ピー
ブ ロック・ソサエティー楽譜集 の 2ndシ
リーズは、12曲を収録した第1巻が、1925年11月に出版された。"Oban
Times" では、この新
シリーズを非常に好意的に受け止め、レビューには次の様に書かれている:
この楽譜集は、ピーブロックの編集における新しい時代を示すもの
であ る。 この 種の楽譜集で初めて批評的機能を備えている。15冊の未発表の
MSS(マニュスクリプト/手書き楽譜集)が 列挙され、説明されてい
る。この楽譜集は、これらのマニュスクリプトに基づいている。以前の楽譜集の編集者は、一般的
に、たまたま自分にとって魅力的なセッティングに固執していた....。批評と解説文
は、 バラ ンス
の取れた判断を示している。編集者は楽譜利用者に対して、人気のある曲は、その人気の高さゆえに、
世代を 超えて最も変化しやすい曲であることを示唆している。
この第1巻は、編集責任者の J.P.
Grant と仲間の Archibald
Campbell of Kilberry
が、1912年にピーブロック・ソサエティー音楽委員会の主導権を掌握(第 13章で解説)して以来、10年以上かけて
作り 上げ た成果を表している。この第1巻では、1990
年に出版された最終巻までの全部で15冊(この本が リ
リースされた 2000年時点)リリース された楽譜集(PS
Books)のその殆どで、わずかな修正を加えながら繰 り返されることになる、PS
Books 特有の編集スタイルが確立されている。全15冊の楽譜集には244曲が収録さ
れ、その後、あっという間に20世紀の標準的楽譜集となり、ピーブロックの標準的な演奏の
基礎
となった。ソサエティーはコストを下回った価格で販売し、効果的に商業的な競争相手を排除して
いた た め、何年間かに渡って演奏者にとっては、PS Books
が参照可能な唯一の情報源となった。
楽譜集はほぼ2年間隔で
刊行され、1939年までに8冊が登場。それらは、古典的真髄のレパートリーを網羅している。第1巻リリースの
後、編集責任者たる J. P.
Grant の 立場は、Archibald Campbell に
よって引き継がれた。音楽委員会は名目上では集団的な責任を負い、ソサエティーは常に「編
集者た ち」と (複数で)呼んでいた
が、実際には第 2巻 から第9巻ま でについては、Campbell
が単独で編集していた。
Thomason
(PS 初代プレジデント) に よる "Ceol Mor"
での手法を応用
して、キーノートを伴う標準的な省略形に よる 装飾
音のシステムが採用され、余程長い曲を除くほぼ全ての曲は1ページに修める事が出来るよう
になった:
|
※ 引
用元が古い版なのか、通常表記になっ て いる現在の譜面と異なり、mach
が Low A にも適用されるオールドスタイルである事に注目!/⇒ 参照記事/原文 に説明は無し(訳者注)
|
Thomason は、Angus MacKay
の、明確で論理的な曲の分割法に替えて、"Variation 1, 2, 3,
Crun-luath, Doubling of Crun-luath"
等のように、バリエーションに番号を振って種類ごとに識別する略記法を採用した。
Grant と Campbell
たちは、"I. Urlar. II. Var. I.
III. Var. I.Doubling. IV. Var. II. (V)
& V.Doubling(V') "
の様に、短縮形、括弧、大文字のローマ数字からなる、より精巧なシステムを取り入れた。
各行には左側の余白に番号が振られ、五線譜の上には、編集上の注釈 を
示す括弧付きのアラビア数字、バリエーションや繰り返し箇所に関する指示を示す角括弧が示され、フェルマータ(延長)や
モルデント(漣音)の記号が頻繁に登場する。
譜面は、1838年に Angus
MacKay に
よって始められたプロセスを発展させた、より簡略化されたスタイルで書かれている。全
ての旧来の運指法は、単一の形式に変更され、音楽表現の幅が更に狭められている。Thomason 少将 は8種類の
gairm と callach (パイプのかおり第57話参 照)を使い分
けて いたが、ピーブロック・ソサエティー楽譜集ではそれはたったの1つで、Grant
は左の様に表現。そして、Campbell
は右の様に表現して い る。
|
|
どちら
につ いても、従来の慣例から逸 脱し てい る。
五線譜で書かれた各曲の完全な楽譜については、しばしば,「Alexander Cameron(若
い 方)と John
MacDougall Gillies の
演奏を表現している。」と書かれている。
それぞれの主たる楽譜のカンタラック・バージョンが Nether Lorn
カンタラックで掲載されている。印刷された楽譜やマニュスクリプトの代替例を示す編集メモが
あ
り、優先される楽譜との相違点が明記されていて、主たる楽譜に適用された編集の手順について、明確かつ詳細
に説明されている。
このように、一つの楽曲について、権威サイドのお墨付きの上で、複数のバージョンが
記載されているのは初めてのことであ
り、その結果ー理論的にはー演奏者が異なるセッティングを選択することができるようになった。しかし、このような選択が実際に行われる、という事は殆ど無
かったようだ。1954年、J. P.
Grant は、 ピーブロック・ソサエティー楽譜集
(1st シリーズ)を振り 返って次の様に書いている:
(当時の)ピー
ブ ロッ
ク・ソサエティーは、単一のセッティングで注釈無しの楽譜集を出版し、そのセッティングを正確に演
奏しない競技
者は、コンペティションで入賞する資格がないと定めていた。多くの場合、それらのセッティングには適正な
根拠が無く、そして、空想的な推測によるものであった。
それにも拘らず、コンペティションに参加するパイパーたちは、ソサエティーが古
くか ら伝承された権威ある手書き楽
譜集を所有している、或いは所有しているに違い
ないと考え、そのセッティングが決定的に本物であると信じてそのように受け入れていた。
その結果、2つのことが起こった。どちらも残念なことだ。まず第1にそれらの競
技者 の 生
き残りや彼らの弟子たちの中には、それらのセッティングを古のマスターパイパーたちが残した真
の遺産だと信じている人がまだいる、という事。第2 に、 PS
主催のコンペティションに於いて、もし競技者が現在の PS Books
に記載されている通りに演奏しな
いのであるなら、自分のパイプをパイプケースに仕舞っておいた方が良い、という信念が、確信とまでは
いかないまでも、未だに根強く残っている事である。
しかし、演奏者の大半がピーブロック・ソサエティーの主たる楽譜を規定的なものとし
て扱 い、 そこ に書 か
れたものを演奏しようとし続けたのは、ソサエティーの審査員が1世代以上にわたって組織
的にこの習慣を強制していたためであり、それは驚くには値しないことだった。結果とし
て、 1920年代後半以降、人 前で 聴かれる曲は、Archibald Campbell が
どのように曲をセッティングしたか、で決まることが 多く なったのだ。
Archibald は、
1903年 にピーブロック・ソサエティーを設立した Kilberry
3兄弟の末っ子である(詳細は第13章に記述)。
彼は1877年に生まれ、ハロー・スクールを経てケンブリッジ大学
Pembroke College
で教育を受けた。1900年にインド公務員となり、ラホール巡回裁判所の上級判事まで登り詰めた。1928年に退官し、1929年から1941年までケン
ブ リッジ大学のインド公務員研究委員会でインド法の講師を務めた。
彼自身によって書かれた公開資料によると、彼は1894年にハイランド・パイプを習
い始 めた が、 真剣 に取り組み始めたのは1897年、20歳の時に Angus MacRae と
John MacColl
によるレッスンを受けた時から、という事である。1900年頃に MacDougall Gillies
のもとへ行き、1925年に Gillies
が亡くなるまで連絡を取り合っていた。
インドでの長い任務のため、ハイランド・パイプの練習は(トータルでおよそ27年
間)中 断さ れたが、 1905年に一時帰休した際、John MacDonald of
Inverness から3週間の指導を受 け、ま た、
1911年には Sandy
Cameron か ら3週間の指導を受けている。この時、Cameron
は手の怪我のためパイプの演奏をしていなかったが、Campbell は彼を彼の
指導 教官の中でベストと位置付け、Cameron
一 族独特のスタイルと思わ れる 膨大なメモを作成した。
彼は、彼の主な指導教官たちに忠実である事を誇っていて、彼らのスタイルを正確に描
写し た
と自負。他の楽譜編集者が独自の判断を下していることを頻繁に批判した。そして、「楽譜や音符に記したこと
は、......教えられたことそのものだ。楽譜や音符に書いたことは、教えられた内
容そ のも ので あっ
て、私自身の考えとして発展させたものではない。」と、述べている。
Archibald
Campbell が 編纂 した
ピーブロック・ソサエティー楽譜集 (2nd シリーズ)には、彼が Alexander Cameron と
John MacDougall
Gillies
の教えを反映したと主張する次の35曲ほどが記載されている。Cameron
は1923年に、Gillies
は1925年に死去して、両者とも現在ではこの世に居ない。その中には、コンペティ
ションの定番レパートリーのほとんどが含まれている。
"The Blue Ribbon" "Glengarry's March"
"Craigellachie" "The Desperate Battle"
"Black Donald's March" "The Lament for
Donald of Laggan" "The Lament for the
Earl of Antrim" "John Garbh MacLeod of
Raasay Lament" "The King's Taxes" "The
Lament for the Children" "The Lament
for the Only Son" "The Old Men of the
Shells" "MacCrimmon's Sweetheart"
"MacDonald of Kinlochmoidart"
"Macfarlane's Gathering" "McIntosh's
Lament" "Lament for Mary MacLeod" "My
King has landed in Moidart" "The
Lament for Patrick Og MacCrimmon" "The
Rout of Glenfruin" "Scarce of Fishing"
"Seaforth's Salute" "The Sound of the
Waves against the Castle of Duntroon"
"A Flame of Wrath for Squinting Peter"
"Mary's Praise" "The Battle of
Waternish"
しかし、Campbell が
Alexander Cameron
と John
MacDougall Gillies
から学んだスタイルとして書き留めたものと、Colin Cameron (Alexander
の兄)と MacDougall
Gillies
のマニュスクリプト本に現れるものには、多数の相違点が見られる。1920年代初頭にはまだ存在していたと思われる
Alexander Cameron
自 身のマニュスクリプト本は消失してしまっているが、Campbell は、Colin Cameron
のマニュスクリプトに添付されていた1949年6月16日付のメモで次の様に確証している。「…こ
れら の曲 は、その殆どとまではいかないが、Donald の 息子 Alexander
と、その弟子の John
MacDougall Gillies
が私に教えたものと一致している。」
Campbell が
編 纂し た ピーブ ロック・ソサエティー楽譜集
2ndシリーズの楽譜では、原典には存在しない 「mach
バリエーション」が、頻繁に(かつ、暗黙の内に)追加され、原典に存在する、曲の様々な段階で「Ground
を繰り返す」という指示が、暗黙の内に削除されている。
A fosgailte a mach が導入され、Angus Macpherson
やその他の人によって、「以前には知られて居なかったまがい物だ」と批判されたにも拘
ら ず、このタイプが当てはまる曲にはすべて適用された。
1916年か ら17年にかけて Campbell が Alexander Cameron
から手ほどきを受けた際のメモには、次のような指示が書かれていた:「ダブリング・バ
リ エー ション の後に可能な限り Crunluath-a-mach
を挿入すべし、という指示があった。私は実際に次の曲でそうするように指示された。"Too
Long in this Condition" "The Groat"
"Maol Donn" "Cill Chriosd", "Lament
for Clavers" そして(たぶん)"The
King's Taxes" だ。」
ピーブロック・ソサエティー楽譜集
2ndシリーズで最初に追加された曲である "The Lament for
Clavers" (一般的には "The Lament
for Viscount Dundee"
として知られている)に関する解説文には、次の様に書かれている:
Open Crunluath fosgailte ...
は ... Alexander
Cameron の権威(指
示)に よるものである。彼による と、彼の父(Alex Cameron Senior)は
この曲やそ の他類似の曲に於いて、3番目の Crunluath
ムーブメントをこの形式で演奏していたそうだ。編集部(実 質 的に は AC個 人)は、
一部のパイパーがこのような慣習の正しさに疑問を抱いていることを理解してい
る。編集部としては、この問題は個人の好みに左右される事で、些細な点だと考えている。編集部として
は、Cameron
の見解と、それに異論があることを記録し、パイパーが自分で選択するべきである、
と示唆することが義務だと考えている。
このように彼は、fosgailte-a-mach は Cameron
スクール独特のスタイルとして伝統的に認められている事が根拠だ、と主張している。しかし、主に
Cemeron
セッティングを取り上げた楽譜集である C. S. Thomason 少
将の "Ceol Mor" には、この特徴は見られない。また、Colin Cameron
のマニュスクリプトにもそのような記述はない。また、このバリエーションに対する Angus Macpherson
の反論を支持する手紙は "Oban Times"
に多数寄せられたが、(AC の)主
張を擁護する声 は一切 上がらなかった。Campbell の
教師の一人であり、自身も Sandy
Cameron に師事していた John MacDonald of
Inverness
は、弟子たちに「彼らがこの様に演奏するのは間違っている。」と指導した。後日、彼は次の様に説明
している:
Calum
Macpherson は私に、「すべての
Crunluadh に a-mach を演奏すべきだが、Crunluadh
Fosgailte には a-mach
を演奏すべきではない。」と言った。私は一度、Sandy Cameron
が "The Big Spree" の Crunluadh
Fosgailte に a-mach
を入れたのを聞いたことがある。何故、そんなことをしたのかと尋ねると、彼はこう言った:「単なる指の練習のためだ。この曲は短い曲で、
Crunluadh ではシングリングが無いから。」と答え、更に
「古いパイパーたちは決してしなかった。」と付け加えた。それは私自身が保証する。
Calum Macpherson
も Colin
Cameron も、Morar の MacDonald
一族も、Fosgailte に a-mach を加えることはしなかった。
John MacDonald に
個 人的 に師事していた Frank
Richardson 少将に、この問題点を指摘された
Archibald
Campbell は 次の様に答えた:
. . . open
crunluath fosgailte については、Sandy Cameron
が私にそうする様に言ったというだけで、他に多くを語ることはできない。
個人 的には気にな らな い
し、教えられたとおりに演奏することが唯一の目的であり、思いつきで演奏するのではない私にとって
は、この事実は何の重みも無い。. . . John MacDonald
が Colin
と Sandy
Cameron
に言われたことをどう記憶しているかは私は知らない。 私は Sandy
に反論も質問もせず、ただ彼の言ったことを受け入れただけだ。
Alexander
Cameron
は既に死去していたので、この情報の正しさを確認する明白な方法はなかった。しかし、何が「権
威」 で何 が「権威」でないかを決定する上での中心的な役割を
担っていたという事から、Campbell
はこの方法を強制する立場にあったと言える。ソサエティーは、その後の楽譜集
にお いても fosgailte チューンを同様な形式で表記し続けた。
Archibald Campbell
が
教えられた事を記述したノートに、手間のかかる混み入った口承によって伝えられ
た音符の長さが記載されている事は、彼の耳が反応の速さや聞き取りに優れてい
る事 を示唆していない。彼は、何度も繰り返したり、メ
トロノームを使用しても、正しいタイミングを捉えることができない問題点について度々語ってい
る。
Cameron
と Gillies
のスタイルの違いに悩んだ彼は、Cameron
の指導記録を信奉した。例えば、D の
ダブル・エコー・ビートについて、彼はこう述べている:
Hiharara。
私は Gillies
に C
を演奏する様にと明確に教えられたので、何年もその様に演奏していた。1905年に
John
MacDonald に
指導を受けた時、彼はこれを認めた、つまり、私がそうすることに異議を唱えなかった。
1911年に Sandy
Cameron に指導を受けた時、彼は私を訂正
し「Angus
MacKay が書いたように装飾音は Low G
でなければならない。」と言った。私は Gillies に、Sandy
がそう言っていたことを伝えた。Gillies が
言ったのは「それは、奇
妙だと思わないか?」だけだった。私はそれ以上の議論には加わらなかった。こういう人たちとは、議
論しても何も始まらない。
彼が議論していた運指の例を以下に示す。C や Low G の
装飾音を楽譜で表記されているよりも、かなり長めに保持する習慣がなければ、演奏上の違いはわずかなものであろう。 |
|
彼の
パイ ピングへの取り組み姿勢 は、一 般的 な練習者のそれとは
違っていた。彼はこう書い ている:
私は Sandy
Cameron と
MacDougall Gillies
から、できる限りの情報を得ようとし、演奏のことは忘れようと努力した。私は情報を得なければならないし、もっと長く演奏する時間が無いことを少し残念に
思う が、できる限り多くの情報を集めることができれば . . . .
それで満足なのだ。
ピーブロック・ソサエティーの楽譜集を編纂する際、Campbell は
Willie Ross や
John MacDonald
からの正確な技術的アドバイスを無視する傾向がある。代わりに彼は、1911年に Alexander Cameron
から彼が受けたレッスンに関して、1916-17年にまとめたメモに頼った。
Archibald Campbell
の演奏を聴いた人の中には、彼のスタイルを「退屈でつまらない」と表現し、「魅力的な演奏
者で
は無かった」と断言する人も居た。その事は、彼のノートに書かれている文言表現によっても裏付
けられている様
だ。時折り「引きずらないようにキビキビと演奏する」という指示も書かれているが、それらより
も 「示さ れた長さ 以上に長くするように」とか、「Low G と A
のメロディ音を《かなり長く》表現するように」と言った風に、「様々な異なる運指について《長く、重く》演奏するように」という指示が大きく勝っていた。
このような考え方が、彼の編集作業の多くを決定づけた。参考までに、以下はピーブロッ
ク・ソ サエティー楽譜集・第2巻の冒頭曲 "The Unjust
Incarceration" の彼のバージョンである。比較のために、Colin Cameron と John MacDougall Gillies
によるセッティングを並べる。
|
|
この
曲の 注釈には、「この楽譜の セッティングは、Alexander Cameron
と J. MacDougall
Gillies
が演奏し、指導したものである。」と記されている。ところが、非常に似たアプローチをしている
Colin Cameron
と Gillies
版に対して、表向きには同じソースを使用している Archibald Campbell
版の間には、音の長さやリズムに多くの相違点が存在する。しばしば、8分音符が4分音符に
置き 換えられることが多く、その結果、アクセントの再配分がぎこ
ちなくなるのは、彼の編集作業の特徴である。
Angus MacKay
と Colin Cameron
が、より軽快かつ慣用的なタッチでグラウンドを表現している "The
Battle of Waternish" でもその様子が見て取れる。冒
頭の A は、MacKay
版では 16分音符になっているが、Campbell
版 ではフェルマータを伴う4分音符になっている。
|
|
MacDougall Gillies
の演奏に見られるこの曲のタイミング取りは、Colin
Cameron の演奏のそれとほぼ同じであった。それにも拘らず、Campbell
の譜面のノートには「このセッティングは Angus
MacKay の物で、Alexander
Cameron と J.
MacDougall Gillies の
教えに基づいて、幾つかの点で変更を加えている。」と書かれている。
つまり、彼が教えられた(と主張している)内
容 と、 そこから実際に会得 (解釈)し
た 内容の間 には、甚大 なギャップが有る様だ。
Campbell
は、イントロ部分を装飾音として扱う事により、小節内で音の長さを与えなかったため、残り
の音 符を 長くして量を補い、曲の算術的一貫性を保つ必要があった
のだ。しかし、これは奏者
にとってジレンマとなった。「メロディ音」とされる音符の相対的な長さは、(フェルマータを多用す
ることで、ぼやけた部分を除いて)概して十分に判り易かったが、結果として、イントロ部分
にど れだ けの長さを与えるべきかが曖昧なままになってしまったの
だ。このことは、後世のコンペティションに於ける演奏において、ピーブロック・ソサエティーが生み出し
たスタイルのイディオムの解消を続けていく中で、多くの不安感をもたらすこ とになった。
Campbell
のセッティングは、それ以前のセッティングと比較すると、粗野な印象を与えることが多い。例えば
"Catherine's Lament" では、John MacGregor &
Angus MacArthur
をはじめとするその他のセッティングに見られるように、「8分音符/16分音符のリズムパターンが一貫して好まれる」という、従来の伝統が否定されている
のが分かる。Campbell 版
では
2つの4分音符で始まり、フレーズの終わりを大幅に延長するような形でフェルマータを配置したが、
これはそれ以前の楽譜ではパッシング・ノートとして扱われていた音に重きを置くことを意味
し た:
|
|
(そ れに も 拘らず)この楽譜の注釈で
は、Angus MacKay と Jonn MacKay のマニュスクリプ トを引用しつつ、「2つの
MacKay
マニュスクリプトでは、(4)と書かれた(PS Book4参照)
B が Low A
であることを除いて、(これは、本例では再現されていないグラウンドの2行目に現れる)この楽譜のセッティングは、彼らのものと一致する。ウルラールの表
現 は、Alexander
Cameron と J.
MacDougall Gillies
の教えによるものである。」と、書かれている。
Campbell は
"Maol Donn (MacCrimmon's Sweethean)"
について、次のようにセッティングした:
|
|
この
楽譜 の注釈によると、「この セッ ティン グ は、Alexander Cameron
と J. MacDougall
Gillies に教わったものである。」とある。Campbell
の1916-17年のノートには次の様に書かれている。「私は Gillies
からこの曲を学び、その後、A.
Cameron の下で教わった。. . .
グラウンドの各々の小節の冒頭の Low A
は、長く表現するべきだ。その小節の中で一番長い音である。 Gillies は短く表現した
が、Cameron は直
ぐに訂正した。」 彼は続けて、「[A] と示された B
音は強調すべきだ。(つまり、表記されている長さよりも重きを置くべし)」、と書いている。
この曲は、MacDougall
Gillies の マニュスクリプトに2つ、Colin Cameron のマ
ニュ スクリプトに1つ、次のようなセッティングがある:
|
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いず
れ セッティングに於いても、(AC が主張する様に)冒
頭の Low A
をテーマ音とみなしてアクセントを置く、という事は行われておらず、アクセントは C
に置かれているのは明白である。Angus
MacKay のセッティングも同様のアプローチで、E/Aの均等な
8分 音符 は、 それに続く付点8分音符の C
に導くための非強調音である事を示唆している:
|
|
MacKay の楽譜の A
には、どれも8分音符以上の長さが与えられていない。小節の冒頭の音は16分音符としてタイミングをとっている。Campbell
では4分音符である。彼の指導者の一人の指示により、再び、その他の多くの楽譜とは異なる結果がもたらされ、それに伴い流暢さが失われ、メロディーの輪郭
が 歪んでいる。ピーブロック・ソサエティー楽譜集に収録されているこの曲の注釈には、「Angus MacKay
によるウルラールは、幾つかの音に於ける僅かなタイミングの違いをのぞいて、この楽譜と同じである。」と、書かれている。
Campbell
による MacKay のセッティン
グに対する 扱いは、しばしばイイ加減である。彼は "The Rout of
Glenfruin" について、「楽譜集のセッティングは、Alexander Cameron
と J. MacDougall
Gillies に よって教えられたものである. . . Angus MacKay のバー
ジョ ンはこの楽譜に対応している. . .。」と書いている。
しかし、これは真実では無い。Campbell
は4つのストレートな4分音符で始めている。それに対して、MacKay は
8分音符/16分音符/16分音符/16分音符/4分音符/8分音符/4分音符/8分音符、とより多
様なリズムパターンを与えてい る:
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同様
に、Campbell バー
ジョンの、ライ ンを 終 了する8つの4分音符の繰り返しは、MacKay
の楽譜には存在していない。
ピーブロック・ソサエティー楽譜集(2ndシリーズ)第5巻に収録されている "The
MacDougalls' Gathering" の注釈には、「この楽譜
の セッ ティン グは Angus
MacKay
マニュスクリプトのものである。」と、記されている。同時に、Angus MacKay
のグラウンドからの次の2つの小さな 修正について編集責任を認めている:
(4)とマークされた G とその前の音符は、Angus MacKay の
マ ニュス クリ プトではこうなっている:
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これは、譜面に書かれている装飾音の並びを表すことを意図してい
ると 考え られる。これは一般的なものではないが、それでも、前出の "Beloved
Scotland" や、この巻 P.27にある "Nameless
Tune" などで見られるものである。しかし、MacDougall Gillies、
そしておそらく Duncan
Campbell は次の様に表記していている。
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(3)と(4)とマークされた High G の装飾音は、Angus MacKay に
よっ て常 に最後の E 無しで書かれているが、High G
を第2指を下げて運指すると、ほぼ必然的に E が鳴らされることになる。Alexander Cameron
によれば、E を最後の音として演奏することも、書くことも間違っていない。
Angus MacKay
はこの曲を次の様にセットしている:
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Campbell は次の様に
セット:
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Campbell の
楽譜では、MacKay で
は均等8分音符のエコービートと表現されている箇所にアクセントが置かれ、E
カデンスの1つが削除され(7小節目)、無かった一つが挿入された(15小節目)。MacKay の慣用的な
8分/16分音符のリズムは、4分音符の列に置き換えられた ー
上の5行目で14個並んでいる。それら全てを合計すると、50ヵ所以上の変更が、
オリジナルの楽譜に黙って付け加えられたのである。Campbell 版では、MacKay 版と同じ内容
の小節 はただの1つも無 かった。
編集組織(委員会名義だが実質的に AC 一人)は、Archibald Campbell が
特権
的に、場合によっては唯一、アクセス可能な「伝統的な楽譜類」に対して細心の注意を払っていると、一般の人々
に広く想像させる様な学識的印象を作り上げてきた。
1934年にピーブロック・ソサエティー楽譜集の第5巻が出版されたとき、Angus MacKay のマ
ニュス クリ プト は公開されていなかった。20世紀の最後の4半
世紀になって漸く、彼の楽譜を十分に評価できるだけの資料を、誰もが入手できるようになったのだ。
凡そ300曲を扱っている Archibald
Campbell の編集資料は、1984年にスコットランド国立図
書館 に寄 託さ れた。(⇒ "Piping Times"
1984年6月号参照)
それぞれの曲には、様々なセッティング、Donald MacDonald
と Angus MacKay の
マ ニュスクリプトの写真コピーを含むマニュスクリプト資 料、Donald MacDonald
から ピーブロック・ソサエティー楽譜集
1stシリーズまでの出版物から切り取った個別シート、そして、しばしば MacPhee と Glen の楽譜集からの資
料が 含
まれている。また、編集上の注釈や様々なパイパーによる指導に関する記述、主に Campbell
による口承テキストの書き写し、J.
P. Grant、Willie Ross、John MacDonald な
どか らの手紙も時折見られる。したがって、多くの場合、 Campbell が、
それらの楽譜類から(PS 楽譜に)ど
のように進化させたかを追跡することが可能 である。
例えば "Mary's
Praise" については、1934年に出版されたPS Books
第5巻の楽譜の注釈には「この曲のセッティングは、Alexander
Cameron と J. MacDougall Gillies
によって教えられたもので、印 刷さ れた
楽譜やマニュスクリプトの他のバージョンとは異なっている。Alexander
Cameron(Senior) は父親の Donald Cameron
からこの曲を習った。」
と、 書か れて いる。
Donald MacDonald の
出版 された楽譜集には、以前のセッティングが存在する。Donald
MacPhee、David Glen、 Thomason
少将、其々の楽譜集、そして、Angus
MacKay のマニュスクリプトにも収録されている。これら全
てに 於いて、 グラ ウン ドは3拍子であった。Campbell は
それを4/4にセッティングした。
彼の目の前には MacDougall
Gilliesの マニュスクリプト本、Gillies の
手による追加の 綴じてい ないマニュスクリプト、すべての出版された資料、Angus MacKay MS
の写真コピー、そして今(20)世紀初頭のレッスンで MacDougall Gillies
と Alexander
Cameron がこ
の曲をどの様な拍子で演奏したかに関する、彼自身の手による2つの手書き資料があった。
MacDougall Gillies の
マニュスクリプト本では、この曲を次のようにセットしている。
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2つ目の Gillies の綴じていないマ
ニュ スクリプトのセッティングは、似たようなラインで書かれて いる が、
明らかに別人の手による拍子の変更が加えられている:
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また、 Campbell が Gillies
からこの曲の手ほどきを受けた際の Gillies
のスタイルを反映させた、と主張する手書き資料も存在する:
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最初の例と3番目の例の間で、
4つ の8分音符と16分音符が 4分 音符 に
変わり、1つの4分音符が付点4分音符に、1つの4分音符が2分音符になった。恐らく、これは
Archibald Campbell が Gillies
に教わったときに聴いたと思った音を表記したのだろう。Campbell が Sandy Cameron の
スタイルと思われるものを書き起こしたものと同じ様な認識の特質が表れている :
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この楽譜には、マスター・パイ
パー たちが駆使した、巧みなリ ズム のバ ラ
ンスとコントラストは、彼らの弟子たちには殆ど伝わらなかった、という事が表れている。彼は彼らの音を
言葉に変えてしまった。そして、後にその言葉を音符に戻そうとしたとき、多くのものが失わ
れ た。
とにかく、これらのセッティングを目の前にして、Campbell
は自分自身の楽譜を進化させることにした。彼は「多分、書き出すのが最も安全な方法だろう
. . .」と、書いている。
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この曲は1934年に PS
Books 第5巻に掲載され、Alexander
Cameron、John MacDougall Gillies、John Ban
Mackenzie
のスタイルに関する2ページにわたる極めて詳細な説明、Colin Campbell の
カン タ ラック、Donald
MacDonald の
今では限られた出版本、そして現存3部存在している事が知 られている Angus MacKay
のマニュスクリプトに掲載されている各種バリエーションの一覧が添えられていた。
この注釈で明らかにされていないのは、本文が Donald MacPhee
の楽譜集から僅かな変更を加えて再現されたものであり、原典からきれいに切り取られた該当ページが、この曲の編集作業に取り組もうとした
Archibald Campbell の
前に置かれていた、という事である:(※38)
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※38(脚注)
ピーブロック・ソサエティー楽譜集(2ndシリーズ)第2〜5巻掲載の曲の中で、引用元から暗黙の内に、「音の長さの付加」「リズムの柔軟性の減少」の変
更、「不適切または誤解を招く注釈」が行われているその他の例。
以下 を参照
"The
Battle Auldlearn (no.2)",
PS, ii, 46: cf. Cameron
MS. f.62; MacDougall
Gillies MS, f.104; Uilleam
Ross's MS, f.92.
"Hector MacLean's
Warning", PS ii, 51:
cf. MacArthur MS, f.19;
MacKay Ancient
Piobaimacd, p.37.
"End of the Great Bridge”,
PS, ii. 54: cf. MacDonald
Ancient Martial Music,
p.111; MacKay MS, i,186;
Cameron MS, f.34;
MacDougall Gillies MS,f.10
"Glengarry's March",
PS, ii, 57: cf. MacDonald,
Ancient Martial Music,
P.30; MacKay MS. i,169;
Thomason Crol Mor,
p.13 (citing Keith and
Colin Cameron as sources).
"The Bells Perth",
PS, ii, 60: cf. MacDonald
MS, f.46; MacArthur MS,
f.15, MacKay, Ancien:
Picbaircathd, p.106;
MacPhoe, Collection of
Piobairackd. P.42.
"The Gathering of Clan
Chattan", PS, ii,
63: cf. MacKay MS. ii. 36;
Uilleam Ross MS. f.163;
MacDougall Gillies MS,
f.30.
“The Lament for Donald
Ban MacCrimmon", PS.
ii. 66: cf. MacDonald MS.
f.64: Reid MS. f.59:
MacKay MS. i. 85; Cameron
MS, f.41; Uilleam Ross MS,
f.206.
“Donald Gruamath's
March". PS ii. 71:
cf. MacKay MS. i.178;
MacDougall Gillies MS.
f.90.
"The Lament for
MacDonald's Tutor",
PS. iii, 85: cf. MacKay
MS, ii,5; Cameron MS.
f.65.
"Black Donald's March".
PS, iii, 87: cf. MacDonald
Ancient Martial Music,
P.106; MacKay MS, i.192;
MacDougall Gillies MS,
f.60.
"The Red Speckled Bull",
PS, iv, 105: cf. MacDonald
MS, f.258; MacKay MS. i.
104; MacDougall Gillies
MS. f.93.
"The Lament for Red
Hector of the Battles",
PS, iv, 111: cf. Ros's
Collection of Pipe Music.
p.106; Cool Mor,
pp.211-2.
"The Old Woman's
Lullaby”, PS. iv,
113: cf. Cameron MS. 1.55;
MacDougall Gillies MS.
f.58.
“Duncan MacRae of
Kintail’s Lament",
PS, iv, 121: cf. MacKay
MS, i, 213; Ross's
Collection of Pipe Music,
p.103; Ceol Mor,
p.204-5
"The Lament for Mary
MacLeod", PS, v,
155: cf. MacKay MS,i, 203;
Ross' Collection
of Pipe Music,
p.104. |
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Campbell の
作業成果は、彼の生来のメロディに対する不信感を示唆している。彼はキョール・モ
ア(ピーブロック)を
2つのカテゴリーに分けた。彼が価値を認める《重い作品》と、彼が用心する《旋律的な
作品》で あ る。典
型的な《重い作品》は、ボトムハンドに重点が置かれていて、チャンターの低音域と調性があり、インター
バル感やリズムの緊張感に強く依存する曲である。《旋律的な作品》は、メロディに
頼ら ざるを得 ず、 劣っ たものと考えていた。Campbell を
個人的な知人で、何度も一緒に審査をしていた Frank Richardson 少
将は、第二次世界大戦直後に
Campbell から送られてきた次の 手紙 を引用(紹介)し ている:
私にとっては、ピーブロックには2つのクラスがあるよう
に思 う。a) 《重い作品》と 《旋律的な作品》
だ。善し悪しは別として、a)は19世紀初期のパイパーが常に好んで演奏していたもので、それ以上遡ることはできない。例えば、"The
Finger Lock" - 極めてお気に入り - "Cill
Chriosd" "The Groat" "The
Vaunting" "The Bells of Perth"
"The End of the Great Bridge"
などである。"Padruig Og"
は一種のハイブリッドである。Var 1については
b)の一種であるが、それ以外は完全に a)である。 b)の例としては、"Scarce
of Fishing" "MacCruimen's
Sweetheart" "Donald Duaghal
MacKay" "Captain MacDougall"
などがある。私は、とにかく陸軍では(そして、ささやくように、私たち自身の
P.S.教官 [Willie
Ross] が)
b)が完全に分野を握ることを恐れてる。
後日、Richardson は
Seaforth Highlanders の P/M Donald MacLeod の
新し い ピーブ ロック "Cabar Feidh gu Brath"
は、驚くほどある曲に似ているにもかかわらず、確かにキョール・モアだと安心させる必要があった。それはそれとして、Archibald Campbell は
きっ と認めないだろう。彼はこう続けた:
もし、Kilberry
が幾つかの実例を挙げつつ示した 《旋律的な作品》
が、若干満足すべきでなく、若干傑作とは言えないと、認めるのであれば、より文明的な楽器で演奏される音楽から得られる、それらと類似した、最も素
晴らしい、最も感動的な瞬間や、素晴らしい傑作のいくつかを少し疑ってみるべ
きで あろう。
これほど偉大な学術的権威に対して自分の意見を述べるのはためらわれるが、
ス コットラン ドに とっ
てこれほどに荒々しくも容赦無い見方が本当に必要なのかどうかは疑問である。
Archibald
Campbell
の調停により、序文、序論、注釈を脱し、音楽的テキスト(楽譜)に入った。ス
コットラ
ンドの知識階級は、ピーブロックが「他の種類の音楽と違う事を最大の
特徴とする芸術形式である」と、信じさせられた。この楽曲の持つ、緩やかな「非古典的」韻律リ
ズム とそ
の独特の表現的イディオムへの遵守性は、心地よい音楽性という事は、せいぜい付随的な特質であり、目の前
の本質から目を反らせるものである事を意味すると、彼らは考えた。
特に Campbell
は、これ(音楽性)を可
能な限り楽譜から排除すべき欠点だとみなしていた よう だ。この
難解で大変な努力を要するケルトの芸術様式は、音楽として聞こえ
ない方がむしろ好ましい。演奏者たちに委ねるのは良く無い。メロディーを好む
彼らは、無責任に も キョー
ル・モア(ピーブロック)を音楽的に解釈するようになった。伝統を守り、パイパーからパイピングを救い出す
のは、スコットランドの土地持ちのエリートの義務だ。
これが、ピーブロック・ソサエティーが 設立 され
た最初の理由である。
このような文脈に基づいて、Campbell 自
身による概要が、主要な演奏家の記述よりも優先され、彼のノートが実質的
にピーブロック・ソサエ ティー 楽譜集 (2ndシリーズ)
第2〜9巻のコピー・テキストとなることは、極めて自然なことだった。John MacDougall
Gillies と Cameron
一族の名において、多くのことが行われた。しかし、彼ら各々が自分の声で語る事ができたはずの充実したマニュスクリプトを作成していたという事実は、記録
から殆ど消されてしまった。そのため、ピーブロック・ソサエティーの編集
者(AC)
は、彼らの特権的 な代表 者、スポー クス マン
としての役割を果たし、《伝統》という権威を身にまとうことができたのだ。
20世紀前半、これらの重要なマニュスクリプトは着実にピーブロック・
ソサ エティー の所 有と な
り、流通から引き揚げられて、演奏家たちのコミュニティーから遠ざけられた。長年に渡って、Archibald
Campbell
だけがそれらにアクセス可能な状態が続き、最終的に彼に揺るぎない権威を与え
た。特 に、出版さ
れたピーブロック・ソサエティー楽譜集に書かれた彼の注釈
は、彼が何を手に入れ、それらをどのように使用したか?について、演奏家たちのコミュニティーの誰
一 人、確かめることができないように構成されていた。
例えば、John
MacDougall Gillies
のマニュスクリプトは、おそらく1920年代前半に編纂者から Archibald
Campbell に 貸し 出され、1925年の
MacDougall
Gillies の死去を受け Campbell の
所有物と なった。Campbell
は、Gillies
や Gillies
の師匠である Alexander
Cameron
に、自分の好む解釈をサポートするようたびたび働き掛けていたことは、これまで見てき
たとおりである。
しかし、Ewen
Henderson、D. S.
MacDonald、General
Thomason、Donald MacKay (the
younger), Duncan Campbell of
Foss, William Lamont of Deeside
のマニュスクリプトなどが、ピーブロック・ソサエティー楽譜集(2nd
シリーズ)の典拠リストの中に含まれていたにも拘らず、MacDougall
Gillies のマ
ニュスクリプトは含まれていない。ピーブロック・ソサエティー
楽譜集の中で Gillies
のマニュスクリプトの存在について直接触れらているのは、1958年に発
行さ れた第9巻の little-played tunes
に関する注釈の中で、2度言及された時のみである。マニュスクリプトのサイズや内容については一切触れられていない。1977年、Campbell の
相続人が グラス ゴー大 学図
書館の特別コレクション部門に寄託するまで、このマニュスクリプトは半世紀の間、効果的に隠蔽されてい
たのだ。Gillies
は 管 財人 に恵
まれていなかった。彼の主な弟子の一人である Robert Reid は、Gillies
由来の貴重なマニュスクリプト資料のコレクションを、自分の死後に破棄するよう指示を出していて、それ
は実際に実行されたと思われる。
Colin
Cameron の マ
ニュスクリプトは、1949年の夏にピーブロック・ソサエティーが購入し、すぐにスコットランド国立図
書館に寄託された。このマニュスクリプトは、 Cameron 一
族 の演奏ス タイルを知る上で重要な情報源であったので、Archibald
Campbell を 含む
多くの現代のプレイヤーがその系譜をたどっていた。それにも拘らず、その後リリースされた、ピーブロック・ソサエティー楽
譜集7冊の中で、このマニュスクリプトに関する言及はわずか3回だけ。そ
のサ イズ、日 付、内容 につ いて は全く示されていない。
1925年以降、ピーブロック・ソサ
エ ティーが設 立される前 の時 代に
どのように演奏されていたかを記憶し、Campbell の
セッティ ングに疑
問を持つ立場にあった演奏家コミュニティーの代表者たちは、時間 の経
過とともに、その影響を受けつつあった。ピーブロック・ソサエティーが推
進した音楽的直訳主義は、ほぼ
1世代にわたって定着し、《普通》に聞こえ始めていたのである。
編集者だけが全ての資料にアクセスできたので、書かれた証拠に基づいた楽譜に異議を唱えることは不可能だった。
John MacDonald や Willie Ross
のようなシニアプレーヤーは、契約上の関係もあり、ソサエティーに直接反
対す
ることは困難だった。いずれにせよ、彼らの生計は、ソサエティーの楽譜が定石
であり、主審が J.
P. Grant か Archibald
Campbell、
あるいはその両方である可能性が高いコンペティションで、プロフェッショナル
の弟子たちにメ ジャー・プ
ライズを取らせることが出来るか否かという事に、根本的に依存していたのだ。
そして、このことが彼らの指導内容に影響を与えたことは、殆ど疑いよう
がな い。John
MacDonald
は、あるものをある方法で演奏するよう生徒に指示し、自分は別の方法で演奏し、その理由を説明した。(※47) |
※47(脚注)
R. B.
Nicol と筆者と
の会話から。
George
Moss "Ceol Mor
Playing - Old and New
Styles" も参照。PT; vol 8
August 1956 pp.18-19: 「Johnnie
MacDonald が 若い 頃に
演奏したスタイルは、その後の人生で演奏し教えたス
タイルとは全く異なり、より正しいものだった」。
また、同じ著者による "Piobaireachd
Playing", PT vol 9,
no.8, May 1957. pp.6-7
では、伝統的なスタイルを捨てて妥協した MacDonald に
対して激しく攻撃してい る。
(上記2つの記事については「パイプのかおり
第45話」を参照)
MacDonald
の解 釈の 生来
の多様性と、伝統的な訓練を受けたマスター・パイパーの特徴である含蓄のあるコメントについては、Frank
Richardson の 次の 言葉
を参照。「彼は確かに時期によって弟子に違った教え方をして
いた。もし、あなたが7年後に2度目に
戻ったとしたら、彼はあなたに全く違うことを教えるだろう。気分
的にはこう演奏して欲しい の に、5 年後
には気分が変わっていて、どう演奏して欲しいか、について全く考えを変えていた。」Campbell,
"History of the Piobaireachd
Society", p.44 より引用。 |
|
ある資料には、Willie Ross
の母親が「叫び、ステッキを床に叩きつけて」息子が弟子を指導するのを中断させた事が書かれている。彼女は「クズ!」と怒鳴って「私の息子がそんなくだら
ないものを教えているというのですか!」と怒鳴った。Willie Ross
は弟子に向かって「母が全く正しい事は知っての通り。でも、君はいつかコンペティションに出たいと言っているし、賞を取りたいのなら、その曲を
あの様に演奏しなければならないんだ。」と言った。※48(脚注) "James Matheson,
Laing" PT Vol.42/10-1990/07)
G. S. McLennan
は、ソサエティーから非難されない様に、「他人に対しては、ピーブロック・ソサエティーのアプロー
チを教えながら」、自分のスタイルを保った。しかし、戦
時中の従軍の結果、彼は1929年に45歳で亡くなり、若い世代の代表的な演奏家の声は失われてしまっ
た。
公然と抗議し続けたこれらの人々は、《異端者》の烙印を押され、疎外された。
1930年代に入ると、ピーブロック・ソサエ
ティーの上層部 の間 で は、2ndシ
リーズの編集方法と伝統的なイディオムからの逸脱に不安感が広まってきた。しかし、ここでも反対運
動は抑え込まれた。1938年2月、ソサエティーの創立メンバーで、上級審査員で
もあ り、ま た、同 世代で最高のアマ チュア奏者の一人であった Somerled MacDonald
は、Seton
Gordon に次の様な絶望的
な気持ちの篭った手紙を送っている:
. . . 事態の推移に大いに悩んでいる . . .
何年か前 に、一 般的にこ の テーマ
について、何人かのマスターパイパーによる指導法を含む少しばかりの(恐らくそれよりも少し多い)
メモをまとめたのだが . . .
しかし、私がどんな本を書いても、すぐに嘲笑されるでしょう.
全部が嫉妬に由来しているのです. . .
Kilberry は
. . . 少な
くとも彼は私が何かを知っていることを認めたことはないのだが . . .
彼が発した西海岸のパイパーの 伝承。私の弟子である従兄弟の Kenneth Cameron
がそのほとんどを占めています。
もちろん、私がパイプに関する本を書いていることは知られており、ヒトラー
と ムッソリー ニ(Archibald
Campbell と J. P. Grant)
は、私を権 威者として失墜させたいと考えているのでしょ う。
Campbell の
よ うな 男
が、なぜ自分を唯一無二の権威とすることが許されなければならないのか。な
ぜ私は、コンペティションで演奏しているパイパーが演奏している曲の「実況解
説」を聞かなければならないのでしょうか。なぜなら、私自身は、チャンターの
指使いさえできない、いわゆる解説者と言われる人物に教えることができる能力
があ る事を完 全に分かっているのに . . .
. . . このようなことが起こったのは、一人の無知な人間 ー Kilberry ー
が、自分自身の考えに固執し、専門家である John MacDonald
に楽 譜に 対す る意見を出させ、修正させるという事をしなかっ
たからです。
現在の音楽委員会、そして Kilberry
が
書記になって以来、出された楽譜はすべて破棄されるべきである。彼の楽譜は間違いであり、最も明白
な間違いである。私は昨日、John
MacDonald に会った。
彼は彼らの行為に非常に腹を立てていて、もし自分(John)
が死んだら、Kilberry
は 何でも好き なようにできると言っている . . .
John
MacDonald は (こう言っている). . .
彼の音楽はすべて間違っており、 Sandy Cameron
は、彼(Archibald
Campbell) が
言っている様に、彼にその様な音楽を渡したのではないと ...
Somerled
MacDonald は、Gordon の支援を受
け て、ソ サエティーの年次総会に決議案を提出しようとした。
ピーブロック・ソサエティーの最近の楽譜は、パイパーた
ちに 受け継がれてき
た方法と著しく異なるため、パイパー全般に不満を与えている . . .
ピーブロック・ソサエティーは、本来の目的である事を行なっていない。すなわち、曲の修正とリサーチを行う事だ。全てを無知な男によって、秘密裏にやられ
ているのだ . . .
今、何かがなされない限り、ピーブロック文化は失われてしまうだろう。John MacDonald
を始 めと する 数名がソサエティーの会員になるべきだ
この改革を実行するには、John MacDonald が
快く ソサ エ ティーを窮地から救う気持ちが有るかどうかにか
かっていた。しかし、彼は自分のアドバイスが実行されるかどうか疑っていたし、Sandy Cameron と
John MacDougall
Gillies
の名の下で既に実行された事柄を十分に認識していた。いずれにせよ、彼は従来の五線譜で音楽を
表現 する
ことに真剣に疑問を感じ、ソサエティーのセッティングの音符の長さをいじくるだけでは、十分な効果が得
られ無い、と考えていた。彼は Seton
Gordon に宛てて、次の様に書いている:
私には、ピーブロック・ソサエティー音楽委員会が出版
する 楽譜の改 変 を、何 故あれほどまでに行うのかがわからない。 A. Campbell は、Gillies
が演奏した "The Little Spree"
の最後の音符に関して注釈で触れている。Gillies
と私は、26年ほど前にこの件について少し話をしたことがある。「どの様に演奏したのか?」と尋ね
たら、「その曲は演奏していない。」との返事だった。
彼らは他の曲にも手を加えていて、私はあまり満足していない。私の意見で
は、そ れらはメ ロ ディの
美しさを増していない。残念ながら、これらが正しいセッティングとして後世に伝えられて行く。ピー
ブロックの演奏は、やがて「ゲール語」と同様に、早々にオリジナルからかけ離
れた ものに なって しま い、元に戻る事は無いのではなかろうか。
あなたがピーブロック・ソサエティー音楽委員会の会議に出席していることは
喜ば しいこと です が、
曲のセッティングやその他、楽譜の出版に関連した何事にも、私に相談すべきだ、という動議を持ち出
して欲しくはありません。音楽委員会の構成員が誰なのか知りませんが、彼らは
既 に、私が自 分の 名前
を関連付けられたくないような事をやっています。
私にとっては、過去15年間の結果から、古から伝承されてきた、美しくメロ
ディ アスなエ アー や情
緒豊かな楽曲が、間違った手に渡ってしまったことは明らかであり、元の水準に戻すことができるまで
には、たとえそれが可能だとしても、長い時間がかかると思われます。
Archibald
Campbell は、
ピーブロック・ソサエティーで高い評価を得ていたにも拘らず、スコットランドのパイピング界と
の個 人的
な接触は限定されていた。インドから帰国後、彼はイングランド南部に居を構え、文通相手のネットワーク
を通じて情報を得るようになっていた。彼は大戦前から John MacDonald
の演奏をほとんど聴いたことがなかったが、彼の知識を活用したいと考え、Seton Gordon
を通じて一連の照会をしたのである。
MacDonald がこれらの問い合わせの出
所や 返信の最 終的 な宛
先を知っていたかどうかは定かではないが、彼はピーブロック・ソサエティーの印刷楽譜による悪影響に対
抗するため、教育活動に力を注ぐ様になる。R. U. Brown, R. B.
Nicol, and Donald MacLeod な
どのマスター・パイパーを育て、ピーブロック・ソサエティー楽譜集に依存する演奏
スタイルの侵 食に、抵抗できるように備えていた。
その間、Campbell は
内々に MacDonald を
貶め、彼の権威 を失墜させようとしていた。
しかし、Campbell の解釈
の 優位性を阻むもう一つの大きな障害があった。Charles Simeon
Thomason
少将の存在だ。彼の著書は記録に残っており、希少なものではあったが、その時点でも参照するこ
とがで き た。Thomason
少将の個人的な権威は絶大であった。彼は Cameron
一族の殆どのメンバーと、長期にわたって個人的にコンタクトしていたので、Cameron
スクールの代表的な代弁者であったが、Archibald Campbell
はそうではなかった。
彼は無知であり、実用的な知識を持たない単なる書物の専門家であると、簡単に切
り捨 てること はで きな
い。しかし、1925年にピーブロック・ソサエティー楽譜集・新シリーズの第1巻が出版されたとき、
"Oban Times"
のレビュアーが気づいたように、ピーブロック・ソサエティー楽譜集に掲載されている注釈は、"Ceol
Mor" のページに掲載されていた説明とは大きくかけ離れていた。
Campbell
は、自分は「Thomason
少将と親密な関係にあり、"Ceol Mor"
に関するあらゆる細部について『内部情報』を得る特権を与えられていた。」と主張している。1911年に
Grantown-on-Spey で行われた Thomason 少将
の葬儀で演奏し、その直後に少将の書籍類にアクセスすることを許され、結果とし
て、Thomason and Ballindalloch MSS
を含むいくつかの書類が彼の所有するところとなった。
1948年にピーブロック・ソサエティーから出版された Campbell の個人
的な アンソロ ジー であ る "The Kilberry Book
of Ceol Mor" の「序章」(第20章で考察する)では、Thomason の作品
を 「素晴らしい作品」だと明らかに好意的評価をして、彼の「際立った知的
能力、優れた音楽趣味、
正しい判断」を賞賛。「19世紀と20世紀のパイピングの歴史における2人の偉大な名前は
Angus Mackay と
Thomason 少
将だ。」と大いに 持ち 上げ ている。
しかし、その一方で、「序章」の隣のセクションでは、彼はこの偉大な名前の欠点
につい て並び立て、 次のよう にかなり長々 と主張している:
(a)
著者は良いプレイヤーではなかった。彼はきちんと教わったことがない、なぜならそうなる機会がなかったからだ。実用面における彼の弱点は、彼が苦労して記
号を考案した、存在しない音符のグループの数からも明らかである。
(b) Donald
MacKay に頼りすぎている。Donald MacKay は
同世代の人々に、偉大な演奏家であるとも、権威者で
あるとも思われていなかった。MacDougall
Gillies は筆者に、Donald Cameronは、
父の叔父の顔を立てて自分の弟子として受け入れたが、彼には決して満足はしな
かっ た、と 語って い る。
(c) Thomason
少将は、この本が編纂された当時、必ずしもスコットランドのパイパーたちと連
絡を 取りあっ
ておらず、彼が実際にエキスパートの演奏を聞いたことがあるの
は、彼が記録した曲のごく僅かであった。
(d) Angus
MacKay の
マニュスクリプトが残っていることを知らず、彼は Donald MacDonald
の 作品から手を付け始めたが、それは 多く
の点で欠陥があり、彼は推測に基づいた理由で修正する習慣を身につけた. .
.
(e)
彼は規則に対する変則的な例外や明白な不規則性に対してあまりにも寛容であった
. . .
そして彼のパイピングに関する学習は、ピーブロック音楽の中で発生するこれらの存在を理解するのに
十分な完成度を持っていなかった . . .
(f) その後、"Ceol Mor"
の徹底的な改訂に専念する代わりに、彼はパイプスケールの調査に枝分かれし、
. . . 彼の手段や能力を超えた問題で彼の能力を浪費してしまった .
. .
贅を尽くした賛辞は、細部にわたる破壊的な批評が相殺し、どちらが読者の心に強
い印 象を残し たか は、 ほとんど疑問の余地がないように思われる。
この言葉が書かれたとき、Thomason
少将は没後30年を数え、Archibald
Campbell はパイピング界で揺るぎない力を持つよう
に なってい た。 Frank
Richardson は次の様に書 いている:「Kilberry と Rothiemurchus
あるいは Rothiemurchus
と Kilberry、
この2 人の パイピング界の巨人
が、その全盛期にどれほどこのパイピング界を牛耳っていたかを想像できるパイパーは、おそらく今日ほと
んど居ないだろう。2人共が法律の番人であり、彼らの言葉はパイパーにとって法律
その ものだっ た。」
1963年に死去した時、Campbell は「バ
グパイプ、その歴史、その音楽に関して、生きる最大の権威として 世界的に 認め
られ
ている。」「ピーブロックの偉大な権威の一人であり、《主要な知性》」を持っているとみなされ、その
《学 識と明晰さ》が称賛されている。彼の Kilberry Book
は「一般の音楽読者に迷う事無く推薦できる。」とされていた。
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