ハ イランド・パイプに関するお話「パイプのかおり」

第55話(2023/2)

 The MacKays of Gairloch
ー from PS Conference 1982 

by Alec MacRae


 Piobaireachd Society Conference Proceeding/1982/session1

 
 The MacKays of Gairloch については、過去に次の3つの記事を書いてい ます。
  1. CANNTAIREACHD - MacCrimmori's Letter No.16/"The Blind Piper" Iain Dall MacKay について(1997/11)
  2. パイプ のかおり 第43話/The MacKay of Gairloch - from  "Piping Times"(2022/10)
  3. パイプ のかおり 第44話/Where Did The Blind Piper Live?(2022/10)
 1. は執筆当時の最新資料、1994年のピーブロック・ソサエティー・カンファレンスに於ける Bridget MacKenzie の講演録をベースに、 エッセンスを抽出。2. は "Piping Times" の過去記事から 1954年と1977年の記事を全文紹介。3. は1993年〜1994の "Piping Times" に3回連載された、Iain Dall MacKay の住処について Bridget MacKenzie が 詳しく考察した記事の全文紹介。

 4つ目の記事になる今回は、1.の講演から遡る事12年前の 1982年のピーブロック・ソサエティー・カンファレンスに於ける Alec MacRae という人の講演録全文の日本語訳を紹介します。

 参照する情報源は限られているので、内容的には重複している部分も多々ありますが、それぞれの情報の齟齬を解き明 かしつつ、各人の解釈の違いを重層的に読み込む事は、極めて楽しい作業です。そして、それによってパイピング史上に 於いて The MacCrimmons に次いで最も重要な位置を占めている、The MacKays of Gairloch の全体像がますますクリアになって来る事は、間違いありま せん。お楽しみ下さい。
 
 なお、原文については、PS会員限定で公開されているものなので、表示は差し控えます。PS会員の方は原文につい ては、PSサイトの会員専用ライブラリーで閲覧願います。

  ウェスターロス州の Gairloch 教区で過ごした子供時代、Badachro の我が家ではいつも3人の John の名前が会話に出てきました。その3人の John とは、誰あろう、MacKay 家の中で最も著名なメンバーである Iain Dall と 、1805年3月に Loch Maree-side を出航し、(カナダの)ノ バスコシア州 Pictou に移住した John Roy(Iain Ruadh)MacKay。そして3人目は、MacKay 家とは遠く離れているが、我が家でその名をよく耳にした Oban の John MacColl で、Lochrosque の Sir Arthur Bignold のお抱えパイパーを務めていました。

 ここに、かつて Oban 高校の学長を務めていた故 John Maclean が書いた、とても興味 深い記事があります。これは特に Iain Dall、Am Piobaire Dall、盲目のパイパーについての記事です。
 MacKay 家に関する主な情報は、2つか3つの異なる情報源から得られています。まず、"Sac Obair nam Bard(The Beauties of Gaelic Poetry)" を編纂した Gairloch の John MacKenzie、次に Inverews の Osgood MacKenzie、そして最後 に、何よりも Loch Maree の西端にある Inveran Lodge に 25年間住んだ John H. Dixon です。 John Dixon は、John Roy の孫である Iain Buidhe TaillerFair John the Tailor)から 多くの情報を得ました。

 おかしなことに、私が休暇で故郷の教区の自宅に帰っていると、「仕立て屋の Alec が家にいる、彼のパイプの音が聞こ えた。」よくと言われました。私は仕立屋ではありませんでしたが、父が仕立屋でしたので、この John Maclean がその名で知られていたように、私も仕立屋の Alec として知られていたのです。 彼は Gairloch について素晴らしい知識を持っており、特に Am Piobaire Dall について John H. Dixonに多くの情報を与えて くれました。

 しかし、Raasay 出身の John Maclean は、1952年4月4日付けで "Transactions of the Gaelic Society of Inverness" に書いたこの記事の中で、次のように語っています:
 「盲目のパイパー、John MacKay に 関する我々の主な知識は、John MacKenzie による "Sar Obair nam Bard Gaidhealach" の彼の3つの詩の序文に記されているものである。MacKenzie は吟遊詩人(Iain Dall)と同じ く Gairloch の出身で、Iain DallMacKay の若い同時代人や、おそらく MacKay 一族の子孫たちの事についても、色々情報を持っていたはずなので、"Sar Obair" に書かれていることは、かなり重要な意味を持つと思われる。」

 そこで、私はまず、MacKenzie の 吟遊詩人伝を全面的に紹介し、その後、他の資料から得た John MacKay に関する知識で批評したり、補足したりすることにします。
Biography of John MacKay by John MacKenzie
 有名なパイパー&詩人の John MacKay は、1666年にロス 州の Gairloch 教区で生まれた。父親と同じく、彼も Lord Reay の地所の出身である。彼は 生まれつき盲人であったが、目にわずかな陰があることを除けば、最も鋭い観察者出なければ、彼に視力が ないことを認識するのは困 難であろう。

 John は音楽(ピーブロック)に関する最初の原理や初歩的な部分を父親から 習得すると、勉強を終了するために、援助を受けてスカイ島の有名な MacCruimein の運営する College of Piping に送られた。
 当時、この有名なマスター・パイパーのもとで学んでいた弟子は他に11人以上いたが、Iain Dall は能力と才能の項目で他の 弟子より格段に優れていたため、短期間で全員をしのぐ成果を上げた。生来に備わった彼のこの卓越性は、 当然ながら他の生徒たちの卑しい嫉妬を買い、彼らのライバル心や傷つけられたプライドを物語る、多くの 逸話が残されている。

 あるとき、John ともう一人の弟子が同じ曲を交互に演奏し、ライバル心をむき出しにしていたところ MacCruimein が「なぜ Iain Dall のように演奏しないのか。」と叱責した。これに対して、悔しがったもう一人の弟子は「ガンギエイを食べた後の指でなかったら、私も同じ様に演奏する。」 と、夕食 時に魚(ガンギエイ)を食べた後にチャンターに触れたので、ネチャネチャしてしまった、という事をほの めかして答えた。これ以降、自分たちが優れていると自覚している北部地方のパイパーたちは、南部地方の パイパーに対して、次のような嘲りを浴びせる習慣が出来た。
 "Tha am meoirean an deaghaidh na sgait." (私の指はガンギエイのせいでベトベトだ。)

 天才は自らを発展させるために決して損失を被ることはなく、実際に「根拠」がない場合、その発明の豊 饒さは、取り組むための豊富な材料を見つける。
 この若き日のパイパーは、見習い期間の初めの頃、自身のベッドについてやや不運があったようだ。つま り、ある種の侵略者がはびこり、彼の快適さと睡眠を損なっていたのだ。この状況を記念して、"Pronnadh nam Mial"(熾烈にノミを殺す)と いうピーブロックを作曲した。この曲は彼の最初の作品だが、そのバリエーションと基本的な構造に関して は、この種の どの曲にも匹敵する。
 さて、詳しい方の中には、"Pronnadh nam Mial" を  "Unjust Incarceration" と訳したという方もいらっしゃるかも しれませんね。それ は間違いかもしれないが、一考の価値はある。

 MacCruimein 一族の一人で、Padruig Caogach という名前で知られる有名な音楽家は、目をピクピクさせたりウ瞬いたたりしたりする根深いクセを持って いた。彼は、その 頃、新しいパイプ・チューンを作曲していた。
 最初の2小節が知られてから2年が経過していたが、相変わらず未完成だったため、"Am Port Leathach" "The Half-finished Tune")と呼ばれて いた。偉大な詩人の中には、曲全体の構成やハーモニーよりも、たったの一行や対句を捻り出す事の方が難しい という経験をした者もいる。音楽家もまた、同様の困惑を経験しており、Padruig Caogach はかなり行き 詰っていた。 
 この曲の萌芽はどこでも唱えられ、どこでも喝采を浴びた。しかし、作曲の天才はに取ってはそうでは無 く、 Caogach の困惑を遠くから眺めながら歓喜しているようであった。兄弟パイパーの評判を気にして、この盲目の作曲者は仕事に取りかかり、曲を完成させた。この曲は "Lasan Phadruig Chaogaich"、つまり "Padruig Caogach's Flame of Wrath" と呼ばれ、彼は、賞賛された曲の 完成に続いたに違いない賞賛の一部を気高く放棄した。

 Patrick は、盲目の髭なし青年に自分の特別な専門分野(作曲家)の立場を奪われたことを知って、他の徒弟生徒たちを買収して、ライバルの命を奪う事を謀った。彼ら は John と一緒に Dun Boreraig を歩いているときに謀殺を試み、盲目の友人を24フィートの高さの断崖絶壁から投げ落とした。John は足から地面に着地して、大した怪我 も負わなかった。John が投げ落と された場所は、私たちも知っているが、今でも "Leum an Doill"(The Blind Piper's Leap)として知られている。

 "Lasan Phadruig Chaogaich" の完成により、この若い音 楽家は大いに賞賛され、次の有名な諺が生まれた: "Chaidh am foghlumaiche os cionn Fihic Cruimein" すなわち、「弟子は師を追い越す」。

 MacCruimein の指導を7年間受けた後、John は 故郷の教区に戻り、父(Ruairidh Dall) の後を継いで Gairloch の領主のファミリー・パイパーとなった。彼は音楽が大好きで、あちこちから寄せられる華やかな賛辞は、彼の創作意欲を常に刺激した。この素晴らしい一家に 支えていた間、彼は 24曲ものピーブロックと、数え切れないほどのストラスペイ、リール、ジグを作曲したが、その中でも最も有名な作品は "Cailleach a Mhuilleir"、そして "Cailleach Liath Ratharsair""Mrs. MacLeod of Raasay")である。

 最終的には快適な環境に身を置くことができた彼は、結婚して2人の子供(息子と娘)をもうけたが、前 者はハンサムな男だった。その子は Angus と いい、音楽に関してはどの先祖にも劣らない才能を持っていた。
 彼が高齢になった時には、彼は超高齢者名簿に載せられて、少ないながらも十分な年金を受け取り、残り の人生を貴族の屋敷を訪問して過ごしたが、彼は何処でも歓迎される客であった。彼の訪問先や小旅行は、 原則として Reay 地方(彼の生まれ故郷)やスカイ島であった。この様な巡礼の旅の一つの途中、Tongue の近所で庇護者である Lord Reay の死去の報を聞き、彼は美しく牧歌的な "Coire an Easain" を作曲したのだが、この作品一つだけでも彼の名声を不滅のものとするのに十分に値する。

 Sir Alexander FlacDonald of Sleat の死後、John は、今では彼の古い友人の息子が統治している、行きつけ屋敷を訪問した。年老いた吟遊詩 人&パイパーは「新しい王、新しい法」という格言の 検証をすぐに経験させられた。訪問した時に、いつものようにダイニングルームの椅子に導かれる替わり に、階下の召使の広間に通されたのだ。彼はこの屈辱を黙ってやり過ごす気には到底なれなかった。若い チーフが夕食をとっている時、制服を着た召使いが召使い部屋の広間に現れ、John に向かって「ご主人様が、父親がよく褒めていた曲を1曲演奏して欲しいと言っています。」と伝えた。すると、John は「ご主人様の元に戻りなさい。」と 温かく答え、「そして、彼に伝えなさい。私が彼の父親に演奏したのは、彼の耳を魅了し楽しませるためで あって、彼の背中から音楽を吹き込むためではなかった!と。」

 Gairloch に戻った彼は、2度と家から出ることはなかった。彼は 1754年に 98歳で亡くなり、生まれ故郷である Gairloch 教区の clachan にある父 Ruairidh Dall と 同じ墓に埋葬された。



 以上が、Piobaire Dall について、John MacKenzie of Gairloch が語っ ている内容です。これに続く、より最近の情報としては、Osgood MacKenzie の著書 "A Hundred Years in the Highlands" の中で、John MacKenzie バージョンに於ける詩人の生涯の描写の細部について訂正が加えられています。Osgood MacKenzie も Gairloch 人であるので、現在生きている誰よりも、既に述べた説明を補足する立場にあった可能性が高いと思われます。次に、Osgood MacKenzie の記録のうち、明らかに Sar Obair からの引用でない部分を、彼自身の言葉で説明することにします。
Osgood MacKenzie's Account
 1609年、私の祖先であり、Gairloch の最も有名な領主の一人でもあった John Roy MacKenzie は、Sutherlandの  Laird of Reay を訪問した。John Roy が Tongue House への訪問から戻ると、MacKay は Kyle of Sutherland まで同行した。彼がフェリーに到着すると、そこには花婿を連れた別の紳士がおり、主人とその一行以外が船に入るのを阻止しようとしたようである。MacKay はわずか17歳のハンサムな若者であるパイパーを連れていた。パイパーと花婿の間で諍いが起こり、パイパーは短刀を抜いて、一撃で花婿の手を手首から切り 落とした。Laird of Reay は すぐ にパイパーに言った「Rory、こ れ以上 君を引き留めておくことはできない、すぐに国を出て自身の命を守らなればならない。」John Roy は「Rory、私と一緒に Gairloch に行かないか?」と言った。そして、パイパーは喜んでその申し出を受け入れた。

 1592年頃に生まれた若いパイパー、Rory MacKay 一族で、兄の Donald に続いて直ぐにお抱えパイパーに なっ た。Rory は Gairloch の John Roy、Alasdair Breac、6 代目領主 Kenneth、その息子 Alexander という4人の領主に継続した代々のお抱えパイパーを務めた。Rory の家は本土の Talladale にあり、主人の John RoyAlasdair Breac は Talladale の反対側にある Loch Maree の島にある屋敷に住んでいた。

 (Talladale は現在ではその名では知られていない。現在は Loch Maree Hotel の東側で、農場とコテージがあった場所である。農場の建物は残っているが、コテージが一つ以上現存しているかどうかは疑問である。何年か前に Tommy Pearston が、MacKay 家は道路と湖の間に住んでいたのか、それとも道路の上、さらに丘の中腹に住んでいたのか、と質問してきたことがある。 しかし、最近、その地点で道路が再整備された。数年前、Loch Maree Hotel の支配人に、その仕事を請け負った業者に、古い家の基礎に出くわしたかどうか聞いてもらえないか頼んだことがあるが、残念ながら答えは聞けなかった。)

 Rory が仕えた最後の2人のチーフは、元々あった Tigh Dige に住んでいた。(Flowerdale House は現在 Tigh Dige のほぼ跡地にある) Rory は60歳になるまで結婚しなかった。彼は有名な盲目のパイパーである一人の息子を持ち、後半生は Tigh Dige の主人の近くに住むために Gairloch の Bails Plor に住んでいた。Rory は1689年頃、極めて高齢で亡くなった。息子と同様、ほとんど百寿者であった。
 彼は非常にハンサムで力強いハイランダーだったと言われている。彼は、そのキャリアの初期に行われた 多くの戦いで、文字通り重要な役割を果たした。

 Rory の一人息子 John MacKay は、1656年に Talladale で生まれた。 彼は、誤って伝えられているように、生まれつきの盲目ではなく、7歳くらいのときに天然痘によって視力を奪われた。1689年頃、父の死後、 Gairloch の初代男爵である Sir Kenneth HacKenzie のお抱えパイパーとなり、Sir Kenneth の死後は、Sir Alexander のお抱えパイパーとなった。彼は吟遊詩人とパイパーの職を兼任していた。Iain Dall は高齢で引退し、Sir Alexander は彼に十分な年金を与えた。父親と同様、彼も晩婚であった。子供は後継者の Angus と娘の2人だけであった。
 
 彼は 1754年に98歳で死去し、父と同じ墓に埋葬された。

 Iain Dall の一人息子 Angus は、偉大な父の後を継いで Gairloch の領主のお抱えパイパーとなった。彼は 1725年頃生まれ。Gairloch の第10代領主 Sir Alexander のお抱えパイパーとして活躍。Sir Alexander は 若い頃にフランス訪問の際には、Angus を エジンバラに残してレッスンを受けさせたと言われている。エジンバラで、あるコンペティションに参加した時、彼の才能を妬んだ他のパイパーたちが、彼の チャン ス をつぶそうと企てた。コンペティションの前日、彼らは彼のパイプを手に入れ、バッグに数カ所穴を開けた のである。しかし、Angus には Mary という美しい友人がいて、彼女はなめして無い羊の皮を見つけ、それを彼の愛用のパイプのための新しいバッグを仕立てた。この粗末な袋で、彼は翌日、念願の 賞を持ち帰ることに成功した。彼はこの親切な助手に敬意を表して、有名なピーブロック "Moladh Mairi" つまり "The Praise of Mary" を作曲した。

 Angus は長寿を全うし、息子の John Roy が後を継いだ。(1805年に Loch Maree-side を出航して、カナダに移民した John Roy である)。盲目のパイパーの 孫である John Roy MacKay は 1753年頃に生まれ、父の死後、Sir Hector MacKenzie のお抱えパイパーとなった。若い頃、彼は曽祖父 Rory の故 郷である Reay 地方に行き、そこでダンス音楽によく使われるスモール・パイプの手ほどきを受けた。
 彼は晩年を Slatadale(Loch Maree-side)で過ごし、そこで結婚して多くの家族を持ったが、家族の発展のために、娘一人を除くすべての子供を連れてアメリカ (北アメリカ/カナダ)に移住した。彼女は先に結婚し ており、その息子でゲール語で Iain Buidhe Taillear と呼ばれる John MacLean of Strath は、代々の世襲パイパーを努めた Gairloch 一族の先祖について、ここに記載した情報の多くを提供してくれた。

  John Roy MacKay は アメリカ(北アメリカ/カナダ)で 栄華を極めた。彼自身は1835年頃に亡くなり、ノバスコシア州で判事を務めていた息子は1884年に 亡くなっている。

 (この John Roy の次男 John は、ノバスコシア州で「地方 地主  John Roy 」 として知られるようになった。  彼はかなりの老齢になった時、Loch Maree-side で過ごした少年時代と、ノバスコシア州での生活について、見事な記事を書いている。その記事は(既に見た人 もいるかもしれないが)"Reminiscences of a Long Life" というタイトル。私は、2、3日前にオンタリオで手に入れたばかりである。


 以上が Gairloch MacKays に関する Osgood riacKenzie の記述です。
 3つ目の重要な文献は、彼らの名前と同じ Angus MacKay of Raasay が1838年に出版した有名なピーブロック楽譜集にあります。Angus MacKay は、1841年に出版された Sar Obair の John MacKenzie と同じ伝統的な情報源から得たものであることは明らかです。 両者の記録は、細部を除けば大きな違いはありません。
Angus MacKay of Raasay's Account
 MacKay 家は早くから  Gairloch の領主屋敷に属していた。Ruairidh Dall は、自身がその類 稀な演奏技量で際立っていて、巷では MacCrimmon 一族に次ぐ優れた演奏家として名を馳せていた。しかし、彼はその様な自分の高い能力を自覚しながらも、(いずれ)Piobaire Dall として知られる様になる息 子の John は、Gairloch の領主の支援によって Patrick Og MacCrimmon の下で、数年間の指導を受けなければ、自分の職業を完璧なものにすることはできない、と認識していたのである。彼John MacKay(修行を終え て)スカイ 島のカレッジを後にする時、最高の審査員たちの意見として、彼は師匠以外に並ぶものはいなかったという。 彼は 30以上の素晴らしいピーブロックを作曲した。その中には、父親が作曲した Salute に合わせた "Coriness" という有名な楽曲や、彼自身が編曲したラメント があり、どちらも非常に賞賛されたが、残念ながら現在では失われている。

 (Angus MacKay のここの表現は難しい。The Song to "Coriness" は、Rory MacKay が作曲した Salute と John 自身が作曲した Lament の2つのピーブロックに転用されたということなのだろうか? この2つのパイプ・チューンは Angus MacKay の時代には確実に 失われていたが、そのうちの1つがその後発見され、"Salute to Coire an Easain" として知られている。)

 Angus MacKay of Raasay は次のように述べている:
 優れた歌手であると同時に音楽家でもあるため、盲目のパイパーは北部方面の上流家庭にしばしば招かれ た。Prince Charles の窮地を救った Captain Malcolm MacLeod of Raasay は、バグパイプの名手でもあったが、 Iain Dall の礼儀正しさから、彼の 知る限りの誰よりも、社交界に華を添えてくれたと語っている。

 Piobaire Dall には Angus John という二人の息子がいた。 Angus は父の後を継いで Gairloch のMacKenzie 家のパイパーとなり、その息子の John Roy も同じ境遇に置かれることになった。しかし、ハイランド地方で起こった古い制度の廃止に伴う変化を受け 入れ、1800年頃、兄の John が 60年前に向かったアメリカ (北アメリカ/カナダ)へ と移住 した。(ここの記述はかなり奇妙ありで、少し混同しているようである。) 彼には2人の息子がいて、彼ら もまたパイパーで、父に同行して大西洋を渡っていったのである。
 以上が Angus MacKay of Raasay によるストーリーです。John Dall の一族に関する彼の説明は、Osgood MacKenzie の説明と大きく異なる事に気付かれるでしょう。
 Angus MacKay は、MacDonalds of Skye の世襲パイパーである MacArthur 一族 を扱った著作の中で、Sir Alexander MacDcnald の姿と、そのパイパー Charles MacArthurPatrick Og MacCrimmon、そ して John Dall MacKay が登場する逸話を記録しています。
 
 Charles MacArthur が Boreraig での教育を終えて、Patrick Og と共に Monkstata にある Sir Alexander の屋敷に戻ったと き、John はたまたまそこに滞在していた。Sir Alexander は誰が到着したかを John に告げないで、「ここに2人のパイパーが居るのだが、どちらを採用したら良いか、John の意見を聞きたい。」と問い掛けた。 最初に、MacArthur が演奏。John は大いに喜んだ。続いて2人目が演奏 すると、John はすぐにそれが Patrick Og である事に気付いた。「他の誰一人とて、あのような演奏ができる者は居ない。」と彼は言った。

 MacCrimrnon 一族自身の項では、John Dall が Boreraig の岩を飛び越えたことについて、Angus MacKayJohn MacKenzie とは異なるバージョンを提示しています。Angus は「John Dall MacKay は、仲間と喧嘩して、その追撃から逃れようとして、Dun Boreraig の 24フィートの高さのある岩の頂上からに飛び降りたと言われている。」と述べています。
 同じ章で彼は、英語で "Squinting Patrick's Flame of Wrath" と野蛮に訳されているピーブロック "Lasan Phadruig Chaogaich" の作曲について、John MacKenzie とは全く異なる説明をしています。
 Angus MacKay
によれば、Patrick CaogachDomhnall Mor MacCrimmon の 兄弟であり、Patrick Mor の 叔父、Patrick Og の大叔父にあたるという。このピーブロックは、Donald Mor が Glenelg で Patrick Caogach を殺害した者たちが隠れた家を燃やそうとした怒りの炎、あるいはその家を焼き尽くす炎を祝うために作曲されたと推測される、と言う事です。
 私は、この話はピーブロックの名前を説明するために作られたのではないかと思う。"Lasan Phadruig Chaogaich" という言葉を "A Flame of Wrath for Patrick" にねじ込むのはかなり難しいので、余り上手くい来ません。…というのは「Patrick が感じた、或いは Patrick が示した怒りの炎」という意味でなければならないからです。
 しかし、このピーブロックが Donald Mor によって作曲されたのであれば、John MacKay はこのピーブロックとは無関係だという事になります。いずれにせ よ、"The Half Finished Tune" / "Am Port Leathach" は全く別のピーブロックで、John MacKayPatrickOg が共同で作 曲したと言われています。ということは、John MacKenzie"Lasan Phadruig Chaogaich" の作曲に関する記述は決定的に間違いという事になるのです。

 Angus MacKayPiobaire Dall に関する知識への 貢献は、この程度にしましょう。
 John MacKay の生涯と家族について、すでに述べた3つの説明を比較すると、いくつかの興味深い疑問が浮かび上がってきます。

(1)最も興味深いのは、John 自身よりも、John の父親である Rory に関することでしょう。それは、次 のようなことです。
 Rory は息子のように本当に盲目 だったのだろうか?
 John MacKenzieAngus MacKay、そして、Angus MacKay の記述に従う者は 皆、Rory は盲目であったと言う。 しかし、Gairloch のチーフの一人の息子である Osgood MacKenzie は、4人の MacKays の祖先がパイパーだったこともあり、Rory の 失明については全く触れず、むしろRory は 短刀と拳の扱いが上手だったとまで言っています。 さらに Osgood は、John が生まれつき盲目であったという話も真っ向から否定していて、John の子孫に盲目の者がいないとされてい ることから、遺伝性の盲目であるという疑いはまずあり得ません。Rory の視力の重要性はこの点にあります。 もし彼が盲目なら、おそらく "Camha Choire an Easain" という詩に登場する Ruairidh Dall で あり、"corrie" を称える "Salute" のピーブロック "Sheinneadh Ruairidh Dall dhomh failte" / "Blind Rory would sing me a salute the corrie says to John" の作者に違いないからです。(これは、Rory が corrie に向かって歌を歌い、corrie が彼に語り返すという詩です。)
 一方、John の父である Ruairidh が盲目でなかったとすると、この詩に登場する Ruairidh Dall は全く別のRuairidhClarsair Dall こと Roderick Morrison (盲目の ハーパー)という事になります。彼は John Call と同時代の人物です。
  Clarsair Dall Piobaire Dall の混同 は、現在ではよくあることです。Rory MacKay に関する Osgood MacKenzie の記述からすると、盲目のハーパー Roderick Morrison と、盲目 の息子を持つ Roderick MacKay が混同され、Roderick Morrison が盲目である事が Roderick MacKay が そうである事に転嫁した、ということもまた、考えられるかも知れません。

 "Coire an Easain" という詩を調べると、Ruairidh Dall が Corrie に敬礼したことがわかるが、それが歌によるものか、パイプによるものかは判りません。
 "Measar dhomh gur tu mac Ruairidh"(I understand that you are Ruairidhrs son)という Corrie が John に向けた言葉が、次に登場する RuairidhJohn の父親だと思わせ、詩の中の Ruairidh Dall が Corrie に敬意を表したことから、John の父親が Corrie を称えたピーブロックを作曲したとの話を生んだのでしょうか? 私自身は、この詩で言及されているのは、Clarsair DallRoderick Morrison ではないかと、という印象を強く持っています。

(2)Sar Obair の記述によれば、Iain Dall は1666年に生まれ、1754年に 98歳で亡くなっている事に、お気づきでしょうか。これは明らかに誤りであり、もし彼が 1666年に生まれたとすれば、John は 1754年には 98歳ではなく88歳です。したがって、John MacKenzie の 1666年という日付は印刷ミスであり、1656年が正しいと考えるべきでしょう。

(3)JohnOsgood MacKenzie も、Iain Dall が弟子として派遣された有名な MacCruimein の洗礼名やその他の呼称を明かしていません。しかし、Angus MacKay は、それが Patrick Og であると断定してい て、我々は彼の言葉を信じる事ができますが、しかし、Angus は歴史的な事柄については往々にして権威に欠けるところがあります。現在では、Patrick Og は1670年頃に MacLeod 家 の世襲パイパーとなったと考えられていますが、彼が少なくとも 1730年頃までカレッジの校長を務めたと考えられていることから、校長だった期間は 60年間ということになります。
  さて、John MacKay は 1670年に14歳であり、その年かその直後に Boreraig に行ったはずです。Patrick Og が 1730年まで生きていたとすれば、John 自 身よりずっと年上ということは無いでしょう。それでも、John の授業料は全て Padruig Og による授業に由来することは間違いないと思われます。
 1626年から 1712年の間に作曲されたピーブロックのほとんどが彼の作とされるほど、MacCrimmon 一族の注目を独り占めした Padruig Mor が、John の教育に関係していたなら、我々はそれを聞いているはずです。 しかし、1664年に Galtrigal に住んでいた Patrick Mor は、1670年以降、弟子の育成には全く関わっていなかったと思われま す。
 それ故、Padruig Og の名 声は、不当にも父親の名声の陰に隠れてしまっているかもしれませんが、彼は、MacCrimmon 一族にレッスンを受けに来た、最も有名な外来者を育てた、という名誉を持っていることは間違いないでしょう。

 いずれにせよ、John DallPatrick Mor  を知っていたかもしれないし、スカイ島では、スカイ島の偉大な吟遊詩人 Mary MacLeod Roderick MorrisonClarsair Dall)に会っていた事は確 かだと思われます。

(4)John Dall の家族に関する Osgood MacKenzie の 記述と Angus MacKay の 記述がいかに異 なっているかは、既に述べたとおりです。
 Osgood MacKenzie John MacKenzie は、John MacKay には  Angus という息子が一人おり、Osgood によれば、その息子の John Roy はアメリカ (北アメリカ/カナダ)に移住したという点で一致しています。 Angus MacKay of Raasay によると、Piobaire Dall に は AngusJohn の二人の息子がおり、後者は 1740年頃に、前者はその 60年後にアメリカに移住しているとのことです。
 さて、Piobaire Dall の 息子 Angus は、1800年に 移住したと言われているので、75歳くらいになっているはずです。この話が本当なら、Gairloch 人 たる OsgoodJohn Mackenzie は、なぜ Piobaire Dall のもう一人の息 子 John の存在や Angus の移民について言及しないのでしょ うか。
 私は、Angus MacKay of Raasay がここで完全に間違っているのではないかと思っています。特に Angus MacKay of Raasay の父親は、Gairloch の Angus ま たは John Roy から学費の一部を受け取っていたという説があり、ピーブロックの本を編纂した息子に対して、それらを正しく説明できる立場にあっただけに、非常に不可解な 話です。
 それでも、ここでは Osgood MacKenzie の記述に従いたいと思います。Angus MacKay of Gairloch とその妹、Iain Dall の子供たちは、早くても 1720年頃に生まれている。Angus の息子 John Roy の出生を 1753年頃とするのは、おそらく Osgood MacKenzie の言うとおりでしょう。

 Angus MacKay に妹がい たことは、Gairloch の人々、つまり、現在生きている数少ない関心のある人々には、一般的によく知られています。
 その妹はスカイ島の Broadford  近くに住んでいた John Ross と結婚し、その息子で偉 大な吟遊詩人の William Ross は、私が生まれた場所から1/4マイルほど離れた小さな一角に住んでいたそうです。私は父に連れられて その場所を見に行った際に、父が「あれが Ross の庭だ。」と言っていたのを覚えています。その一帯(ほんの小さなエリアですが)には、恐らく妖精や悪霊を遠ざけるために、ナナカマドが植えられていまし た。

 Osgood によれば、John Roy は父親の後を継いで Gairloch のパイパーとなり、後述する William Ross の詩から、John が1790年頃に Gairloch でパイパーをしていたことが分かっています。1798年頃までに John Roy に結婚した娘が居た訳はな く、結婚した娘を残して移住したことから、Angus MacKay of Raasay が言うところの John Roy の父親が大西洋を渡ったのは、1800年頃の事となります(実際には1805年3月)。いずれにせよ、Osgood MacKenzieJohn Royの孫(Iain Buidhe Tailleur)から 情報を得たのだから、間違ってはいないはずでしょう。

(5)OsgoodJohn Mackenzie も、Piobaire Dall についての記述の中で、このパイパーの娘が詩人 William Ross の母であるという興味深い事実に触れていないのは、かなり奇妙なことで す。
 John Mackenzie
Ross 自身についての記述の中で、Ross の天才を説明するのに非常に重要なこ の事実を忘れてはいません。哀れな William は肺結核で死んだのですが、Gairloch では哀れな William Ross は失恋で死んだ、と 言われています。Stonoway 出身の恋人 Marion Ross Captain Clow と結婚し、結局リバプールで死んでしまったからです。
 William は祖父の死から8年後の 1762年に生まれました。母親は John の娘なので 1720年以前に生まれたことはないでしょう。William Ross は、私の記憶では、祖父や叔父の Angus について言及したことはありませ ん。しかし、Gairloch を讃える詩の中で、Ross は、Gairloch の海岸で行われた、新年のシンティの試合の後の祝祭を描写する言葉の中で、彼自身の最初の従兄弟である Angus の息子、John Roy のことを述べています。

(6)もう一つ興味深いのは、次の点です。
 Iain Dall の詩の中で、何故だろうか、MacCrimmon 一族のパトロンであった MacLeods of Dunvegan 一族については一切触れられていないのです。彼は少なくとも70年以上にわたって MacDonalds of Sleat 一族と密接な関係を保っていたにもかかわらず、MacLeod 一族とは全 く関わりを持たなかったようなのです。しかし、この沈黙は、恐らく John の詩の殆どが失われてしまった、とい う事実のためかもしれません。我々が知っている3つの詩だけが、彼が作った詩であるとは到底考えられま せん。Angus MacKay は、 彼は多くの詩を作ったと述べています。

 John の祖先は Sutherland の 人々で、彼は Gairloch に住み、スカイ島で芸術の教育を受けました。彼は3つの拠点を持ち、それぞれの拠点が彼に詩のテーマを提供しました。最初の "Cumha Choire an Easein" は Sutherland領主 Lord Reay への愛に、2番目の "Beannachadh Baird"(Blessings from the Bard)は、主人 Sir Alexander MacKenzie へ の忠誠に、3番目の "Dan Comhfhurtachd" は Sleat の一家への友情と尊敬に、インスピレーションを受けています。

 "Cumha Choire an Eassin"  が作詩された状況について、John MacKenzie が非常に明確に述べているのを覚えていることでしょう。 Piobaire Dall は、Sutherland の Tongue の付近にいたとき、彼のパトロンであった Lord Reay の死去の報を聞いたことは 明らかです。この Lord Reay と は、オランダのスコットランド旅団の大佐で、Killiecrankie でも戦って負傷した Robert MacKay のことです。

 彼は 1696年に亡くなっているので、John の詩はその年のものとなります。Lord ReayJohn にとって寛大な友人であったに違いなく、John は 頻繁に彼を訪れていました。彼の死に対する悲しみは、この詩作に際して、彼を直接大げさに賞賛するので はなく、Lord Reay が深く関 わっていた Corrie に悲しみを注ぎ込むように促したのでした。
 この詩で言及されている Ruairidh Dall は、John の父 Rory が盲目でなかった、という推測が正しければ、Roderick MorrisonClarsair Dall の事でしょう。もし、John の父親が言及されているのであれば、なぜCorrie は "Sheinneadh t' athair-sa (your father) dhomh failte" と言わなかったのでしょうか? ワトソン教授は、Clarsair Dall のことを指しているのだと考えているようです。
 次に John は Corrie に再度返信し、ラメントを弾くと約束し、それを実行する。Corrie はこのピーブロックを賞賛し、この詩人の幸運を祈る。
 Donald MacKay の治世に聴かれた甘い音楽は、Donald Mor MacCrimmon のものであり、彼は初代Lord ReayDonald Duaghal MacKay という非常に寛大な友人を持っていたと考えるのは非常に魅力的です。

 さて、この名前について触れておきたいことがあります。よく "Donald Doughal MacKay" と書かれているのを見かけますが、これは全くの間違いです。 完全に間違い。"Dooal" と発音する "Duaghal" は「英雄」や「勇士」という意味です。ですから、そのメロディーのタイトルを書き留めたり、言ったりするときに、彼を Donald Doughal MacKay と 呼ぶべきではありません。Doughal は彼の名前では無いのです。

 Corrie は MacCrimmon を 暗示しているのかもしれません。John は その後、自分を解放し、この詩の残りの15節で、あらゆる工夫を凝らして Corrie を賞賛しています。

 この吟遊詩人は、スコットランドの詩人のギャラリーの一角を占めることが相応しいと人物です。彼の 作品は殆ど知られていませんが、ゲール語が話され、研究されている限り、不滅の存在となるでしょう。し か し、John は主にパイパーであり、音楽の作曲家でもありました。彼は決して "bard dall" ではなく、常に "piobaire dall" でした。
 John Dall が作曲したピーブロックは、Angus MacKay of Raasay によって 30以上、John MacKenzie によって 24と数えられ、ここでは Osgood が それに続いています。これらの曲のいくつかは現在も残っており、マクリモン・チューンのどれにも匹敵す ると広く認識されています。以下のリストは、Iain Dall の ピーブロックの名前を含むもので、私の友人である、Pipe Major William Maclean of Raasay から提供されたものです。彼は Angus MacKay of Raasay と 関係があると聞いています。
 Maclean 氏は、同じく Raasay 生まれの Malcolm MacPherson に師事していました。MacPherson は、Angus MacKay of Raasay に 教えを受けたのであって、Campbell of Kilberry が最近出版した本の中で述べている Alex Cameron(sinior)には教 わっていません。Maclean 氏に は、この論文を書くにあたって貴重な情報を頂きました。また、ピーブロック演奏の指導や、パイピング全 般に関する伝統についても、大変お世話になりました。

 彼は John Dall MacKay に よって作曲されたピーブロックとして次のものを挙げています。

(1)"The Battle of Glenshiel"
(2)"The Lament for the Laird of Anapol in Sutherland"
(3)"The Lament for Lady Anapol
(4)"Lament for Patrick Og MacCrimmon"
 
これは John の作曲した曲の中で最も有名で、その siubhal については、あるドイツの音楽家が「最高の曲の一つだ」と言っています。
(5)"Munro's Salute"
(6)"The Unjust Incarceration"
 これは現在よく演奏され ています。
(7)"The Lament for MacKenzie of Gairloch"
  さて、Angus MacKay of RaasayDavid Glen によれば、この時のチーフは Sir Hector という人物。もしそれが 正しいとすると、John Dall の時代にも彼の父の時代にも Sir Hector は存在しないので、この ピーブロックは彼の作とは考えられません。恐らく Angus MacKay は名前を間違えているのでしょう。
(8)"The Half-finished piobaireachd" / "Am Port Leathach"
 John DallPatrick Og の作曲を手伝った曲です。
(9)"The Lament for Coire an Easain"
 これは失わ れています。
(10)"Pronnadh nam Mial"
 John MacKenzie が Sar Obair で言及しており、これも失われています。
(11)"Glocail nam Cearc" / "The Clucking of the Hens"

 Maclean 氏は、私に提示してくれたこれら11曲以外にも、彼が Piobaire Dall 作と特に確信する3曲を挙げています。そのうちの2曲は Lamont マニュスクリプトにのみ収録され ている "The Piper's Farewell to his Home""The Piper's Salute to his Home" です。

 ちなみに、私が子供の頃に聞いた話ですが、John Roy MacKay が Gairloch から Longa島 を出て北アメリカに向かう時の事。一家と他の移民は、小さな船で北アメリカに向かう船に乗り込みました。すると、John Roy はパイプを肩にかけ、船内の 乗客が誰も知らない曲を演奏していたのだそうです。John Roy は「今、あなたが演奏したのは何という曲かい?」と尋ねられ、彼は「あれ は "The Departure of Piping from Scotland" と いう曲 だ。」と言ったそうです。
 これはおとぎ話かもしれませんが、私の家族にはこの話が伝わっていて、私の祖父(父の父)は John Roy を知っていたはずだと思いま す。

 3曲目は "Port Gearr Mhic Leoid" / "MacLeod's Short Tune" で、Maclean 氏は、かつて MacLeod of Dunvegan が盲目のパイパーを不親切に扱ったことに抗議して作曲したと語っています。

 Maclean 氏は、生涯をかけてピーブロックを研究した結果、内的証拠から、この3曲については Piobaire Dall の作品に非常に特 徴的であり、彼によって作曲されたに違いないと結論づけています。

 このリストには、Angus MacKay of Raasay が盲目のパイパー自身が作曲したと言っている "Crosanachd an Doill" / "The Blind Piper's Obstinacy" は含まれていません。また、再発見された "The Salute to Coire an Easain" と呼ばれる断片も含まれていません。これは John の父親の作品であり、John 自 身の作品ではないとされています。
 John のダンスチューンには、よく知られている "Cailleach a' Mhuilleir""Cailleach Liath Ratharsair" の2つがあります。後者2曲の歌詞を John Dall が作曲したかどうかはわかりません。"Cailleach Liath Ratharsair" の歌詞は、Rassay の人々が魚の cuddies(タラの一種?) や saith (シロイトダラ)を好んだとされることを暗示しています。
 Angus MacKay は父親の後を継いで MacKenzie of Gairloch のパイパーとなり、1761年に James MacLeod of Raasay の誕生に際して作曲された "MacLeod of Raasay's Salute" の作者とされています。
 Angus of Gairloch は、Angus of Raasay の著書のピー ブロックの見出しでは、この曲の作者として書かれていますが、巻末の歴史的注釈によると、この曲の作者 は John Roy MacKay と されています。しかし、1761年には John Roy は8歳ほどでした!

  Angus MacKay of Gairloch"The Desperate Battle of the Birds" も作曲しました。この曲は今でも人気があります。Osgood MacKenzie などによると、彼は "Moladh Mhairi" も作曲していて、この曲は "MacLachlan Piobaireachd" とも呼ばれています。

 William MacLean
氏は、"MacKenzie of Applecross's Salute" の作者を Angus MacKay of Gairloch としています。Angus of Raasay は この曲の歴史的な注釈として、MacKenzie of Gairloch のパイパーである Angus MacKay が、1730年頃に 若い laird of Applecross の誕生に際して作曲したと述べています。それは何処か不可解ではありますが、私には解明する時間も機会もありませんでした。Angus of Gairloch は1730年にはおそらく10歳であり、彼がこのピーブロックを作曲したとすれば、その名誉を称えられた若い領主は1730年よりずっと後に生まれている ことになります。
 これらは全て、私にとっては非常に魅力的なテーマでした。そして今と なっては、John Dall MacKay についての研究にもっと時間を割けばよかったと後悔しています。最後に、Gairloch MacKay 家と混同されがちな Raasay MacKay 家 について簡単に説明し、この講演を終えたいと思います。

 盲目のパイパーの父親たる Rory MacKay が Gairlochにやってきてから100年以上後に、Rory MacKay がSutherlandshire から Raasayに やってきました。この2人の Rory は 共にパイパーであったことは明らかですが、さらに注目すべきは、それぞれに John という息子がおり、その息子に Angus という息子がいたことです。Raasay の John MacKay は1767年頃に生まれ、Raasay の Captain MacLeod に親しまれて パイピングの手ほどきを受け、後に Boreraig に派遣されて、マクリモン家の手ほどきを受ける ことになります。それは、1782年頃のことです。
 John はまた Gairloch のMacKay 家、おそらく John Roy の元へ送られたとの記述もあ ります。その後、彼は Raasay の MacLeod の元でパイパーとなり、1823年まで共に過ごします。これまで何度も紹介してきた有名な本を出版した 息子の Angus は、1812年に Raasay で生まれ、現在も彼らの家が残っている。John MacKay は1850年か1851年に亡くなり、Rassay の旧教会墓地に埋葬されました。最も有名な息子の Angus は、1859年に Dumfries で亡くなりました。

 マクリモン一族の教えは、John MacKay of Raasay を通じて私たちに伝わっています。彼の最も有名な弟子たちは、自身の息子たち中でも特に Angus、そして、Archibald MunroJohn BanMacKenzie でした。 Archibald MunroAngus Calum  Macpherson を教え、 Calum は Inberness の William MacLeanJohn MacDonald を指導しました。Angus MacKayDonald Cameron を教え、その息 子たちは MacDougall Gillies を 教え、John MacDonald, Inverness に一部を伝えました。

 これは、オーバン高校の学長であった故 John MacLean of Raasay が書いた系図です。

 ここで、1879年から1880年にかけて "The Celtic Magazine" に掲載された興味深い記事を紹介したいと思います。私の母方の祖母の遠い親戚で Gairloch で生まれ育った Alexander MacKenzie が書いたものです。彼は第6代 Earl of Gairloch の従兄弟にあたるのですが、 "History of the MacKenzies” の中で自ら認めているように、実は彼は庶子です。

 彼はカナダに出向きノバスコシア州を訪れ、そこで John Roy MacKay の息子に会いましたが、彼もまた John でした。Alexander MacKenzie は次 の様に書いています。
 「しかし、私がこの大陸で見つけた他のどの発見よりも興味深かったのは、Gairloch の有名なパイパー&詩人の末裔である John MacKay という人物を見つけたことである。彼は、この繁栄する町で最も名誉で目立つ地位、つまり臨時判事という地位を占めている。彼の曽祖父は Gairloch の有名な盲目のパイパーで、その生涯については、故 John MacKenzie 氏が "Beauties of Gaelic Poetry" の中で詩の断片とともに紹介している。4年ほど前、"Celtic Magazine" にこの著名なパイパー一族の誰かがまだ生きているかどうかを尋ねる記事が掲載されたが、回答は得られなかった。

 唯一知られているのは、そのうちの一人、有名なPiobaire Dall の孫息子で、Gairloch における最後の男性後継者が 1805年にアメリカのどこかに移住。その際に、スコットランドのすべてのパイパーが残した以上 の Ceol Mor または Piobaireachd を携えていったということである。現在 86歳の John はこの時 12歳で、今でも故郷の教区の目立つ石や木はもちろん、湖、川、山、谷をほとんど覚えている。彼の父親は生涯にわたって民族楽器を演奏し続け、非常に高齢 で亡くなった。

 兄の Angus もマーチ、リール、ストラスペイを演奏したが、かの国ではピーブロックが評価されていなかったため、彼はその高級な音楽をほとんど練習せず、したがってそ の分野では一族の水準に及ばなかった。彼は数年前、100歳近くなって死んだ。John 自身も演奏を習ったが、最終的には 18歳の時にやめてしまった。そのため、この有名な一族のうち、一族の 名前と名声を守り続けている者は一人もいないが、この素晴らしい一族の子孫の何人かは、その多くがこの大 陸にまだ存在している(多くは良い境遇にいる)。
 私は一晩中、この立派な年老いたハイランダーと過ごした。彼は今でも最も純粋なゲール語を話すが、彼 の英語は泥炭とヒースの香りを強く漂わせている。彼の知性はまったく衰えておらず、ノバスコシア州全体 で最も有能で独立した裁判官であると、誰もが認 めている。 彼は、生まれ故郷の教区や、今はほとんど残っていない人々の思い出を語るとき、完全に恍惚の表情を浮 かべていた。全ては、まるで幽霊が墓からよみがえったかのようだった。彼は昔のことをまるで昨日のこと のように話 し、私は非常 に複雑な心境で彼と別れた。」

 最近、カナダから送られてきた資料の中に、 John Roy MacKay の息子 John が書いた "Reminiscences of a Long Life" (長い人生の回想)という興味深い文章があった。その中で彼は、彼らがどのように Loch Maree-side に住み、どのように Slatadale を離れたかを書いています。この興奮させられる家系図と、この「回想録」の著者の曾孫である John Sinclair 大佐から昨年9月に頂戴した Iain Dall の チャンターの写真も、会場に回覧したいと思います。

 特に私にとって興味深いのは、このチャンターを見れば、Piobaire Dall が私と同じように、ドローンを右肩に、右手を上にして演奏していた(左利きだったという)事が分かるという事です。

 Iain Dall (1656-1754) のパイプ・チャンターの写真2枚です。このチャンターは、Iain Dall のひいひい孫娘で、ノバス コシア州 New Glasgow の弁護士 Donald Sinclair の妻 Norma MacKay(正にジェントルウーマン)の所有するものである。John Roy MacKayIain Dall の息子である Angus の息子)はこの女性の曾祖父であ り、Maclan of Gairloch の息子の子孫のパイパーだった、この輝かしい一族の最後の一人である。1805年に John Roy が ノバスコシアの Pictou に移住したとき、このチャンターを携えており、それ以来、現在に至るまで Iain Dall の子孫の手から離れること はなかった。

 最後に登場した Iain Dall MacKay が 愛用していたパイプ・チャンターについては、その後、 Barnaby BrownJulian Goodacre によって「レプリカを製作し当 時の音色を再現する」という実に意欲的なプロジェクトが遂行されました。
 詳しくは、"Piping Today" No.1-2002/10 "Iain Dall's Chanter sounds again"No.18-2006/04 "Early chanter a challenge to copy - Iain Dall MacKay's Chanter" に詳細なレポートが掲載されています。



【追捕資料】

 講演の翌年、1983年8月号の "Piping Times" に投稿された、A. G. Kenneth に よる補完記事も併せて紹介します。こちらは原文&日本語訳です。

原   文
日本語 訳

 The MacKays of Gairloch

by Archie Kenneth

 "Piping Times" Vol.35/No.11 - 1983/8 - P11〜12

 Alec MacRae’s talk on the MacKays of Gairloch at the Piobaireachd Society Conference, 1982, was important and interesting.  Reading it with the care it deserves, I think I can expand on one or two points :  it may be worth doing so, not that I have any first-hand traditional knowledge.

 We seem to have one tune firmly attributed to John Roy MacKay - this is “MacKenzie of Gairloch’s Salute” - and it seems that this is his only recorded composition unless the historical note on MacLeod of Raasay’s Salute” in Angus MacKay’s book is correct - here the tune is attributed to John Roy.
  “MacKenzie of Gairloch’s Salute” is in A. MacKay’s Manuscript and has been published (a different setting) in Ceol Mor, and in Glen’s Edinburgh Collection Part IV pp 4 - 5.
 The structure of this tune resembles that of other products of the Gairloch MacKays, such as “The Desperate Battle of the Birds” Urlar, and (probably) “Corrienessan's Lament”.

 The idea that “MacLeod’s Short Tune” is an Iain Dall “protest tune” against MacLeod is very attractive - all the more so in view of its alternative title “A Taunt on MacLeod” given by both Angus MacKay and Duncan Campbell.  It seems certain, if we accept the title, that some composer must have been impelled to lampoon MacLeod :  and this gives added force to W. MacLean’s story (that it was composed by Iain Dall in protest at the unkind way he was received by MacLeod of Dunvegan).  The Editorial Note (Piob. Soc. p. 171) states that nothing is known of the occasion of the taunt or of its nature.  This statement may now require modification.

 While I find it easy to agree with the attribution of MacLeod’s Short Tune to lain Dall MacKay, it is otherwise with “The Piper’s Salute to his Master” and “The Piper’s Farewell to his Home”.  These tunes have many variations and in that respect are quite unlike the tunes we believe to be lain Dall compositions.
 Despite the interest of parts of the Salute, they are impractically long and I do not know of anyone who plays either tune in its entirety.  The Salute is originally in Lamont’s Manuscript and has been published in Ceol Mor and in Glen’s Ancient Piobaireachd.  
 The Farewell, also in Lamont’s Manuscript, is in Ceol Mor and (Urlar only) Glen’s Edinburgh Collection.  It has been surmised that both are compositions of Lamont himself.

 “Pronnadh nam Mial” - well, one tune suggestive of this could be “The Hen’s March”.  The activities of one dealing with an infestation, and of a hen harvesting the goodies to be found on a midden, have a certain similarity.  Another tune whose content might suggest this title is “The Blind Piper’s Obstinacy”.
  I find it difficult to accept that “The Unjust Incarceration” has any connection with “Pronnadh nam Mial”.  To commemorate such a trifling event with such a terrific tune is like taking a sledge-hammer to crack an egg.

 Nowadays it is unusual, though not unknown, for a composer to re-christen a tune :  publication fixes a name effectively.  It seems possible that in the era before pipe music was published, a composer may well have re-named one of his compositions when circumstances demanded it.  For example, you dedicate a Salute to a friend with whom you subsequently fall out.  Or perchance you commemorate a flea-hunt in a youthful extravaganza ;  later on you may consider this unseemly and you call the tune something else.

 Iain Dall MacKay is reputed to have been a prolific composer of light music: there must be other tunes of his composition apart from those mentioned. Incidentally, “Cailleach Liath Raasay” is a different tune from “Mrs MacLeod of Raasay”, which I have seen attributed to him.  There are other tunes with a Raasay provenance: one is a good reel called “The Smith of Raasay” (Glen’s Edinburgh Collection Part 2, p.10).

 These are a few random thoughts generated by reading Alec MacRae’s extremely interesting talk on the MacKays of Gairloch.
 1982年のピーブロック・ソサエティー・ カンファレンスでの Alec MacRaeMacKays of Gairloch に関する講演は重要で興味深いものでした。この講演を読んで、私自身は直接的な伝承に関する知識を持っ ている訳ではありませんが、1つか2つの点につい て、追加の説明ができると思います。

 John Roy MacKay の作とされる曲は1曲だけで、それは "MacKenzie of Gairloch's Salute"です。そして、- Angus MacKay の楽譜集にある "MacLeod of Raasay's Salute" の史料が正しければ、この曲は John Roy の作とされていますが、そうでなければ、これが彼の唯一の記録と思われます。
 "MacKenzie of Gairloch's Salute" A. MacKay のマニュスクリプトに書かれており、"Ceol Mor"(by ThomasonGlen"Edinburgh Collection Part IV" pp 4-5 に(別のセッティング)掲載されています。
 この曲の構造は、Gairloch MacKays の他の作品、例えば "The Desperate Battle of the Birds" の Urlar や、(おそらく)"Corrienessan's Lament" に類似しています。

 "MacLeod's Short Tune" Iain Dall MacLeod に対する「抗議曲」であるとい う考えは非常に興味をそそる捉え方で、Angus MacKayDuncan Campbell "A Taunt on MacLeod" という別のタイトルをつけていることから見ても、なおさらです。また、W. MacLean の話(Iain Dall MacLeod of Dunvegan から受けた不親切な仕打ちに抗議して作曲したという話)にも説得力を与えています。
 PS Book6/ P171のエディトリアル・ノートでは「この嘲笑の機会やその性質については何も分かっていない。」と書いてありますが、今となっては、この記述は修正す べきでしょう。

 "MacLeod's Short Tune" lain Dall MacKay に帰属させ るのは簡単ですが、"The Piper's Salute to his Master""The Piper's Farewell to his Home" はそ うではないようです。これらの曲はバリエーションが多く、その点では、lain Dall の作曲と考える曲のははか な難しいと思います。
 Salute
については面白いのですが、実用的でないほど長く、私はどちらの曲も全曲演奏する人を知りませんSalute はもともと Lamont のマニュスクリプトにあり、"Ceol Mor"Glen"Ancient Piobaireachd" に掲載されています。
 Farewell は同じく Lamont のマニュスクリプトにあり、"Ceol Mor"Glen"Edinburgh Collection"(Urlarのみ)に収録されてい ます。どちらも Lamont 自身の作曲であると推測されます。

 "Pronnadh nam Mial" は、"The Hen's March" のような曲と思われます。害虫に対処する者の行動と、鳥塚で見つけた獲物を収穫する鶏の行動は、ある種の類似性を持っています。また、"The Blind Piper's Obstinacy" という曲も、このタイトルにふさわしい内容だと思います。

 "The Unjust Incarceration""Pronnadh nam Mial" と関係があるとは、考えにくいと思います。このような些細な出来事を、このような素晴らしい曲で記念する ことは、卵を割るためにハンマーを持っていくようなものです。

 現代では、出版される事で曲名が固定されるので、作曲家が曲を改名することは(無くは無いが…)珍し いことです。しかし、パイプ音楽の楽譜が出版される前の時代には、作曲家が自分の曲の名前を変えな ければならない状況になったとき、それを変えていた可能性は十分にあり得ます。例えば、ある友人に Salute を捧げたけど、その後仲違いしてしまったとか…。または、若かりし頃に蚤狩りを記念して突飛な狂想音楽として設えてしまったけど、その後、よく考えてみ て、その曲を別の名前で呼ぶこともあったでしょう。



 Iain Dall MacKay はライトミュージックの作曲家としても知られており、講演で挙げられた曲以外にも、彼の作曲した曲があるはずです。ちなみに、"Cailleach Liath Raasay" は、私が見たてた彼の作品である "Mrs MacLeod of Raasay" とは別の曲です。 Raasay に由来する曲は他にもあり、"The Smith of Raasay" (Glen's "Edinburgh Collection Part 2", p.10) という良いリールがあります。

 以上、Alec MacRaeMacKays of Gairloch に関する非常に興味深い講演を読んで、あれこれ思いついたことを書きました。

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