ハ イランド・パイプに関するお話「パイプのかおり」

第57話(2023/4)

COLLEGE OF PIPING LECTURE 2012

  Ceol Mor - A Living Legacy and General Thomason's Contribution

by  Dr. JKS. Frater

  "Piping Times" Vol.64/No.08-2012/5Vol.64/No.10-2012/7

  "Piping Times" 等のピーブロック関連記事のリストを眺めていると、1979年に亡くなった John MacFadyen を記念して設立された John MacFadyen Memorial Found の活動の一つとして、John MacFadyen Memorial Lecture という講演会が 1981年から毎年開催されていた事が判ります。しかし、20年余り続いたこの講演会も、2003年の Joshua Dickson による講演録が("Piping Times" では無く)"Piping Today" に掲載されたのを最後に、レ ポートが掲載される事が無くなりました。
 その後、約10年のインターバルを置いて、2012年になると新たに College of Piping Lecture という講演会のレポートが掲載されるようになり、2016年まで、ほぼ毎年レポートが掲載されています。
 JM Memorial Lecture が開催されなくなった経緯、そして、新たな CoP Lecture の位置付けと開催に至った経緯等については、恐らくどこかに書かれているとは思われます が、残念ながら今のところ認識できていません。…とは言え、経緯はともかく、その内容が興味深い物であれば、目を通すの みです。

 今回紹介するのは、2012年(恐らく第1回)の CoP Lecture の講演録。講演者の John KS. Frater という人については、(当時も含めて)これまで全く意識していませんでした。しかし、リストを振り返ってみると、"Piping Times" の誌面に於いては、2008年頃から、その名前が登場している様です。
 私がこの講演録に注目したのは、それが General Thomason による楽譜集 "Ceol Mor" に関する話だった故。19世紀末に最初の版がリリースされ、その後、1903年のピーブロック・ソサエティー設立に大きく関係(貢献)しているこの楽譜 集については、ピーブロックに取り組み始めた当初から、頻繁にその名を目にしていました。ですから、2004年に CEOL SEAN で最初に5枚の復刻版楽譜集(CD)を購入した際に、この楽譜集がその購入リストに入っていたのは当然の 事。因みに、General Thomason はピーブロック・ソサエティーの初代プレジデントです。

 General Thamson と楽譜集 "Ceol Mor" については、1983年のピーブロック・ソサエティー・カンファレンスで、Brian MacKenzie という人が、主に人物面について詳細に解説。それから丁度 20年後の 2003年のカンファレンスに於いて、Roderick Cannon が、主に楽譜集の制作 過程につ いて 詳細に解説しています。それぞれの講演録は PS サイトで(会員は)閲覧可能です。また、特に後者については、"Ceol Mor - the making of the collection" というタイトルの論文として、別建てでも掲載されています。
 
 John KS. Frater によるこの講演は、↑の2つの講演よりも、とっつき易く親しみ易い語り口で、楽譜集 "Ceol Mor" が、 その後のピーブロック文化に果たした役割りについて熱く語られています。
 PS カンファレンスの2つの講演よりも、この講演を紹介しようと思ったもう一つの理由は、この講演の内容が CannonBuisman といった如何にも学者然とした研究者のそれ、というよりも、(言い方は難しい所ですが)より《素人臭い》ピーブロックに 対する熱い思いが率直に表現されているように思えたからです。恐らく、私自身とほぼ同世代と思われる事も含め て、ピー ブ ロック という楽曲に対する想いや、取り組み姿勢に強く共感するところが多々あるのです。

 ただ、この方がこの講演の中(主に Part2)や、その他の "Piping Times" の 投稿記事の中で、Archibald Campbell of Kilberry(ACK) を強く擁護している姿勢については、今一つ共感できない所ではあります。恐らく、2004年に Archibald の子息の James Campbell が鬼籍に入った事を 契機 として、20世紀初頭に ACK (達)が行ったピーブロック文化に対する一連の行為に対する批判や反感が、この当時一気に吹き出していたのではないでしょうか。パイプのか おり 第52話第53 話で紹介している、1980 年代に PSプレジデントを務めた David Murray の 発言、William Donaldson の著作 "The Highland Pipe and Scottish Society 1750-1950" 等からも、その様な状況は十分に推測できます。
 講演の語り口から推して、John KS. Frater 自身もそのような批判が、ある面で的を得ている事は感じつつも、余りにも多くの人が手のひら返しの様に ACK を批判する事に対して、「それ はあんま り だ!」と、 一生 懸命擁護しようとしている様な感じがします。その気持ちも、理解できない訳ではありませんが、やはり、真実は正しく見極める姿勢も必要かと思います。その 意味では、特に Part2で述べられている内容については、すんなりとは受け入れ難い点が多々見受けられます。

 では、講演録をお楽しみ下さい。
 なお、Major General の肩書きについては、辞書や翻訳ソフトでは様々なのですが、《陸軍少将》という所が妥当かなと思えたので、General を《少将》としました。 また、あれこれ、注目すべき箇所や、私が大きく共感する箇所に下線を引いています。少々煩わしいかと思い ますが、ご容赦下さい。


原    文
日 本語 訳
Part1
【Vol.64/No.08-2012 /5-P20】
  The title of this evening’s lecture arose from my thoughts about the continuing, but largely overlooked, influence of General Thomason’s great book, Ceol Mor ; thoughts prompted by the Piobaireachd Society’s commemoration last year of the centenary of General Thomason’s death. To quote Archibald Campbell, ‘a man of conspicuous intellectual ability, fine musical taste and sound judgement’ and, writing in 1917, ‘the greatest man of my time connected with piobaireachd music and probably one of the greatest of all time’.  But Thomason had drifted into relative obscurity until Brian MacKenzie brought him to life for us 30 years ago. Even now, it seems to me that we take his legacy for granted.

  We are immensely indebted to Brian for his fine biographical accounts of Major General Charles Simeon Thomason (CST), first appearing, I believe, in the book celebrating the centenary of The Royal Scottish Pipers’ Society, of which CST was a member. 
 The production of his great work, Ceol Mor, has been extensively reviewed by Roderick Cannon (see Piobaireachd Society’s website and proceedings for excellent articles by MacKenzie and Cannon).  This evening I would like to concentrate on General Thomason’s continuing contribution to piobaireachd and his musical ideas.
 今夜の講演会のタイトル は、Thomason 少将の偉大な楽譜集 "Ceol Mor" に関して、「その影響力は現在も続いているとはいえ、多くの部分が見過ごされている。」と、感じている私の考えから生まれたものです。昨年開催された、Thomason 少将没後100年を記念したピーブロック・ソサエティーの式典がきっかけとなっています。Archibald Campbell の言葉を借りれば彼は、 「傑出した知的能力、優れた音楽的センス、健全な判断力を持つ人物」であり、Campbell が1917年に書いた文章で は、「私の時代のピーブロック音楽に関わる最大の人物、おそらくすべての時代の最大の人物の一人。」 という事です。しかし、30年前に Brian MacKenzie が 彼を蘇らせるまで、Thomason は比較的無名の存在でした。今でも、私たちは彼の遺産を当然の事として享受している様 に感 じていま す。

 我々が多大な恩恵を被った Brian に よる Charles Simeon ThomasonCST) 陸軍少将に関する素晴らしい伝記的文章は、確か CST が 所属していたロイヤル・スコティッシュ・パイ パーズ・ソサエティーの100周年を記念した本の中で、初めて紹介されました。
 彼の偉大な作品である "Ceol Mor" の制作過程については、Roderick Cannon によって詳細に解説されています(MacKenzie Cannon による素晴らしい記事はピーブロック・ソサエティーのサイトで年次講演録 を参照して下 さい)。 今夜 は、Thomason 少将のピーブロックへの継続的な貢献と彼の音楽的アイデアに焦点を当てたいと考えていま す。
 Today’s scores look they the way they do because of General Thomason.  While his impact on modern scores is perhaps not widely recognised, it is acknowledged in the excellent introduction to Piobaireachd Society Book1.  As far as I have been able to establish, CST was the first to present tunes in parts on the stave, i.e. urlar and variations portrayed separated, the first to use abbreviations in printed piobaireachd scores, the first to classify structure - he discusses structure in terms of A and B s, a concept which I think he must have introduced himself. 
 Only the Campbell Canntaireachd had laid out tunes in distinct lines and parts, but not, of course, on the stave. (1 am fairly sure that CST did not have access to the Campbell Canntaireachd.)
 Joseph MacDonald described tunes being in four fingers a century before, but he didn’t take that approach on the stave; Glen is inconsistent. General Thomason, therefore, appears to have been the first to produce structured piobaireachd scores on the stave.

 At the time of the Piobaireachd Society’s publication of Roderick Cannon and Keith Sanger's book about Donald MacDonald’s manuscript, I was fascinated to hear PS President, Jack Taylor, on the BBC’s ‘Pipeline’ programme, commenting how the modern presentation of Donald MacDonald’s manuscript shows structure, which the original manuscript did not, indicating that Thomason even influences how we now see the works that preceded his own Ceol Mor.
 今日のピーブロックの楽譜は、Thomason 少将のお陰で、今の様な形になりました。彼が現代の楽譜に与えた影響は恐らくさほど広 く知られてい ない かもしれませんが、それは、PS Book1 の素晴らしい序文に於いて正当に評価されています。私が調べた限りでは、CST 五線譜上に 曲を パーツに 分け て表示した最初の人。つまり、ウル ラールとバリエーションを初めて分けて表示し た人です。 そし て、印 刷 されたピーブロック楽 譜に初めて省略形を使った人 でもあり、構造 を分類した最初の人でもあります。彼はAフレー ズと Bフレーズの 観点から構造を論じて いますが、この概 念は彼 自身が導入したと思われます。
 それまで Campbell Canntaireachd だけが、楽曲を明確なラインとパートでレイ アウトしていましたが、言うまでもなく、五線譜に書いた訳ではありません。(CST Campbell Canntaireachd を手に取っていない事は確かです)。
 Joseph MacDonald は、100年前に4本の指で曲を表現しましたが、彼は五線譜上ではその方法を取りませ んで した。Glen は一貫性がありません。従って、Thomason 少将は、五線譜 に構造化されたピーブロックの楽譜を最初に作成した存在だ と考える事ができます。
 ピーブロック・ソサエティーが Roderick CannonKeith Sanger による Donald MacDonald マニュスクリプト の楽譜集を出版したとき、私は BBC の 'Pipeline' で ピーブロック・ソサエティー会長 Jack Taylor が、「Donald MacDonald MS の楽譜を現代的に表現するとその構造が判るが、オリジナル MS ではそうではなかった。」と、コメントしているのを聞いて、Thomason が彼の "Ceol Mor" に先立つ作品の見方にまで影響を及ぼしている事に魅了されました。
 Thomason wanted to produce a handy sized book with lots of tunes and his abbreviations were primarily a practical solution to producing that sensibly sized book, but he realised his scores didn't just save space.  By clearing the clutter of gracenotes (think of all those crunluaths written in full), Thomason’s abbreviations enabled illustration of the structure of tunes and a clear visual display of the theme, producing an image that matched the music we play.  Before CST, most of the scores is taorluath and crunluath variations, for example in Angus MacKay’s printed score for the Massacre of Glencoe, the Urlar and Thumb, which are not particularly affected by having gracenotes in full, take up two thirds of a page. The remaining third of the page, plus two more whole pages are taken up with taorluaths and crunluaths.

 Abbreviations had been used by others in their hand written scores, notably Angus Mackay and the authors of the MacArthur-MacGregor MS, though theirs are really devices for reducing effort in writing out scores rather than for saving space.  In practice, however, the General overdid it and the abbreviations were difficult to grasp.  I suspect he had the sort of mathematical mind that saw what he portrayed easily, whereas for most of us it can be hard going. Modern scores do not use abbreviations to the extent Thomason did; equally, though, we haven’t gone back to what came before.

 There's more to it, though.  Once he had produced his structured scores, he realised their value in aiding musical interpretation.  "I very soon came to the conclusion that the piobaireachd was the music of poetry and not of prose."  Preparing tunes in the format he required for Ceol Mor showed CST that piobaireachd was music of poetry with structure, the tunes portrayed with urlar and variations as separate entities, akin to having poems in verses - though we actually see that better in the modern derivatives.  CST suggested that piobaireachd, like poetry, has metre, defining metre as number of bars per line e.g. 6,6,4.
 Thomason は、多くの曲を収録した手軽なサイズの楽譜集を作りたいと考えており、彼の省略 形 は、主 として、 その 実用的 なサイズの本を作るための現実的な解決策で した。 Thomason の省略形は、 装飾音の塊(全音を表記した crunluath を思い浮かべ下さい)を一掃することで、曲 の 構造を図示し、テーマを明確 に可視化し、演奏する音楽と一致するイメージを作り出すことを可能にしましたCST 以前は、楽譜のほ とんどが taorluath と crunluath のバリエーションで占められています。例えば Angus MacKay "Massacre of Glencoe" の印刷楽譜では、装飾音が全て表記されていても特に問題のない Urlar とThumb バリエーションが 最初の1ページの3分の2を占めていて、残りの3分の1と、さらに丸々2ページが taorluath と crunluath で占められています。



 省略形は、Angus MacKay MacArthur-MacGregor MSの作者など、他の人たちも手書きの楽譜で 使っていましたが、彼らのものは、スペースを節約するというよりも、楽譜を書く労力を減らすための工夫でした。しかし、実際には、CST はそれ をやり すぎ て、省略 形を 把握するのが難しくなってしまったのです。彼は 数学的な頭脳を持っていて、自分が描いたものを簡単に見ることができたのでしょうが、 私たちの多くにとってはこれは大 変なことです。現代の楽譜は、Thomason ほ どには省略形を使いませんが、それと同時に、私たちは以前の楽譜に 戻ることはありません。
 
 しかし、(省略形には)それ以上の 効果 が有った ので す。彼は構造化された楽譜を作ってみて、それが音 楽の解釈を助けるとい う価値に気づいたの です。「私は直ぐに、ピー ブロックは散文の音楽ではなく、 詩の音楽だという結論に達 した。」  "Ceol Mor" に収 録する為に、多くの曲を必要な形式で書き下ろ す事で、CST は、ピーブロッ クが詩 の構造を持った音楽であり、曲は、詩を節で表現するのに似た、独立した 実体としてのウルラールやバリエーションで描かれていることを示しまし た。実際には、現代の派生曲ではその方がよく 分ります。CST は、ピー ブ ロッ クには詩のように韻律があり、その韻律は1行の小節数 (例:6,6,4)と定義することを提案し ました。
 With CST’s format and its derivatives, the subsequent PS style and the Kilberry book, we are guided in our interpretation of the music.  CST saw the poetical structure aiding expression, indicating where there might be what he termed ‘pauses’ and he also felt that poetical presentation aided memory.  In essence, he felt, correctly I think, that his system made the music more comprehensible and easier to play. 
 Wonderful though it is, and it certainly is a magnificent achievement, it seems that Thomason’s lasting legacy is not his book, Ceol Mor, itself, which is not really in circulation nowadays.  Much of his thinking, though, is, albeit that it is not overtly attributed to him.  Perhaps without us properly appreciating the fact, the Piobaireachd Society’s books are a fitting tribute to the work of this great man.

 Thomason was not the first to amend tunes, but was another of his firsts the idea that we should talk openly about emending tunes?  Whether or not, well done to him. Having the courage to challenge what was presented to him was commendable, even though some of his ideas haven't caught on. 
 We have no qualms about having different settings of light music; perhaps we are too precious about piobaireachd.  Thomason’s emendations were not universally accepted.
 His best known success was his tidying up of the score for I got a Kiss of the King's Hand, where he used his structural analysis and score format to show that Angus MacKay's version was missing a bar in line one of the variations.  I don't believe anyone would nowadays play Angus MacKay's version and the General's correction is universally played.
 CST のフォーマットとその 派生 版、その 後の PSスタイル、Kilberry Book によって、私たちは音学の解釈に指針を得ることができます。CST は、詩的な構造 が表 現を助 け、彼 が言う ところの《間》を示す と考え、また詩的な表現が記憶を助けると感じ ました。要す るに、彼は自分のシステムが音楽をより理解しやす く、より演奏しやすくしていると、正しく感じていたのだと思います。

  それは素晴らしいことであり、確かに素晴らしい業績です。 しかし、 Thomason の永続的な遺産は、現在では余り触れられる事の無い彼の著書 "Ceol Mor" そのものではないようです。彼の思想の多くは、それが彼の成果であるとは明白には言い切れないにせ よ、 現代に伝わっているのです。恐らく、私たちがその事実を正しく認識することくても、ピーブロック・ソサ エティー楽譜集ではこの偉大な人物の作品にふさわしい賛辞を贈っているのです。

  Thomason は 曲の修 正を 初めて行った訳ではありませんが、曲の修正についてオープンに話 すべ きだ、と い う考え方は、彼がもう一つ示したものでした。そうであろうとなかろうと、彼はよくやったと思い ます。彼のアイデアの中には、まだ浸透していないものもありますが、提示されたものに 挑戦 する勇気 を 持ったことは賞賛に値します。
 私たちは、ライトミュージックについては様々なセッティングが有る事に何 の抵抗もありませんが、 ピーブロックについては、あまりに慎重になりすぎているのかもしれません。 Thomason の改作は、万人 に受け入れられるものではありませんでした。
 彼の最も有名な成功は、"I got a Kiss of the King's Hand" の楽譜を整理し た事で、彼は構造分析と楽譜のフォーマットを使って、Angus MacKay 版のバリエーションの1行目に1小節 が欠けていることを示しました。今では Angus MacKay 版 を演 奏する人はいないと思いますし、少将の修正は普 遍的に演奏されています。
 In his own time, CST was mainly praised for collecting and stimulating ideas, yet criticised for abbreviations and amending tunes.  He has been criticised too for relying too much on Donald MacKay, who in some quarters was not perceived as a respected authority. 
 But Donald MacKay, nephew of Angus, won the Northern Meeting Prize pipe and the Former Winners' medal, equivalent of modern Gold Medal and Clasp. This Donald Mackay was the son of Donald MacKay, the eldest son of John MacKay of Raasay and brother of the great Angus. There are suggestions that some considered Donald Senior as the best piper of John MacKay's four sons.  He won the Edinburgh competition in 1822.  He was also a good pipemaker.  Donald Junior was born in Kensington Palace in 1845 and educated at the Caledonian School in London, his father having moved to London as piper to HRH Duke of Sussex. Donald Junior was a pupil of John Ban MacKenzie and Donald Cameron.

 The poor opinions of Donald MacKay may have reflected prejudice - he was not a Gaelic speaker, having been brought up in London.  General Thomason says in Ceol Mor: ‘Whatever I have of piping capacity I owe to Donald MacKay, whose stock of piobaireachdan as a pupil of Donald Cameron, not to mention the Ballindalloch collection, seemed inexhaustible.’

 We should note that CST also took advice and help from many other eminent players, notably Sandy Cameron, younger brother of Donald, Donald’s sons, and particularly Keith Cameron, highly regarded as a player and a contemporary of CST in India, where he served with the 2nd Battalion HLI.

 Well, there’s still quite a bit we could say about General Charles Thomason, but I’ll close this section with a couple of comments.

  I am very impressed that General Thomason acknowledges that his system can be improved and hopes it will be.  That indicates to me a certain quality of intellect and character - he must have realised what a great leap forward he had made, but even then appreciated it could be better and wanted someone to take it on further.  
 Secondly, if we want some concrete support for the impact of CST’s work, Archibald Campbell, Kilberry, said he had never heard the Wee Spree played before CST published it in Ceol Mor. We know John MacDougall Gillies didn't play it and it wasn't one of Alick Cameron's tunes — hard to believe now when it is such a staple of the repertoire.
 CST は、 自分の時代には、主にアイデアの収集と活性化について賞賛されましたが、省略形や曲の修正につ いては批判されました。また、尊敬すべ き権威として認識されていない面もあった Donald MacKay に頼りすぎているとの批判もありました。
 しかし、Angus の 甥である Donald MacKay は、Northern Meeting の Prize pipe と、現代の Gold メダルと Clasp に相当する Former Winners' メダルを 獲得しています。この Donald MacKay は、John MacKay of Rassay の長男で、偉大な Angus の弟で ある Donald MacKay の息子です。 John MacKay の 4人の息子の中で、Donald Senior が最も優れたパイパーであったとする説があります。彼は1822年の Edinburgh コンペティションで優勝。また、同時に優れたパイプ製作者でもありました。Donald Junior は1845年にケンジントン宮殿で生まれ、ロンドンのカレドニアン・スクールで教育を 受け、父親はサセックス公爵のパイパーとしてロンドンに移住していました。そして、John Ban MacKenzie Donald Cameron の弟子でもありました。

 Donald MacKay の評価が低いのは、ロンドンで育ったためゲール語を話すことができなかった、という 偏見を反映しているのかもしれません。 Thomason 少将は "Ceol Mor" の中で次の様に書いています。「パイプの能力について私が持っているものはすべて、Donald MacKay に負うところが大きい。Donald Cameron の弟子だった彼のピーブロックのストックは、Ballindalloch コレク ションはもちろんのこと、無尽蔵にあるように見えた」。
 CST は他にも多くの著名な奏者、特に Donald の弟である Sandy CameronDonald の息子た ち、そして奏者として高く評価され、インドで CST と同世代でハイランド軽歩兵第2大隊に所属していた Keith Cameron か ら アドバイ スや助けを得ていたことを認識すべきです。


 さて、Charles Thomason 少将については、まだまだ語りたいことがありますが、いくつかのコメント を残してこのセクションを閉じる事にしましょう。

 Thomason 将 軍 が、自 分のシ ステムが改善されることを認め、それを望んでいる ことに、 私は非常に感銘を 受け ました。それは、ある種の知性と人格の高さを 示し ている。彼は、自分が成 し遂げたことがいかに大きな飛躍であるかを理解し、それでもなお、より良くでき るこ とを認 め、更 に誰 かにそれを引き継いでほしいと願っていたに 違いありま せん。 
 2つ目に、CSTの活 動の 影響につ いて 具体的な裏付け を求めるなら、Archibald Campbell, Kilberry は、「CST"Ceol Mor" に掲載するまでは、"Wee Spree" の演奏を聞いたことがなかった。」と語っています。John MacDougall Gillies が演奏していなかったことも、Alick Cameron のレパートリーでなかったことも分かっています。

(画像ク リック で Ceol Sean のサイトのオリジナル楽譜にリンクしています)
 Our first tune this evening is Black Donald's March, a straightforward, melodic piece, of secondary construction, that is to say it starts with two short phrases, just one bar each in this case, usually termed A and B, then a longer phrase C, double the length of the first two phrases, with a further long phrase completing line 1.  Line 2 starts with phrase C, then back to the first two phrases, but in reverse order, B then A, again closing the line with phrase D.  Line three has phrases C and D, with slight alterations.

 This is an excellent example of a tune where theme and structure run right through the variations making it perfect for the CST approach. The General could put the whole tune on one of his small pages!  Brilliant!  Each ‘verse’ from urlar to crunluath a mach, has same theme notes and structure.

 It's the sort of piece where once in the CST format, the structure is clear as day.  Although Kilberry portrays it in common time, CST and Donald MacDonald have it in 6/8, which is my preference.
 今晩の最初の曲は、"Black Donald's March" です。この曲は、セカンダリー構造のわかり易い旋律の美しい曲です。つまり、A、B と呼ばれる1小節ずつの短いフレーズから始まり、最初の2フレーズの倍の長さのフレー ズ C、そしてさらに長いフレーズでライン1が完成。ライン2はフレーズ Cから始まり、最初の2つのフレーズに戻りますが、順序は逆で、B、A の順を経て、再びフレーズDでラインを閉じます。ライン3は、若干の変更を加えた C と D のフレーズで構成されています。


 この曲は、テーマと構成がバリエーションの中で一貫しているため、CST のアプローチに最適な 例だ と言えま す。CST は この曲全体を 小さなページの1 つに載 せることを可能にしたので す! なんと素晴らしい事でしょう! urlar から crunluath a mach までの各《節》は、同じテーマ音と構造を持っています。

 この曲は、CST の 形 式を取る 事に よって、構造が一目瞭然になるような類の作品です。 Kilberry は4/4で 表現 していま すが、CSTDonald MacDonald は 6/8で表現しています。それは、私の好みです。
 Why am I enthusiastic about piobaireachd?   I enjoy playing it, listening to it, talking about it, studying it, trying to compose it, but, I struggled as a teenager with it.  Later, when I was a medical student, my father worked hard with me at MacCrimmon's Sweetheart.  Until then I played piobaireachd essentially by rote, but once I had the hang of MacCrim mon's Sweetheart, it gave me a start and I began to enjoy the music.
 Next dad took me through the Groat, which I loved, and the Viscount of Dundee, wonderful.  I don't think our father was a great theorist with piobaireachd, but he was an excellent piper and he definitely transmitted his passion for piping, including piobaireachd.  In that respect, I might regard myself and my brother as a living piping legacy of our father. The same, of course, applies in many families.
 私が何故、ピーブロックに熱中するの でしょうか? 私は、この楽曲を演奏する事も、聴く事も、話す事も、研究する事も、そして、作曲にトライする事も楽しんでいます。しかし、10代のころは苦労しました。 その後、医学生のときに、父が "MacCrimmon's Sweetheart" を習得するのを一緒に手伝ってくれました。それまで、基本的にはピーブロックを機械的に丸暗記して 演奏 していたのですが、"MacCrimmon's Sweetheart" のコツを掴んだ事がきっかけで、この音楽が楽しくなってきたのです。
 次に父が手ほどきしてくれた曲は、大好きだった "The Groat" と "Lament for the Viscount of Dundee"。素晴らしいで すね。父はピーブロックの優れた理論家では決してなかったと思いますが、優れたパイパーであり、ピーブ ロックを含むパイピングへの情熱を確実に伝えてくれました。その点では、 私や私の弟 は、父 の生きた パイ ピング・レガシーと言えるかもしれません。もちろん、多くの家庭で同じことが言えると思います。
Great Experience

 What makes listening to piobaireachd a great experience? We can again turn to Archibald Camp bell, Kilberry (ACK): ‘It is certainly difficult music to understand, but in a well played piobaireachd on a well- tuned pipe, sounds can be produced which are never heard in marches, strathspeys or reels, and which satisfy the ear of a skilled piping musician in a way that no other sounds can do.’
 For myself, superb performances of piobaireachd become a transcendental experience, which lasts long in the memory and I would also agree with Kilberry that a fine performance of piobaireachd exceeds anything in light music.
 Thirty years ago listening to Donald MacPherson playing Lament for Padruig Og MacCrimmon at the Argyllshire Gathering trumped anything light music offered, even P/M Angus MacDonald in full flight winning the RSPS Silver Star for the Former Winners’ MSR at the Northern Meeting.
 Where I would not fully agree with that quote from ACK is regarding the difficulty of piobaireachd.  He, of course, is not alone in expressing such views.  I think that its difficulty, by which I assume is meant inaccessibility, can be, and often is, overstated.  Yes, piobaireachd may be an acquired taste, but that can apply to lots of things, including piping in general.


 The Old Woman’s Lullaby, Lament for Mary MacLeod, and the tune we have just heard, Black Donald’s March, are surely readily enjoyable.  Some pieces are more challenging, but piobaireachd is not so very different from other forms of music in this respect.  In other musical forms there are pieces which are easy listening, whereas something else from same source can be difficult: Rachmaninov's second piano concerto is a very popular piece, but his second symphony is not so immediately appealing, though worth the effort.  There are plenty of similar parallels from Scottish music.  The point is that piobaireachd is not unique in this respect.

 My experience is that many who have not been piobaireachd players have taken to it once overcoming their reluctance to make a start, myself included.  In other words, it’s not that difficult a taste to acquire, both in terms of playing and listening.  I know quite a few pipers who have reached maturity without playing piobaireachd, sometimes with no clear interest in it at all, but who have been willing to take the first step and have gone on to play, listen and, most importantly, enjoy playing and listening to it.  I believe that reticence about ceol mor is misplaced; we can and should encourage pipers and others to give it a go.

 Why do people enjoy playing and listening to piobaireachd? Clearly, melody will often be a key element, though not always an obvious hum along tune. It might be a specific variation of a tune, Mary's Praise and Lament for Mary MacLeod come to mind.  A great deal of satisfaction can come simply from the sound of the bagpipe itself, the wonderful harmonics that so suit piobaireachd, the beautiful floating into a high A in a thumb variation.  Sometimes attractive fragments or phrases do it for us or it might simply be rhythm itself, as in the Blind Piper's Obstinacy.


 More often in the variations of tunes, while not boasting the flashy pyrotechnics of light music, there are technical displays that can be immensely satisfying both to play and hear.  Crunluaths of various forms (try Robert Reid), and throws such as embari, are a treat in themselves when played by pipers such as the late Donald MacPherson.  Sometimes it will be most, or even all of these, that attracts.
 Think of that already mentioned, Lament for Patrick Og MacCrimmon.  It has melody, a gorgeous first variation, makes wonderful use of the piobaireachd high G, definitely has rhythm, and finishes with a superb crunluath a mach variation.

 Our next tune, The Big Spree, is another with lots of interest; what a glorious piece of music.  It certainly has links with General Thomason.
 There is the story of the General playing his pipes on one of his train journeys in India.  He noticed that one station stop seemed rather long only to find at the end of his tune that the engine driver, a fellow piper, had refused to leave with the Big Spree unfinished. 

 It’s also a tune where the amending itch overcomes him and at least one of his ideas has caught on.  In variation 1, he has his well known change matching the ground.  It is interesting to note that in variation 1 he has B before odro, as we play now, and something that appears first in John MacKay's manuscript.  This is notable for being unlike Angus MacKay.  He has C before odro, as do Donald MacDonald and the MacArthur MacGregor MS. 

 The General is unique in putting F in the last phrase of lines 1 and 2 in the urlar - in this instance it appears to be him correcting it to match variations.

 Now it's time for tonight's Ceol Mor Quiz question! Leaving aside gracenotes, which of the 118 tunes in the Kilberry Book of Ceol Mor use all notes of chanter’s scale? Of those tunes, which have all the notes of the scale as true theme notes, running right through the whole tune?
素 晴ら しい経験

 ピーブロックを聴くことの素晴らしさは何でしょうか? 再び Archibald Campbell, KilberryACK) の言葉を借りてみましょう:「こ の 楽曲 は、確かに理解するのが難しい音楽であるが、良く調律されたパイプで、良く演奏されたピーブロックの演 奏に於いては、マーチやストラスペイ、リールでは決して聴くことのできない音を聴 く事 ができ、 他の 音で はなし得ない方法で熟練のパイプミュージシャンの耳を満足させることが可能となる。」
 私自身としても、ピーブロックの素晴らしい演奏は、記憶の中に長く残る超越的な体験 とな り、また ピー ブロックの素晴らしい演奏はライトミュージックを凌駕するという Kilberry の意見に同感です。
 30年前の Argyllshire Gathering に於いて、Donald MacPherson が 演 奏し た "Lament for Padruig Og MacCrimmon" は、 Northern Meeting に於いて P/M Angus MacDonald が Former Winners' の MSR 部門で RSPS(Royal Scottish Piper's Society?) Silver Star(Medal?) を獲得した演奏も含めて、あらゆるライトミュージックに勝るものでした。
 私が ACK のこ の言 葉に完全 に同 意できないのは「ピーブロックの難しさ」についての記述です。もちろん、このような意見を述べるのは、 彼だけではないでしょう。私は、その難しさ(私が思うに、その意味は「取り付き 難 さ」)は、 誇張 され易 く、確かにしばしば誇張されていると思います。 確 かにピーブロックは苦 労して身に 着ける趣向かもしれま せんが、それはパイピング全般を含め、多くのことに当てはまることです。

 "The Old Woman’s Lullaby"、"Lament for Mary MacLeod"、そして今聴いた "Black Donald's March" は、きっと気軽に楽しめる曲でしょ う。中 には難易度の高い曲も あり ます が、この点ではピーブロックは他の音楽と大差ありません。他の音楽 形式でも、 聴き易い曲もありますが、 他の曲に於いては難しいことがあります: ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番はとても人気のある曲ですが、彼の交響曲第2番は、 聴き 込む努力する価値はあっても、それほど直ぐには魅力的に感じられ るわけではありません。その様な事はスコティッシュ・ミュージックに於いてもこの様な類似点が沢山 あり ます。要は、この点ではピーブロックが決して特殊な訳ではない、 とい うことで す。

 私の経験では、私を含め、ピーブロックを演奏した事がない人でも、一度演奏し 始め ると、苦 手意 識を克 服して演奏するようになる人が沢山います。 つまり、ピー ブロック は演奏する 上でも聴く上でも、それほど 難しい趣向ではないのですピー ブ ロックを演奏しない まま、時には全く興味を持たないまま、大人になっ たにも拘らず、ひとたび最初の一歩を踏み出した後、演奏し、聴き、そして、何よりも楽しんでいるパイ パーを、私は何人も知っています。 私は、ピーブロック(Ceol Mor)に対する遠慮は見当違いだと思います。私たちは、パイプ奏者や他の人たちが ピーブロック(Ceol Mor)に挑戦することを奨励出来ますし、そうすべきです。

 なぜ人々はピーブロックを演奏したり聴いたりすることを楽しむのでしょうか? メロ ディーが重要 な要 素であることは言うまでもありませんが、いつも一緒に口ずさめるような曲であるわけではありません。例 えば、"Mary's Praise""Lament for Mary MacLeod" のように、ある曲の特定のバ リ エーションが思い浮 かぶ場合も あります。バグパイプ自体の 音色、 ピーブロックにぴったり合った見 事な倍音、親指バリエーショ ンに於ける high-A への美しい浮遊感など、バグパイプの音そのものから大きな満足感が得られる場合。 また 時に は、断片的なフレーズに惹かれる事も、そして、"The Blind Piper's Obstinacy" のように、リ ズム そのものが魅力的な場 合も あります。

 ライトミュージックのようなけばけばしい華々しさは無かったとしても、ピーブ ロック のバ リエー ション には、演奏しても、聴いても、大いに満足できる技術的な見せ場が多々有ります。 様々なフォームの crunluath (Robert Reid を聴いてみてください)や、Embari などの throw は、故 Donald MacPherson のようなパイパーが演奏すると、それだけで楽しいものです。時には、これらの殆ど、あ るいは全てが魅力的であることもあります。
 既に述べた "Lament for Patrick Og MacCrimmon" を想い浮かべてみて下さい。この曲にはメロディーと華やかなバリエーション1があり、 ピーブロック High-G の見事な指遣い、はっきりとしたリズム。最後は壮麗な crunluath a mach のバリエーションで締めくくられます。
 次の曲、"The Big Spree" も多くの興味深い点のあ る、 素晴らし い曲 です。この曲は、Thomason 少将と幾つかの繋がりがあります。
 少将は、ある時インドでの旅行列車の中でパイプを吹いていましたが、途中の駅での停 車時 間がどこ とな く長いのではないか?と感じた彼は、曲を演奏し終えた時に、同じくパイパーである機関士が彼の演奏する "Big Spree" が終わるまで、列車を出す事を待っていた事 に気 付いた、 とい う話が伝わっています。
 また、この曲は彼の修正欲求を満たす曲でもあり、少なくとも彼のアイデアの1つが取 り入 れられて いま す。バリエーション1に彼の加えた、グラウンドと整合した修正がよく知られています。それは、バリエー ション1に於いて、現在演奏されているように、odro の前に B を置いていることで、これは John MacKay の楽譜で 最初に登場す るものです。そしてこれは、Angus MacKay とは異なっている事で注目されています。彼は Donald MacDonald MacArthur MacGregor MS と同様に、odro の前は C を入れています。
 少将は、urlar の1行目と2行目の最後のフレーズに F を入れているのが特徴的で、これは、バリエーションに合わせて彼が修正したものと思われます。

 さて、今夜の Ceol Mor クイズの問題です! 装飾音は除いて考えたとして、"Kilberry Book of Ceol Mor" に収録されている118曲のうち、チャンターの音階をすべて使っている曲はどれでしょう? その中で、全音階の音を真のテーマ音として、曲全体を貫いてい る曲はどれでしょう?

 This is an edited transcript of the lecture. Some parts are revisited material already published in the PT (see April and May 2008, September 2011), and some parts of the talk related to pictorial and musical illustrations shown on the night - yon had to be there!. . JKS F.
 これは、講演の内容を編集したものです。一部、既に PTで発表した内容(2008 年 4月 号2008 年 5月 号2011 年 9月 号) を再掲載しているほか、当日上映した絵や楽譜に関する部分もあ ります - 貴方はその場に居るべきだった!. . JKS F.
Part2
【Vol.64/No.09-2012 /6-P20】
 A pathologist, an orthopaedic surgeon and a dentist headed to Birnam for the CoP lecture . . . After a long morning examining mouths, Fiona was not enchanted with a grumpy patient who'd had toothache for weeks; he'd put off seeking help and had now developed an abscess.  ‘Mr Wallace, that tooth has been far Too Long in this Condition.’  Innes droned on about the jammed digit of a fellow medico - ‘Dr Ross, you must stop these demonstrations of piobaireachd oratory - it’s another bad case of Fingerlock’.

 Moving on to your friendly pathologist, you'll be getting the idea now and you'll realise that the grain may be in sacks, but the corn's in your speaker's jokes.  You might even be thinking he's going to link the pathologist with Lament for the Dead, but actually, those of you who have witnessed my presence at this event in recent years will realise the pathologist [raising a dram] has come for the Big Spree - cheers!

 Now for my quiz answer (mentioned in last month's PT). The following tunes feature all the notes on the bagpipe scale: Beloved Scotland, Lament for the Viscount of Dundee, Unjust Incarceration, Nameless - Cherede Darivea, Earl of Seaforth's Salute and Queen Anne’s Lament.
 Only Beloved Scotland uses all the notes as theme notes in the ground and every variation.
 一人の病理学者、一人の整形外科医、一人の歯科医が CoP Lecture のためにバーナムに向かった。長い朝を迎え、口の中を診た Fiona は、何週間も歯痛に悩まされながらも、助けを求める事を先延ばしにして膿瘍になってし まった不機嫌な患者を前にして、心を奪われることはなかった。「Wallace さん、その歯はこの状態で長すぎるんです。」 Iness は仲間の医 学生の絡まった指についてブツブツ言い続けていた。「Dr Ross、ピーブロックの 熱弁 を振るうのはやめて くださいよ、これも指 の絡まりの悪い例で す」。

 友好的な病理学者に話を移せば、あなたは今、その考えを理解し、穀物は袋に入っているかもしれないが、トウモロ コシ は講演者 の ジョークの中にあることに気づくだろう。病理 学者と死者の慟哭を結び つけるつもりかもし れない が、 実は、近年、このイベントで私の存在を目撃している方々は、病理学者が大袈裟な馬鹿騒ぎを求めてやって きた ことに気 づい ているはずだ。(スコッチの杯を上げて)乾杯!

 さて、(先月号の PT で示した)クイズの答えです。
 次の曲はバグパイプの音階がすべて出てきます:Beloved Scotland、Lament for the Viscount of Dundee、Unjust Incarceration、Nameless - Cherede Darivea、Earl of Seaforth's Salute, Queen Anne's Lament
 その中で、Beloved Scotland のみ、全ての音を テーマ 音とし て、グ ラウンドと 全てのバリエーションで使用しています。
 Part1の最後に書かれている様 に、 この記 事は編集部による講演録のベタ起こしでは無くて、講演録に講演者自身が過去に発表した記 事の内容を加筆した文章だとの事。
 そして、Part2 冒頭部分↑には筆者自身による小噺が挿入され てい ます。

 ピーブロック愛好家に医師が多いのはお気付きの通り。Dr Alex Haddow、Dr Roderick Ross、Dr Jack Taylor、Dr Angus MacDonald、Dr Peter McCalister 等々、 皆さん文字通りのドクター(医師)です。
 そして、この講演者自身も医師ですが、この講演会のサポーティング・パイパーを務め た、 Dr Innes SmithFiona Mason も同様なのでしょう。文章から、Dr JKS Frater は病理学者、Dr Innes は整形外科、Fiona は歯科医と察せられます。

 原文の赤字部分に示したピーブロックの楽曲名を織り込んだ小噺になっています。 Wallace さんというのは、言うまでも無く、この当時の "Piping Times" 編集長たる Robert Wallace の事。Dr Ross というのは、 あの "Binneas is Boreraig" を編纂した Dr Roderick Ross を指しています。Dr Ross に 絡めて "Fingerlock" のタイトルが出てくるのは、Dr Ross2009年 PS カンファレンスで行った講演の中で、この曲の背景について講 演している事を指しているのでしょう。
 Now to my main subject.
 There is still a strong tendency in some quarters to have a go at Archibald Campbell, usually referred to in the piping world as ‘Kilberry’, his family's home.
 Archibald Campbell was a toff, but as far as I can tell, he was not a wealthy man; he did not inherit the family estate and pursue the life of landed gentry.  He had to earn a living, which he did in what was then India, now Pakistan, and later in Cambridge.  Given the difficulty of gaining a position in the Indian Civil Service, (as Ian Murray pointed out on a previous occasion, most of us wouldn’t even understand the entrance exam questions!), given his success in the Indian Civil Service and his subsequent post at Cambridge, I assume that he was man of significant ability, well-educated and intelligent. 
 He does not enjoy a great reputation as a player, though he was not the worst player ever to play a pipe.  He spent many, many hours studying piobaireachd.  He had tuition in it from three of the greats of piping history - Alick Cameron, John MacDougall Gillies,John MacDonald (Inverness) - and, crucially, he made extensive notes on the teaching he received.  With those notes, it is credible for him to describe finer points of tunes years later, much more credible than those who will say, twenty to thirty years after their lesson, ‘that was how I got it from so and so’.  Archie Campbell collaborated with Sheriff Grant of Rothiemurchus to prepare a huge archive of information about tunes, which formed the basis for the Piobaireachd Society's series of books.
 While it is entirely reasonable to disagree with Kilberry, to take a dim view of some of his ideas about certain tunes, to suggest improvements to the scores he produced, it is not appropriate to attack him personally, to pour scorn on his work, to belittle his contribution. Some of what has been written about him is poor stuff. Some of those pedalling this drivel would benefit from studying Archibald Campbell’s superbly lucid analytical writings. In the modern vernacular, ACK is virtually always clear, crystal clear.

 At the 1987 PS conference, Andrew MacNeill delivered a session on ‘Some Piobaireachd Thoughts of Robert Reid’, talking about introductory, or cadential, Es and referring to what is given in ACK’s Sidelight’s and Further Sidelights, he said: ‘Kilberry deals with this very well...there is very little in the way of discrepancies that he does not . cover ... he explains what should be common sense as far as the piper is concerned . . .’  He quoted Kilberry directly ‘This is a matter in which the player can introduce taste and expression and there is no reason why he should not indulge I his own taste so long as he does not clip either note short..’.  Andrew went on to say ‘There are . . . items that Pipe Major Reid deals with in this tune (MacCrimmon’s Sweetheart) ... that... should be noted.  One is his regard for Kilberry's writing, because it’s been said in public that he didn’t regard Kilberry as very much in the piobaireachd line.’   Reid himself talking about MacCrimmon’s Sweetheart Thumb Variation includes the following points:
 "You find people play it one way, people play it another, but I would ask you to refer to your Kilberry book for the next variation.  I’m sure you know that Kilberry, myself and many . . of the Piobaireachd Society didn't always see eye to eye.  I must confess and tell the truth and say that Kilberry has done the piper a great job when he wrote tunes of this description . . . what I am going to play ... try and coincide it with your (Kilberry) book and you won’t be far wrong. Kilberry wrote it very well, I must give him full marks, as he has done for most of his tunes ... I think he deserves a great pat on the back for what he has done in his writings ..."

 I think that is also clear, crystal clear!  Later Robert Reid goes on to say ‘I make no excuse for how the Camerons played.  I don’t think it could be bettered and if the piper was capable of interpreting the Kilberry book he would play exactly as that.’
 You can also listen to Robert Reid on the CD ‘Classics from the College - P/M Robert Reid’ speaking about MacSwan of Roaig:  ‘You’ll also find if you refer to your Kilberry Book, Kilberry writes it just exactly as I’m going to play it you . . .’


 All this gives Kilberry's work a definite authority and indicates genuine value in the world of piobaireachd, but clearly it also raises the issue that those who dislike the Cameron approach may dislike the Kilberry book, whereas Cameron devotees will be happy.
 I realise that the distinction between Cameron and MacPherson styles is seen to be overdone in some quarters, but equally it really matters in others. Archibald Campbell made no secret of his preference for the Cameron approach, but was explicit that piobaireachd scores are a guide to playing and should not be taken as instruction or as a literal representation (see introduction to Kilberry Book of Ceol Mor).
 さて、本題です。
 パイピングの世界では、Archibald Campbell を、彼のファミリーのホームである "Kilberry" と呼ぶことが多いのですが、この Kilberry を非難する傾向が、いまだに強いようです。
 Archibald Campbell
は上流階級の人でした が、 私が知る 限 り、彼は裕福な人ではな く、家督を継いで大地主の生活をしていた訳ではありませんでした。彼は生計を立てるために、当時のイン ド(現在のパキスタン)で、そして後にケンブリッジで仕事をしました。インドの公務員 にな るのは大 変な ことですが(以前、Ian Murray が 指摘したように、私たちのほとんどは入試問題を理解できないでしょう!)、インドで公務員として成 功 し、その後 ケンブリッジで勤務したことを考えると、彼は相当な能力を持ち、教養があり、知的だったのだろうと思い ます。

 彼は、パイプ奏者として最も酷いという訳ではありませんが、奏者としての評判はあま りよ くありま せ ん。彼は多くの時間をピーブロックの研究に費やしました。彼はパイピングの歴史に名を残す3人の偉人、Alick Cameron、John MacDougall Gillies、John MacDonald of Inverness から 手ほどきを受けたのですが、重要なことは、彼が受けた指導について膨大なメモを取っていることです。 メモがあれば、何年経過していたとしても、ある曲の細かい点に関する説明に信用が於け て、 レッスン から 20〜30年経ってから「あの時、こうやって教えてもらったんだ。」と、口だけで説明する人よりもずっと信頼できま す。Archie Campbell は、Sheriff Grant of Rothiemurchus と協力して、曲に関する膨大な情報のアーカイブを作成し、ピーブロック・ソサエティーの一連の楽譜集の 基礎としました。

 Kilberry の意見に反対すること、ある曲についての彼の考えを否定すること、彼が作成した楽譜の改善 を提案することは全く妥当なことですが、彼を個人的に攻撃した り、彼の仕事を軽蔑したり、彼の貢献を軽んじたりすることは適切ではありません。彼について書かれ てい ることの中には、ひどい物もあります。このような戯言を吹聴する人の中には、Archibald Campbell の 素晴 らしく明晰な分析的文章を学ぶべきでしょう。現代の言葉で言えば、ACK は事実上常に明晰であ り、 完全に透 明で す。


 1987年のPSカンファレンスで、Andrew MacNeill"Some Piobaireachd Thoughts of Robert Reid" というセッションを行い、イントロのカデンツ E について論じて、ACK の "Sidelight(of Kilberry Book of Ceol Mor)" と "Further Sidelights" に記載されていることに言及。「Kilberry はこれを非常にうまく扱っています。彼がカバーしない不一致はほとんどありません。彼はパイパーに関す る限り、常識であろうことを説明しています...。」と言っています。彼は Kilberry の言葉をその まま 引用し、 「こ れは奏者が好みと表現を導入できる問題であり、どちらの音も短く短縮しない限り、彼が自分の好みを満喫 してはいけない理由はない...。」  Andrew はさらに、「Pipe Major Reid がこの曲("MacCrimmon’s Sweetheart") で扱っている...、注目すべき項目がある。」と言いました。 一つは、Kilberry の記述に対する彼(Reid) の評価。彼はピーブロックの流れの 中で Kilberry をさほど大きな存在とは考えていない、と公の場で言っています。その Reid 自身が、"MacCrimmon's Sweetheart" の Thumb バリエーションについて語る中で、次のように語っています。
 「ある人はある方法で、また、ある人は別の方法で演奏しているが、次のバリエーショ ンは Kilberry Book を参照してほしい。 Kilberry と私やその他のピーブロック・ソサエティーの多くの人たちが、必ずしも意見が一致していなかったことは 知っての通り。 本当の事を言うと私は、Kilberry がこのような内容の楽譜を書いた事は、パイパーたちにとって素晴らしい仕事をしたと言 いた い。 私が演奏しようと思っている曲は... あなたの(Kilberry)Book と一致させてみて、大きく間違うことはない。Kilberry はこの曲をとてもうまく書いている。私は彼の書いた殆どの曲に対して満点を与えるべきだと 思ってい る。 私は、彼が著作で行ったことに対して、大きな賞賛を受けるに値すると思う...。」
 私は、この記述も同様に明晰であり、完全に透明だと思います! この後、Robert Reid は次の様に続けています。「Cameron 一族がどの様に演奏していたかについては、言い訳はしない。もしあるパイパーが Kilberry Book を解釈する能力があれば、その通りに演奏するだろう。」 
 また、 CD "Classics from the College - P/M Robert Reid" の中で Robert Reid"Lament for The MacSwan of Roaig" について次の様に語っているのを聴くことができます。「Kilberry Book を参照すれば、Kilberry は 私が演奏するのと同じように書いていることが分かるはずだ。」

 これらすべてが Kilberry の楽譜に明確な権威を与え、ピーブロックの世界における真の価値を示していますが、Cameron のアプローチ を嫌 う人は Kilberry Book を嫌い、Cameron の信奉者は満 足す る、という問題も明らかに提起しています.
 Cameron
MacPherson のスタイルを区別することは、ある面では行き過ぎだと思われ ているようですが、他の側面から考えると大きな意味があります。Archibald Campbell は、Cameron のアプローチを好んでいることを公言していましたが、「ピーブロックの楽譜は演奏のためのガイドであ り、指導や文字通りの表現として受け取ってはいけない。」と明言していました(Kilberry Book of Ceol Mor の序文をご参照ください)。
 It’s really quite difficult to make anything of some of the writings about ACK. I think one of the problems is that those criticising him fail to appreciate how accurate are his writings, his use of language is exquisitely precise.
[Here Dr Frater outlined some examples previously given in his 2008 PT article about Kilberry].
 John Shone published a collection of Archibald Campbell’s letters, with an introduction by JB Robertson:
 ‘I had the great privilege to enjoy the friendship of Archibald Campbell over many years. As a young Scots Guardsman trying to stamp his mark on the world of piping, the advice and encouragement given to me by AC was both unselfish and generous.’ He goes on:‘AC was an extraordinary man. He was without prejudice ... He brought a great maturity, depth and sensitivity to our music and many of our players are performing piobaireachd today more musically because of his interpretation set down in the Kilberry Book of Ceol Mor.’

 The books ‘Sidelights’ and ‘Further Sidelights on the Kilberry Book’, compiled by Archie’s son James, have had a good reception; they should be on every piobaireachd enthusiast’s bookshelf.  Relatively overlooked are the notes diligently prepared to accompany the scores in the PS Books. These are a major work.
 Look at what he has to say there about some of this year’s set tunes: Unjust Incarceration, Mary’s Praise, Craigellachie. Straightaway we see some of the key issues. Usually only one score is printed. The format shows structure, there is plenty of information in the notes, though not perhaps easily assimilated. Often the authorities are Alick Cameron and John MacDougall Gillies.
 Lament for Donald of Laggan is interesting - the Campbell Canntaireachd urlar is presented in full, available for all to peruse decades ago. Note that ACK acknowledges, okay perhaps obliquely, that he doesn’t know how to interpret it, but he puts it there for others to study and doesn’t hide away his own failure with it.  A huge amount of work went into all these sets of notes.  It is sometimes important to look at the notes before passing judgement on the scores presented.
 For example, with Massacre of Glencoe, I believe he is criticised in some quarters for publishing a setting some regard as less attractive than Angus MacKay’s. If one looks at the extensive notes accompanying the tune in PS Bk 6, he explains that this setting was chosen because Angus MacKay’s was so well known that little was to be gained by publishing it, whereas the Campbell Canntaireachd setting was unknown. It should be observed that he also gives the information required to write out Angus Mackay’s score, so it wasn’t concealed.

 Obviously Kilberry was not always right.  He was no doubt able to cause offence at times, but I don’t think that piping is replete with saintly figures against whom he would suffer greatly in comparison.  We should take a rounded view. 
 Yes, the notes in PS books are rather dry, perhaps indigestible for many, but if you look at the text in Sidelights, a much more vital style emerges. Sidelights and Further Sidelights speak directly to us. Personally, I find his settings generally musical, e.g. Lord Lovat. His composition, Lament for Angus Campbell, set recently for the Clasp, attracts favourable comment even from his detractors.

 Our next tune, the Old Men of the Shells is relevant to our discussions of both Kilberry and Thomason. In PS Book 7, edited by Kilberry, two settings are printed in full with extensive notes. Thomason [CST] has his own unique setting, correcting the variations to fit more mathematically with the Urlar. Notably he amended the 3rd line tripling and crunluath to include Fs and Es, producing a strange mix of ordinary crunluath, fosgailte and breabach in the same line. His mathematical approach had plusses and minuses. Perhaps he failed to give sufficient recognition to the notion that variations may be intentionally different, i.e. changed from the equivalent in the ground because they sounded better. Nonetheless I can empathise with CST since the variations in this tune really don’t match the urlar. Even the structure isn’t the same. CST addresses this, but does his setting work? Does anyone play it?
 ACK に ついて書かれたいくつかの文章から何かを読み取るのは本当に難 しい事です。問題のひとつは、彼を批判する人たちが、彼の文章がいかに正確であるか、彼の言葉の使い方が絶妙 に正確であるかを理解していないことだと思います。(Dr. Frater は、2008年に PT 誌上の Kilberry に関する記事の中で、いくつかの例を紹介しています。先 述のリン ク参 照
 John Shone は、JB Robertson の序文付きで、Archibald Campbell の書簡集を出版しました
 「私は長年にわたり Archibald Campbell との友情を享受する大きな特権を持っていた。パイピングの世界に自分の足跡を残そうとする若いスコットランド衛兵だった私に、AC がくれ たアドバイスと励ましは、無欲で寛大なものでした。」 彼は続けます。「AC は非凡な男でした。彼は偏見を持たなかっ た...。彼は我々の音楽に偉大な成熟度、深み、感性をもたらし、Kilberry Book of Ceol Mor に 記された彼の解釈のおかげで、今日多くのプレーヤーがより音楽的にピーブロックを演奏している。」と 述べています。


 Archie の息 子 James が編 纂した "Sidelights" "Further Sidelights on the Kilberry Book" は 高い評価を得て いて、すべてのピーブロック愛好家の本棚にあるべきものです。比較的見過ごされているのは、このノート は PS Book の楽譜に付随してコツコツと準備され たノートだという事です。これは大作です。

 今年のセットチューンについて、彼が何を語っているか見てみましょう: "Unjust Incarceration" "Mary's Praise" "Craigellachie" 等です。すぐに、いくつかの重要な問題が見えてきます。通常、楽譜は一つしか印刷されません。楽譜の 形式 は構造を示しており、ノートには多くの情報が記載されていますが、おそらく簡単に吸収できるものではあ りません。多くの場合、Alick CameronJohn MacDougall Gillies が典拠となっています。
 "Lament for Donald of Laggan" は興味深い。数十年前に誰もが閲覧できるようになった Campbell Canntaireachd による urlar が全文掲載されています。ACK は、自分がその解釈の仕方を知らないことを、斜に構えてかもしれません が、他の人が勉強するためにそれを置き、自分自身の失敗を隠したりしていないことに注目してください。 これらのノートには、膨大な労力が費やされています。楽譜で審査をする前に、そのノー トを 見て判断 する ことが大 切な場合もあります。
 例えば、"Massacre of Glencoe" では、Angus MacKay よ りも 魅力的で ない セッ ティングを発表したと、一部で批判されているようですね。PS Book 6 のこの曲に付けられた膨大なメモを見ると、彼はこの設定を選んだ理由を、Angus MacKay の はあ まりにも 有名 で出版してもほとんど得がないのに対し、 Campbell Canntaireachd の 設定は知られていなかったからだと説明してい ま す。なお、彼は Angus MacKay の楽譜を書き出すのに必要な情報も提供しており、隠し事をしていたわけではありません。

 Kilberry が常に正しい訳ではありません。彼は時に不快感を与えていたのは間違いありません。しかし、私は我々の パイピング界が、比較された彼が大きく見劣りする様な聖人達で満ち溢れている、とは思 いま せん。私 たち は、公平な視点を持つべきです。PS Books の ノートは多くの人にとって、どちらかというと素っ気なくて、理解し難い内容ですが、 Sidelights の記述を読むと、より生き生きとしたスタイルが思い浮かびます 。SidelightsFurther Sidelights は、私たちに直接語りかけてきます。個人的には、例えば "Lord Lovat" 等、彼のセッティングは、概して音楽的だと思います。最近、Clasp のセットチューンとなった "Lament for Angus Campbell" は、 彼に批判的な人たちか らも好意的なコメントを得ていいます。

 次の曲、"The Old Men of the Shells" は、Kilberry と  Thomason 夫々の 議論に関連してい ま す。Kilberry が編集 した PS Book 7 には、2つのセッティングが全文掲載され、豊富な注釈が付けられています。Thomason [CST]は、 バ リエー ション をより数学的にウルラールと適合するようにを修正し、 彼独自のセッティングを行っています。特に、3行目の tripling と crunluath を F と Es に修正し、同じ行に普通の crunluath, crunluath-fosgailte そして、crunluath-breabach が混在する奇妙な形になっているのが特徴です。彼の数学的 アプローチには長所と短所があります。おそらく彼は、バリエーションが意図的に異なる可能性がある事を十分に認識できていなかったと思います。つまり、そ の方が良く聴こえるからと思って、グラウンドの音を取り入れて変えたのでしょう。と はいえ、この曲のバリエーションは本当にウルラールにマッチしていないので、私は CST に共感します。構造さ えも同じではありません。CST は こ の点を指摘していますが、彼のセッティングは上手くいっているので しょうか? 演奏する人はいるのでしょうか?

Part3
【Vol.64/No.10-2012 /7-P20】
 General  is the key figure when we discuss piobaireachd structure in general. His contribution was the seminal moment; once he had produced his format for the scores, the structure appeared in front of him. He analysed the structures and introduced the notion of A, B phrases, which we now have as an integral part of the primary and secondary classification system. Structural analysis usually is based on the Urlar, one might say it’s rooted in the Ground, but in some tunes there is a clearer pattern in the variations. Even at the basic level of deciding where lines end, the structure makes a difference. As we have seen, the Campbell Canntaireachd has the music in lines implying that, even without staff notation, there was a recognition of structure.

 More controversial than structure, perhaps, are time signatures in piobaireachd. Some people feel they have no place in ceol mor. I’m happy to lay my cards on the table and support their use. It just seems self- evident to me that they are there. Okay not in the same way as time signatures in light music.  In light music, we are often looking at a fixed tempo in each piece, in piobaireachd, we have a pulse rather than a beat, without wishing to seem too fanciful, in the same way that our hearts have a pulse not a metronomic beat. We can extend the analogy a bit further: you don’t feel your pulse when all is going well, but it's there.You notice it when the rhythm goes out of synchronisation.

 The pioneers of writing piobaireachd on staff notation used time signatures. It may be that those submitting for Highland Society prizes had to conform, but Joseph MacDonald didn't, and he has time signatures in his treatise.

 I feel strongly that time signatures help me when I am playing piobaireachd. The time signature is a big factor in some tunes, in others much less so. Sometimes a time signature features more in the variations. In tonight’s tunes, Black Donald’s March comes to life in 6/8, and an appreciation of the secondary structure gives it shape. Lament for MacSwan of Roaig is in common time for me. In the Big Spree, time signature is mainly relevant to the variations. In the Old Men of the Shells there is much less impact.
 For all but master players, time signatures should make piobaireachd easier to play and understand. Time signatures can bring a shape into phrases, but a lack of this combined with a failure to use the poetic shape from lines and metre, can lead to a featureless performance, even at high level, even, dare I say, in Gold Medal competitions.  When the pressure is on the structure and time signature can give a framework for playing a tune, help guide interpretation, reduce the chances of wandering off the score.

 Were time signatures consciously used by old masters? Not sure how we’ll know, but they are certainly used by more recent masters. One problem with time signatures is that it is not always easy to tell what time signature a piece is being played in, even masters of piobaireachd sometimes say they’re playing in, say 2/4, but when you listen, they’re actually playing in 4/4. Same goes for 4/4 and 6/8 at times. In Mary's Praise RU Brown says definitely 3/4, but when he plays the Urlar his note timings match Kilberry’s 4/4 score. In his notes about the tune, Kilberry says that it can be, and usually is, written in 3/4, but 4/4 actually reflects better how it is played.  Dugald MacNeill’s Sight Readable Ceol Mor takes us to the use of time signatures to portray more closely what is actually played, changing the time signature to accommodate passages where appropriate.

 This format should make it easier for newcomers to piobaireachd to follow the music and, hopefully, to play it. I believe studying the scores and thinking about structure and time signatures enhances both the playing and listening experiences. I think General Thomason was right to tackle the notion playable scores  impossible for piobaireachd.  Piobaireachd is challenging music to interpret, but it’s not mystical, nor impenetrable.
 We seem to have been conditioned to think it is stultifyingly obscure. I simply do not accept that piobaireachd is somehow unsuited to staff notation. Staff notation may be more straightforward for simpler music, like our own light music or hymns or popular songs and so forth, but for other serious musical forms the score is also only a guide.  The printed score for a Beethoven piano sonata or a Tchaikovsky ballet or a Mozart opera does not represent a complete and definitive set of instructions indicating exactly how to present the music, such that every performance is identical. All serious music requires thought, interpretation and instruction.  Piobaireachd is not distinguished from other music by requiring students to learn from a master.  Top classical pianists, violinists, singers and so on, are not self-taught. They have many years of lessons, far more than any piobaireachd player would now, surely?
 Piobaireachd may be more fluid, but it’s a matter of degree.  It is not an alien form of music.
 Thomason 少将はピーブロックの構造全般を論じるときの重要人物です。彼の貢 献は 決定的な 瞬間 でした。ひとたび彼が楽譜のフォーマットを 作成する と、その構造が目の 前に現れたの です。彼は 構造を分析し、 A、Bフレーズという概念を導 入しました。この概念は、現在、プ ライマリー、セカンダリーという分類システムの不可欠な部分となっています。構造分析 は通常、ウルラー ルに根ざしたもの(グラウンドに根ざしたものとも言える)ですが、曲によってはバリエー ションの中 に明 確なパターンがあることもあります。ラインの終わりを決めるという基本的なレベルでも、構造によって違 いが出てきます。これまで見てきたように、Campbell Canntaireachd はライン単位になっており、五線譜がなくても構造を認識していたことがうかがえます。


 しかし、ピーブロックに於ける拍子記号に関しては、構造の分析よりも議論の余 地が あります。 ピーブ ロックに拍子記号はふさわしくないと考える人もいます。私は、テーブルの上にカード(拍子記号?)を置いて、その使用を支持する こと に満足し てい ます。ただ、私にはそれ(拍 子記号?)が あ ることが自 明であるように思えるのです。ライトミュージックの拍子記号と同じようには行きませんが…。 ライトミュージックでは、各曲のテンポが決まっていることが多いのですが、ピー ブ ロックで は、 ビートではなくパルスがあります。あまり空想的に思 われるか もしれませんが、私 た ちの心臓の鼓動がメトロノームの様なビートではなく、パルスであるのと同じように です。人は、心臓が上手く動いているときは脈(パルス)を感じませんが、リズムが 狂うと脈があることに 気付きます。
 ピーブロックを五線譜に書き下ろした先駆者たちは、拍子記号を使っていました。ハイ ラン ド・ソサ エ ティーの(ピーブロックを五線 譜に書き下 ろす企画の)賞 金に応募する人たちは、それに従わなければならなかったのでしょうが、Joseph MacDonald は そう では ないにも拘らず、彼の論考には拍子記号が書かれています。
 私はピーブロックを演奏するときに、拍子記号が役に立っていると強く感じています。 ある 曲では拍 子記 号が大きく影響しますが、そうでない曲ではあまり影響しません。また、バリエーションの中で拍子記号が より多く登場することもあります。今夜の曲では、"Black Donald's March" が 6/8 で登場。セカンダリー構造を理解することで、それを形にしています。"Lament for MacSwan of Roaig" は私にとっては 4/4 です。"Big Spree" では、拍子は主に変奏曲に関係します。"The Old Men of the Shells" では、そのような影響はあまりありません。
 マスタープレイヤー以外の全ての人にとって、拍子記号はピーブロックをより演奏しや す く、理解し 易く するはずです。拍子記号はフレーズに輪郭を与える事ができますが、これがないと、ラインと韻律から得ら れる詩的な形を使うことができず、たとえ高いレベルでも、あえて言えばゴールドメダル のコ ンペティ ショ ンでも、特徴のない演奏になることがあります。 プレッシャーがかかったとき、構造と拍子記号は曲を演奏するための枠組みを与え、解釈を導き、楽譜から外れてしまう可能性を減らすことができるのです。


 昔の巨匠は意識的に拍子記号を使ったでしょうか? それは分かりませんが、最近の巨 匠た ちは確実 に 使っています。拍子記号の問題点として、曲がどのような拍子記号で演奏されているのかを見分けるのが必 ずしも容易ではないということがあります。ピーブロックの巨匠でさえ、2/4で演奏し てい る、と言 いな がら、実際に聴いてみると4/4で演奏していることがあります。4/4 と 6/8 も同じようなことがあり ます。"In Mary's Praise" では、R.U. Brown は「間違いなく 3/4 だ」と言っていますが、彼がウルラールを演奏する時は、Kilberry Book の 4/4 の楽譜とタイミングが一致します。Kilberry はこの曲に つい てのメモの中 で、「この曲は 3/4 で書くことができるし、通常は 3/4 で書かれているが、実際には 4/4 の方が演奏 に適している。」と述べています。 Dugald MacNeill "Sight Readable Ceol Mor" では、拍子記号を使うことで、実際に演奏される内容をより忠実に表現し、必要に応じて拍子記号を変えて演奏しています。
 このような形式をとることで、初めてピーブロックに触れる人でも、楽譜を追いやすく な り、できれ ば演 奏できるようになるはずです。楽譜を読んで、構造や拍子 記号につ いて考えることは、演 奏と聴き取 りの両 方の経験を高めることになると 思います。Thomason 将 軍 が、 ピーブロックに於ける演奏可能な楽譜という概念に取り組んだのは、正しかったと 思います。ピーブロックは解釈するのが難しい音楽ですが、神秘的で もな く、不可 解で もありません。
 私たちは、ピーブロックを茫洋とした曖昧なものだと思い込んでいるかも知れません。 私 は、ピーブ ロッ クが五線譜に適さないという意見には賛成できません。ハイランド・パイプのライトミュージックや賛美 歌、ポピュラーソングなど、よりシンプルな音楽では五線譜はよりわかり易いツールかも しれ ません が、そ の他の本格的な音楽では、楽譜も単なるガイドにしか過ぎ ません。  ベートー ヴェンのピア ノソナタやチャ イコフスキーのバレエ、モーツァルトのオペラの印刷された楽譜は、どのように音楽を表現したらよいかを 示す完全で決定的な指示書として、すべての演奏が同じになるようなものではありませ ん。全 て の本 格的 な音楽は、思考、解釈、指導を必要とします。ピーブロックは、生徒が師匠から学ぶ必要があるという意味 で、他の本格的な音楽と何ら違いはありません。一流のクラシックピアニス ト、 バイオリ ニス ト、歌手など は、独学で勉強しているわけではありません。彼らは何年もレッスンを受け、ピーブロックを演奏する人よ りもはるかに多くのことを学んでいます。
 ピーブロックはゆったりとした音楽かもしれませんが、それは、程度の問題であって、 全く 異質な音 楽と いう訳ではありません。
 Thinking about scores in general, a key problem is figuring out whether differences in old scores, our original sources, represent genuine differences in playing or simply different ways of writing the same thing. That goes for various aspects including different gracenote formats and whether different time signatures materially altered presentation in performance.
 In this respect we are suffering from the lack of a living legacy for the playing styles that no one appears to have carried forward, including Donald MacDonald and MacArthur, which have come down to us in written form, but not in performance. These styles were dormant by the time  worked on the PS books. They went to great lengths to give information about the tunes. See for example books 1 and 2 - Big Spree, Donald Gruamach, Glengarry’s March - but naturally PS editors mainly presented the style they had been taught; they would have had no credibility otherwise. See the introduction to PS Book 1 for superb insight shown by Rothiemurchus.

 What have I learnt that might help fellow enthusiasts, whether playing or listening, increase enjoyment of piobaireachd? I have long been a keen reader of the notes that accompany the scores in PS books though I didn't fully understand them until recent years. Once I understood from wider reading the histories of the various manuscripts, who John MacDougall Gillies and A Cameron were, and so forth, I took much more from the notes. Others with more flair and intelligence will grasp all this much quicker than me. It’s taken a long time to get all the strands relating to people and sources linked and clarified, but it has been worth the effort. There are several relevant good publications that have appeared since I was a youngster, so I think it is easier now to find out more about the history of piobaireahcd.
 The bagpipe itself is key, something with which I still struggle. Players should be comfortable with the bagpipe, make sure it’s on your side when you’re playing!  Work on producing a good sound. In recent years I’ve returned to a sheepskin bag and tried various drone reeds, different chanters. No one solution is going to suit everyone, but explore options till you find what works for you. If you’re a piper - have lessons. If you really want to improve your playing you should have a teacher - and playing better can in itself be a source of pleasure. Think about a Summer School or similar. I got a lot out of a week at the College. Competing can be helpful too, but make sure it’s fun. If you don’t enjoy competing, or even if you do, have a go at the various piping exams. They’re a good way to give structure to your studies.

 A crucial part of our living legacy is the transmission of master players’ knowledge and style via pupils. As I see it, it will include those things that I particularly enjoy about piobaireachd. Top of the list would be playing - we must have live performances for succeeding generations to have opportunity to develop interest. As in most musical forms, live performance is vitally different to listening to recorded performances, though recordings are an important part of the modern living ceol mor legacy. Overall, the key to success will be for ceol mor to be enjoyed.
 楽譜全般に言えることですが、私たちのオリジ ナ ル・ソース であ る古い 楽譜の違いが、本当に演奏形式の違いなのか、それとも単に記述方法の違いによるものなのか、を見極める ことが重要な問題です。例えば、装飾音の形式の違いや、拍子記号の違いに よっ て演奏上 の表 現が大きく変 わるかどうかなど、さまざまな側面があります。

 この点について、Donald MacDonald MacArthur を含め、記述された物としては伝わってきても、実際の演奏としては伝わってきてい ない 為に、その演奏ス タイルを誰も継承していないという、《生きた遺産の欠如》に悩まされているの です。こ れら のスタイル は、KilberryRothiemurchusPS Books に取り組んだ時点では、休眠状態でした。彼らは、曲に関する情報を提供するために、非常に長い時間を費やしました。例えば、Book 1 Book 2 - Big Spree, Donald Gruamach, Glengarry's March - しかし、当然ながらピーブロック・ソサエティーの編集者は自分たちが教わったスタイルを主 に紹介しました。そうでなければ、信用されなかったでしょう。 Rothiemurchus の優れた洞察力については、PS Book 1の序章をご覧ください。

 演奏する事、聴く事を問わず、ピーブロックの楽しみを増やすために、私が学んだこと は何 だったで しょ うか? 私は以前からPSの楽譜に付いている注釈をよく 読んでいた のですが、近年に なって完全に 理解す ることが出来ました。様々なマニュスクリプトの歴史、John MacDougall GilliesAlex Cameron が誰なのか、などについて幅広く読んで理解した後は、その注釈から多くのことを学 ぶこ とができ るよ うになりました。もっと才能と知性のある人なら、 私より ずっと素早く、全てを理解できるはずです。人物や資料に関するすべての紐を結びつけ、明確にするのに長 い時間がかかりましたが、努力の甲斐がありました。私が若かった頃より、関連す る優 れた出版 物が いくつ か出ているので、現在では、ピーブロックの歴史についてもっと沢山の事柄を知ることができるようになっ たと思うのです。

 バグパイプそのものが重要で、私は今でも苦労しています。演奏者は快適に演奏できる 事、 演奏する とき にバグパイプが自分の側にあるべきです! 良い音を出すために努力すること。私は、近 年はシー プスキ ン バッグに戻り、 様々なドローンリードやチャ ンターを 試しています。 一つのソリューションが誰にでもマッ チする訳ではありません。自分自身に合うものを見つけるまで、いろいろ試してみてください。もしあなた がパイパーなら、レッスンを受けましょう。本当に演奏を上達させたいのであれば、指導 者を 持 つべきで す。 より良く演奏できる様になる事は、悦びに繋がります。サマースクールやそれに類するものを考えてみてく ださい。私は CoP での1週間で、多くのことを学びました。コンペティションへの参加も 役に立ち ます が、楽しいものであることを確認してください。もし競技を楽しめないのであれば、ある いは楽しめるので あっても、パイピングの各種試験に挑戦してみてはいかがでしょうか。勉強にメリハリをつけ るには良い方法です。
 マスタープレイヤーの知識とスタイルを弟子たちに伝えることは、私たちの生きた遺産 の重 要な部分 で す。私が思うに、ピーブロックで特に楽しいと思うことは、その中に含まれています。トップクラスの演奏 者たちは演奏してくれます。次の世代が興味を持つためには、生演奏が必要です。多くの 音楽 形式がそ うで あるように、生演奏は録音された演奏を聴くのとは全く異 なります が、録音は現代の生き たピーブ ロック (Ceol Mor)の遺産として重要な部分です。全体として、成 功の鍵 は、ピーブロック(Ceol Mor)を楽しんでもらうことでしょう。
 Acknowledgements from Dr Frater: My thanks to the Piohaircachd Society, the Royal Scottish Pipers’ Society, the Piping Times and Ian Watson and Jeannie Campbell from the College of Piping Museum with regard to the illustrations that accompanied the lecture. Thanks also to Fiona Manson and Innes Smith for their fine playing of the tunes I had requested.
 Dr Frater からの謝辞: Piohaircachd Society、Royal Scottish Pipers' Society、Piping Times、College of Piping Museum の Ian Watson Jeannie Campbell に、 講演に添えられたイラストについて感謝します。また、私がリクエストした曲を見事に演 奏してくれた Fiona Manson Innes Smith にも感謝します。

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