいずれこの輝かしい先祖の地位を引き継ぐ事は疑う余地がない。

 今年初め、Iain MacCrimmon 一家はスコットランドに里帰り移住。Dundee の近くの Monifieth に住んでいる。彼がスコットランドに居を構えた事により、我々は今年の各地コンペティションに於いて彼の演奏を聴く事になるだろう。

 記事のリードに続き、↓の写真が掲載されていました。記事中には説明が無いので、キャプションから推察するのみですが、 1989年にアルバータ州東隣のサスカチュワン州の某所に於いて MacCrimmon 一族の何らかの集いが開催された様です。(クリックで拡大)



 そして、この記事のトップページの見開き反対ページの P20 に全面掲載されていたのが、次の写真。記事に登場する第9代と第10代の世襲パイパーのお2人です。





 P31 The John MacFadyen Lecture は4月3日に例年通りスターリング城の Chapel Royal で開催された由。この年の講演者は BBC Radio Scotland で「スコットランド音楽の発展」について毎日曜日午後のシリーズをナビゲート(?)する John Pursar という人物。講演テーマは "The Poetry of Piobaireachd"

 音楽としてのピーブロックは Allan MacDonaldRoderick J. MacLeod によって演奏されたとの事。その他、パイパーでもある著名なガーリック・シンガー Finlay MacNeill によるガーリック・ソング、ハー パー Alison Kinnaird による Clarsach の演奏が披露された由。


 P15 Editorial は2ページ超のボリュームが有り、通常よりも若干長め。

 まずは、近年、特に第2時世界大戦後に国境や人種の壁が劇的に取り払われた事に伴って、文化の壁も極めて低くなり、様々な 文化が混じり合っている、といった記述から始まります。
 スコットランドとアイルランドの音楽が濃厚に相互影響してきた事についても触れつつ、その中で「唯一、パイピングだけは例 外的である。」と記述。
 この場合、例外的というのはハイランド・パイプとイリアン・パイプスの違いを指しているのではなく、「ピーブロックという 楽曲形式がアイルランドには見当たらない。」という事を意味している、と読み解くのが妥当です。

 割と大人しげに話が進んでいるな〜、と思って読んでいたのですが、中程になって突如、如何にも Seumas ならではの次の様な辛口な文章が炸裂!

 "Of course we should be happy to adapt and absorb aspects of other kinds of music which are compatible with our own, but in recent years there has appeared a tendency to use the bagpipe to present tunes, and style of tunes, for which the Piob Mor was never intended - not only was it never intended but for which it is quite unsuited."(下線部&太字引用者)

 
その当時の状況に思いを巡らせれば、これはつまり 1970年代半ば頃から始まった「トラッドバンドの楽器編成の中にハイランド・パイプを取り入れる動きに関する記述」である事は想像して余りあります。つ まり、Seumas はこの様な風潮を一刀両断にバッサリと切り捨てているのです。それにしても、(not ではなくて)never intended という表現を2度も使った挙句、最後に quite unsuited と断言。いや〜、げに恐ろしや〜。

 Seumas MacNeill
という人は、その一見温厚そのものの風貌(と実際に相対した際の雰囲気)とは裏腹に(特に自身が主宰する "Piping Times" のエディトリアルに於いては)この様な歯に衣を着せぬ言葉(毒)を長年に渡って発し続けていました。
 今回の様な刺々しい記述に出会うと、そこにこそ「20世紀ハイランド・パイプ界の7不思議」の一つとも言える『Seumas MacNeill は何故 MBE に叙せられなかったのか?』の答えが透けて見えて来る様な気がします。

 言葉の辛辣さは抜きにしても、私としては Seumas が 完全否定するこの様なトラッド・バンドのトレンドについては、大いに意見を異にするという事は言うまでもなくありません。ま た、Seumas が何と言おうと、その様な音楽が世の中に 広く受け入れられた事は、その後の歴史が明確に証明しています。

 一方、私に(自身の運営するサイトである故にこの場で毒を吐く自由があるとして)言わせて貰えれば「ハイランド・パ イプが最も適していない(quite unsuited)と思う演奏形態は pipes & drums という形式」だと思います。あの様な音楽はただただ賑やかしいだけで、一片の音楽性も感じられません。また、ハ イランド・パイプがそもそもあの様な音楽(更に言えば複数のパイプで合奏する事自体)を意図して作られているとは到底考えら れません(never intended)。
 まあ、私がどれほど過激に毒を吐こうと、その様な音楽が世の中に幅広く受け入れられている、という事もまた明白な真実です が…。

 さて、今回の長めの エディトリアル、最後の4分の1では、この年(1992年)2月にあの Massacre of Glencoe の300周年の記念日を迎えた事について触れられています。現地など各地で各種 の記念(追悼)セレモニーが催された由。

 P17 Boreraig and Husabost は例年恒例の "Penny and a Piobaireachd" セレモニーのレポート(by Seumas MacNeill)。
 6月18日(火)に開催された1992年のセレモニーは珍しく(?)好天に恵まれたとの事。これもまた例年の若く前夜は Kyle の Iain MacFadyen 宅で一夜を過ごした Seumas は、in glorious weather, scorching sun and only a hint of breeze の中を The MacCrimmon Cairn に向かった由。
 この年の奉納曲は Seumas MacNeill による "Lament for the Only Son" と Iain MacFadyen による "Lament for Mary MacLeod" でした。



 P36 The Donald MacDonald Quaich1992年第6回のこのタイトルイベント(リサイタル)のレポート。
 昨年は9月号Clan Donald Contest というタイトルとキャプションに MacDonald Memorial event と記された写真のみが掲載され、11月号Armadale Competition とタイトルされたレポート記事を掲載と、巧妙(?)に読者を惑わす様な顛末でしたが、この年は極めてストレートな記事掲載。イベント開催は 6月19日という事なので、時差も極小。レポーターは、署名が無い事と↓の理由から恐らく Sumas MacNeill 自身だと思われます。
 ↑P17の記事を併せて読み解くと、6月のスカイ島で開催されたこれらの2つのイベントは連続しています。それ故、両方の イベントに参加した ピーブロック愛好家も多かったのではないでしょうか。そもそも、この年のこれら2つのイベントは、それらの便宜を計って開催されたのかも しれません。

 レポーターはこのイベントでは毎年違ったパイパーが優勝している事を紹介しています。確かに、そう言われてみれば、そこら 辺にも(コンペティションというよりは)リサイタルとしての性格が滲み出ている様な気がします。
 ちなみに第1回1987年の Hugh MacCallum に続き 1988年 Iain MacFadyen、 1989年 Robert Wallace、1990年 Roderick MacLeod、1991年 William MacCallum といった具合。
そして、この年は Allan MacDonald でした。

 演奏者も昨年同様 Allan を含めた4人でした。そ の他の演奏者と演目は Duncan MacGillivray "Lament for Iain Garve MacLeod of Rassay"、Ronald MacShannon "Salute on the Birth of Rory Mor MacLeod"、Angus MacColl "MacIntosh's Lament"。ところが、何故か4ページのレポート文中、肝心の Allan MacDonald の演目が何であるかの記述がどこにも見当たりません。つまりは、曲目不明です。
 名目上のジャッジは例年の如く John D. Burgess 御大。

 Donald MacDonald セッティングのピーブロックを演奏し鑑賞する事を目的としたこのイベン トに於いても、実際に Donald MacDonald が 表記した楽譜の表現については、この当時はまだまだ手探り状態だったという状況については、1991年11月号の第5回のレポートで詳しく紹介しました。
 この年も、David Murray(当時の PS会長?)がイベントの冒頭では "The pipers would playing the tunes in the style of Donald MacDonald" と口上したにも拘らず、全ての演奏が終わった後の口上では "The pipers had put their own interpretation on what Donald MacDonald had written" 言う様に微妙に言い方を変えたとの事。レポーターも後 者の言い方の方がより正確だとしています。

 昨年の Malcolm McRae によるレポートで詳細に報告されていた如く Donald MacDonald の表記に忠実に演奏(解釈)したのは、この年も参加者4人の中で Allan MacDonald 独りのみだった由。
 それにも拘らず、その Allan MacDonald をこの年の Quaich 受賞者(優勝者)として選定したという事から、6年目を迎えたこのイベントが、いよいよ新たなステージに入って、今日の姿に徐々に近きつつある事が明確に 見て取れます。



 1月号で 初登場した David Naill & Co. 製のエレクトロニック・パイプ、 登場から半年で早々に EL1EL2というライナップから EL2に一 本化。実質値下げです。



 何やら嬉しそうにパ イプを抱えている男の子(女の子?)の、正に「破顔一笑」といった感じの笑顔が印象的な表紙写真。キャプションには次の様に あります。

 "Young Kaeran MacDonald, aged 10, demonstrates how his grandfather Angus beat time."

 恐らく、この10才の男子は、あの著名な P/M(或は Dr. の方?)Angus MacDonald のお孫さんなのではないでしょうか?

 今月号は殆ど紹介する様な記事が無いの で、P24 Round the Games に目を通していて気付いた、ある興味深い点について紹介します。

 Round the Games という記事は、その年のサマーシーズンに各地で開催されるハイランド・ゲームに於けるコンペティションの結果報告。概ね 8月号以降の号に記事スペースの余裕に応じて、適宜掲載されます。純粋に結果だけを箇条書きにした記事が殆どですが、時折 り、簡単なレポートが書かれている事も有ります。
 レポーターの署名は無い事が多いのですが(つまり、by Seumas MacNeill という事)、この号では by Jeannie Campbell として、5ページに渡って、7/18(土)の Balloch から 7/25(土)の Lochearnhead まで、4カ所のコンペティション結果についてレポートされています。
 
 各地のコンペの結果に目を通している際、7/21(火)Inveraray の項の10行余りの レポートの文章に目が留まりました。
 
 曰く、"The Piping Times" (編集部として?)が初めてこのイベントに公式参加したとの事で、ゲームの秘書方の配慮により主催者から記者証が交付された事に対して謝意を表していま す。
 そして、そのお陰もあったのか、何人かの CoP の生徒たちが同行した事が記されていて、具体的に3人の名前が挙げられ、それぞれカルフォルニア(米国)、ドイツ、スイスからの生徒と紹介されています。
 恐らく、海外出身の生徒たちにとっては、地元スコットランドやその他イギリス各地出身の生徒と違って、ハイランド・ゲーム (のパイピング・コンペティション)を間近に観る機会が少なかろう、という事を考慮。親心から、このチャンスに主要なゲーム に Jeannie Campbell が一緒に連れて行っ たあげた、といった所ではないでしょうか。

 因みに、23人が参加したというこのコンペティションの Open Piobaireachd 部門の上位6人は、Roderick MacLeod、Brian Donaldson、P/M Angus MacDonald、Simon Marshall、Stuart Sheddon、William MacCallum。正に当時のハイランド・パイプ界代表する、錚々たる面々です。



 そして、注目すべきは翌日の 7/22(水)に行われた Luss の項にあった次の様な一文。

 "This time it was the turn of Rafael Gutierrez from Mexico, Manami Yasui and Akira Matsuda from Japan to make the trip from the College."

 
 どうやら1992年当時の CoP には、少なくとも2人の日本人が在籍していた様です。まして、前者 はお名前から察して女性の様です。でも、残念ながらこの2人が連れて行ってもらったこのコンペは前日の Inveraray とは違って、ライトミュージックオンリーだったとの事。

 この1992年と翌1993年の10月、私はジャパン・スコティッシュ・ハイランド・ゲームのジャッジをするために来日し た、↑の写真に写っている Angus J. MacLellan さんを独り占めしてピーブロック漬けになった経緯については Canntaireahd No.9Canntaireachd No.12 に書いた通りです。

 Angus J.
とはピーブロックについて沢山の話を交わしましたが、当時 CoP に日本人が在籍していたという事も、また、その生徒たちに関する話も一切出ませんでした。
 残念ながら、日本からわざわざ渡英 して CoP に在籍していた日本人生徒たちが「ピーブロックに特 段の関心を寄せた」形跡は無さそうで す。2人が連れて行ってもらったのが、ライトミュージックオンリーのコンペティションだった事にも、それなりの理由があった のかもしれません。